もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。

'04南米 その11 サンパウロで年越し

 

マナウスという街は、現在変わったかわからないが、当時はほとんど陸の孤島と呼んでもよい場所だった。広大なジャングルのど真ん中にあり、道路は北方のベネズエラ方面にしか通じておらず、国内の他の主要都市とは繋がっていなかった。そのため長距離バスの運行は限定的で、大抵の移動はアマゾン河の利用か飛行機しか術が無い。帰路に今までたどって来た経路を再び戻るなんて奇特な行為はいくらなんでも考えられないので、ここはサクッと飛行機で次の目的地まで飛ぶ。迷いは無かった。そもそも普通の旅行者ならマナウスへは往きも帰りも飛行機だろう。

延々と拡がるアマゾンの密林を眼下に眺めながら感慨に耽った。5日もかけてひたすらゆっくりと船でやって来たところを(更にそれ以前の移動も含めれば何日かかった?)たった数時間でブラジリア、サンパウロへとひとっ飛びなのである。苦行の様な移動からようやく開放される嬉しさや満足感の中に、若干の虚しさが紛れ込んでいた気がした。でもこれは典型的な「長旅あるある」でしょう(笑)。ブラジルの大きさがリアルに実感できたことも含めて。

 

 

 

f:id:pelmeni:20190226175743j:plainBoas Festas!  日本のどこかの街といってもまったく通じそうな風景

 

 

そうして着いたサンパウロ、リベルダージの日本人街はそこだけ時空を超えて日本がぽっと出現したような場所だった。当時は中国人や韓国人は少なく日本人の町。中華エリアは他にあった気がする。近くの中華料理店で食べきれない量の料理を出された記憶がある。

 

年末。日本とは時差がちょうど12時間ある。NHK衛星放送の紅白歌合戦が放映されるのが当地では12月31日の午前中。それを見終わって街に出る。リベルダージの広場では餅つきが行われており、その横には即席テント張りの「南米大神宮」なるものが設えられていた。宮司さんにお払いをしてもらい御守が配られ、つきたての紅白餅もふるまわれる。日系人を含む現地の人々や旅行者が列をつくり待つ姿は、なんとも日本的な光景にみえた。

 

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紅白餅はすぐに頂いたが御守は今でも大事に保管してあります

 

 

新年といえばカウントダウン。ここサンパウロでも盛大に行われる。普段の日なら夜間に地下鉄に乗って外出なんてする気にもなれないのだが、この日は大丈夫だろうと思いパウリスタ大通りまで出かけた。人通りも多く地下鉄も混雑していて、これだけの人出があれば逆に危険は少ないと思えた。

 

f:id:pelmeni:20190226235135j:plainFeliz Ano Novo!  花火が打ち上げられる

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路上ディスコ状態を期待したが彼等そこまで能天気じゃありませんでした。失礼!

 

 

日を改め正月らしく静かな「日本の」町を歩く。ここは見かけはともかく、町を成立させているシステムが日本のそれとほぼ同じで、一通りの商店が揃っている。多少怪しくても日本語が基本的に通じる店は多かった。マクドナルドハンバーガーの看板もカタカナ表記。スーパーでは普通に弁当や寿司、おにぎりが売られている。ロッテコアラのマーチぺんてるのボールペンも多少値は張るが入手可能だ。夕食に店構えも内装も日本のものと変わらないとんかつ屋の暖簾をくぐる。そこではカウンター越に店の人と馴染の客が「親がずぼらで私の日本人の申請をしなかったからパスポートが無くていろいろ大変なのよ、もういいけど」なんて会話が普通に日本語で行われている。目の前のとんかつはコロモもカリッと揚がっていてキャベツも山盛り。ここは何処なんだ。

日本人街というものは、実際その中に紛れてしまうととても不思議な感覚だ。

 

 

