もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'99アジア その6 インド3

インド3

 

ラジャスタンはそれぞれの街に独自の文化と特色が感じられ興味深く思えた

 

f:id:pelmeni:20170722022801j:plainピンクシティ ジャイプル  おばちゃんもピンク 

f:id:pelmeni:20170722022848j:plainブルーシティ ジョードプル  高所からの眺めに真っ青

f:id:pelmeni:20170722022911j:plain宿主にホーリーのお祭りへ駆出された人たち

f:id:pelmeni:20170722022945j:plainゴールデンシティ ジャイサルメル  格調の高さに心を奪われる

 

 

以下当時の日記より抜粋

 

デリ-に帰ってきた。何となくだが虚脱感のようなものを感じる。

知らない土地を訪れる度に覚える興奮の連続こそ長旅の醍醐味なのだが、そんな中少しでも知っている場所を再訪すると、言い様のない安堵感を覚える。そういえば「帰る」ということに久しく縁のない旅をしていた。初めての経験に対する感受性は鋭敏になっているのだが、それだけでは、たとえ楽しくても疲れが知らぬ間にたまってしまう。

…といってもたかだか20日ぶりのこと、デリ-は何も変わってはいないのだが、インドでの20日はこちらのモノの捉え方を確かに変化させている。何も大事が起きたわけではないが、極く平凡な一日本人にとっては何かを覚醒させるには十分な経験であった。それまで生きていた世界との微妙なズレといった程度のものから、柄でもなく内省的に考え込んでしまうことまで、あらゆることがあらゆる方位にグラデ-ションのように点在する。それは本当に多種多様で、美しい地図が描けるんじゃないかと想像してしまう。

でもそのことを「ナンでもありだ」なんて浅い言葉で書きあらわしたくはない。

 

疲れているのだと思う。実際、あまりに気ままに自分の興味のみで動いていくことに懐疑的になっている。まあ無理はない。暑さ(体力的)とインド人(精神的)に、ボディブロウを打たれ続け、じわじわと消耗してきたのだろう。思い返してみれば、リラックスのできるコミュニケ-ションにも欠けていた。金銭を介さない人々との普通のやりとりがしたかった。元々少なかったそういう機会を自分で更に狭めていたきらいもある。インド人の思考方法、行動様式、社会のシステムとの付き合いは一筋縄ではいかない。ある程度慣れ始めた今もっても、まだそれらと程良い距離をとることができていないと感じる。

 

でも僕はこの場所が嫌いではない。むせ返るように過剰な人間臭さにむしろ好感を感じている。これだけの日本とかけ離れた文化、社会、土地柄をもっている国に興味は尽きない。

ただ、少し駆け足だったかなと思う。2カ月という時間は本当に中途半端である。これが2週間であれば、「印度、去りがたし」という感想と共に大方気持ち良く去ることができるだろう。でも2カ月ともなると多くのことに半ば混乱している自分に気付くのだ。このまま去ってよいのだろうか。足を踏み込んでいる多くのものを、もう少し掘り起こさずに立ち去ってよいのだろうか。そもそも、その人に合った旅の適切な時間とはどうやったら決めることができるのだろうか?

僕はインドを求めた。しかし彼の懐は大きく、もがいているうちに外へ放り投げられてしまった。そんな感じだ。
これは、もう一度来なければならない。

結局2度目の滞在では精力的に動き回ることは少なかった。体力的にも精神的にもすこしばてており、輝かしいものにもその光を認め得ることが難しかったように思える。

携帯していたガイドブックに次のような一文が載っている。言い得て妙とはこのことだ。
You'll love and hate it. India has absolutely everything; You'll get sensual and cultural overload.

 

 

 ※ まあウブだったということですな〜 居たけりゃビザが切れるまで居りゃいいんだけどねえ でもこの後に行く中央アジアの入国日がビザで決められているから どうしようもなかったんだよね(笑) 長旅あるある、です

 

 

f:id:pelmeni:20170722024223j:plain今も昔もコンノートに変わりはない 15年後もほとんど変わらぬ佇まいだった

'99アジア その5 インド2

インド2

 

(ネパール)→ヴァラナシ→デリー→アーグラー→ボーパル/サーンチー→インドール→アジャンタ→アウランガーバード/エローラ→ムンバイ→アフマダバード→ジョドプール→ジャイサルメル→デリー→ジャイプル→チャンディガル→アムリトサル→(パキスタン)

