もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

麗江

f:id:pelmeni:20170916170717j:plain

 

麗江

 

古城入口で入域料(麗江古城維持費)を支払ったところで客引きのオバちゃんに捕まった。最初見せてもらった部屋は広かったものの1階で薄暗かったので断り、2軒目の宿で3泊するからとい言い値切って決めた。いずれも古城内にある瓦屋根と木造造作(構造は多分石か煉瓦積)の住宅で、客桟という名を付けている民宿の様な宿だ。

一休み後に町に出ようと考えたがいつの間にか眠ってしまい、暗くなりかけてから目覚める。夜の古城に人出が多いなと思ったところで今日は土曜日ということを思い出した。なるほどね。なかなか通行の途切れない道を往き来して宿近くの安食堂で夕食をとる。その後新市街へ出て朝食等の買い物。夜はM君に貰ったPDFのゴルゴ13をみていて夜更かしをする。麗江はまだ2日あると考えると気が緩む。(12/26)

 

 

昨晩は遅かったので11時頃まで起床せず。朝昼を兼ねた食事後、相変わらず人で込み合う町中へ。まず獅子山へ行くが入場料が60元もしたので結局入らず。古城入域で既に80元も支払っているのにぼったくりの更なる二重取ではないか?ただこの種のムカツキには中国旅行中に既に慣れてしまったようで、すぐに諦めることができる。

近くの眺めの良いカフェで”何とか珈琲”を頼むが、それは単なるインスタントの甘ったるい3in1だった。いい値段だったが場所代を考えればそんなものかと思う。でもこれなら同価格の”Nescafe”を頼んだ方が良かったかもしれない。瓦屋根でびっしりと埋めつくされた町の上方からの眺めは美しく、この休憩自体は満足している。

麗江の町並みは、建物自体が古いものに合わせて新しく作られたものが多いとはいえ、美しいものである……が、その新しさが商魂と結び付くとそれはあまり気持ちの良いものには思えない。古い物の丁寧な修復であれば綺麗になっても雰囲気は自然と残るのだろうが、観光のために作られた感がこうも剥き出しとなれば単に美しいなどと喜んでもいられないのが実感である。夜は……特に雰囲気が台無しだ。でもこれらはすべて中国人自身のため、自分たちの多くが喜ぶ様につくられた訳で、外国人は残念に思うほかは無いのであろうか。この時僕はカシュガルのYHで会った上海出身のIT企業の若社長の言葉を思い出していた。

  -----麗江は何でも金、金だ。商売ばかりで面白くなかった。
  -----でもきれいな町並みがあるんじゃないの?
  -----雰囲気も何もあったもんじゃない。酷いもんだ。

確かに酷いもんだと思った。だいたい世界遺産の中にこういう盛り場を持ち込んでもよいのだろうか。彼らには古いものに敬意を払い長きに渡り受け継がれたものを今に伝えようという意識は無いのだろう。世界遺産だろうがが何だろうが楽しくやりましょうよそれが我々のやり方だ!と息巻く姿が目に浮かぶ。青や紫のキツイ照明、PAスピーカーから大音量で流れる割れた低音のリズム、少し外れた音調のボーカル。そんなもの、近くの新市街で楽しめば良いのではないか?と考えるのは僕が中国人ではないからです、はい。

 

新市街の方で安い食堂を探して夕食をとっていると、突然花火が打ち上げ始められた。結構な量を途切れることなく延々とそれも店の近くで打上げ続けているので、音がものすごく響く。初めは気にしていなかったが、途中から道に出ている人たちと一緒に店の外で見物することにした。これをみて、やはり中国人の感性は日本人のそれとはっきりと違うことを改めて認識した。消え行く儚さとか余韻を楽しむといった考えは彼らには無い。ひたすら連発して花火を打ち上げ、音と光で夜空と見る者を圧倒するといったやり方はどうみても上品には思えないのだけれども、それがストレートな中国的エンターテイメントの方法のようだ。

店に戻り残りの料理を食べ終える。食事は相変わらず何処でも美味しい。(12/27)

 

 

f:id:pelmeni:20170916171750j:plain

 

 

 

f:id:pelmeni:20170916171322j:plain

 

 

 

f:id:pelmeni:20160225014943j:plain

今だご健在のDr.Ho・和士秀先生(右端) 白沙鎮