もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'05旅 その4 グルジア、アルメニア教会巡り #2

コーカサス3 > グルジア(現ジョージアアルメニア その2 ●Jul. 21-26, '05

 

→イェレヴァン→ゴリス→

 

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古代のアルメニア王国キリスト教を国教とした初めての国として有名ですが、その後は東ローマ、ペルシア、トルコ、ロシア等の列強に支配され、現在の共和国として独立したのはソ連崩壊後のことです。首都イェレヴァンの起源は古くからのもので、第一次大戦後の混乱期に人口が増大し、その後の都市計画に基づき現在の街が形成されました。地図をみる限りではこの街の形態にはそそられますね…、でも地上歩いている分にはわかりません。広場や公園が広く街路樹も育ち、ぶらぶら歩く際の気持ち良さは安定のソビエトタウンです。まあ単なる僕の好みですが。中心部には赤っぽい色の石を使った建物がまとまって建ち目を惹きます。

街自体というよりは近郊に見所があるので、それぞれ日帰りで訪れました。

 

ホルヴィラップ修道院

旧約聖書ノアの箱舟が流れ着いたアララト山を背景に、絵になる光景

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f:id:pelmeni:20190810142821j:plainアララト山と小アララト山 でもどちらもアルメニアでなくトルコ領

 

■ガルニ神殿

ヘレニズム時代の建築 大規模に改修されているため少々奇麗すぎるが見事な造形 突き出すように切り立った崖の上に建つのは、元々が太陽神ミトラのための神殿であるためか

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■ゲガルド修道院

こちらは岩肌に囲まれた崖の中腹にある

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f:id:pelmeni:20190810153002j:plain結婚式が行われていた

 

この日はバスやタクシーを乗り継ぎ、ホルヴィラップ→ガルニ→ゲガルトと一日で回り切りました。こんなに効率良く動くことのできる一日はそれほどありません。スイス人と日本人の組み合わせでなければ無理だったでしょう。多分。

 

f:id:pelmeni:20190811123641j:plain蒸し暑さ100倍の乗合バス

 

 

 

 

エチミアジン

アルメニア正教の総本山。一緒に訪れたフランソワは、入口から中を覗いた途端に眉をひそめて一言、

 ------- 中には入らない。外で待ってるよ。
 -------??
 ------- 人が多すぎて嫌だ。こういうバチカンみたいなところは好きじゃない。

彼はプロテスタントのスイス人だった。プロテスタントは皆宗教に関わる華美を忌み嫌うのだろうか。そんな彼でもグルジアのとある教会では膝までのショートパンツを履いていたため入場禁止をくらっていた。よくわからないが日本でいう宗教的基準とは異なるものがあるのだろう。はるばる東の果てからやって来た非キリスト者は、バチカンエチミアジンもリッチで華やかな部分は好きである。宗教的な精神世界から離れて純粋に即物的な興味を持てる。彼らの文脈の外で生きる余所者はある意味自由だが、本質的な理解をできるかはまた別の話。

ちなみに、訪れたなかで一番良かった教会は二人ともサナヒンで一致しました。

 

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宗教の中心地や総本山が、多くの人が集まるせいかあまりストイックでない雰囲気なのは、意外だが世界中多くのところで同様です。ここも大勢の訪問者でごった返していました。

 

 

宿近くにライブバーを見つけたので夕食後に二人で入ってみる。しかし演奏が始まると思わず目を見合わせてしまった。特にボーカルものはカラオケ以上ではなく、まったく金をとって良いレベルではなかった。フランソワはギター弾きで音楽にはそこそこうるさい。彼のギターの先生は昔スイスへコンサートに来たジミ・ヘンドリックスの生演奏をみたという。僕もそのあたりは好きなので話が合った。ここも娯楽が少なさそうだというところで二人の意見は一致。

 

泊まっていた宿は街中の集合住宅の一住戸を利用したゲストハウス。従業員のお姉さんは英語も上手いし性格も楽しいので僕らはファニーガールと呼んでいた。でも管理人のおばちゃんによれば、彼女は大学で外国語を学んで卒業したが就職できずにとりあえずはこの宿に身を寄せているようなものだという。カラバフ戦争は終わったもののアゼルバイジャンやトルコから経済封鎖されロシアも当時はそれほど他国に構っていられない状態、アルメニア社会も不況が続いていた時期でした。確かアルメニア人の60%が国外に離散したディアスポラで、当時から彼らによる援助も含めて国が成り立っていると聞いていました。多分今でも同じでしょうが、少し不思議な、でも興味深い国ではあります。

最後に挨拶をしたかったけど、時間が朝早くてまだ眠っていたので起こさずに宿を発ちました。しばらくの間何だか気になっていた女性でした。

 

 

次の目的地はゴリス。町自体は小さく見所は無いが、直線状に行き交う道路の街路樹が青々と繁って気持ち良いところでした。この町も近くのタテヴ修道院へ行くために立ち寄ったようなものです。バス停でやはりタテヴに行こうと車を探していたポーランド人旅行者のピョートルと知り合い、近くに停っていたタクシーを3人でシェアして大きな荷物を持ったまま乗り込みました。

 