 

疾風怒濤のインド旅再開

ヴァラナシを経由してデリーに着く。先は長いのでカメラを何とかしなければならない。まずはコンノートサークル中央の公園地下に広がるパリカバザールへ。日用雑貨や衣料、宝飾品等を扱う小さな店舗が無数に犇きあっている。ぐるっと廻って幾つかの候補から中古のオリンパスOM-2n+50mm/f1.8に決めた。現金払いだったので近くにあるCITIBANKのATMから引き出した100ルピー札62枚!で支払った。ついでに別の店でトキナーの135mmも購入。(余談だが帰国後盗難保険でおりた金額より結果的には安く済んだ)

やはり一眼レフをここで入手して良かった。フジフイルムTiaraZoomはそのクラスのコンパクトカメラとしては画質が良かったが、少し暗いと露出が不安定になる。また広角端での周辺光量の低下もある。比べてしまえば仕方がないことだ。ただOM-2nも日本製とはいえインドで使われた中古品なのですぐには信用できなかった。ネガフィルム1本撮って現像が上がってきてようやく安心できた。

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f:id:pelmeni:20170721155843j:plain試し撮り;メインバザールの朝と夕

 

 

f:id:pelmeni:20170720013215j:plain朝もやに霞むタージマハル 日の出直前のまだ静かな時に訪れるべし

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f:id:pelmeni:20170720014606j:plainアジャンター、エローラはインド観光のホットスポットのなかでも白眉だ

 

 

インドを旅して楽しいことも多く急速にこの国に魅かれていったのだが、そこはやはりインド様、気を緩め隙を見せると強烈なカウンターパンチを喰らう。

 

 

最悪な夜

ボーパルはサーンチ遺跡へ行くために立ち寄った町だ。でも列車で駅に着いた端からおかしかった。出口を間違えたことに気付かず、中心から外れた方向へ延々と歩いてしまって疲れた。何で気がつかなかったのだろう。ぐったりだ。

そういえば日本を出て1ヵ月半、休み無く動き続け疲労もたまってきた。とにかくこの数日は暑いので判断力が失われ、この日みたいにつまらない間違いをすることが多くなってきた。

初日に泊まった宿は蚊が多く、これは嫌だったので翌日宿替えをした。今度は4階の部屋だったので大丈夫だろうと安心したのも束の間、日暮れとともに目に見えて部屋の中を飛ぶ蚊が増えてきた。どうやら敷地裏の空き地が発生源のようだ。

インドの建物は一見きれいに見えても近くに寄ればことごとくボロいということは、旅行した人であれば誰もが知っていることだろう。この部屋も壁に嵌っているエアコンの隙間や窓ガラスが抜けている浴室の窓など本当に安普請を通り越している。怒りが込上げてくるほどだ。日本の常識で海外を旅していけないことは多分にインドで強烈に叩き込まれた。

隙間に紙で詰め物をして浴室のドアをきっちりと閉める。でもそれでも安心というわけにはいかず、一匹ずつ潰していくしかないと思い手を叩き始めた。

しかしまったくといっていいほど効果が無い。何なのだこれは? 途中から数を数え始めすぐに100にたどりついた。そのあたりから戦慄を覚え始め狂ったように蚊を殺し続ける。その数200に達したところでこれは逃げるしかないという結論に達し、屋上に上がった。

そこは8階に相当するので大丈夫だろうとみた自分は甘かった。持ってきた寝袋に頭まで潜ろうが奴等は耳元に忍び込みブンブンうなるのだ。もう駄目だ、腕でも足でも差し上げますからどうか耳元でだけは騒がないでください! 眠ることなどまったくできないので諦めてフロントへ降り、夜番の兄ちゃんに駄々をこねて迷惑がられる。でもかわいそうと思われたのか、部屋近くのエレベーターホール(多少はマシだった)で横になっていたら、蚊取り線香を持ってきてくれた。でも部屋に戻れなんて言わないでくれ、あそこは蚊の巣窟なんだよ!

