もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。

過去旅'99アジア その9 トルクメニスタン

当時のトルクメニスタン旅日記です

 

 

 

●国境を越える

 -----このバス、トルクメニスタンへ行く?
 -----トルクメニスタン? あー、そんならタモージュネへいくんやなー
 -----タモージュネって何?
 -----カラクル、アラート、ほんでタモージュネ アフトーブスは向こうからや
 -----タモージュネ?

ブハラのバザール前にあるバススタンドで尋ねたところ、トルクメニスタン国境方面へのバスは別のスタンドから出ていると筆談を交えて教えてもらった。教えられた方向に5分位歩くと、確かにひなびた建物が目に入ってきた。でも全くひと気が無く、運行地図の描かれた時刻表が捨てられているかのように無造作に壁に立てかけてある。1時間に1本位あるようだが、誰もいないので確かめられない。

半信半疑で翌朝9時前に行くとミニバスが数台停って呼び込みを行っていた。普通のバスも奥に停まっている。ミニバスがすぐ出そうなのでそれに乗り込み、人数が揃ったところで出発。

アラートという町までは、幾つかの町を経由するものの、ひたすら一本道を進む。土壁で囲まれた田舎の民家、ぶどう棚のある町の長屋、砂色の地面に低い潅木。それ以外何も無い淡い色彩の風景が約1時間続いた。

町へ着くと運転手は800ソム(2$)でボーダーまで連れていってくれるという。タクシーで行ってもどうせ2、3ドルはとられるので、申し出にのる。20分で国境に着いた。ここには町は無く入管の建物がぽつんと建っているだけである。駐車場にたむろっている両替屋と余ったソムをマナートに替える。レートが悪いのはあきらめていたので、小額を許せるレートまで電卓で交渉して両替した。ゲームみたいなもので慣れてしまえばこれも旅行の楽しみのひとつになる。
ちょうど昼休みで係員が交代の時間らしく、新しい係員は仕事をしようとしない。僕を連れてきた係員が早くやってしまえというので険悪な雰囲気になる。頼むから、こんなところで喧嘩なんかしないでほしい。出国時はただでさえ緊張してるのだよ。皆軍服を着ているので、はたから見ていてちょっと恐い。
結局1時間後ということになり、建物2階にあるカフェでラグマンとアイランの昼食をとり、時間をつぶす。カフェと看板が出ていても中央アジアではほぼ単なる食堂である。
書類の確認だけで出国自体には何も問題は無かった。待たされる割にはあっけないのは、いつものこと。

 

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イミグレを出たところでタクシーが待っていた。その先へと続く道以外は、トルクメニスタンのイミグレどころか何も見えず、かなり距離がありそうだったので乗ることにした。トルクメニスタンのイミグレでは運転手が話をしてくれて、パスポートチェックのみ。<追記註;本当はここで税関申請の書類の作成提出が必要だったようだ>
陽が昇ったせいか、ブハラでは気にならなかった暑さが国境付近からはかなりのものとなっている。ほとんど砂ばかりの風景もそれに輪をかけて暑苦しかった。途中、アムダリヤの浮き橋を渡ったり、他の車と追い越し合戦をしたり、車はすっ飛ばし30分でチャルジョウ駅裏に到着。この辺りのタクシーの運転手は皆おしゃべりで陽気なので、時間を感じさせないのが嬉しい。

 

 

寝台列車でメルダンと出会う

混雑した駅の窓口で列車の切符を買う。構内にいたおばちゃんたちに助けられて何とかやりとりしたが、クペーというコンパートメントの席だった。

出発してしばらくすると夕方の西陽を浴びて室内が徐々に暑くなってきたので、仕方なく廊下に出るが、1車両に数個しかないキチンと開く窓に大勢人が群がっていた。げんなりする。トルクメニスタン鉄道車両は蒸し暑い。というのも大抵の窓は元々固定されて開かないか、壊れて開かないかのどちらかだからだ。パキスタンウズベキスタンと列車に乗らなかったので、流れる車窓を見つめるのは本当に久しぶりのことだった。でも、砂と潅木しか見えなかった。やがて陽は落ちた。