■タテヴ修道院

人里を離れ高い崖の上に建つ孤高の存在。周りは深く切り立った渓谷と山地 教会は当時修復中

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f:id:pelmeni:20190812202844j:plain周囲を見下ろす高地を車は進む

 

さてフランソワのバカンスもタイムアップとなり、彼とはここでお別れ。帰りは飛行機を使って帰るということでした。僕の好みは基本的に一人旅ですが、たまには連れがいるのも悪くはありません。時にはコミュニケーションがままならないこともありましたが、まあまあ気は合ったのでしょう。共通の話題もあり、派手好みでもなく金銭感覚も同じくらいだったので、行先や宿探し、飯屋も特に問題無く決められました。そもそも何をするにも選択肢の少ない地域でしたが…。面倒に感じることも互いに(多分)少なく、旅を楽しめたと思います。ただね、彼は背が高いんですよ。歩幅が大きくて歩くの早いんでそれだけは大変でしてね………。

 

”Keep your mind open ! ”

泊まっていた居心地の良いホステル・ゴリスの前で彼を見送りました。手を振り彼が口にしたのは、今も昔も繰り返し交わされるこの言葉。旅の別れにこれ以上合う言葉は無いでしょう。

 

Keep mind open していなければ旅する意味ないですね。

Keep mind open でも普段から常にそうありたいものです。

当時のことを思い出すたびに、忘れていないか自問します。

 

 

 

 


 

'05旅 その3 グルジア、アルメニア教会巡り #1

コーカサス2 > グルジア(現ジョージアアルメニア その1 ●Jul. 10-21, '05

 

陸路入国→テラヴィ→トビリシ→国境→アラヴェルディ→デリジャン→

 

 

 

国境では自分で手続きを終え無事入国。テラヴィまで行く同じバスに再び乗り込みました。でもなかなか出発しない。他の乗客に聞いたところ、国境少し手前から乗り込んで来た大勢の買出しのオバちゃんたちが持ち込んだ物を税関でチェックするのに時間がかかり、またそれに対して支払う十分な金を持ち合わせていないので揉めているらしい。話が済むまでは静かな山の中で何もすることなくただ待つしかありません。

結局バスは薄暗くなってから出発、テラヴィに着いたのは夜の9時過ぎでした。

 

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テラヴィはこの地方の中心地だがあまり大きくはない町。周囲にはワインをつくるための葡萄畑が広がっている地域です。夏だからか夕方になると目抜き通りや広場に人が集まって来て、夜遅くまで楽しそうにしていました。アラヴェルディ、グレミ、イカルト等近くにある教会巡りの拠点の町です。それぞれミニバンの利用で訪れることができます。

 

ここからしばらくの間は教会巡りに徹する旅になりました。グルジアアルメニアとも好ましい意匠の古い修道院や聖堂が数多く残っています。保存状態は様々でしたが、概して手入れが行き届いている程ではないが放置されているわけでもないといった状態で、こじんまりとした規模も相まってどこも素朴な印象を受けました。興味の無い人には皆同じに見えるのでしょうが、僕は好きです。質素な造りの教会の薄暗い身廊をゆっくり歩くと静かな反響に包まれ心が落ち着きます。派手で何事にも過剰な南米の教会とは真反対の印象でした。

 

■アラヴェルディ大聖堂

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イカルト修道院 

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■グレミ教会

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f:id:pelmeni:20190727024121j:plainゲストハウスは食事付 サラダを一口食べたところで撮影

 

泊まっていた宿でスイス人旅行者のフランソワと知り合い、その後しばらくの間一緒に移動することになりました。彼は時計会社で働くエンジニア。一か月の休暇で、スイスからバスを乗り継ぎ陸路はるばる此処までやってきたという。毎年バカンスをとることのできるヨーロッパ人は本当にうらやましい限りで、彼に限らず旅先で会ったそういった人たちを思い出すと今でも涙が出そうになります。

 

トビリシにはフランソワは既に滞在しているうえ、僕も再び戻ってくる予定なので、この時は長居せずにすぐアルメニアへ向かいました。その前に彼の希望でダヴィトガレジという自然の洞窟や岩をくり抜いてつくられた修道院に日帰りで行ってみました。 

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こちらがフランソワ

 

 

 

 

f:id:pelmeni:20190727114127j:plainサダフロの国境  

意外にも多くの人々が行き来する国境でした。周囲に市場が広がっているせいでしょうか。国境を越えて隣国へ買物に行く人って世界には意外といます。ビザを国境の事務所で取得しアルメニアに入国。

 

 

国境からもバスを乗り継ぎ、まずはアラヴェルディへ。この町は近くに散在するアルメニア教会訪問の拠点です。道路はデベド渓谷の谷底を伝い走ります。かなり山深いこともあるのでしょうが、結構寂しい雰囲気です。単にひなびた雰囲気なら旅情も多少は感じますが、さびれた光景が続けば言葉も自然と少なくなります。乗合バスの傷み具合、沿道の色褪せた家並、野菜や果物を売る女性、西日の差した情景、多分誰もが同じような印象を感じ取ったことでしょう。

泊まったホテル・デベドも管理人のおばちゃんはとても親切なのですが、いかんせん建物は荒び断水時間は長く各部のメンテナンスもままならない状態でした。ベッドに自分の寝袋を敷いていましたから。暖房も無いようで、夏で良かった。

