もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'98ヨーロッパ その2 ブダペスト

Feb. 1998 ブダペスト

  

ミラノから夜行列車に乗りウィーンへ向かった。ヨーロッパで夜行はたいていクシェットを利用した。学生の頃の旅では4日連続列車で夜を過ごしたこともある。この時の切符は下段、上段はブラジルから旅行に来た女の子だった。何か少し話して南駅で別れた記憶がある。航空券がウィーンアウトだったため、この日は立ち寄らずミッテ駅横にあるバスターミナルに直行してブダペスト行きのバスに乗った。たった3時間である。気が付けばバスは広いドナウ河を渡るところで、程なくして街のど真ん中にあるバスターミナルに着いた。現在のネプリゲットターミナルはまだなく、デアーク広場横に窮屈に混み合う長距離バスターミナルがあった。

 

f:id:pelmeni:20171025213725j:plainブダ側から国会議事堂を望む

 

 1

 

民主化の始まった旧東欧諸国では、他所からの旅行者も以前より往き来が容易になりました。 しかし、西側諸国と違いそれまでがそれまでだったせいか、気軽に泊まることのできる安宿など観光地ですらあまり多くありません。
ただ自宅の空き部屋を手頃な金額で旅行者に貸すことは「プライベート・ルーム」と呼ばれ昔から行われており、 その後東欧を安く旅できるようになったバジェットトラベラーにも利用されています。 宿主自ら駅やバスターミナルに客引きに行ったり、または町の観光事務所に登録といった具合に地域によりそのあり方は様々です。

ブダペストに日本人の個人旅行者が集まり始めたのは、地理的条件が良く(中欧の真ん中、ウィーンから3時間)、 元々先進的な文化を持っていた都会のため一通りのモノがそろっており、そんなところにもかかわらず当初は物価が非常に安かったため、 そこそこ快適に過ごすことができる居心地の良い場所だったせいと思われます。

 

おっと、それ、違いましたね、すみません。


おそらく最大にして唯一の要因は、一人の女性が上記プライベート・ルームを開いていたことでしょう。 彼女の名前をとって ”テレザハウス” と呼ばれたこの宿に何時頃から日本人が泊まり始めたか等、昔のことは知りませんが、 かなり多くの旅行者がこのブダペスト版「民宿」 を利用してきました。 ネットの世界にも、かつてここに宿泊した元旅人が大勢いらっしゃるようです。

二室ある部屋にベットが10台くらい置かれ、そこでは合宿のような生活が各人好き勝手に行われていました。 いわゆる「ドミ」(ドミトリー)です。当初はヨーロッパ唯一の日本人宿として、バックパッカーから学生、短期旅行者、 放浪カメラマン、 怪しい職業の人等々さまざまな旅人(一応そういっておく)がここを通り過ぎていきました。

今のように何処にいてもPCやスマホで情報が得られる時代ではありません。 特にメディアに載ることもなく、旅行者間の口伝えや情報ノートだけでその所在が広まっていった訳です。 西から東からこの東欧の薄汚れた都会にやってきて恐る恐るたどりついた宿は、、、エキセントリックな女主人テレザのもとに、 ここだけエアーポケットの如く日本が時空を越えてふわっと現われたかのような、不思議な場所でした。
旅人にとっては孤独感なんて慣れたものですが、それでも実は心身共に堪えている時もあります。 しばらくの間日本語を話すこと無く旅を続けていた人もいます。この生暖いパラレルワールドに流れ着き、 意識的にも無意識のうちにも 「沈没」してしまうのでしょう。

 

 

f:id:pelmeni:20171025220338j:plain3階向かって右側に「民宿」の看板あり

f:id:pelmeni:20171026000224j:plainテレザとはこの人

 



宿泊者のほとんどを常に占めている日本人のことをテレザがどうみていたのか、僕にとってはいまだに謎です。 親愛の情を示す時も(稀に)あれば、 小馬鹿にしているような態度をとる時も(結構)あったと記憶しています。

・騒いでいるとよく「…ジャパニーズ … 、ピーピーピーピー …」なんて馬鹿にするような口ぶりで部屋に入って きましたが、 本当にたしなめられていたのか半ばからかわれていたのかは不明です。多分その両方でしょう。
・午後1時~5時頃までは掃除のため部屋から締め出されます。 結局外へは行かずに玄関ポーチのテーブルで話しの続きを始めたりするのですが「ブダペスト、ルックルック!」 なんて言葉とともに追い出されます。まあ、言わんとしていることは解るのですがねえ、 できないもんはできないんですよ。 
・たまにつくってくれるグヤーシュの味に何故あれほど喜んだりしたのかも謎です。 多分催眠術でもかけられていたのだろうと思いたい。
・そして散らかしたモノは「フィニーシュッ」と叫びながら勝手に捨てられてしまうことも度々ありました。 非常に迷惑と思いました。

ああ、いろいろ思い出してきた!(笑)