そう、不思議なことに、外も白み始めてきた朝の6時頃になると、今日のお勤めはこれで終わりですといった感じで彼等はすっと姿を消したのだ。

あれは一体なんだったのだ? 夜が明けすっかり蚊の痕跡が消え去った部屋で僕は文字通り呆然と昨夜の惨状を思い返すのだった。こんな忌々しい所に長居は不要だ。ゆっくりすることなく寝不足のまま朝のバスに乗り込み次の町へ急いだが、コレまた忌々しいほど乗り心地の悪いTATA製バスだった

 

蚊はイヤだね、どこの国でも。

 

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サーンチの遺跡は良かった 求心的な形態には神秘性を感じる

 

 

 

 

'99アジア その4 ネパール2

カトマンズ

 

虫の知らせとはよく言ったものだ。漠然とした感情がふっと湧き上がってきて確認をすると恐れていたことが確かに起きていた。カメラが無い。

 

ボダナートを訪れた時のことだった。帰りのバスがぎゅうぎゅう詰めでまあ大変な混雑だった。デイパックは体の前に降ろしていたがショルダーを一応手で掴んではいた。こんな中で子供が床に座っているのは何でだろうと思ったが深くは理由を考えなかった。後になってみれば気にするべきだったのだが、車内の込み具合に完全に気をとられていたのだ。街の中心に戻り下車した時にふと虫が知らせた。なんか軽い。

デイパックの口が半開きになっていて、確か一番上に入れた一眼レフがなくなっていた。あんなかさばる物は簡単に失くすはずはないので盗まれたと判るまでには時間はかからなかった。とりあえず警察に行くしかあるまい。

 

外国人の担当部署は「インターポール・セクション」だと受付で言われた。この表記を目にした時には思わず声を出して笑ってしまった。まるで子供の頃にTVでみたGメン75ではないか。まさか本物の支部があるわけないだろう。盗難は頻繁に起こるようで、何人か既に並んでいた。僕の前のウェールズから来た女の子もカメラを盗まれたらしくかなり感情的になっていた。ネパール訛の酷い英語の聴き取りに苦労しながら盗難届を作成し提出。2日後の午前10時に再び来るよう言い渡された。

冷静を装ったが内心はかなり動揺していたのを憶えている。初めての盗難だったからねえ。ダルバール広場のパゴダに登って色々思い返していたが、そんなところにも自称ガイドの若者がやってきてあれこれ話しかけてくるのがウザかった。ほっといてくれ、というのがその時の正直な気持ちだった。釈然としない気分で街を歩いているとハッパ売りに声を掛けられた。気が付くと道端に座って話し込んでいた。 何だか自分を抑制できなくて、相手が拒否した値段までキューッと値切っていた。でもすぐに向こうがおれた。

 

2日後に再びインターポールセクションに行き警察官が現れるのを待ったがなかなかやって来ない。そのうちとある老人がどこからともなく現れ一冊のノートを差し出した。そこには、「この人に頼んでお金を幾許か払えば盗まれた物が返ってきました。ありがとう!…云々」といった類の言葉が各国語で無数に散りばめられていた。

非常に怪しい。頼めばもしかしたら盗まれたものは帰ってくるかもしれない。でもそれはその人が探すわけではなく、これは推測だが、恐らく裏ですべて繋がっているのだろう。元締めがいて、旅行客の貴重品を盗む手下がいる。被害者はたいていは警察に盗難届を出しに来るのでそこで待ち構えこういった話を持ちかける。盗品はネパール人には高価すぎて売ることができないので盗まれた本人に買い取ってもらうのだ。数日しか滞在しない旅行客は多少金が掛かっても盗品が戻ってくる方を選んでも不思議ではない。感謝の言葉をノートにしるし、そのノートを読んだ新たな被害者が依頼を重ねる。

うまく考えたなと思った。恐らく警察でもそのことは知っている。僕が彼を頼ればこの後の仕事は無くなる。だから時間を過ぎても老人がいる間はやって来ない。

結局僕は彼に依頼をせず、その後現れた刑事と共に宿泊している部屋で荷物を確認した後、夕方盗難証明書は発行された。疑うことは警察の仕事だし、こちらも嘘ついているわけではないのだから、たんたんと事を済ませた。確認中の雑談でその刑事はのたまった。

 -----俺も若くて金の無い頃インドを旅行した時、物を盗まれたと偽ろうとしたことがあったよ

 

誰もオマエのことなんか聞いてないんだよ、知ったことか!

