もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'05旅 その6 トビリシ散景

コーカサス5 > グルジア(現ジョージアトビリシ ●Jul. Aug. 2005

 

 

 

スマホやデジカメの進化が写真撮影の在り方を変えたということは、自身の体験としてはっきりと実感できるものです。スマホの画質やデジカメ記録媒体の容量の小ささに苦心していた頃は、枚数なんか気にせずメモ代わりに使う現在の撮り方なんて夢みたいなものでした。僕は特に写真を趣味にする程ではありませんでしたが関心は持っていました。それでも今思えばリミッターが掛かったような気分で撮影していたような気がします。

昔の旅の写真を何度か整理して分かったことですが、滞在の長さや印象の強さのわりには撮影枚数が非常に少ない場所があるのです。何度も通った大通りや公園、広場、記憶に未だ新しい町並みなど当然撮ってあるのだろうと調べてみると、すっかり抜け落ちているのがわかってがっかりです。それは大抵だらだらと滞在している場所です。観光気分を忘れ去り、リラックスしていたのか気が抜けてしまったのか… そのうち撮ればよいと思いながら結局忘れてしまうのでしょう。ただ、ひとつ確かなことは、そこは本人とても気に入った場所なんですよ。制限が無ければ長く滞在してみたいと思わせるような魅力的な場所。ポルトもそう、ブダペスト然り、バンコクですら、そしてトビリシもそれほど長く居たわけはありませんが、僕にとってはその種の場所でした。鉄道駅付近も市場もルスタヴェリ大通りも共和国広場も何度も往復しました。川沿いの風景も気に入っていたと思いますが、写真には何故か残っていません。

 

 

さっそく散策に出かけます。川沿いに長く続く市街地はまわりを小高い丘に囲まれています。こういう地形の街は良い所が多いこと経験上知っていますが、やはりその通りの場所でした。

周囲の列強が次々にこの地を制覇しては去っていった土地です。そのたびに文化が積み重ねられ、それが地層のように表出している様が興味深く、このような都市は街歩きが楽しいものです。気が付けばいつのまにか旧市街に足が向かっていたなんてことが幾度もありました。

 

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ソビエトの贈り物~旧共産圏の首都によくみられる典型的な建築物 たいてい「科学アカデミー」を名乗っているがここも同じなのだ プロポーションは良い

 

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壁面は語る

f:id:pelmeni:20190827192314j:plainやっぱり此処もスイカの季節です

f:id:pelmeni:20190825185509j:plain旧ソ連地域独特、奈落の底へ落ちていくような地下鉄の高速エスカレーター

f:id:pelmeni:20190825185527j:plain皆さん荷物が多いようで

f:id:pelmeni:20190827200247j:plainこれは何様式?

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f:id:pelmeni:20190827191506j:plain丸っこいバスの見掛けはかわいいが内部はたいてい…

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郊外の丘陵地に屋外博物館がありました。これは北欧、東欧でよくみかける公園施設で、国内各地から移設された住宅や展示をとおしてそれぞれの地域の文化風習に親しんでもらおうというもの。 好きなのでアクセスが良ければたいていの街で訪れます。

f:id:pelmeni:20190825210929j:plain新市街をのぞむ丘の中腹にある

 

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f:id:pelmeni:20190825211247j:plainf:id:pelmeni:20190825211313j:plain家屋の一つに”Cat Heaven"なる看板が掛けてあり猫がたくさん飼われていた 何故ここに? 

