もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。

民家で一休み 

民家で一休み 



ディレダワからハラルまで行こうと乗ったミニバスの中で、流暢に英語を話すエチオピア人に話しかけられた。ファイク・オスマン氏。オーストラリア在住とのことで、奥さんと2人の子供がいる家族連れだった。話しているうちに、家に寄っていかないかと誘われた。ハラマヤというハラルのすぐ手前の町だと言う。何となくよい雰囲気だったので、彼らと一緒に車を降りた。

ここでリラックスしていきなよと通された部屋はTVセットと布団の他は何も無い簡素な部屋だった。そのうち人が集まり昼食となった。トマトソースを和えたマカロニを彼らは手で食べるのだが、僕にはフォークが一緒に出された。仕事のこととか色々彼と話をしたが、オーストラリアで生活レベルが日本とあまり変わらないせいか話が結構通じた。地元の人とは残念ながらそうはいかないだろう。

疲れたので少し横になり、その後は手持ち無沙汰になったので友人や親戚たちが集まっている別棟の部屋に行ってみた。そこで皆めいめいに寛いでいた。チャットをやっている者、シーシャをやっている者…これがエチオピア流の寛ぎ方だよと皆楽しそうに笑った。僕にも勧められたが、チャットは以前イエメンでどうやっても良さが判らなかったのでパスし、シーシャをいただいた。今回の旅ではカイロでちょっと楽しんだが、実は僕は、以前エジプトまで旅行した時にカイロで小さなセットを購入して、暫くの間日本の自宅で楽しんだ程の水煙草好きなのである。帰国したらまた始めよう。

何故オーストラリアに住んでいるのかと尋ねたところ、以前の共産主義革命から逃れるために、彼の一家はジブチ経由で伝手を頼って移住したと教えてくれた。彼はまだ小さかったがジブチの国境近くにあった難民キャンプでしばらく過ごした事は憶えているという。オーストラリアに渡った後市民権をとり、大学でコンピュータ工学を学び、今はメルボルンの会社でSEの仕事をしている。おそらく彼は恵まれた境遇にあったのだろう。共産主義時代に命を落とした人はかなりの数にのぼったはずだ。
共産主義政権が倒れたのちようやく母国に帰ることができるようになったという。もともとここの近くのディレダワ出身で、何度か里帰りしているうちに今の奥さんと知り合って結婚した。この家は実は奥さんの実家である。彼女は当時英語をまったく解さなかったものの、私をオーストラリアに連れて行ってとせがんだそうだ。今ではとても流暢な英語を話す。かわいい2人の子供は英語しかわからないそうで、一家でエチオピアに帰るのも5年ぶりとのこと。幸せそうな家族の裏にあるもうひとつのドラマにエチオピアの歴史を垣間見た。

その後コーヒーセレモニーをしてもらい、炒りたてのコーヒーをいただいた。お約束のようにたっぷりな砂糖。エチオピアのコーヒーには独特の渋みと酸味があって、これはこれで美味しいコーヒーだ。

夕方暗くなりかけた頃おいとますることになった。ミニバス乗場まで一緒に来てくれて、そのうえバス代まで払って僕をわざわざきれいな車に乗せてくれた。
ハラルまで30分も掛からなかった。


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