もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'04南米 その6 山から下りる

 

 

サンタクルス(正確には Santa Cruz de la Sierra)にやってきた。久しぶりに山から下りた気がした。それも極端なことに乾燥して肌寒い高地から蒸れた熱帯の低地へ。空気が濃い。生暖かい風が常にゆるゆると吹いている。陽差しも明るく気分が開放的になれる。此処で感じる気持ち良さは、タイあたりでだらだらと過ごす時の雰囲気に似ている。こういうところではのんびりと寛ぐにかぎる。

居心地の良い中庭のある安宿に滞在できたことも良い思い出だ。ブラジルスタイルの朝食がついているのも嬉しかった。後に知るのだがブラジルでは安宿でもいっぱしの朝食がついてくる。たいていは果物が食べ放題だったりする。ここでも生ジュースやトロピカルフルーツで毎朝腹いっぱいになるので、食後すぐに急いで街歩きなどする気になれなかった。

 

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街歩きが楽しいところだった。ポルティコ?がずーっと張り巡らされている。まあイタリア(特にボローニャ)の様に美しいものではないが、充分に旅人の目を惹くものだ。これには理由があるのだ。何故かというと、熱帯特有の…

 

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気が付くと天気が急転してこんな状態になってしまうのだ。美的な理由でなく必然の産物。まあスコールだけでなく日除けの為でもあるだろう。特に中心の古い町には張り巡らされているおかげで、そんな時でも自由に往来ができる。便利だ。僕も雨の中10分くらい、結局傘を拡げることなく宿から映画館までたどり着くことができた。その時上映していた映画はこれ。

 

youtu.be

 

『モーターサイクル・ダイアリー』 若きチェ・ゲバラが友人と南米を旅した日記が原作だが、政治的な色は薄く爽やかな青春映画になっていた。おかげで当初結構論議が起きた記憶があるが、劇場で観ている限りではこれはこれで面白かった。というか、このタイミングでこの場所でこの映画を観ることができた幸運に何か強いものを感じてしまったね、当時は。たった2ドルで。  

帰国後にDVDを購入し今でも時々見ます。自然の美しさには息を呑みます。そういう観方もできる映画です。南米は美しいですよ、まったく。やっぱり半年くらいはかけて回りたかったな。特に南の方。

 

 

今迄のアンデス高地とは大分違う雰囲気ですが、これからこういう所が続くのだろうなと思うとまた期待が持てるというものです。気候が良い。住人に白人の割合が増えていた。さらに食事! 山の上の町々では食事を安く済ませたければたいてい「1/4チキン(UNO CUATRO POLLO、店先でクルクルまわっている奴)」に収束していたが、此処では探せば牛肉という選択肢もある。市場は相変わらず混沌としているが、屋台で焼いている香ばしいニオイの中には明らかに鶏ではないものがあった。さらに、ジュース屋も多く、アイスクリームの美味しい店もある!治安も良い方で、街の中央にある公園では夜遅くまで人の姿が途切れない。気温も高いので人々が屋外で過ごす時間が長くなるのも頷ける。彼等に混じって僕も夜11時までベンチで本を読んでいたと当時の日記に書いてあり、そういえばそうだったなと懐かしく思い起こされた。

 

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こんな奇麗な鳥トゥーカンがフラッと宿の中庭にやってくるのも熱帯ならでは

 

暖かい気候で気分が良くなり次はブラジルへ行くことに決めた。国境近くの町プエルトスアレスに領事館がありビザを発給しているので、まずはその町を目指すことになる。

今回の移動は夜行列車。買った切符は「スーパープルマン」クラスなのでどんな車両か期待したが、なんのことはないリクライニングシートのあるオープンタイプの車両。車内はくたびれているうえに多くの座席のリクライニングは壊れているときた。最初は何だかなあと思ったがヘタったシートの角度が実はちょうど良くて苦笑い。

しかし異常に揺れる列車だった。バスみたいに上下するのだ。慣れるまでは脱線するのではないかとヒヤヒヤしていたが誰も気にしていないのでそんなものなのだろう。その分スピードは遅かったが。(その後エチオピアジブチ間の酷い列車を体験するまではこの区間が自分旅史上最下位だった。)おまけに夜遅くまで子供の売り子がひっきりなしにやってくるので中々眠れない。”リモネー、フリアー、リモネー!” 虫もガンガン入ってくるが幸運にも蚊はいなかった。でも、まあそんなものだとの諦念を持つことができたのは、旅に関してはそこそこベテランの域に達していたからかな?

