もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

D.S.M.の日曜日

D.S.M.の日曜日




ダルエスサラームでは日曜日は多くの商店が扉を閉め、街中は静まり返る。

たまたま日曜にこの街に留まらざるを得なかった僕は、宿にいても手持ち無沙汰だったので昼飯がてらに散歩に出た。
町の中心部には、コロニアルっぽいもの、アールデコっぽいもの、1930〜50年代にかけてヨーロッパの影響下にあったことが如実に判る建物の実例がいくつも存在する。デザイン的に特に優れているというわけでもないが、大抵はきれいに色が塗り直されていることもあり、箱に穴が開いているだけの周囲の凡庸な建物からは際立って良くみえるものが多い。

きょろきょろと眼や頭を動かしながらしばらくの間歩いてみる。確かに車や人のざわめきは少ないのだが、とはいっても普段の猥雑な空気に満ちた通りからは感じ取ることのできない別の鼓動がこの日の街中にはある。
そういえば朝は小さく流れる音楽とともに眼が覚めた。宿の裏だけでなく、街中の幾つもの教会から賛美歌が静かに流れている。それとは対照的に、学校の前を通ればアフリカ独特のリズムにのせた打楽器の演奏や歌が聞こえてくる。このリズムも他のどこでもないアフリカ人の生活自体から生まれ出るものだ。その場に立ち止まりしばらくの間聞いてみた。ヨーロッパっぽい街並みの中にいても、これこそは自分が紛れも無くアフリカにいるということの証左である。

モスクの近くのムスリム商店は軒並み開いていた。おそらくこのあたりは金曜日が休日なのだろう。その一角にある小さめの食堂でカリーの昼食をとった。従業員はどうみてもインド人顔の青年だ。スパイスが効いたカリーは固めの長粒米としっくり合っていた。


いくら街中が静かといっても、頭上から照りつける太陽までもがおとなしくなる訳は無い。雲が多少出てきたが、じりじりと焼け付くような陽射しを受けると、ゆっくり歩いているだけでも汗が体の表面ににじみ出てくる。バス停前の屋台でコーラを1本買い宿に帰ってとりあえず水シャワーを浴びる。こんな日は冷たい水シャワーで十分だ。
着ていたTシャツを陽の当たるバルコニーの手摺にかけ、天井のファンを回す。その後は買ってきた冷たいコーラを片手に、上半身裸のまま、日記を書き始める。


まだ陽は高いが今日はこのまま部屋でゴロゴロしていようと思う。
実は日本を出て丁度5ヶ月がたったところで、ついに腰痛になりかけてしまったのだ。定期的に起こることなので、遅かれ早かれこの日が来るとは判っていたのだが、この旅では体の調子は意外と順調に今まで来ていた。アフリカだし肉体的にキツいんだろうなあと事前に想像していたのとは違い、ここまで快調なのが不思議なくらいなのだ。まあ完全に逝ってしまった訳では無いので、無理はしないでいれば大丈夫かな?



外が暗くなってきたので、今晩は軽めの夕食にしようなどと考えながら街へ出る。昼間と違いサンダルの素足が涼しく感じる。夕方一雨あったのだ。何となく雲が多いなあと思っていたらみるみるうちに暗くなり、夕立のような強い雨が一時間くらい降り続いた。おかげで多少気温が下がったように感じられ、道端のいたるところに水溜りが残っていた。

街並みを見上げると窓には既に幾らか明かりがみえる。日本の都会だと多くの窓に明かりが点き、ああ今日も遅くまで仕事をしているんだなあとか、幸せな家庭がここにもあそこにもあるんだなあ、といった感想を持つものだが、ここでは大きな建物でも窓の明かりは大抵はまばらなので少し寂しさを感じる。それでも道路から近い窓の中に生活感が垣間見えたりすると何か風情すら感じられる時もあり、夜の散歩は好きだ。青白い光の下で天井に付いているファンが静かに回っているのを眺めながら、どんな人だか知らないがここにも人間の生活が確かに在るのだなあと思うと、何故だかしんみりしてくる。そんなこと感じている自分の存在がものすごく寂しげで頼りないものに思えてくる。

遠く離れた誰も知らない街の薄暗い路上を独りで歩いている自分。 
 ”何をやっているのだ、俺は。” 
最終的にはここにたどり着いてしまう。大抵は気ままに楽しみながら思う事が多いのだが、時には寂しさを感じながらの場合もある。それが何度か続くと、旅も既に終わりが近づいているということになるのかもしれない。


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