もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'99アジア その10 トルクメニスタン1

当時のトルクメニスタン旅日記です (’98.4.16-20)

長かったので2回に分割しました。

 

 

 

●国境を越える

 -----このバス、トルクメニスタンへ行く?
 -----トルクメニスタン? あー、そんならタモージュネへいくんやなー
 -----タモージュネって何?
 -----カラクル、アラート、ほんでタモージュネ アフトーブスは向こうからや
 -----タモージュネ?

ブハラのバザール前にあるバススタンドで尋ねたところ、トルクメニスタン国境方面へのバスは別のスタンドから出ていると筆談を交えて教えてもらった。教えられた方向に5分位歩くと、確かにひなびた建物が目に入ってきた。でも全くひと気が無く、運行地図の描かれた時刻表が捨てられているかのように無造作に壁に立てかけてある。1時間に1本位あるようだが、誰もいないので確かめられない。

半信半疑で翌朝9時前に行くとミニバスが数台停って呼び込みを行っていた。普通のバスも奥に停まっている。ミニバスがすぐ出そうなのでそれに乗り込み、人数が揃ったところで出発。

アラートという町までは、幾つかの町を経由するものの、ひたすら一本道を進む。土壁で囲まれた田舎の民家、ぶどう棚のある町の長屋、砂色の地面に低い潅木。それ以外何も無い淡い色彩の風景が約1時間続いた。

町へ着くと運転手は800ソム(2$)でボーダーまで連れていってくれるという。タクシーで行ってもどうせ2、3ドルはとられるので、申し出にのる。20分で国境に着いた。ここには町は無く入管の建物がぽつんと建っているだけである。駐車場にたむろっている両替屋と余ったソムをマナートに替える。レートが悪いのはあきらめていたので、小額を許せるレートまで電卓で交渉して両替した。ゲームみたいなもので慣れてしまえばこれも旅行の楽しみのひとつになる。
ちょうど昼休みで係員が交代の時間らしく、新しい係員は仕事をしようとしない。僕を連れてきた係員が早くやってしまえというので険悪な雰囲気になる。頼むから、こんなところで喧嘩なんかしないでほしい。出国時はただでさえ緊張してるのだよ。皆軍服を着ているので、はたから見ていてちょっと恐い。
結局1時間後ということになり、建物2階にあるカフェでラグマンとアイランの昼食をとり、時間をつぶす。カフェと看板が出ていても中央アジアではほぼ単なる食堂である。
書類の確認だけで出国自体には何も問題は無かった。待たされる割にはあっけないのは、いつものこと。

 

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イミグレを出たところでタクシーが待っていた。その先へと続く道以外は、トルクメニスタンのイミグレどころか何も見えず、かなり距離がありそうだったので乗ることにした。トルクメニスタンのイミグレでは運転手が話をしてくれて、パスポートチェックのみ。<追記註;本当はここで税関申請の書類の作成提出が必要だったようだ>
陽が昇ったせいか、ブハラでは気にならなかった暑さが国境付近からはかなりのものとなっている。ほとんど砂ばかりの風景もそれに輪をかけて暑苦しかった。途中、アムダリヤの浮き橋を渡ったり、他の車と追い越し合戦をしたり、車はすっ飛ばし30分でチャルジョウ※駅裏に到着。この辺りのタクシーの運転手は皆おしゃべりで陽気なので、時間を感じさせないのが嬉しい。

 

※チャルジョウは現在トルクメナバートと改称されている

 

 

寝台列車でメルダンと出会う

混雑した駅の窓口で列車の切符を買う。構内にいたおばちゃんたちに助けられて何とかやりとりしたが、クペーというコンパートメントの席だった。

出発してしばらくすると夕方の西陽を浴びて室内が徐々に暑くなってきたので、仕方なく廊下に出るが、1車両に数個しかないキチンと開く窓に大勢人が群がっていた。げんなりする。トルクメニスタン鉄道車両は蒸し暑い。というのも大抵の窓は元々固定されて開かないか、壊れて開かないかのどちらかだからだ。パキスタンウズベキスタンと列車に乗らなかったので、流れる車窓を見つめるのは本当に久しぶりのことだった。でも、砂と潅木しか見えなかった。やがて陽は落ちた。

コンパートメントの客は老女と中年男性、僕と同じ歳位のビジネスマン、メルダンの4人だった。彼等は皆、初め僕のことをカザク人と思ったらしい。カザク人とはこういう顔をしているのだろうか<追記註;モンゴロイドらしい>。そのメルダン、交換留学生としてアメリカで学んでいた頃に日本語を少しかじったという。そこで早速忘れていた日本語のレッスンが始まった。言葉の解らない中にいた僕としては間がもつので助かった。しかしトルクメニスタンで日本語解る人がいるとは思いも寄らなかった。

やがて車掌がやってきて、切符とパスポートチェックが行われたが、書類が足りない、その書類が無いと次の駅でこの列車を降りなければならないという。その場はメルダンが何とか説得してくれて、事無きを得た。彼には感謝をしたがなんだか釈然としない。この辺りでは書類関係の不備は致命的だ。この国ではよくあるトラブルなんだ、とメルダンは言ってはくれたが。(足りなかったものは、やはり税関申請の書類だったようだ。出国時に判明する。入国時に自分で確認しなかったから。)

夜10時頃、マルイ到着。皆、駅のプラットフォームへ買い出しにでかけ、それらをコンパートメントの小さなテーブルに拡げて食事の時間。ナン、シャシリク、コーラ、サラダ、果物等々、隣の国と変わらない。

 

●メルダン家に居候?