アルメニアに限らずコーカサスの田舎には今ほど旅行者が訪れる時代ではありませんでした。ゲストハウスがある所は良い方で、プライベートルームをみつけられないと、運が悪ければソビエト連邦時代からの古びた「廃墟のような」ホテルに収監される(笑)ことになります。何処へ行くにも道路の舗装状態は悪く、これまたソビエト時代に作られた自動車の乗心地なんて一周廻ってスゴイって言いたくなるものでした。ただ、その不便さ故に今でも忘れられず印象に残っていることも事実です。

旅なんて楽に越したことはないのですが、想定外の事態に驚くなんて避けることのできない長旅の一頁です。大抵は面倒なことです。ただ日常から遠く離れてわざわざ知らない町や山間や水辺をほっつき歩くのですから、非日常上等!ってなノリで何でも受け入れていました。精神的な疲労はあまり嬉しくはないのですが、まあ、それも旅。

今GoogleMapでこのエリアを見ると、ホステルやB&B、食事処のマークがいくつもみられます。ということは、とりあえず行ってみても宿や食事の心配は無いということです。それだけに因るわけでもありませんが、当時の旅行者が此処で感じていたであろう日常からの距離感のようなものはあまり感じられないでしょう。いつの時でもその場に行けばその場の楽しみがあるわけで、余計な事に気をとられず観光を楽しめるのは良いことです。ただ僕がアルメニアの北部を旅していた際に微かに感じていた哀愁のような色合いは、もう残っていないかもしれません。あのそこはかとなく感じられる物悲しさこそ常に通奏低音の様に心の中で響いているものでした。楽しい出来事と対になるその感覚が存在したからこそ、旅の時間に奥行きが生まれ愛おしさといった感情も生じたのだと思います。

 

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f:id:pelmeni:20190727132110j:plainデベド川越しにアラヴェルディの町と大きな銅の精錬工場を見下ろす ホテルのある対岸の町は高い崖の上にあり下の町とはロープウェイで結ばれている

 

 

■サナヒン修道院 

素朴な外観と力強い柱廊、樹木に囲まれた静かな佇まい。アルメニアにいる間はひたすら教会巡りをしていたが、結局最初に訪れたここが一番印象深い。

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■ ハグパット修道院

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ヴァナゾルという町でマルシュルートゥカ(乗合ミニバン)を乗り換えデリジャンまで来ました。ここは旧ソ連時代はリゾートでいろいろな芸術家も集まった山の中の町です。日本で言えば軽井沢みたいな所かな? 町自体は小さく人もあまり見掛けませんが、近くのアルメニア教会を訪れるための拠点になります。宿の紹介で車をチャーターしました。

 

■ゴシャヴァンク

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■ハガルツィン修道院 

ロケーションは最高に良い山間の小さな教会 

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いよいよ首都のイェレヴァンに向かいます。途中のセヴァン湖にも教会があるので立ち寄りました。空が広く気持ちの良い休憩になりました。

■セヴァナバンク

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'05旅 その2 アゼルバイジャン

コーカサス1 > アゼルバイジャン   ●Jul. 3-10, '05

 

→ バクー → シェキ → カフ → グルジアへ陸路出国

 

 

 

 

 

f:id:pelmeni:20190721175438j:plainタシケント→バクー・ウズベキスタン航空機内食(昼食) 当時はインスタなんて無かったので食事をいちいち写真に撮る人は少なかったと思います。僕もそうでしたが、機内食だけはスケッチしたりデジカメを使い始めてからは撮ることが多くなりました。今思えばもっと撮っておくべきでしたが、当時はまだ食意地が張っていなかった。料理はその国の文化と密接に繋がっている、などという重要なことを理解するのはたいてい旅行後です。

 

この頃はバクーの空港でアライバルビザを入手可能だったので、40USドルで購入しました。僕が最初に会ったアゼルバイジャン人はビザの申込用紙記入時に話しかけてきた職員でした。彼が言うには「おまえはここで50ドルを払わなければならない」らしい。この手の輩はよくお目にかかるので指を振って一言「向こうへ行け」。

 

アゼルバイジャンについて思い浮かべることといえば、石油とナゴルノカラバフ紛争でした。

バクーの石油は大昔から知られていました。ペルシア湾で油田の掘削が始まるまでは世界の産出量の大半を占めていましたが、世紀の変わる頃には既に地上の油田は枯渇が始まっていました。ソ連崩壊~独立後の経済低迷期を経て、カスピ海中に新油田が発見され、この旅行時は新たな発展がちょうど始まった時期だったでしょうか。現在は第2のドバイとか言われているようです。さすがにモノカルチャー経済に頼る政策は脱却して多角化に進む方針も先達と同じ様です。有名なフレイムタワーは一度見てみたいですね。当時からバクーの繁華街は他のCIS諸国の首都よりも垢抜けた雰囲気でしたが、富が集まる場所は経済だけでなく文化も発展します。それはバクーの成り立ちや歴史をみれば明らかです。新市街に建つ帝政ロシア時代の今となっては趣のある建物も「元祖」オイルマネーの産物です。