コンパートメントの客は老女と中年男性、僕と同じ歳位のビジネスマン、メルダンの4人だった。彼等は皆、初め僕のことをカザク人と思ったらしい。カザク人とはこういう顔をしているのだろうか<追記註;モンゴロイドらしい>。そのメルダン、交換留学生としてアメリカで学んでいた頃に日本語を少しかじったという。そこで早速忘れていた日本語のレッスンが始まった。言葉の解らない中にいた僕としては間がもつので助かった。しかしトルクメニスタンで日本語解る人がいるとは思いも寄らなかった。

やがて車掌がやってきて、切符とパスポートチェックが行われたが、書類が足りない、その書類が無いと次の駅でこの列車を降りなければならないという。その場はメルダンが何とか説得してくれて、事無きを得た。彼には感謝をしたがなんだか釈然としない。この辺りでは書類関係の不備は致命的だ。この国ではよくあるトラブルなんだ、とメルダンは言ってはくれたが。(足りなかったものは、やはり税関申請の書類だったようだ。出国時に判明する。入国時に自分で確認しなかったから。)

夜10時頃、マルイ到着。皆、駅のプラットフォームへ買い出しにでかけ、それらをコンパートメントの小さなテーブルに拡げて食事の時間。ナン、シャシリク、コーラ、サラダ、果物等々、隣の国と変わらない。

 

●メルダン家に居候?

朝早く車掌に起こされ目覚める。6時にアシュガバート到着。ホテルは決めていないというと、メルダンに家へ来いと誘われる。色々話をしてもう知らない仲でもないので、とりあえず好意に甘えることにした。
タクシーの中からみたアシュガバート市内は、緑の多い清潔そうな街だった。
メルダンは市内のアパートメントに兄弟姉妹4人で住んでいた。台所以外に2部屋しかなく、(それも1室はバルコニーを部屋に改装したものらしい)何だか邪魔するのも申し訳ない気がした。が、今更どうしようもなく、朝食をごちそうに なった。このへん、ずうずうしいね。
ここの家族はというと、メルダン・・農業政策関係の会社員、前述の経歴、弟バクバン・・フランス語学校の生徒、姉 (名前は失念、石という意らしい)・・警察署に勤務、独語が話せる、妹グルナース・・映画学校の生徒、英語が話せ る。この国では外国語、それも各国の言葉を喋れることが普通なのだろうか。

ゆっくりしていけと言い残し、メルダンは仕事に行ってしまった。さて、知らない人たちの中で、どうしよう。向こうも 困っているようだ。ロシア語は皆話せるが、僕は×、英語は皆話せるわけではないらしい。
急に眠くなってきた。

 

■後日談 ; タモージュネとは露語で税関の意味。出国時にはやはり書類が無いという理由でドルを要求され、ブルース・りーのまねしたり、さんざんごねたが話がつかづ、 最後に余っていた小額のマナート無理矢理押しつけて去った記憶が・・・

 

 

●100ドル

バクバンに街を案内してもらうことになった。
第一印象どおり、緑が多く清潔で落ち着いた街だった。人も車も多くなく、さわやかな印象さえ受ける。ただ、この位の規模の都市になればみられる繁華街というものがなく、どこが街の中心だか今ひとつわかりづらい。少し退屈するかもしれないな、とも思った。

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今やトルクメニスタン名物ニヤゾフ大統領の肖像画が、街の至る所に見られる。国や政府関係の建物には必ずあるとのこと。スロ-ガンのような「Halk Watan Turkmenbashi <平和 祖国 大統領>」の標記とともに、よく目についた。

 

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まず僕はここでとあるトラベルエイジェンシーへ行かなければならない。ブハラから頼まれたビザ申請のためのインビテーションレター代金を払うためである。
しか~し、彼等は100$を要求してきた。内訳はレター60$(緊急用の為、通常30$)手数料30$FAX代10$。これらを紹介してくれたブハラのエイジェンシーとシェアするといっていたので、普通にとれば、大体適当の値段だったようだ(といっても本当のところは判らない)。
領収証に記された数字を見たときには、予想外の金額に正直少し慌てた。旅に出て以来、飛行機代を除いてこれだけの金額をまとめて支払ったことなど無かったし、ここの物価に比べてちょっと不当な金額だと感じたからだ。
でもこれにはバクバンのほうが青ざめていた。あの社長はよくない、金にずるいよ。 ああ、そうだね、でもね、どこの国でもドルには目の色が変わるんだよ。
僕にとっては、100$という金額は結局のところ、日本での月給の数十分の一程度に過ぎないのだが、彼等にとっての100$とはその何倍にあたるのだろうか。仕方のないことだがあまりケロっとする気になれず、これはメルダンには内緒だ、と言いながら、神妙な顔をつくってエイジェンシーを後にした。

