オズベキスタン
タシケント、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ、国境(トルクメニスタン)
飛行機がタシケント上空にさしかかり高度を下げると、街を流れる運河の川面が目に付いた。絵の具を垂らしたようなはっきりとした水色だった。砂漠地帯を流れる川の水は透明感が少なくきれいに濁るそうだ。アジア中央部にはこの様な色をした川が多い。白っぽく乾いた山の岩肌と点在する細い樹木、そして水色の川。この後幾度となく目にする事となる中央アジア共通の風景が僕は好きだ。
パキスタンからウズベキスタンに着いて最初の感想は、何もかも薄いなということだった。むせ返るような人いきれも、旅人に対する隠しきれない好奇心もここでは感じられない。ソビエト時代に造られた新市街はよそよそしく、古くからある旧市街は土壁で閉じている。町から出れば、青々と繁る山の樹木や麦の穂ではなく、荒々しく乾いた岩肌と少ない樹木が支配的な風景と変わった。すべてにおいて淡い色彩だなと感じさせる按配なのである。
(まあ最大の違いは、女性の多くが良い匂いをふりまきながらオシャレして街中を歩くことではないかな?)
同じ人間という生物が地球上の様々な気候や地形の場所で、様々な社会や習慣の中で、多様なスタイルを持ちながら生活している。長い時間をかけて移動しながらそれらを自分の目で見る。ひとつひとつの違いや類似をみつけては一喜一憂する。
これこそが長旅の楽しさであると僕には思える。だから、一つの箇所に長く滞在するよりは、多くの場所を移動し続けるというのが僕が好む旅のスタイルである。
至る所に青いタイルが散りばめられているタシケント
地下鉄駅構内の装飾が見物なのだが、見張の警官が必ずいて写真撮影を見逃してくれなかった
外国人宿泊不可のホテルが多い中、泊ることのできたホテルロシヤ
外観も中身もソビエトスタイルの典型的なホテル。各階にジェジュールナヤ(フロアレディ)がいて鍵の管理をしている。フロントで両替を頼んだら地下階のボイラー室に連れて行かれ公定レートの3倍でくたびれた札の束をどっさりくれた(当時の闇レート)。真っ赤なミニスカのメイドが廊下ですれ違うなり話しかけてきた。「2000ソム(5米ドル)で今夜私とどう?」 部屋にフロアレディからいたずら電話?がよくかかってきた。言葉は理解できなかったが笑い声だけはわかった。僕の泊まっていた部屋は6階の道路側一番奥。一泊2500ソムは実勢で6米ドル前後。名前や見掛けから判るとおりそれなりのホテルでこの宿泊代… まあゴキブリ出たけどね… 建物自体はしっかりしているものの、内部は何処もとにかく古びている。いや~趣がありますな。以降僕が偏愛するようになった旧共産主義的ホテル、記念すべき最初の宿泊となった。
このホテルでも日本人旅行者U君に出会った。彼は「地球の歩き方 ロシア編」にあった中央アジアのページを切り取って携帯していたが、たった数頁しかなく内容もガイドというよりは単なる紹介。彼曰く、全く使えねーとのこと。中央アジアの日本語ガイドブックなんて、歩き方も旅行人ノートもまだ無かった。ロンプラだって 1st Edition だった。それでも後にもう一人日本人に会うことになる。(彼ともインドで二度会っていたw)オージー、ニュージー、ジャーマン、ジャポーネは何処にでも行くんだなと旅行者同士で話をした記憶がある。
タシケントは、そもそもソビエト時代は人口第4の都市なので、地域性というものはあまり感じられない。でも一部に残る旧市街は人工的な新市街とは対照的な中央アジアの町そのものである。町を歩いていると普通に話しかけられたことが何度かあった。ここではウズベク人やロシア人の他にも東アジア人の顔つきを持った人もちらほら見かける。彼等はスターリンの時代に沿海州から強制移住させられた朝鮮系の高麗人で、今でも旧ソ連の中央アジア地域で広く生活をしている。市場ではキムチも手に入る。このエリアの地理や歴史を探っていくと、複雑な事実が次々と目の前に起ち現れ本当に興味は尽きない。
シャシリクを焼く香ばしいにおいが市場に漂う
イスラムのタイル装飾の美しさに嘆息する
碧い色が大好きだ。中央アジアに来て自分の好みを再認識するなんて…
すごいもの見ちゃった 人間技とは思えない
成り行きでサマルカンドのバスターミナル内にある床屋で散髪 写真の若い理容師2人と手伝いの子 裁ち鋏みたいに大きな鋏でジョキジョキ音をたてて切られた。腕ですか? まあ男性の髪型なんてファッションの範疇に含まれない国のものでしたな!