紛争については、まあ宗教と領土が絡んで諍いが起こると奇麗に解決することはまず無理ですね。食堂で地元の若者たちに声を掛けられ少し話をしたのですが、僕がこの後アルメニアに行くことを知ると、急に態度を変え語気を荒げ去ってゆきました。多分、おめえアルメニアなんて行くんじゃねえよ馬鹿野郎っ、てところでしょう。こちらは余計な事を言ってないので、単にアルメニアに対しての憎しみを抑えられなかったのでしょうが、実は当時このようなことは頻繁に起きるとの情報は流布していたので、やはりそうなんだなと納得した記憶があります。気分は良くなかったですけど。

 

さて気を取り直して街歩き。まずはイチェリ・シャハルへ。壁に囲まれた旧市街はいつもの如く狭い道が迷路のように入り組んではいますが、隣接する新市街と特別かけ離れた世界を持っているわけではありませんでした。周囲を囲む帝政ロシア時代の街もよく見ればアゼリー色に染まった街区そのもので、時代が少し古いせいかタシケントの様なあからさまな分断は感じられません。新しい街区の建物にも様々な意匠がみられます。半屋外で道路にオーバーハングしているベランダやバルコニー、壁面の控えめな装飾、植物が無造作に絡み朽ち、雑然とした雰囲気を作っているのも不思議といえば不思議です。帝政時代の建物には控えめな気品が感じられ、ソビエト的不愛想な集合住宅もネオクラシシズムな威圧感たっぷりの公共建築、その他よくわからない物も含め、はっきり言えば何でもありの無国籍ワールドっぽい感じは見ていて飽きなかったです。

 

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f:id:pelmeni:20190724021349j:plainこの建物が何だったか思い出せない… ※わかりました ニザーミー文学博物館

f:id:pelmeni:20190724111618j:plain政府庁舎 趣味の悪さは非常に社会主義リアリズム建築的

f:id:pelmeni:20190724030234j:plain新しいコンクリート舗装には貝殻が混じっていた ということは海砂を使っている? その証拠に所々茶色く錆が浮いている ちょっと信じられない


f:id:pelmeni:20190724021442j:plainいやー暑かった ニャンコもグッタリ

 

 

あまりの暑さに冷房付きの部屋のあるホテルに移ったものの、我慢できずにシェキという山の近くの町へ逃げるように移動しました。

シェキはロシアに征服されるまでは独立した領主(ハーン)に治められ、絹の産地だったので経済的にも繁栄していました。この町にはハーンの宮殿や隊商宿が残っています。

 

ハン・サラユ 

シェキのハーンの宮殿と城塞 細部まで装飾が施され非常に美しい建築物

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f:id:pelmeni:20190726101738j:plain夏はスイカの季節です

 



 

その後カフという小さな町でバスを乗り継ぎ、グルジア(当時)のテラヴィへ直行しました。

一つ心配だったのは、ちょうど1か月前から日本人がグルジア入国に際し3か月滞在ならビザ不要になったことを、担当の役人が知っているかということでした。当時は旧ソ連の国はどこでも国境役人が腐っている前提で対処しなければなりませんでした。案の定窓口の人間はこのことを知りませんでしたが、上司に確認後特に問題無く入国できたので一安心。

この国がビザフリーとなったのは個人旅行者にとっては大きなことでした。アゼルバイジャンアルメニアは仲が悪いので国境は開いていません。アルメニアとトルコも仲が悪いので国境が開いていません。グルジア出入国が自由になり移動ルートの決定も楽になったのでした。安宿のベッドの上で地図を眺めながら今後の道順について頭を悩ます時間は、それはそれで楽しいものです。

 

f:id:pelmeni:20190726102258j:plainかなりボロいけれど可愛らしいアフトーブス(乗合バス)

f:id:pelmeni:20190726103002j:plainバスターミナル内のチャイハナ、カフ  親父だけの昼下がり

 

 

 

 

'05旅 その1 出発/タシケント

Jul. 1-3, '05

 

出発

 

南米を旅したおかげで知見が拡がり、せめて地球半周くらいしなければ自分の旅人生を終えることはできないと考え始めたら妄想が止まらなくなりました。自分があちこちに飛び回り永遠に旅人であり続けることができたらどんなに素晴らしいことなのだろう…。でもさすがにそれは妄想で止めておかなければなりません。ひとまず次が最後の旅とすべくプランを考え始めました。

北米や中国オージーには当時興味があまり無かったので、残るはアフリカか中近東。そこで以前すっ飛ばしてあまり滞在できなかったトルコを回った後南下してエジプトまで。その先はその時の気分次第で。トルコの前に地続きのコーカサスを。頭の中でおおまかなルートが繋がりました。

そこでアゼルバイジャンのバクーまでのチケットを探しました。でもそんなマイナーな旧ソ連の国への航空券なんてアエロフロートのモスクワ乗継しかないかな、多分高いんだろうなと思っていたところ、ネット上でコーカサスへ就航しているウズベキスタン航空を扱っている旅行会社を見つけました。嬉しいことにタシケントでの72時間ストップオーバー可でした。料金も安かったのでビンゴ!な気分になり申し込み、上機嫌でウズベキスタン大使館へ観光ビザの申請です。99年に続いて二度目の滞在になります。ウズベキスタン航空の利用も2度目(前回はラホール→タシケント)ですが、日本就航便は止めたり復活したりで長続きしない印象があります。今は具合良いのかな。

