もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。

アムリトサル ゴールデンテンプル

アムリトサル ゴールデンテンプル

 

 

10年以上も前に初めてこの地を訪れた時、思えば私はそこらへんにいる二束三文の不埒な旅行者の一人に過ぎなかった。   

宿泊代を浮かすべく巡礼宿の事務所脇にある土間に汚れたマットレスを敷いただけのどうみてもドミトリーとは呼べない様な部屋に雑魚寝し、食費を浮かすためにこれまた寺院内で無料で訪問者全員に配られる簡単な食事を旅行者の特権としてさも当然の様に頂戴していた。そしてこのような行為が行われている理由を理解しようとはしていない。その証拠に黄金寺院自体の記憶は他の場所と比べて薄い。

長旅をする人間には誰でもそういう時期が一度は訪れるものだが、その当時の私が正にそうであって、いかに金を掛けずに旅するかで悦に入っていた。もちろん金を掛けずに旅をする事自体に是非は無い。何か結構なことをしているという勘違いを、たいていは後になり多少恥ずかしい感情を伴い理解するものだ。もちろんずっと気が付かないままの人間もいる。それはそれで楽しい人生を送り続けているのだろう。

 

この宗教的寛容さと太っ腹は彼等の親玉であるヒンドゥやイスラムのすべてを見届けた上でのカウンターパンチとして繰り出される本懐だろうか。

 

その太っ腹に再びお恵み預かる予定はなかった。無料の宿も食事も今回はナシで行くと決めていたので、始めは食堂になんか行くつもりはなかったのだが、結局のところ、来てしまった。それも夜、昼の2回もである。チャパティをいただく時は両手を差し出し一般的にお恵みを授かる際のポーズとして知られている動作をしなければ素通りされてしまう。そこでお恵みをいただく。こんな動作は日本でしたこともない。でも不思議と羞恥心は感じなかった。気が付くと掌の上には2枚のチャパティがあった。そして、この食事は質素なくせにとても美味しいので、こともあろうに私はお代わりをしてしまった。条件反射的に手が出てしまったのだ。さらに翌日もその場に来た。好意を喰いものにする私の本性は長年経っても変わらないどころか厚かましくさえなっている。まあ歳を取るとはそういうことかもしれないが。

 

スィク教徒だけでなくヒンドゥそしてムスリムも、またキリスト教徒や仏教徒の旅行者も、この場にいるおそらく大部分の人間が、夜の闇の中に照らされ金色に光り輝く寺院の眺めを楽しんでいる。平和だな、と思った。不躾な旅行者さえも飲み込む寛容さというものが、宗教的なオーラを伴い目の前で輝いているのだなと思う。私の様な心の鏡の曇った旅行者には少々眩し過ぎるくらいだ。

 

 

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