この時滞在した宿はペンション荒木。<世界3大日本人宿>なる括りがあるのならば確実にその一角を占めたであろう有名な宿(残りは何処?)。日本人移民の荒木さん夫婦が経営を始めた宿で、親父さんは既に亡くなっており、当時は確かお婆ちゃんと女性のお手伝いさんが切り盛りしていた。ほぼ住み込んでいる現地の日系人を除けば泊り客は皆日本人長期旅行者/バックパッカー

たまたま新年だったこともあり、元日に皆で集まりお手製の菓子や巻寿司を頂いたりと日本人らしく和気あいあいとした時間だった。時期が時期だけにこのような雰囲気を求めて来たわけで、楽しい思い出として今でも憶えている。

宿泊環境については今となってはあまり言うことはないな(笑)。当時から、何を好んでこのような宿で皆長居するのか不思議でならないという気持ちが半分、それでもやっぱり集まってしまうのだなという気持ちが半分だった。もっと安くて快適な宿はあったはずなんだけど、長々と居続けてしまう多くの人のことを、僕は理解できるんですよ。なんせこの前年にブダペストという薄汚れた街に気がつけば計3か月近くも滞在していたので……。

旅自体は楽しくても、言葉は通じない・食事もいつも口に合うとは限らない・移動も常に大掛かりとなれば、どんな変わり者の旅行者でも、目の前に慣れ親しんだ「日本」が現れれば飛びつきたくなるだろう。日本での日常のシガラミとは隔絶された時間を本当に自由に生きていることを自覚しているのかいないのかはともかく、そうして何もすることが無くても幾らでもずるずると目的無く滞在するなんてこと、できる人はできるのです。エアーポケットに嵌った様な感覚、一時的な現実逃避なのかもしれない。まあ長旅ならそれも吉かな。

 

空きが出たので途中で移った部屋は普通だったがその分料金が少し高かった。こちらには旅行者ではない人も幾人か泊まっていた。ベットの周りを私物で囲み、平日はサンパウロで働いているため泊まり込み週末自宅に帰るという日系人。同じ部屋なので会話をするのだが、普通に日本語で話すことが最初は妙に思えたが、考えてみれば何も不思議なことではない。

小学生の頃僕は、短波付のラジカセで海外放送の他にNHKの国際放送も時々聞いていた。「かぞえうた」のインターバルシグナルから始まる日本語放送を一体誰に向けて放送しているのだろうかとその頃は漠然と思っていた。乏しい知識しか持ち合わせていない子供には知る由も無かったが、今ではわかる。遠く離れた場所で生活していても、日本人の社会で生きている限り本国との繋がりが途切れることはないのだろう。海外在住の日系人や日本人にとって、衛星放送もない時代にはリアルタイムでの本国との繋がりはラジオ放送が唯一のものだった。今はTVをつければ、その日の出来事も料理番組も少し遅れるが朝の連続テレビ小説も届けられ多くの人々が共有できる。至極当然のことの様に皆視聴していた。ネット時代は既に到来しており、情報の享受は更に幅がひろがり容易になることを当時既に感じていた。

日本の文化会館の類の施設では、来訪者にも分かりやすい説明で移住の歴史等知ることができる。そのような場所で幾らかの時間を過ごし多少なりとも理解が深まった頭で、かつて日本から海を渡った多くの人々のことを思い巡らした。彼らは今後もいろいろな形をとりながら世代を越えて各地に根を張り続けるだろう。

地球の裏側に日本の方を向いている人たちは常にいる。今も昔も、これからも。

 

 

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ブラジル国内最後の移動はサンパウロからフォス・ド・イグアスまで。終いくらい奮発して最高級クラスのバスを選んだら、座席はゆったりと大きく隣の無い1×3列、まるで歯医者の診察みたいであまり落ち着けなかった。椅子の背はほぼ水平まで倒すことができ快適だ。でも、何だかなあ、と思いながら、これもこれで思い入れの多かったブラジルのバス旅最後の思い出。帰国時にまた戻る予定だが一応これで見納め。