当時は国内で正規料金以外の航空券を買おうとすれば、旅行会社扱いの往復航空券しかありませんでした(片道チケットは存在したが非常に割高)。長旅の場合帰国便は捨てる他なく、それはその後問題になりましたが、他にやり様は無かったです。

 

●旅行期間:2005年7月~2006年1月

●行程:出国 → タシケントS.O. → アゼルバイジャン → グルジアアルメニア、ナゴルノカラバフ → トルコ → シリア、レバノン → ヨルダン → イエメン → ヨルダン、イスラエル → エジプト → インド → (バングラデシュ) → ミャンマー → タイ、カンボジア → 帰国

 

 

 

タシケント再訪

 

成田から発った機内には多くの日本人乗客が乗っていて賑やかでしたが、殆どがどうやらイスタンブール行のツアー客だったようで、タシケントの空港でトランジット待合室でなく入国手続きに向かった日本人は数人でした。この空港の利用も2回目なので勝手知ったる何かです。前回はてこずった税関申告も問題無く済ませ無事入国。建物を出て右手のトロリーバス乗場へ。ホテルが集まっているところで下車し、あたりをつけていた宿に空き部屋があったのでチェックイン。無駄のない移動、最初くらいはこうありたいものです。

まずは前回の滞在の追想へ。

 

f:id:pelmeni:20170727093033j:plain前回99年に泊まった懐かしのホテル・ロシヤ すべてはここから始まった

f:id:pelmeni:20190707185853j:plainそれが何とこの様な建物に変わっていた。名前も垢抜けた「グランド・ミール・ホテル」へ変更。外資系でしょう。でもよく見ると建物の建っている場所も規模もほぼ同じ。ということは現地改装の可能性が大ですね。大きな交差点に面していてトラムやトロリーバスの行き違いが部屋から飽きずに眺められたのですが、写真向かって右手奥に向かう中心街へのトラムは既に廃止されていました。新しいホテルはデザインが見れば見るほど残念です。

 

タシケント旧ソ連第4の都市ですが、観光する場所はそれほど多いわけでなく、歩くことを厭わない人にとっては殊更広い街ではありません。前回の記憶を頼りに地図を見ながら歩いたりトラムに乗ったりしました。

 

しかし暑い。日本の様な湿気は無く、乾いた、ジリジリとくる暑さです。

 

 

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街中にある集合住宅の妻面に奇麗なタイルワーク


腹ごしらえに市場へ。中央アジアの常でしたが、街中にカフェと看板を掲げている店があってもほぼ単なる食堂です。メニューは大抵プローフ(昼のみ)、ラグマン、シャシリクのお決まり3点セットが中心。コーヒーを頼んでも不思議な顔されます。何とNESCAFEの看板が出てる店ですらコーヒーなど無かったです。何故だ? ここの飲み物はチャイ≒日本のほうじ茶。それもポット1杯もれなく付いてきます。

昼時なら市場内の食堂が安くて新鮮で美味いのだ。

f:id:pelmeni:20190710013027j:plain青いタイルのドームが印象的なチャルス市場

かつてのタシケントは、ここチャルス市場を中心とした旧市街とボズス運河東側にロシア人が作った新市街が隣接していたが、1966年に起きた大地震後の大規模な再開発で昔ながらの旧市街は大分小さくなってしまった。中央アジアらしく土壁で閉じた旧市街と道路や公園が整然と整備されたロシア的な新市街の対比は、やはりここでも興味深いものです。

 

f:id:pelmeni:20190710021344j:plainウズベクの英雄アミール・ティムール像

 

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ナヴォイ劇場。第二次大戦後に強制連行された旧日本軍の抑留者が建設に参加した旨が記された碑文が取り付けられている。敢えて捕虜という言葉を使わないのは当時の大統領の意だそうです。

 

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f:id:pelmeni:20190713015329j:plain国立応用美術館。古代からロシア支配以前までの伝統芸術品等がウズベク各地から集め展示されている。伝統的な装飾のある邸宅に増築改装したもので、個人的に好きな場所の一つ。

 

 

タシケントは個人的な思い入れのある場所でした。初めて訪れたのは1999年の事ですが、それまで訪れた西欧や東南、南アジアといったある意味既知の情報に担保された場所とは違い、中央アジアは当時はまだよく知られていない所。僅かな情報を頼りに好奇心のみで飛んで行ったようなものでした。その最初に降り立った場所です。旧ソ連地域の旅人に不愛想な諸々の話は当時から知られ、警戒心や猜疑心を持ちながら最初の数日間を過ごしたのも今となっては笑い話です。言葉とか風習とか未知の文化の場所に自らを投げ込み反応を確認するといったリアル版のゲーム感覚に自分の旅の時間を重ね始めたのは、その99年の中央アジアが最初だったと思います。

 