朝早く車掌に起こされ目覚める。6時にアシュガバート到着。ホテルは決めていないというと、メルダンに家へ来いと誘われる。色々話をしてもう知らない仲でもないので、とりあえず好意に甘えることにした。
タクシーの中からみたアシュガバート市内は、緑の多い清潔そうな街だった。
メルダンは市内のアパートメントに兄弟姉妹4人で住んでいた。台所以外に2部屋しかなく、(それも1室はバルコニーを部屋に改装したものらしい)何だか邪魔するのも申し訳ない気がした。が、今更どうしようもなく、朝食をごちそうに なった。このへん、ずうずうしいね。
ここの家族はというと、メルダン・・農業政策関係の会社員、前述の経歴、弟バクバン・・フランス語学校の生徒、姉 (名前は失念、石という意らしい)・・警察署に勤務、独語が話せる、妹グルナース・・映画学校の生徒、英語が話せ る。この国では外国語、それも各国の言葉を喋れることが普通なのだろうか。

ゆっくりしていけと言い残し、メルダンは仕事に行ってしまった。さて、知らない人たちの中で、どうしよう。向こうも 困っているようだ。ロシア語は皆話せるが、僕は×、英語は皆話せるわけではないらしい。
急に眠くなってきた。

 

■後日談 ; タモージュネとは露語で税関の意味。出国時にはやはり書類が無いという理由でドルを要求され、ブルース・リーのまねしたり、さんざんごねたが話がつかづ、 最後に余っていた小額のマナート無理矢理押しつけて去った記憶が・・・

 

 

●100ドル

バクバンに街を案内してもらうことになった。
第一印象どおり、緑が多く清潔で落ち着いた街だった。人も車も多くなく、さわやかな印象さえ受ける。ただ、この位の規模の都市になればみられる繁華街というものがなく、どこが街の中心だか今ひとつわかりづらい。少し退屈するかもしれないな、とも思った。

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今やトルクメニスタン名物ニヤゾフ大統領の肖像画が、街の至る所に見られる。国や政府関係の建物には必ずあるとのこと。スロ-ガンのような

「Halk Watan Turkmenbashi <平和 祖国 大統領>」

の標記とともに、よく目についた。

 

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まず僕はここでとあるトラベルエイジェンシーへ行かなければならない。ブハラから頼まれたビザ申請のためのインビテーションレター代金を払うためである。
しか~し、彼等は100$を要求してきた。内訳はレター60$(緊急用の為、通常30$)手数料30$FAX代10$。これらを紹介してくれたブハラのエイジェンシーとシェアするといっていたので、普通にとれば、大体適当の値段だったようだ(といっても本当のところは判らない)。
領収証に記された数字を見たときには、予想外の金額に正直少し慌てた。旅に出て以来、飛行機代を除いてこれだけの金額をまとめて支払ったことなど無かったし、ここの物価に比べてちょっと不当な金額だと感じたからだ。
でもこれにはバクバンのほうが青ざめていた。あの社長はよくない、金にずるいよ。 ああ、そうだね、でもね、どこの国でもドルには目の色が変わるんだよ。
僕にとっては、100$という金額は結局のところ、日本での月給の数十分の一程度に過ぎないのだが、彼等にとっての100$とはその何倍にあたるのだろうか。仕方のないことだがあまりケロっとする気になれず、これはメルダンには内緒だ、と言いながら、神妙な顔をつくってエイジェンシーを後にした。

 

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その後、2人で街を散策。市場で昼食をとったり、黄金のニヤゾフタワ-を見に行ったりした。この頂部には黄金に輝くニヤゾフ像があり、太陽に向かって1日1回転するとのこと! 個人崇拝は滑稽にうつるが、いかがなものだろう。

塔のすぐ脇には真新しいギャラリーがあり、そこへ入る。1階の展示物は写真、1948年10月6日にこの街を襲った大地震の惨状である。往時のアシガバートは美しい街並みだったが、それが一瞬にして消え去り、人口の2/3が失われたという。美しいものほど理不尽と思わざるを得ない理由によって失われてしまうのも何度と繰り返されてきた地球の歴史の一部だ。そして復興。この街の、こう言っては失礼だが奥行きのないさわやかさがわかった気がした。
2階へ上がると、まずはでましたニヤゾフ氏の胸像。そして最近外国資本によって建てられた大きなホテルや商業施設、ギョク・テぺに建てられた大モスク等のきれいなカラー写真、つまり新生トルクメニスタンだ。バグバンはこれらはみな大統領がつくってくれた、という。個人のためのプロパガンダはあまり気持ちの良いものではなかったが、まあ2階はおまけみたいなものだろう。
バクバンは夕方から学校があるというので別れて、それからは一人で歩いた。

 

トルクメニスタン2へ続く>

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