僕は彼女に対して基本的にはドライな印象を持っています。直接話をする機会が多くなかったことは、 今となっては少々悔やまれます。 まあ話が通じたらのことですけどね。 この点は5年後にだらだら滞在することになる別のプライベート・ルーム※とは印象が少し違います。

 

※ヘレナハウスとかマリアハウスとか… わかる人にしかわからない名前ですね

 

 

f:id:pelmeni:20171025231204j:plain

 

玄関ポーチ横より、昼なお薄暗い中庭を見下ろす。
新たな旅行者の姿を見掛けると手を振って招いたものです。

 

 



僕がテレザハウスに漂り着いたのは ’98年2月のことでした。 今思えばその後の人生に影響を与える滞在になったわけですが、当時はそんなこと知る由もありません。

ここで出会った人達といえば、番頭さんと呼ばれる長々々期滞在者とか、もう4年もの間日本に帰っていないとか、 この街に3週間のつもりが既に3ヶ月とか、ブダペストでつくった愛人を日本に連れて帰ろうと画策している貿易商氏とか、 ちょっと買い物に行くといい実は女を買っていた自称19歳医大生とか、床に寝袋で寝ている(その方が宿泊費が安い) 既に半年滞在の香港人とか…
いやはや、何が何だかわからないまま彼等とともにディープな時間を過ごしたわけです。そして受けた印象も強いものでした。僕が心を奪われた人たちは、日本での日常的な常識から外れたところに存在していましたが、 彼らと接していると、各人のキャラクターはさておき、長きに渡り旅の空の下で眠るということが 目眩するほど魅力的に思えて仕方なかったのです。
同じ体験をすべく時期を改めて長期旅行に出かけることを直ぐに決めました。

ただ、海外旅行なんて長くて1~2ヶ月だと常識的に思っていた人間は、 こんな世界など知らない方が良かったのかもしれないと思うこともあります。
僕はそれほど堅実な人生を歩むことを指向していたわけでもないのですが、結果的にこの後自分の進んだ方向がそれまで考えていたものとズレていったのは確かです。 というのも、しばらくの間旅というものが自分の中で大きな割合を占め過ぎ、 色々なことを中途半端のまま無為に過ごしてしまった。 得られたものが多かった半面、得られなかったものもまた多かったというのが今振り返ってみての実感です。 それで良いのか自問することも時々ありました。まあ人生なんて概してそんなことの繰り返しではありますがね。

たまに思うのですが、彼の時点でテレザハウスに行くことがなければ…  それでも遅かれ早かれ何らかの形をとり旅の空の下に飛び出ることになったでしょう。仮定について今更考えてもしようがない。結局はこうなる運命にあったのだと思います。あの薄暗い玄関ポーチや当時の汚れた裏通りの光景を思い出すたびに、 懐かしいんだか寂しいんだか重苦しいんだか等、色々と綯い交ぜになった感情が呼び起こされ、正直なところ、何ともいえない気持ちになるのでした。

でも、今となっては「懐かしい」以上に適切な言葉は思いつきません。僕自身歳をとりました。あれから更に幾らかの時間を生きて多くの出来事を経験し、おかげでもう遠い過去の一頁に過ぎないのですが、それでも自分としては忘れることのできない一頁です。

 

f:id:pelmeni:20171025233030j:plain

夜はこんな感じで、適当な時間が来たら消灯だけどそれもメンバー次第…
長野オリンピックのジャンプもこのベッドに寝転び眺めていた

f:id:pelmeni:20171025215540j:plain夕方のブラハルイザ広場前交差点

 

<以下、余談です>

翌年予定通り半年かけてアジア横断旅行をしましたが、 これは普通に有意義に楽しむことのできた旅でした。
その後は気持ちが旅から離れ、自分の生活を建て直すことに腐心していました。一時的に普通の日常に満足し、 ごく普通の人生を送ろうとしていたようです。 (でも普通の人生ってナンだろう。正直いまだにわかりません。)
ところで空手には「3年殺し」という技があるそうです。文字通り3年経った頃に技が効いて死に至るというものです。 僕の場合は5年経って間違いなく技が効いて来ていることを実感しました。当然の結果です。
急にいてもたってもいられなくなり、有り金かきあつめて旅立ちました。
まあ悩み多き年頃で(いつでもそうみたいだけど)理由は色々あったのですが、この時の冬のヨーロッパ、 特にブダペストに戻ってみたいという後ろ向きな気持ちを持っていた事は、否定しません。 日常生活とは何のしがらみもなく完全に自由で、 そして居心地の良い疑似共同体のような時間と空間がそこに在ったと記憶していました。
もちろん上記の再訪だけが目的ではなく、急ぐつもりもなく、使うことのできる時間目一杯で種々雑多なものをひたすら見て廻ろうと野心に燃えた旅立ち (……かなり誇張)は、 2003年4月のことでした。 

 


ただ残念なことに、テレザは既にがんで亡くなっていました。