 

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一見きれいに見えるが中はきたない。やっぱりボリビアだもん…

 

 

プエルトスアレスには朝早くに着いたが、列車の乗客はほとんどがここで下車し駅前に停まっていたバスに乗り込み去っていった。近くにある湖は行楽地らしいが町自体は小さく静かだ。そんなところにある領事館で対応してくれた陽気な副領事は、退屈していたとみえてビザ発給の手続の間僕を珍客扱いし質問攻めにした(笑)。何でも職員としてアジアすべての国に赴任したらしい。日本も印象深かったらしく片言の日本語で話しかける。今でも憶えていることといえば、どうやらコタツにご執心のようで、日本に帰ったらコタツのあるインターネットカフェを経営しろ、外国人が集まるから儲かるぞとしつこく勧めること。半分冗談だろうが退屈しなくて助かった。無事ビザの貼られたパスポートを手渡されこの後どうするのかと尋ねられたので、宿を探そうかなと言いかけたところ、この町には何もないから早くブラジルに行け!、Have a fun! と僕の答を待たずにその場で電話を掛け国境までのタクシーを呼んでしまった。本当は列車であまり眠れなかったから一眠りしたかったんだけどな、まあいいか。流れに逆らうことなかれ。行方も知らぬ根無し草の旅はそうやって続きます。

 

 

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プエルトキハロの国境を歩いて渡る ついにブラジ~ル♪

 

 

 

 

'04南米 その5 アンデス息切中

 

ボリビアの首都ラパスはそこそこ近代的な街でビルも多いですが、その足元に拡がるのはアジアの様に込み入った市場と屋台群です。この対比が何ともいえないですねえ。すり鉢状の地形でその真ん中が町の中心ですが、周囲を囲む斜面に住宅が拡がっているのはちょっと見慣れない光景です。

 

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f:id:pelmeni:20190103194037j:plain街は縦に長く坂も多いので車で移動~

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マチュピチュチチカカ湖に続きアンデス観光のハイライト、ウユニ塩湖を目指します。ラパスからウユニへはオルーロという街でバスの乗継になります。オルーロからは夜行です。この頃は長時間や夜間の移動を全く厭わずにガンガン突き進んでいました --- なんて格好の良いことではありません、他に移動手段が無いだけです。

ボリビアのバスはこの旅で乗った車体ほとんどがブラジルのお古でした。この辺りにお国の力が表れます。おまけに山岳地帯は道路がくねくね曲がっているので乗っているだけで疲れます。ひたすら我慢する他ありませんが体力勝負の感もあります。

 

f:id:pelmeni:20190103194904j:plain道中事故で立往生となっても、そんなものかと平然としていられました。南米旅には精神力が鍛えられます。

 

 

ウユニへはまだ暗い明け方に到着。近くの旅行代理店に転がり込んで当日の一日ツアーを申し込み、出発の10時までその場で仮眠させてもらった。

ボリビアの雨季は11月から4月頃までです。この旅行時は11月下旬、既に雨季に入っていたのですが雨はまだ少なく、残念ながら有名な鏡張りの光景は見られませんでした。ただそれでも不思議な光景には変わりなく、水鳥のいる湿地やサボテンが多く生えている「魚の島」など巡りましたが、やはり一面の白い世界が印象強く記憶に残っています。この辺りで食べる料理にはこの塩湖で切り出された塩が使われているのだろうか?と考えるだけで、暫くの間は簡素な料理もちょっとは美味しく思えました。

湖の中にある有名な塩のホテルは、排水が環境を汚すということで既に宿泊はできず、保存するということでした。陸の方に新しい建物を建設中でした。

 

f:id:pelmeni:20190103234058j:plain暑くはないけどサングラスは必須!

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アンデスから下界に降りる前にポトシに寄りました。ここはかつて鉱山で栄えた街で、コロニアル様式の建物や街並が見所です。ただ、どことなく薄暗い雰囲気も多少感じられるところなど個人的なツボにはまりました。感覚的に一筋縄ではいかぬモノが好きなのです。さらに、標高が高い。4,000m以上ある! 息苦しい! なのに坂道が多く難儀しましたが、それでもウロツキ廻ってしまうほどの不思議な雰囲気のある街。

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この頃になるとさすがに空気の薄さには飽き飽きし始めていた、というか、もうたくさんって気分でした。この先のルートはパラグアイアスンシオンへ行くか、それとも東進してブラジル方面か。まだ決めかねていましたが、とりあえずは低地のサンタクルスに降りることが、そんな訳で楽しみでした。