 

 

トビリシ鉄道駅からほど近い町中の一角、鉄柵の大きな扉を開いて中庭に入るとすぐ左手にある鉄の階段を上った二階にその宿があります。プライベートルーム、通称「ネリ・ダリの家」。姑のネリと息子一家とが住む住居内の数室にベットが置かれ旅行者を泊めています。この時は夏休みで嫁のダリは子供を連れて里帰り中、ネリ婆さんと彼女の息子の親父二人だけでした。宛がわれた部屋は蔵書で一杯だったので尋ねたところ、亡くなった爺さんは教師で物腰の柔らかい息子(もう親父)はエンジニアだが失業中とのこと(この辺記憶が少し曖昧です)。英語を知りたいらしく旅行者から教わっていましたが、相手は日本人ですけどねえ。当地ではインテリのようですが仕事は無く、日々得られる宿泊費を家計の足しにしているということでしょうか。グルジアもなかなか経済が立ち行かない国です。

旧東欧では昔から行われていたプライベートルームは、家の鍵も渡され出入り自由に使わせてもらえるところからベッドが無造作に置かれドミトリー(相部屋)状態まで様々です。ただ一般の民家にお邪魔するわけで、家の人とは常に顔を合わせることになるのはどこでも同じです。そういう習慣の無い日本人にとっては慣れるまでは不思議な感覚なのですが、安く泊まることに対して背に腹は代えられない旅をしている人にとっては非常にありがたいシステムでした。居心地の良い家主の評判はすぐに広まり、情報として共有されることになります。

それほど裕福でない庶民的な家庭の場合が多く、個人的にはそういう普通の人とお話したり生活を垣間見ることに興味がありました。ここのネリ婆さんも言葉は全く通じず、お互いに話し始めても会話になっていないのですが、気が付けばコミュニケーションが成立しているという本当に不思議な人でした。文句を言ってるのだか話があるのだかよくわからないまま何か喋りながら僕らの前を通り過ぎたりすることもありました。簡単な食事を作ってくれたこともあったので満更嫌われていたわけではないと思いたいです。親父共々元気だろうか。

旧東欧辺りでは90年代後半頃でも気の利いたホステル(YHではない)などというものは限られた存在で、僕の知っている限りでは2002,3年頃から増え始めた感があります。プライベートルームがバックパッカー達によく利用されたのもコマーシャルなツーリズムの波が押し寄せる前の言わば安宿空白時代。今は安くて居心地の良い宿はどこにでもあるので以前ほど話題にはならなず、敢えて泊まろうとする外国人旅行者もいないことでしょう。商売気のあるところはゲストハウスに転換した話も聞きます。当時もネット予約サイト等は既にありましたが、あくまで有名な街や観光地に限られたものでした。片田舎ではまず現地に行かなければ始まらなかった。今からみればすべてが昔話です。

 

f:id:pelmeni:20190826034827j:plainネリとはこの人

f:id:pelmeni:20190826035218j:plain猫が子供を産んだばかりで育てていた 仔猫の色や柄が全部違う! 

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初日に泊まっていた日本人旅行者は世界全ヵ国制覇を目指している人で、あと数か国ということでした。すごい人もいるものですが本人はいたって普通の人。1日だけでしたが久しぶりの日本語で夜遅くまで話しました。その後トルコで再会しました。

翌日発った彼と入れ違いにやって来たのは3人の日本人旅行者です。少し恐れていたことですが、やはりだらだらした時間が始まりました。2人程度であればそうでもないのですが、4-5人が集まると一気に日本の緩い空気がその場に立ち現れるのは、いつものことです。

僕の案内でまた旧市街へ街歩きに行きました。この街は本当に楽しいです。目にとめるものが多くいつでも飽きません。地元の人も皆さんノリが良いので時々巻き込んでは楽しい時間を過ごしました。



f:id:pelmeni:20190825214558j:plain陽気な街の人とすぐに打ち解ける東洋人

f:id:pelmeni:20190827034712j:plain夕食にポピュラーなヒンカリ 大味な豚まん モモやボーズに近いかも 皆起源は一緒です… 

 

僕は酒をあまり飲みませんが、ビールやワイン飲むんだったらウォッカやラキアをちびちびの方が好きという変な人間です。多分この頃の旅行体験が嗜好に多大なる影響を与えているのだと思います(笑)。スターリンが愛したといわれるワイン、フヴァンチカラも美味かったです。

見所はあるし、食べ物も酒も美味しい。物価は安く、人々も陽気。グルジアいろいろヤバイ(今風に)ところだな、何であまり知られないのだろうというのが当時の印象です。