パリやローマを再訪するのとは違った感慨をこの時は持つことになりました。6年経ち、旅ずれした自分にとってはどの様にみえるのか。そんなこと考えていたので純粋な気持ちで歩き回っていたわけではありませんが、面白い経験でした。都会なので多かれ少なかれ変化はあるものだと思っていました。目新しい色鮮やかな看板が増えたことは一目瞭然です。数少なかった商店が小規模ながらも増え、店番の少年が片言の英語を喋るなんて思いもよらないことでした。雰囲気が貧相で寂しかったGUM(国営百貨店)やTsUM(中央百貨店)といった施設は衰退したりショッピングセンターに変わっていたりしていました。新たに作られたスーパーマーケットも短期間で閉鎖されていたり、古いホテルが軒並み改装されていたり、路面電車が部分廃止されていたり、相変わらず娯楽は少なそうで、、、その他にも、まあ細かく見れば新しい経済の荒波を確実に受けた痕跡は見受けられました。外資が入ってきたりこの頃は色々変わって行った時期でしたが、僕は街が変化することについては肯定も否定もしない派なので、そういうものなのだろうと平然を装っていた気がします。それでも相変わらず賑わう市場や旧市街など変化の少ない所に迷い込めば、やはり懐かしさを感じほっとするものです。タシケントの街そのものよりは、前回の未だ初心だった自分の行動やら心の揺らぎやらを思い出すことの方が支配的で、多少感傷的になった滞在でした。ま、最初なのでいいでしょう。

 

旧遊の地を再訪する際はアンビバレントな感情を必ず抱きます。良い面は、以前の楽しい思い出が蘇ること。以前と変わらぬ光景を目前に当時を追想しながら幸せな気持ちに浸ることができます。悪い面は、以前の楽しい思い出が永久に失われてしまったことを知ること。変わってしまった光景を目前にかつて過ごした時間はもう自分の記憶の中にしか存在しないことを知り嘆くのです。たいていはその相反する要素が混ざり合っているものです。どちらも当然といえば当然のことなのですが、非日常の心には受け入れる準備や余裕が無いこともあります。一介の旅行者としてはただ眺めたり受け入れるしかありません。それを楽しむも惜しむも本人の気持ちの持ち方次第なのですが、長く旅をすればするほどそのような機会は増え、次第にこだわりの気持ちは少なくなってゆきます。これは自分の実感です。たいていの場合、ヴォネガットではありませんが「そういうものだ」と心の中で呟くしかなくなります。実は旅の時間なんて程々にした方が良いのでしょう。

 

 

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 前回の旅日記(回想)です。

pelmeni.hatenablog.com

 

 

 

 

'04南米 その13 南米の旅は終わるが気分は上の空

 

 

さてブエノスアイレスを思うように動けなかったのは、時間が無くなってしまったことのせいだけではありません。

前回プエルトイグアスの川で泳いで問題が起きたと書きましたが、思いもよらぬ事に足をすくわれたのです。それは、、、「日焼け」!。僕は特段敏感肌ではありません。ただ、日焼けには弱い。普段から露出していた首筋や腕などは問題無いのだけれど、いきなりの南米の強烈な日差しには、背中や肩などの生っちろい肌はたった2時間ほどでも耐えられませんでした。BsAs到着の翌日くらいからヒリヒリは痛みへと変わり、街歩きをしようにもバッグは手で持たなければならず、Tシャツが肌と擦れるだけでもいちいち気になって仕方ありません。自由に動き回る気が起きなくなり、最低限決めたところ以外には足も運ばずカフェでぼうっとしてました。

それでも後が押しているので次の場所へ移動しなければなりません。ピークは過ぎたものの痛みはまだまだあり、普段どおりバックパック担いで移動など無理無理無理。でも背負う他はないので、手を後ろに回して下側から少し持ち上げながらヒョコヒョコ歩くしかありません。本当に痛くて涙が出そうになった。街中で近い距離なのに仕方なくタクシーを使ってフェリー乗場へ。ブエノスアイレスウルグアイモンテビデオは街同志がフェリーで直接繋がっているのでこれには助かりました。大きな荷物は搭乗時に預けるシステム。日本人は入国にビザが必要無いので面倒な手続きも必要なし。

入国後これまたタクシーで宿の近くまで。こちらも普段なら問題なく歩く距離なのですが、この日は切羽詰まっていて躊躇せず楽を取りました。宿に着きシャワーを浴びるため服を脱いだら、両肩とも物の見事に皮膚が赤く腫れ水膨れになっていて、片方は破れてました。自分の旅史上最低(最悪ではないw)の思い出の一つです。

でもウルグアイを諦めてブエノスでゆっくりとする考えは無かったです。ウルグアイにはとりあえず行きたかったので。

 

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そもそも何故ウルグアイなのか。

ウルグアイとの最初の出会いは、僕が学校出てすぐの仕事場でアルバイトのウルグアイ人留学生、モンテビデオ出身のセルヒオ君と知り合ったことです。実はこの男、まったく野菜を食べなかった。食事に誘ってもビザに入っているトマトやピーマン、玉ねぎ等ひとつひとつすべて取り除き食う様には驚き、尋ねればポテト以外の野菜は口にしないという。当地ではそれが普通なのか聞きそびれたが、おかげで「ウルグアイ」という名前は頭の片隅に残り続けることとなったのです。

……いや、実際のところは、サッカー選手のアルヴァロ・レコバの印象の方が強かったかな、そうだ、そっちの方だ。サッカーの世界ではウルグアイナショナルチームは古豪です。