スクレで乗継のバスの旅。毎度おなじみの長時間移動ですが、もう多少のぼろいバスでも体が馴染むように(笑)なっていました。でもこの道は酷かった。舗装、非舗装のガタガタ道が交互に続いたかと思えば渋滞でストップ。事故ではなく休憩しているトラックが道の半分を塞いでいるというなんともいい加減な世界。

でも、標高が下がるにつれ蒸し暑さが感じられ確実に空気が濃くなっていくのが感じられた。車窓に樹木の緑が増えていった。雄大な山岳地帯や河川の傍らを走り、質素な佇まいの集落を通過する。夜中に初めて見た南十字星の美しさ。

 

必ずしも居心地は良くないけれど、事ある毎に長時間バスにひたすら揺られ続けることで、何か自身の感覚が強制的に南米のリズムのようなものに同化させられていくような気がしていました。気が付けば、何事においても日本の日常とはかけ離れた桁違いのスケールを持つ南米というものに、自分の感性が取り込まれていることがわかりました。

新しい世界を知るということは、何時でも何とも心地良いものです。

 

 

'04南米 その4 アンデス観光中

 

 

個人でクスコからマチュピチュへ行くための当時のルートは主に2つ

1)ツーリストトレインでクスコから麓の町へ

2)普通列車でオリャンタイタンボという町から麓の町へ

お金が掛からないのはもちろん後者(それでも12USD)。またオリャンタイタンボには結構立派な遺跡もあるので、町歩きや遺跡見学後に午後遅く出発するその列車に乗れば数時間後に麓のアグアスカリエンテスという町に着きます。翌朝のバスでマチュピチュへ。バジェットトラベラーのためにあるような行程です。当時の日記によれば僕も朝クスコを出発、ローカルバスをウルバンバで乗継ぎオリャンタイタンボへ。遺跡で同じ宿にいた人等と再会してそのまま前述のルートでマチュピチュへ行きました。

 

 

f:id:pelmeni:20190102190739j:plain背後にそびえる高い峰がワイナピチュ


アグアスカリエンテスからは小さなシャトルバスが朝7時から運行されていたので、早起きして遺跡を目指します。エントランスもまあまあ空いていました。でも、先ずは高名な遺跡を横目に奥へ急ぎます。理由はただ一つ、裏にそびえるワイナピチュの峰に上るためです。この山頂は狭いので人数による入山規制があるのです。昼間は待たされるけど朝早くなら大丈夫、ということです。

しかーし!45分かけて上ったその頂に既にいた人たちは…、なんと8割方日本人でした!それも皆同じような年代の男女、ほぼ初老の人達のグループでした。その年齢でワイナピチュに上れた健脚の持主ということは、多分トレッキングや軽登山愛好会のツアーかな。入口近くにある高級ホテルに泊まってきたのでしょう。よくいわれますが日本人って何処にでもいるんですね。彼等は早めに去り静かになった後に残った旅行者は、日本人の個人旅行者とドイツ人ばかりでした。これもやはりというかなんというか。

上から眺めるマチュピチュはカッコイイ。町で買い持ってきたインカコーラ※を一気に飲み干す。うーん、やっぱり不味い!(涙)。

 

※黄色くて甘苦くて何かの薬のような味の清涼飲料水 日本でも買えますがペルー製ではないので味が微妙に違う

 

f:id:pelmeni:20190102190814j:plainワイナピチュから俯瞰したマチュピチュ

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此処はロケーションが最高ですね。山の稜線に展開する眺めは爽快です。遺跡自体には素晴らしいというより不思議な感想を持ちました。町の型を保持しながら人の生活感がみられない遺跡です。建造の目的も完全には解っていません。

 

 

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アグアスカリエンテスは、熱い湯という名のとおり温泉のある町で、川沿いにあることは確認しましたが行きませんでした。ここはほぼマチュピチュへの観光客のための町です。帰りの列車は朝出発なのでもう1泊することになります。夕食にはアルパカの肉のソテーを食しました。確かパサついた牛肉のような味の感想を持ちました。特に美味しくはないということですね。この後クスコに帰りクイという動物も食べました。体を1/2に割って油で揚げてありましたが、小さな手などが残っていて人によってはグロと感じるかもしれません。クイとは地元の貴重なタンパク源である食用ネズミでモルモットの仲間のようです。写真を撮っておかなかったのは残念です(笑)。

