もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'05旅 その2 アゼルバイジャン

コーカサス1 > アゼルバイジャン   ●Jul. 3-10, '05

 

→ バクー → シェキ → カフ → グルジアへ陸路出国

 

 

 

 

 

f:id:pelmeni:20190721175438j:plainタシケント→バクー・ウズベキスタン航空機内食(昼食) 当時はインスタなんて無かったので食事をいちいち写真に撮る人は少なかったと思います。僕もそうでしたが、機内食だけはスケッチしたりデジカメを使い始めてからは撮ることが多くなりました。今思えばもっと撮っておくべきでしたが、当時はまだ食意地が張っていなかった。料理はその国の文化と密接に繋がっている、などという重要なことを理解するのはたいてい旅行後です。

 

この頃はバクーの空港でアライバルビザを入手可能だったので、40USドルで購入しました。僕が最初に会ったアゼルバイジャン人はビザの申込用紙記入時に話しかけてきた職員でした。彼が言うには「おまえはここで50ドルを払わなければならない」らしい。この手の輩はよくお目にかかるので指を振って一言「向こうへ行け」。

 

アゼルバイジャンについて思い浮かべることといえば、石油とナゴルノカラバフ紛争でした。

バクーの石油は大昔から知られていました。ペルシア湾で油田の掘削が始まるまでは世界の産出量の大半を占めていましたが、世紀の変わる頃には既に地上の油田は枯渇が始まっていました。ソ連崩壊~独立後の経済低迷期を経て、カスピ海中に新油田が発見され、この旅行時は新たな発展がちょうど始まった時期だったでしょうか。現在は第2のドバイとか言われているようです。さすがにモノカルチャー経済に頼る政策は脱却して多角化に進む方針も先達と同じ様です。有名なフレイムタワーは一度見てみたいですね。当時からバクーの繁華街は他のCIS諸国の首都よりも垢抜けた雰囲気でしたが、富が集まる場所は経済だけでなく文化も発展します。それはバクーの成り立ちや歴史をみれば明らかです。新市街に建つ帝政ロシア時代の今となっては趣のある建物も「元祖」オイルマネーの産物です。

紛争については、まあ宗教と領土が絡んで諍いが起こると奇麗に解決することはまず無理ですね。食堂で地元の若者たちに声を掛けられ少し話をしたのですが、僕がこの後アルメニアに行くことを知ると、急に態度を変え語気を荒げ去ってゆきました。多分、おめえアルメニアなんて行くんじゃねえよ馬鹿野郎っ、てところでしょう。こちらは余計な事を言ってないので、単にアルメニアに対しての憎しみを抑えられなかったのでしょうが、実は当時このようなことは頻繁に起きるとの情報は流布していたので、やはりそうなんだなと納得した記憶があります。気分は良くなかったですけど。

 

さて気を取り直して街歩き。まずはイチェリ・シャハルへ。壁に囲まれた旧市街はいつもの如く狭い道が迷路のように入り組んではいますが、隣接する新市街と特別かけ離れた世界を持っているわけではありませんでした。周囲を囲む帝政ロシア時代の街もよく見ればアゼリー色に染まった街区そのもので、時代が少し古いせいかタシケントの様なあからさまな分断は感じられません。新しい街区の建物にも様々な意匠がみられます。半屋外で道路にオーバーハングしているベランダやバルコニー、壁面の控えめな装飾、植物が無造作に絡み朽ち、雑然とした雰囲気を作っているのも不思議といえば不思議です。帝政時代の建物には控えめな気品が感じられ、ソビエト的不愛想な集合住宅もネオクラシシズムな威圧感たっぷりの公共建築、その他よくわからない物も含め、はっきり言えば何でもありの無国籍ワールドっぽい感じは見ていて飽きなかったです。

 

f:id:pelmeni:20190724021122j:plain

f:id:pelmeni:20190724021145j:plain

f:id:pelmeni:20190724021212j:plain

f:id:pelmeni:20190723050522j:plain

f:id:pelmeni:20190724021255j:plain

f:id:pelmeni:20190725013859j:plain

f:id:pelmeni:20190724021330j:plain

f:id:pelmeni:20190724021349j:plainこの建物が何だったか思い出せない… ※わかりました ニザーミー文学博物館

f:id:pelmeni:20190724111618j:plain政府庁舎 趣味の悪さは非常に社会主義リアリズム建築的

f:id:pelmeni:20190724030234j:plain新しいコンクリート舗装には貝殻が混じっていた ということは海砂を使っている? その証拠に所々茶色く錆が浮いている ちょっと信じられない


f:id:pelmeni:20190724021442j:plainいやー暑かった ニャンコもグッタリ

 

 

あまりの暑さに冷房付きの部屋のあるホテルに移ったものの、我慢できずにシェキという山の近くの町へ逃げるように移動しました。

シェキはロシアに征服されるまでは独立した領主(ハーン)に治められ、絹の産地だったので経済的にも繁栄していました。この町にはハーンの宮殿や隊商宿が残っています。

 

ハン・サラユ 

シェキのハーンの宮殿と城塞 細部まで装飾が施され非常に美しい建築物

f:id:pelmeni:20190726095200j:plain

f:id:pelmeni:20190726095216j:plain

f:id:pelmeni:20190726100446j:plain

f:id:pelmeni:20190726101146j:plain

f:id:pelmeni:20190726101738j:plain夏はスイカの季節です

 



 

その後カフという小さな町でバスを乗り継ぎ、グルジア(当時)のテラヴィへ直行しました。

一つ心配だったのは、ちょうど1か月前から日本人がグルジア入国に際し3か月滞在ならビザ不要になったことを、担当の役人が知っているかということでした。当時は旧ソ連の国はどこでも国境役人が腐っている前提で対処しなければなりませんでした。案の定窓口の人間はこのことを知りませんでしたが、上司に確認後特に問題無く入国できたので一安心。

この国がビザフリーとなったのは個人旅行者にとっては大きなことでした。アゼルバイジャンアルメニアは仲が悪いので国境は開いていません。アルメニアとトルコも仲が悪いので国境が開いていません。グルジア出入国が自由になり移動ルートの決定も楽になったのでした。安宿のベッドの上で地図を眺めながら今後の道順について頭を悩ます時間は、それはそれで楽しいものです。

 

f:id:pelmeni:20190726102258j:plainかなりボロいけれど可愛らしいアフトーブス(乗合バス)

f:id:pelmeni:20190726103002j:plainバスターミナル内のチャイハナ、カフ  親父だけの昼下がり