 

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その後、2人で街を散策。市場で昼食をとったり、黄金のニヤゾフタワ-を見に行ったりした。この頂部には黄金に輝くニヤゾフ像があり、太陽に向かって1日1回転するとのこと! 個人崇拝は滑稽にうつるが、いかがなものだろう。

塔のすぐ脇には真新しいギャラリーがあり、そこへ入る。1階の展示物は写真、1948年10月6日にこの街を襲った大地震の惨状である。往時のアシガバートは美しい街並みだったが、それが一瞬にして消え去り、人口の2/3が失われたという。美しいものほど理不尽と思わざるを得ない理由によって失われてしまうのも何度と繰り返されてきた地球の歴史の一部だ。そして復興。この街の、こう言っては失礼だが奥行きのないさわやかさがわかった気がした。
2階へ上がると、まずはでましたニヤゾフ氏の胸像。そして最近外国資本によって建てられた大きなホテルや商業施設、ギョク・テぺに建てられた大モスク等のきれいなカラー写真、つまり新生トルクメニスタンだ。バグバンはこれらはみな大統領がつくってくれた、という。個人のためのプロパガンダはあまり気持ちの良いものではなかったが、まあ2階はおまけみたいなものだろう。
バクバンは夕方から学校があるというので別れて、それからは一人で歩いた。

 

 

●ピクニック

本当はすぐにお暇しようと思ったのだが、翌日の日曜日はグルナースの誕生祝いで郊外にピクニックに行くからぜひ来てくれ、といわれたので滞在が伸びてしまった。でも本当は郊外のタルクーチュカ(サンデーバザ-ル)に行きたかった。アシュガバートではここくらいしか見所はないと思い、そのために日曜日を滞在に含めたのだ。僕がそう言うと、メルダンは午前中に案内をしてくれるという。
彼はとても親切だった。田舎のひとの素朴な親切さ、というよりはもう少し洗練された親切さといった感がある。一族郎党の頭であり、それにふさわしい人柄は皆に慕われるのもうらやましいかぎりである。

前日の夜は彼の従弟のアナーシュ(化学の教師といっていたがそれらしく少々理屈っぽい)を含め数人の親戚友人が集まり、夜遅くまでウォッカを飲み続け、僅かしか眠らずに当日の早朝家を出る。
やってきたバスは何と貸し切り。途中で友人達を拾い、結局そのバスが満席となるほどの人と荷物を載せて、郊外の山の中に入っていった。場所の名前は忘れた。そこには自然以外何があるわけでもないのだが、ピクニックに来る人達が大勢いた。
場所決めをしてから、僕はしばらくタルクーチュカのことなど忘れていたのだが、メルダンは僕を連れていってくれた。往きのバスが市内に帰るのに便乗させてもらうかたちだったが、このバス途中で客を拾っていた。何だか自由で良い。

 

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タルクーチュカは確かに広く、様々なものが売っていた。メルダンが買っていた靴下などの日用品から化粧品、民族帽、鮮やかなカーペット、はたまたエンジンのピストンにいたるまでの自動車部品、動物はラクダまで何でも売っていた。規模は大きく、人々の民族衣装は目が覚めるような華やかさだったが、喧騒や熱気のようなものは無かった。僕は彼に促されてサッカーボールを買い、ピクニックに持っていくことにした。 

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昼に戻ると、火を起こしてプロフをつくっていた。コーラと、もちろんウォッカがある。外で食べるゴハンってなんで美味しいんだろ。その後はバレーボール、サッカー、トランプ(七並べ、憶えてくれたかな)、山登り、料理づくり、大勢の人がいたのでどこかしらで何かが行なわれていて、退屈しなかった。日本の情報などあまり入ってこないと思われるのに、みんなそれなりに日本について興味をもっているのは何故だろう。やっぱり「made in Japan」の力は本当に強いのかねえ。
最後は乾杯の連続、これがウォッカで行なわれるので最後はへばった。僕も日本式のやつをやってみたが、当人のろれつが既に回っていなかったせいか、みんなよくわかっていなかった。
結構疲れたが良い思い出となった。予想もしてないことだったが、だからこそ旅は楽しい。こういう時間の過ごし方もなんか、いい。