 

f:id:pelmeni:20190102193608j:plain帰りに寄ったピサックのカラフルな市場 

 

 

 

マチュピチュの次はチチカカ湖です。プーノにある旅行代理店のツアーに申し込みました。日帰りなのでたった9ドルです。湖はどこでも空が広く風光明媚で爽快な気分になれるので僕の好きな場所です。ここも標高が高く空は深く澄んだ青。いい色です。トトラという葦を積んで作った浮島に渡ったり、先住民族の住む島等を巡ります。景色はとても良かった。でも、まあ観光地ですね、ツアーだから…。

 

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次に目指すはボリビア。当日朝プーノのターミナルへ行ったところラパスへの直通バスは既に満席ということで、ローカルバスターミナルからの乗継ぎとなった。細かく刻んで国境は自分で越えることに。途中1か所、バスの車体ごといかだのようなボートに乗せて湖を渡るのが面白かったです。

息苦しい中でひたすら移動ですが、こういう日も嫌いではありません。たいてい、自分の意志ではなく何かに後押しされているかのような感覚、足が地についておらずにただただ運ばれている感覚に陥りながら、ぼうっと何も考えずに外を眺めています。昼間の移動なら車窓は楽しめますから飽きません。

 

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’04南米 その3 クスコ

f:id:pelmeni:20181224191437j:plainこの石をいったいどうやって積んだのだろう ------- 12角の石、クスコ旧市街

 

 

 

例えば二、三人で道を歩きながら話をしていたとする。その道がいつの間にか上り坂に変っていたり、階段になったりする。気が付くと会話が終わっている。そこで話を始めようとするが、何か、く、苦しい、会話が文章にならない…

これが高度3,400mの世界。僕にとっての最初の感想です。クスコの標高はおよそ富士山の山頂に近い高さ、日本での生活圏には存在しない高度です。もちろん人間はそんな環境でも順応できます。人々は普通に生活します。でも一時の旅行者にとってははなかなか厳しい環境ですね。高山病の症状は多かれ少なかれたいていの人に現れます。長期の旅行者なら徐々に高度を上げてきたり、昇ったり降りたりしながら体を慣らしてゆけば何とかなります。僕も最初のキトでは体が反応しましたがその後は旅の体に成ったようです。でもアンデス山中ではどの街でも、空気の薄さにだけは慣れることは難しかったですね。時々深呼吸をして思いっきり空気を吸い込んでも、肺が酸素で充満した気が全くしないのです。

 

 

 

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街の中心アルマス広場 適度なスケール感、取り囲む建物の美しさ、整備された公園、これ程居心地の良い広場って世界を見回してもあまり無いんじゃないかと思う 旧市街の狭い道を歩き回った後にこの広場に出るといつも晴々とした気分になった

 

13-16世紀にわたりクスコは繁栄したインカ帝国の首都でした。その後やってきたスペイン人にインカ帝国は滅ぼされ街は破壊されます。しかしインカの石積は非常に強固だったため残り、征服者が新たな街を築く際はその壁や土台を利用して建物を造りました。旧市街を歩けばその有様がはっきりとわかります。一見スペイン風だけどある意味折衷の様式は、それはそれで興味深いものです。

人類の歴史は弱肉強食の歴史ともいえるので、強いスぺイン人による征服も結局は必然だったのかもしれません。しかし優れた技術や文化は絶やされることなくしぶとく生き延びるものです。形式的な断絶は必ずしも根絶やしを意味しません。異文化の融合はどの地域でも独特の強さを持ち存在し続けます。表面的な審美性だけでなく文化の重層や対立、歴史的な深読みなど多方面から我々の好奇心を刺激してくるということでしょうか。その貴重な例証が目の前にあるわけです。世界的にみれば信仰や文化の併存や混合が少ない日本の日常にどっぷりと浸っている身にとっては新鮮な経験に相違ありませんでした。

 

 

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広場を離れて細い道を入る ふと見上げると2階の窓から可愛いニャンコが!