 

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カトマンズの観光自体は楽しみました。バクタプールも美しい町でした。散策にはとても良いところです。

 

さて帰りのこと。当時の日記には

 -----東(ダージリンカルカッタ)へ戻るのは流れに逆らっているような気がしたので、ヴァラナシからデリーに向かうこと にした。-----

などと書いてあった。当初バンコクからカトマンズインの予定だったので、ネパールからそちら方面へ行くことがまだ頭の中に残っていたのだろう。この時既にネパールはついていないらしいと感じていたので、それは正解である。止むを得ない状況を除き同じ道を往復することに、その後の旅を通してあまり良い思い出はない。

 

ヴァラナシへ戻るバスは夜7時発である。ネパールは国土が狭いのに道という道がすべからく山道で曲がりくねっているので移動に時間がかかり、多くは夜行バスとなる。この日もそうだった。窓口でチケットの番号と車体に書かれたバス番号を確認しろ言われて、その通りのバスに乗り込んだ。

そう、そのつもりだった。乗り込んだバスは間違いだったことを走り出してから車掌に教えられた。いや、行き先は間違っていないのです。バス番号が違うという。
同じ場所から同じ時刻出発で同じ行き先、それで車体に小さく描かれた番号が 12311213 なんてまぎらわしいことを許す国がどこにあるのだ、ええ?

途中の休憩で両バスは出合い、強制的に乗り換えさせられた。 もう、そのままでも問題ないだろう!と暴れたくなったがぐっとこらえた。 往きに寄った食堂にも立ち寄ったが、何も食べたいと思わなかったので水だけ買って星を眺める。01:00 a.m.。

 

早朝のスノウリは濃い霧の下で眠っていた。その中、国境を越える。やっとインドへ帰ってこれて何だかほっとした気分だった。でも待っていたのはやはり3+2席のボロバス、これでまた9時間も運ばれるのかと思うとガクゼンとする。
途中悪名高い北インドのポリスがバスを止め車内に入ってきた。 僕にはどこから来たのかと尋ねるので日本と答えるとそのまま過ぎていった。 やがて旅行者ではないモンゴル系の顔つきの客の一人を外へ連れ出して、やはりというか金をカツアゲしていた。 戻ってきた客は泣きそうな顔をしていた。

 

やれやれ、またインドか。前言撤回!

 

 

'99アジア その3 ネパール1

旅も長期に渡れば常に良い時間を過ごすことができるわけではない。特に人々の考え方や習慣を知らない外国にいるのだから、流れに無闇に抗ったり逆らったりすることは必ずしも得策とは限らない。ここは運が無いなと感じたら、 まずは何とかうまくやり過ごすことを考えよう。色々な感情を秤にかけて、結局予定を切り上げ逃げ出した場所は幾つかある。旅は長いのだから、他所で楽しい思いをすればよいのだ。

 

 

ネパール

(スノウリ)→タンセン→カトマンズ→(スノウリ)

 

ヴァラナシ駅のインフォメーションで予約したネパール行きツーリストバスはツーリストバンガロー前から朝8時半に出発、国境の町スノウリに夕方遅くたどり着く。各自が手続きをして国境を越えネパール側の町で宿泊、翌朝それぞれの行き先のバスに再び乗り込むという行程だった。初め外国人旅行者に前方から席があてがわれ、余った後部の席にネパール人と大量の荷物が送り込まれたそのバスは居住性などという言葉が存在しない世界の代物だった。狭い3+2列の座席に詰め込まれ、西洋人旅行者はみな途中から苦行僧のような表情になっていた。ただフランス人だけは相変わらず喋る事を止めない。どこでも喋るんだなこいつらとその時思ったことは今でも憶えている。

 

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最初の町はタンセンだった。山の中腹にある古い町で趣の有る町並みはとても気に入った。でも今憶えていることといえば強烈な下痢で苦しんだということだけだ。旅の最中にお腹の具合が悪くなることは度々あるのだが、疲労→風邪や発熱→下痢というパターンは意外と多く、この時がおそらく最初だった。夜になり1時間毎に強烈な差込みが繰返され、その度に便器にしがみつき、結局朝が来るまで落ち着くことはなかった。妹尾河童氏のヴァラナシでの体験と同じようなものだ※。その後もしばらくの間お腹がぐずつくおかげでまともな食事もする気になれず、体調を考えれば大きい町の方が良いのでポカラではなくカトマンズに向かった。

※ 河童が覗いたインド / 妹尾河童著 / 新潮文庫

 

f:id:pelmeni:20170713145357j:plain町から外れて散策をする。南側の山々の風景が自分の目線よりすべて低かった。

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f:id:pelmeni:20170713145557j:plain地元の若者とだらだらと話ばかりしていたが内容は憶えていない