 

実際のモンテビデオのレストランではやはり野菜が食べられることはない… なんてことはなく、ブエノスアイレスと同じように巨大な牛肉に大量の野菜サラダが付け合わされる。肉料理はシンプルなBBQが基本の様で、油分も良い具合に落ち意外と量を食べられる。塊が大きいのは筋や骨など食べられない部分もいちいち分けることなくサーブされるからであり、日本の過保護なおもてなしとは違う食文化だ。まあ「肉に食いつく」こと自体が食事のメインイベントなのだ。土曜の午後になると市場には焼いた肉(アサード)の香ばしいにおいが充満しもう堪らない気分になる。価格はブエノスより更に幾らか安いくらい! 肉好きにはここも天国としか言いようがないでしょう。

 

 

かつて羊毛と牛肉の輸出で裕福になったウルグアイは福祉の充実した「南米のスイス」と呼ばれるほどの国家となったものの、モノカルチャー経済の行詰まりかつ重工業化に遅れた後は経済が低迷し混乱しました。それでも現在は南米で2番目に安定した生活水準らしいです。旅行時はアルゼンチンの道連れで経済が底でしたが、かつての栄華の残り香もどことなく漂い人々の雰囲気にも余裕が感じられるのは、お国柄なのでしょう。

 

さてさて街歩きを

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f:id:pelmeni:20190701091118j:plain街中には重厚な建物も多い

f:id:pelmeni:20190705151529j:plain市場の焼肉も結構本格的

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f:id:pelmeni:20190701092132j:plain海もあるある

f:id:pelmeni:20190701092151j:plain夕暮れの中心街

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↑この時は既に夜の12時でしたが、夜は遅くまだ多くの人々がブラブラしていました。モンテビデオの治安は安定していたようで夜もそこそこ安全、というか適度に緩い雰囲気です。ブラジルまでの都会ではこういう訳にはいきません。普通にリラックスできる街が僕は好きです。

夕食後夜遅くまで僕も街中で所在なくブラブラしていました。海に面しているせいか生暖かい風が常に吹いていて肌に心地良く感じました。モンテビデオは何時でものんびりとした時間が流れていたように思えます。コンパクトで特別な観光場所はありませんが、南米で一番リラックスできる首都でしょう。

セルヒオ君は元気かなあ。

 

 

背中の日焼けも落ち着いてきたので、近くの町まで日帰りで行ってきました。コロニア・デル・サクラメント。石畳のある古い町並みが奇麗なところです。

f:id:pelmeni:20190701093502j:plainf:id:pelmeni:20190701101234j:plainはぐはぐぺろぺろぺろ

 

 

帰国の飛行機はサンパウロアウトでしたが、ウルグアイから陸路で戻る時間はもう残されていなかったので、旅行代理店に飛び込み安いエアチケットを購入、帰国前日に慌ただしくも戻りました。今は亡きUairです。記念に機内食(昼食)を下にアップします。あっ、ペリメニ?がある(笑)

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サンパウロ滞在は1晩だけなのでペンション荒木は避け日系の池田ホテルに泊まりました(あすこに泊まったら帰国する気が萎えてしまう…)。こちらはコンパクトな普通のビジネス用ホテルといった風情でしたが、宿泊客は日本人や日系人ばかりで、小さなロビーで日本語で会話をした記憶があります。ゲストハウスとは違ったごくありふれた雰囲気で、通常の一人旅モードでいられました。残念ながら今はもう閉めたそうです。

最後の食事は日本食としたはずですが、何食べたかは憶えていません。帰国直前は何故か、日記をつける気が無くなりいつの旅行も空白のままなんです。

 

 

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3か月はあっという間でしたね。正直なところ南米でこれは短かかった。旅先には南米半年とか3回目で通算2年とかハマっている人も結構いました。南米が一番好きという人ならそれでも構わないでしょうが、僕はなるべく広く歩き回りたい派なので、このくらいの期間が妥当といえなくもない。キリが無いうえに、そもそも先立つものもありません。

もし更に1か月の旅の時間があったなら、多分アルゼンチンやチリを通り南端まで行ったでしょう。実はその2年くらい前に南米を旅した人から20万円で南極ツアーに行った話を聞いていました。旅行時にはもう開催されていませんでしたが、その話が今回の南米旅のそもそものきっかけです。結局端折りましたが元々はパタゴニアや最南端辺りのエリアへ行くイメージから始まりました。端とか先とか旅行者は割と好きなんですよ。

 

今回はあらゆる印象が強烈だったせいか、日本に帰国しても旅が終わったという気持ちの切替が上手くいかずに、半ばカルチャーショックを受けたような状態のまましばらく時間が過ぎました。

職に就いたらしばらく旅できないけどどうしようかと考えていたところ、図ったようなタイミングで、以前の仕事先から人が足りないから暇だったら手伝ってくれないかと連絡が来たのです。何故僕の周りには僕を堕落させる環境が整ってしまうのだろうw。一番は本人がオカシイのだけれど。

でもとりあえずはこれで迷う事はない。結局半年の間バイトという形で働き、自分にこれが最後だと言い聞かせ、再び機上の人となったわけです。

 

※今振り返ってみると、一時期流行った言葉「ダメ人間」に向かってまっしぐらでした笑。

 