 

クスコでは、日本人バックパッカーの間で当時の人気を二分していた花田氏と八幡氏の宿のうち、ペンション八幡の方に泊まりました。僕はアジアでもヨーロッパでも(ブダペスト除く)日本人宿に積極的に泊まるということはしませんでしたが、南米では幾つか泊まってみました。まあ玉石混淆な具合はやはり南米なのですが、敢えてそうした理由は主に2つ。一つには情報が欲しかった。その場その時に流される旅をする人間にとって南米では生の情報が重要、他の旅行者との交流や情報ノート目当て。二つ目には南米在住の日本人に対するささやかな興味です。

南米で宿を経営している日本人はたいてい旅行経験者か日系移民家族です。後者について、中南米への移民は確かに日本の近代史の一部であって、資料を探せば史実として幾らでも知ることはできます。ただ古から続く日本人という流れから枝分かれた支流でありながら、そのような認識はあまり共有されることがないように思えます。たいていの人は逆に出稼ぎにやって来る日系の人々くらいしか思い浮かばないのではないでしょうか。ここでは旅を続けて行くと、多くの場所で様々な形を以って地域に溶け込む日系人の姿を目にします。本当にいろいろです。代を重ねるうちに現地に同化し日本らしさが減るようにみえることが多いのも、それは仕方のないことでしょう。ただそんな彼らのうちにも、日本本国の方を常にみている人々が確実にいます。はるばる地球の裏側まで赴き、日本語を話し日本の生活習慣を保ち続ける人々に接すれば、誰でも多少なりとも思うところが生ずることでしょう。

 

ただ今となってみれば、その個人的な興味を満たすためは実際のところ、南米を半年くらい掛けて回ってみないと、判ることも判らなかったのだろうと思います。その点、旅が長期でなかったことには心残りがありますが、当時はそんなことまだ知る由も無く、その興味も小さく漠然としたものに過ぎませんでした。夜更けに中庭にある洗濯機で汚れものを洗いながら、見慣れた位置とは全く違い天頂から更に首をのけ反る様に傾けながら半ば逆さまに引っ掛かったようにみえるオリオン座やカノープスを眺め、確かに南半球の地に立っていることを実感するくらいで満足していたのです。当時の僕は。

 

 

 

 

 

https://youtu.be/tvU6FAj70zk

 

 

 

’04南米 その2 試合開始早々…  

 

この旅はとある理由wにより帰国日が決まっていたので、出発前に往復航空券を購入しました。キトin、サンパウロout、往復共にヒューストン経由の今は亡きコンチネンタル航空のチケットです。日本を出発してちょうど24時間後にエクアドルのキトに着きました。夜遅かったため街中へはタクシーを利用しましたが、南米最初の夜ということで緊張しました。

南米、いろいろ言われているけど大きな街はそれほど心配することはないんじゃないの、というのが出発前の感覚でしたが、現地で生々しい情報を知るにつれ終いには笑い事なんかではなく、自分の身に起きた時の事を想像すればぞっとするほどでした。とはいえ、必要な注意を払い行動すれば特に問題無く旅行できるでしょう。ただし、運次第です!(爆) 運が悪いと大事になりますが、問題はその確率や程度が他の地域の10倍くらいは高く酷いのではないかということです(あくまで個人的印象です・爆)。ひったくりやかっぱらい、詐欺まがいの騙しに更には強盗やバスジャックまで、各地の日本人宿に置いてあった情報ノートには被害者が殊の外細かく時には可笑しく書き残してあり、まだ日の浅い旅行者はそれを読み皆憂鬱になってました。この時もペルーでは確かプーノで日本人カップルの旅行者が当時のトレンド「首絞め強盗」にあったばかりで、日本人が経営する宿には大使館からの注意喚起の書類コピーが貼紙してありましたな。

でも何故こんな話題を始めにするかといえば、そうですよ、僕も軽く一撃されたからです。

 

 

 キトin→グアヤキル→リマ→ナスカ→リマ→クスコ→

上記が旅の初めのルートです。何故リマに戻ったかというのが、実はこの旅の序盤のポイントです! そしてあまり写真が残っていません。そうです、またカメラ他盗まれちゃったんですねー(爆) もう笑わないでください。馬鹿といわれても仕方ないです。以前のカトマンズに続いて2回目ですからねえ。学習能力が無いというか緊張感が無いというか、何言われても言い返す言葉はありません。

でも言っておきましょう。この後数十か国を訪れることになりますが、盗難にあったことは一度もありません。これが最後でした。ただこの前には… なんかありましたな、首筋に冷たい金属片とか(爆、その話は何時の日か)。

 

事が起きたのはリマ→ナスカ間のバスの中です。これでも一応注意を払って手持ちの荷物は普段と変えてコンパクトにまとめ変えたんですよ。でもそれを膝の間というか下に置いて30分くらい眠ってしまったんですね、魔が差したのでしょう、残念ながら。お腹の上で抱えていれば眠っていても大丈夫だったのかもしれませんが、結局デジカメとトラベラーズチェック全額抜き取られてしまいました。狭い車内でどうやって盗られたのだろうと考えても戻ってくることはありません。善後策に気持ちを切り替えるしかありません。