'99アジア その2 インド1

この当時はデジカメなど無かったので当然ながら銀塩カメラを持っていった。そういえば銀塩なんて言い方当時はしなかった。カメラはカメラでしかなかった。ただ僕はフィルムは最初からリバーサル(スライド用)フィルムを使っていた。家に簡単なスライド映写機があったため、せっかくだからということで使用してみたら気に入り、結局フィルムを使っていた間はほとんどリバーサルを使っていた。意外と外国でも入手は容易かった。というか何故だか日本では普及していなかったのだ。

カメラは一応2台持ち。この時は PENTAX の ME とフジの TIARA-ZOOM だった。もともと ME Super を持っていたのだが、旅行前にチェックしたところ不具合が発見。出発3日前にあわてて中古の本体だけ入手したものの、フィルム1本も取りきらずにカトマンズでレンズとともに盗難にあってしまった。馬鹿。

 

■インド1

バンコク)→カルカッタ→バラナシ→(ネパール)

 

バンコクからは当初カトマンズへ飛ぶつもりでいた。バンコクカオサン通りにある旅行会社で安価なビーマンのフライトチケットを確認したところ、キャンセル待ちの状態だった。たいてい空きが出るのでとれますよ~※ということだったので、予約して出発前日にとりに行ったところ、今回は空きが無いとのこと!。文句を言っても仕方ないので2日後のカルカッタ行きに変更して差額は払い戻してもらった。時間に余裕はまだある。観光ビザはマルチだったので、陸路でネパールに移動し再びインドに戻るルートをとることにした。

 

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インド最初の地はカルカッタだった。その時のことは以前ここで少し書いた。空港から街に着くまで眼にした光景はなかなかの衝撃だった。一国の大都市の空港なのに周囲には建物以外全く何も無い。2005年利用時にはロータリーができていた。2012年にはシャトルバスが運行されていた。今行けば何の疑問も持たずに利用するだろうが、昔のことを思い出すと感慨深い。

まあカルカッタに関してはあらゆる人があらゆる感想をあらゆる場所で述べているので、僕がここで話してもしょうがないなあという気がする。それらと全く大差無しです。

今でも印象に残っていることといえば、1)社会インフラのボロさ、2)あまりに多くの人々が無秩序に街に溢れ返って多くの所で混乱が生じている、3)カースト社会内での人々の立ち振る舞い、4)昼間は猥雑だけど夜間は照明が乏しいせいか余計なものが見えずに街に美しささえ感じた、5)サトシは絶対日本人だ、といったところだろう。ハウラー駅構内の至る所で床に寝ていた大量の人々は2005年再訪時には追い払われ一人もいなかった。ほとんどが裸電球だった街中の照明も今はだいぶ白色の蛍光灯に置き換えられてしまった。

インドを自由に旅行するということは、言い換えれば、考え得る限りの様々な感情と常に戦い続け、時にはそれらに呑みこまれながら混沌の中に身を置くということだ。右や左、上や下、表や裏、白や黒、陽と陰、有と無… 本当に振れ幅が大きく全てが含まれる感情を否応なしに(強制的に)持たざるを得ない。これは、全てが予定調和的でたいていは物事が収まるところに収まってしまう日本の生活とは対極にある経験だ。旅行しかしていないのに、初めから直ぐに感じとった。

ただカルカッタは場所柄他のインドとは少し違いヒンドゥー的な宗教感が少ない。もう少しマイルドで都会的ごった煮感と幾許かの洗練さすら感じるのだ。

それでもまあインドであることに違いは無く、インド的な洗礼を一気に受けたことは事実である。

 

f:id:pelmeni:20170710194031j:plainヴァラナシで一緒だった二人 元気だろうか

 

インドらしくないカルカッタから最もインドらしいヴァラナシへと移動した。

後に盗まれるカメラに入っていたフィルムにはチェンマイの寺院とカルカッタでの半分位とヴァラナシのガンガー、特に早朝ボートから撮った日の出や対岸、沐浴をする人々など。