 

●いつまでいるのだ

実は、僕はこの時家に一つしかないベッドを使わせてもらっていたので、少々気疲れを感じ始めていた。もう去らなければと考えていたのに、翌朝メルダンは昼までちょっと小金を貸して欲しいなんて言ってきたので、また滞在が自動的に伸びてしまった。

バスターミナルでサラフス行きのバスを確認した後、部屋に帰ると、グルナースが料理をつくっていた。小麦粉を練ったものを伸ばして切り、油で揚げて砂糖をかける。もうひとつは、パンと鳥肉とグリーンオニオンを混ぜて油で揚げたもの。どちらも、どこかで食べたことがあるようなないような味と食感だった。

この家にはテレビは無い。その代わりといっていいのか、音楽好きで、トルコで有名なエブラヒム・タトリセスやら昔懐かしのネーナから、ドイツ語や日本語の練習用教材まで、カセットテープをラジカセから常に流している。
食事は絨毯の敷かれた大きな部屋の中央にビニルのシートを敷き、そこで大皿に盛られた料理を囲んで座って食べる。家長が帰宅しないと食事は始まらない。
民族の生活様式は、それをとり囲むハ-ドが変化しても変わらないのだろう。

その晩もメルダンの帰りが遅く、食事は夜遅かった。その前に親戚のダフレットがやって来た。彼はグルナースと同じ学校のアクターコースに通う学生で、自分のことをデイヴィットと呼んでいた。英語は片言で上手くはなく、途中からグルナースが間に入っての会話だった。

 -----僕は日本の家、大きなや、屋根、が好きで、将来そんな家住みたい、建てて住みたいよ

気に入ったので財布に残っていた日本の10円玉をあげたらグルナースが嫉妬をした。ごめん、最後の1枚だったんだ。そんな彼は役者志望だけあってインド映画がお気に入りだが、Miss.Stone があんなもの嫌だと隣で顔をしかめていたのがおかしかった。ここへもインド映画は進出している。

メルダンとアナーシュが帰ってきたのはもう夜中。でもその後1時過ぎまで話は続く。もちろんウォッカ付き。翌朝5時半起床だということはわかっているはずなのに。

 

 

●さらば、アシュガバート

5時半起床、バクバンは昨夜帰って来なかった。メルダンとアナーシュと3人で静かに家を出た。駅まで連れていってもらって、タクシ-に乗り換えるところで、お別れとなった。
別れ際に軽く抱擁。別れはゆっくりと決めたかったが、何故か急いでしまった。急ぐ必要など、特に無かったのに。うまい言い回しが欲しかったが、頭に浮かんで来なかったので、最後はにっこり微笑んだ。さよなら、メルダンとみなさん、ふらっとやってきた闖入者に親切にしてくれて感謝してます。はっきりと言葉では伝わらなかったかもしれないなあ。でも、列車の中で出会えて、よかったよ。
別れは寂しい。僕にできることは、残った思い出を忘れないことだけ。

 

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再び後日談 ; 恩をあだで返すとはこのことか~。実は滞在中借りていた部屋の鍵を返し忘れてしまった。ごめんなさい!テヘランGPOから送りましたが、届いてますか?

 

 

●ビザについて --- 当時の話です

10日有効観光ビザ 31米ドル インヴィテーションレター必要 タシケントの大使館にて即日発行 

レターはウズベキスタンのエージェンシー経由で現地のエージェンシーに頼んだ。おかげで手数料がかさんだ。レターが無ければ3日有効のトランジットビザとなるが代金は同じ。入国日(有効開始日)、入出国地点、滞在場所を管理される今となっては古典的なビザ。国内の重要会議開催のため国境が閉まり、おかげでウズベキスタンビザを苦労して延長する羽目になった。

 

 

 

●写真について 

撮り終えたコニカローム(ポジフィルム)をイスタンブールで現像に出したところ、間違ってネガ現像されてしまった。カートリッジに現像プロセスの番号は記されていたのに判らなかったのか? コニカロームは街中で普通に売られていたぞ。
というわけで、スキャン時にどうにか見ることのできるレベルまで色を修復しました。総天然色っぽくみえるのは、だから、悪しからず。 でも SilverFast は有能!