リスク込みの旅、それが南米の旅。トラブルに遭遇した際は気持ちの切替が第一、やるべき事柄は手際よく漏れ無く済ます。後まで引きずると楽しい旅も楽しめません。

でも、ああもう限りなく SHOCK! SHOCK! SHOCK! この時はもう一人の日本人旅行者とクスコまで一緒に行く予定でしたが、翌日地上絵を見学した後に別れ、僕は夜行バスでリマに戻りました。まずしなければならないことはアメリカンエキスプレスのトラベラーズチェックの再発行です。南米からのせいか電話が途中で切れたり最初は面倒が続く。宿沖縄に再び戻りコレクトコール。2回目の電話で日本人の担当者と話すことができ、FAXのやりとりを済ませたら(確か・この辺記憶が曖昧、日記もれ)、2日後にミラフローレスのオフィスで全額再発行されたんですよ。貰ったその場で一枚一枚にサインを書き込みながら、本当に安堵の溜め息をつきましたね。カメラは2台持ちなので何とでもなりますが、金が無ければ旅行は続けられませんから。T/Cも今日ではその役割を終えアメックスも新規の発行を終了しましたが、これは忘れられない思い出です。

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サンフランシスコ教会と広場

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安宿スクレの部屋より 教会の隣なので夜中に鐘の音で目覚める


キトでは旧市街の散策と赤道博物館に行きました。こじんまりとして奇麗な所ですが、印象に残っている事といえば、通りで若者が口論の末老人を殴り倒し財布を奪い去っていったことと、背が2m位あるエホバの証人の黒人宣教師がバスターミナルで勧誘をしていた事です。今となっては碌でもないことばかり憶えています。体調が優れずに昼寝ばかりしていたのは初め時差ボケを疑っていましたが、ふと軽い高山病ではないかと気付き低地のグアヤキルに降りた途端に全快しました。山道を熱帯低地まで一気に駆け下りるとバスの車内でも湿気が増えたことを実感しました。外は一面のバナナ畑と「Dole」の看板。

グアヤキルガラパゴス諸島へ行く人が経由する大きな街で、特に観光地というわけでもなく治安も良くなかったのですぐに抜けました。しばらく忘れていましたが数年前に日本人の新婚夫婦強盗殺人事件が発生した折に思い出しました。またそんな話題か… 有名なイグアナ公園だけは忘れずに訪れました。

 

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彼らはベジタリアンでしょうか
 

 

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ナスカの地上絵は文句無しにすばらしい。これは有史上の世界の七不思議の一つに確実に数えられますね。でも盗難翌日で気分的には60%くらいしか楽しめていなかったのかもしれない。パイロットはマイケル・ジャクソン似だったが腕は良かったです。「アミーゴ!、レフトサイド!、マンキー!!」 思ってたより小さくしか見えないので途中からそれ程乗り気で無くなった。写真の方が印象強いが、こういうものは実際にその場で見ることが大事なのだ、と自分にいいきかせる。

 

 

リマの警察署では盗難証明書を作成してもらいました。スペイン語でのやりとりなので苦労するかと思いましたが、とても手際良く(機械的に)対処してもらったので楽でした。多分、年がら年中このような申請者が多いせいでしょう、絶対。同じ時に来ていたスイス人旅行者はネットカフェで夢中になっている間に財布を盗られたそうで、いきなり「わたしはバカなおとこです」と日本語で話しかけてきました。以前日本に住んでいたそうですが、残念ながら話が弾みませんでした。仕方ない、会う場所が悪かったです。

NikonのFEを持ってはいたけど、やはり小型のデジカメは便利なので、リマのミニ・ヨドバシカメラともいえるようなHIRAOKAという電器店パナソニックコンデジを買い直しました。レンズにあるLAICAの5文字に魅かれたのですが、今思えば動画に音声が無い物を選んだのは失敗でした。当時は動画なんて重視してませんでした。此処は名前からして日系、店の歌も店内に流れています。接客も非常に丁寧でおまけにアルミ製名刺入れを貰いましたが、おまけは創業時からの習慣だそうです。日本らしいですね。程なくして知りましたがこの店の創業者、平岡千代照氏はペルー移民の成功者で日秘文化会館の入口には氏の胸像があったと記憶しています。