ガンガーはインド旅のハイライトではないか。おかげでそれは僕の記憶の中にしか存在しない。今となっては苦笑いするしかない思い出だ。そのせいだけでもないのだろうが、印象は強烈だ。狭く薄暗いベンガリートラを早足に過ぎる多くの人やらジメジメしてゴミにまみれた石畳やらが色々な種類のモノが、まぜこぜになった臭いと共に目の前に甦ってくる。まるでつい先日訪れたかのようだ。後年他にも同じような聖地には訪れているのだが、やっぱり最初の体験というものが一番強く記憶に刻み込まれたようで、直接のボディーブロー、今でも少し効いてます。

まあ思い出したくなったら、YouTubeでTV版深夜特急でも探して観ることにしています。あの時出ていたみやげ物売りの少年には実際に会いました。確かTVのギャラで兄貴が店を出したとか言ってたけど、本人はまだ川で同じように売り子をしていました。

 

 

※MPツアーの森さん談。MPツアーも既に店閉めしたらしい。時は流れる。

 

'99アジア その1 タイ

昔の旅の写真があがってきました。

この旅は、その前年の旅行中に出会った長期旅行者に感化されて僕が初めて企てた長旅でした。フィルムをスキャンしながら日記帳を読んでいると当時の記憶がまるで昨日の事のように起ち上がってきます。すっかり忘れていたことを思い出したり、完全な思い違いが発覚したり。でも自分で言うのもナンですが、記憶力が良いせいか結構リアルに思い出せます。その場に居るかのように楽しめました。そういえばと段ボール箱の奥から引っ張り出してきた当時の日記帳には、思いの外几帳面に多くの事が書き記してあってびっくりしました。

 

 -----何もかも、みな懐かしい  沖田十三

 

旅行時期;1999.1~6 半年弱

旅行地域;タイ、インド、ネパール、パキスタンウズベキスタントルクメニスタン、イラン、トルコ

 

■タイ 

訪問地;バンコクチェンマイ、スコタイ

 

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アジアの旅の始まりはバンコクから。アジアの水に慣れるにはちょうど良い場所でした。それまで旅したヨーロッパと比べるとまあ何て無秩序でとりとめが無いのだろうと思いましたが、当初のその感想が時を隔てた現在のアジア全体に対する印象とほぼ変わっていないのが、なんだか面白いです。

後で多分言及しますがカメラを盗まれたのでチェンマイの写真はほとんど残っていません。まあ残念ではありましたが、今となってはこれも旅の思い出の一つです。

スコタイ遺跡の静謐さには強い印象を持ちました。この静かな雰囲気に当時の僕はアジアの神秘を初めて感じ取ったというわけです。

 

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昔の写真をパソコン上に復活させる

 

デジカメが普及する前は旅行にはもちろんフィルムカメラを持って行ったのだが、フィルムスキャナーなるものに興味を持ち2000年頃から購入してきた。当時はニコンキヤノンミノルタから数種類ずつ発売されていたが、フラットベッド式と違い元々高価な物だったため一番安いクラスのものしか買えず、画質も満足できるものではなかった。まだネットオークションで気軽に中古を、なんて時代でもなかった。一眼のデジカメにスライドデュープ用の装置を付けて複写したりしてみたが何かしっくりいかなかった。そのうちにVueScanなどのフリーソフトで画質が向上することを知り、やがてサードパーティー製のソフト(これは金額をとる)でまあまあ満足できる結果となった。この組み合わせが揃ったのは2,3年前だったが最初のうちは手探りでやり方をおぼえ、ようやく昨年の暮れぐらいから本格的にスキャンを始めた。といっても暇な時に時間をみつけてやっているのでいつ終わるのだろうか。数えたことはないが多分2000枚以上はあるはずだ。全部スキャンしたいのはやまやまだが、古いスキャナなので終りまでは物理的に耐えられないのではないか?

 

フィルムスキャナ;ミノルタ DiMAGE Scan  Elite 5400
スキャナソフト; LaserSoft Imaging SilveFast SE8

 

ソフトが優秀。細かい設定ができるので結構思い通りの絵にすることができる。ゴミや傷の除去能力も優秀だ。ただ機器的には古く、遅くて音もうるさい。もしかしたらどこか劣化しているかもしれない。基本的に画質調整は必須で時間が掛かってしまうのは致し方ないところだろう。メーカーからアマチュア向けのきちんとした35mmフィルムスキャナが発売されていない今となっては、これで何とかやっていく他はない。(なおこのソフトは汎用品ではなく機種毎に対応したものなので、壊れたら同製品を探してくるしかないのです。)