 

 

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南米の近代は征服者等の既存の文化に対する野蛮な上塗りの試みから始まったようなものですが、、、、 コロニアル様式の建物や街並みは何処でも美しいと感じることを禁じ得ません。それは正直な感想でした。

 

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’04南米 その1 パパブッシュ死去により旅立ちの記憶が呼び起こされる

www.bbc.com

 

ブッシュ元大統領が先日亡くなった。もちろん自分とは何も接点の無い人なのだが、心の中に感じる僅かな引っ掛かりが気になり記憶の深層を探ってみた。そしたらありましたね、時は2004年10月、3か月の南米旅行、アメリカ国内での中継地はテキサスのヒューストン、そう、ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル国際空港でした。忘れてた。

 

という訳で唐突ですが過去旅の掘起こしが再び始まります。備忘録になってしまうかも。

 期間;2004年10月~05年1月。

 訪問国;エクアドル、ペルー、ボリビア、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイウルグアイ

 ※この3か月という期間は失業保険の待期期間を丸々利用したものだったような…のは気のせいでしょう(爆) 

 

’98、’99年の旅を終え暫くの間まともに労働に勤しんだのち2003年に再び旅立った事は以前にちらっと言及しました。その旅は1年近くにも渡るもので、これは本当に面白い体験だったのですが、撮った写真はすべてリバーサルフィルムで約1,200枚(正確に数える気にならない)、デジタル化は今のところ全く手付かずです。こんな枚数どうしよう、というのが本心です。当時既にデジタルカメラは所有していたのですが、記録メディアの容量も小さく大量のデータの保存については術は無く、長期組はほとんど使用していませんでしたね。その後あまり時間を空けずに出掛けた’04、’05の旅行について先に挙げてみようかしらん。まあ気分次第ですけどね!

閑話休題。購入した航空券がコンチネンタル航空のチケットで、米国内の中継空港が上記ジョージブッシュ空港だったのです。南米日本間の直通便というものはありませんでしたので、どのエアでも米国内の何処かで乗継をする必要がありました。(今でも同じでしょう?)単なる乗り換えなのに米国の場合入国審査が行われるのが理解できませんでしたが、そういうシステムだったので従うしかありません。確か面倒な書類を提出した後、入国管理官は、僕が南米行くのにスペイン語ができないというと鼻で笑いやがったのは今でも憶えています。憶えているといえば建物に入った途端漂ってきたのはポップコーンのカラメルの甘い香り。アメリカだなあと感心したのか笑っちゃったのか今ではどうでもよいことなのですが、多くの国や地域を訪れたのにもかかわらず、アメリカに足を踏み入れたのは結局この旅行時のこの空港だけに終わってしまったのは、何かの因果に他ならないと思います。

 

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写真で見ると何かチョコレーットっぽい(涎)

 

テキサスが輩出した政治家の偉業を称えるコーナーが空港施設内の一角にありました。息子じゃありません、パパの方です。

 

'98ヨーロッパ その7 

Mar. 1998

ブルノ→テルチ→チェスケーブデヨビツェ→チェスキークルムロフ→ブルノ→ウィーン→帰国

 

f:id:pelmeni:20180102014134j:plainブルノ駅前通

 

 

本来ならばウィーンに着く頃のはずだが、せっかくビザ※をとったチェコを見ないわけにはいくまい。まあ、ウィーンは今後も大きく変わることは無いだろうし、また来る機会はきっとあるだろうと判断して今回はあきらめた。それでもプラハにすら行けそうも無いのには愕然とした。我ながら行き当たりばったりのドタバタには苦笑せざるを得なかった。でもそのおかげで予想外の経験もした。今だったら帰りの切符を当然のごとく捨てるだろう。いやいや、やっぱり旅なんてほどほどが良いのかも… とはもうとてもじゃないが思えない。

 ※まだチェコ入国もビザが必要な時代。とても美しいデザインのビザでした。

 

ブルノでの最初のお仕事は帰国便のリコンファームだった。鉄道駅隣にある第二郵便局でテレフォンカードを買い、駅構内の公衆電話から国際電話をオランダ(KLM)まで掛けた。窓側の座席もとれ、これで帰国の足が確定し一安心。

ブルノはチェコ第二の都市だがすいぶんとこぢんまりとした印象だった。到着したのが日曜日で夜が早いことにも驚いた。ここへはトゥーゲントハット邸という有名なモダニズム住宅を見学しに来たのだが、運悪く月火曜日が休館のため後回しとして、今後4日間をアクロバティックな行程で廻らなければならなくなった。

宿は Hotel Avion に投宿。実はこのホテルはチェコ機能主義建築のひとつ。間口が狭く外観にあまり見所はないが内部は細かいところまで手が入っている佳作。ただメンテナンスは行き届いていなく、時は流れてこのまま朽ち果てるのかなあと思っていたが、先日調べたところ現在なんと修復中みたいです※。

※ Hotel Avion – Wikipedieチェコ語 

 

f:id:pelmeni:20180108182447j:plainホテル・アヴィオンのホテルカード、紙ナプキン、シャンプー、石鹸。今回撮影、我ながら物持ちが良いですなあ。

 

 

ブルノ → テルチ → チェスケー ブデヨヴィツェ(泊) → チェスキー クルムロフ(泊) → ブルノ →ウィーン(泊)→帰国か、   何とか廻れそう……

 

テルチはブデヨヴィツェへ行く途中にあるのでバスを途中下車して立ち寄った。細長い形をした広場にルネサンス様式の建物のファサードが書割のように並ぶ。見所は広場周辺に限られるが、とてもかわいらしい小さな町。夕方のバスが来るまでの滞在だった。 

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チェスキークルムロフ、これまた愛すべき町だ。S字状に蛇行した川の両岸に町が拡がる。そうそう、この様な地形に座する町で景観の美しくないところなど無い。旅慣れれば地図を見るだけで判るようになる。ランドマークは崖の上に建つ城の塔。旧市街は細い道が入り組み中世の雰囲気が色濃く残っている。歴史的建造物も多く観光地らしい良質な観光地だった、と思えたのは、意外と人が少なく何処ももの静かだったせいもある。それはそれでよかったが、できれば暖かい時期に来たかったなあ。旅の終わりも迫り、名残惜しさや一抹の寂しさとともに、ヨーロッパの冬の寒さが最後に身に凍みてきた。

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宿は旧市街の入口にある Hostel 99 という小さなホステル。できてまだ間もないのか手作り感色濃く素朴な雰囲気だった。(2003年再訪時にはかなり立派になっていて驚いた)

 

 

クルムロフから来た道を逆にたどりブルノに戻る。荷物を駅に預けトゥーゲントハット邸へ行く。当時はまだ世界遺産に認定されていなかった。自由見学はできず午後は3時に集合でガイドが付いた。英語ガイドの見学者は僕一人。チェコ語訛が強かったがそういう人の話す英語の方がネイティブより聞き取りやすいのは…、今でも変わらない。内部撮影は事前申請が必要で不可、外部撮影料金を別に支払いカメラを持ち込んだ。シンプルな空間構成や素材の効果的な使い方により創り出される空間の強度は特筆すべきものだった。 

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見学後は駅に急ぎ荷物を受取り裏手にあるバスターミナルへ走る。このバスターミナルも何度も利用したがこれで最後。軽食を立ち食いで済ませバスに乗り込む。外はもう暗くて車窓を楽しむことはできなかったが、ウィーンまではたった3時間。国境通過時もパスポートチェックのみで、あっという間にミッテ駅横のバスターミナルだった。ここを出発したのは3週間前のことだったが、ずいぶんと昔のことのような気がした(と当時の日記に記していた)。

ウィーンは宿の近くの街を夕食がてらに散歩しただけで終わってしまった。翌朝帰国。

 

あー、何たる消化不良。欲求不満。急いで旅をしても良いことはないなというのが当時の率直な感想だった。それ故に、ブダペストの宿で出会った人たちが楽しんでいた長期旅行というどこまでも自由な時間の使い方に、尋常ならぬ憧れを抱いた訳であった。

この後しばらくの間続くことになる「旅あっての人生」は、ここから始まった。その原点となる旅の日々だった。----------to be continued! といったところか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おまけ)ウィーンの空港へは鉄道で向かったのだが、ぼうっとしていて乗り過ごしてしまった。今でも覚えているのだが、駅についても人が沢山降りるなーと思いながら、頭と体が離れているような感覚で窓の外を眺めていたのだ。終着駅ではなかったので列車はそのまま出発、自分が降り損ねた事を理解したのはその数分後。まずいなと思いながら更に乗り続け、国道沿いの無人駅で下車する。逆方向の列車が暫く来なかったら隣の道路でヒッチすればいいなんて思っていた。列車は20分後に来て飛行機にはなんとか間に合った。しかし、何やってたんだろう?