 

 

'04南米 その12 イグアス→BsAs

イグアスの滝~~~ブエノスアイレス

 

 

僕は元々大自然なるものを求めて旅はしない人みたいです。まあその場に立てば感動もするし結果的には良い思い出として心に残るので否定的になるつもりはありませんが、神が創った世界よりは、人間がそれに抗い作りあげてきたモノの方に興味があり、まずは気持ちが向かうという事です。

日本には存在しないスケールという点では、ここイグアスの滝の迫力にはさすがに心を奪われました。広大な範囲にわたり滝が連続・散在しているので、ブラジル側とアルゼンチン側双方からアクセスでき、それぞれが特徴ある観光ルートとなっています。悪魔の喉笛と呼ばれる巨大な滝壺があるアルゼンチン側の方が人気があった気がしますが、どちらがということはなくそれぞれ楽しめました。

 

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f:id:pelmeni:20190426215343j:plain珍しい動物も多い

 

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でも、自分で言うのもなんですけど、写真で見ると滝ってあまり面白くないですね。腕が悪いのか、そもそも臨場感を写し取る事ができない種類のものなのか、多分その両方だと思いますがこればかりは仕方が無いなあ…
 

※「悪魔の喉笛」については上手く写真が撮れなかったので動画で記録しておいたが、はてなブログには動画(.MOVデータ)を直接アップできないようで… 残念 

 

 

この地域はブラジル、アルゼンチン、パラグアイの三国の国境が接していて、それぞれに近接して町があります。

フォス・ド・イグアス(ブラジル)は少し近代的で大きな街、

シウダー・デル・エステパラグアイ)はごちゃごちゃしてややくすんだ色合いの街、

プエルト・イグアス(アルゼンチン)は小規模で緑の多い静かな町。

観光客はたいていフォスかプエルトに泊まります。大きなホテルは街であるフォスにあり、町の雰囲気が良いのは静かなプエルトの方でした。国境の道路に入管は無いので、住民も観光客も乗合バスで自由に往き来できます。僕はプエルトの安宿に泊まり、ブラジルとアルゼンチン両方の滝に行きました。時間的にアスンシオンには行けそうもなくなったので、ここでパラグアイの街にちょっとだけ寄って散歩してきました。

プエルトの町外れに川が流れていて、あまりに気持ちが良かったので他の旅行者と泳ぎに行ったのですが、実はこれが後に問題を起こすことになるのです。

 

 

 

f:id:pelmeni:20190427023100j:plain前の座席の子供が東洋人に興味津々の模様だったので得意のおちゃらけで気を惹く

 

 

プエルトイグアスからブエノスアイレスまでの移動はバスでした。それもその小さな町のターミナルからの出発には不釣り合いな程の快適なバスでの移動でした。

すぐに判りましたが、アルゼンチンのバスサービスはブラジル以上のもの。一晩掛けて翌朝巨大なレティーロ・バスターミナルに到着。途中ひと気の無い広大なパンパで見上げた天の川は最高の眺めでした。

 

 

この街はすぐに気に入りました。本来ならば長居したいところでしたが、この旅は帰国日が決まっていたので要所をかいつまんで足を運ぶのみとなってしまったことが少し残念といえば残念。

 

1)奇麗な街並み 美しい建物が整然と建ち並ぶ街並みの美しさとその規模の大きさは、さすが南米のパリと形容されるだけの事はあります。気分が落ち着きます。

2)カフェが多い 気取った若者やスノッブが集まる(だけの)場所ではありません。朝早くから夜遅くまで老若男女それぞれの人々が自分の時間を過ごす場所です。そのため店の雰囲気は多種多様です。街中に散在しているので探せば自分に合う店が見つかるはずです。これはブラジルと違ってヨーロッパっぽい。

3)タンゴ 聴くタンゴ音楽は好きなので期待していましたが、本場はいいですね。ストリートパフォーマンスからレストラン、バーはもちろんのこと劇場の舞台まで、いろいろな形で街の生活と結び付いています。

4)牛肉料理! ベジタリアンの人はこの辺りでは居場所は無いですね。本当にラッキーだったのは当時はアルゼンチンの経済が最悪な時期だったこと。誰も自国の通貨アルゼンチンペソなど信用しておらず、街では米ドルしか使えませんでした。すべての物価が激安価格のおかげで、テーブルクロスが敷いてあるクラスのレストランに行けば、『草鞋のように巨大な牛肉料理 + 日本では3人前位の量の生野菜サラダ + パンorライス + グラスワインor珈琲一杯』で、なんと5-6ドルなのでした。何たる天国! もうこれ以降胃が拒絶するまで毎晩肉食い続けましたね、当然でしょう! (でも最後に胃は本当に拒絶した・笑)

 

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そうそうこれを忘れてはいけない 東京の営団地下鉄丸ノ内線を走っていた車両が第2の人生を当時のBsAsで送っていたのだ  んー、昔よく乗った身としては感慨深い!

 

 

 

'04南米 その11 サンパウロで年越し

 

マナウスという街は、現在変わったかわからないが、当時はほとんど陸の孤島と呼んでもよい場所だった。広大なジャングルのど真ん中にあり、道路は北方のベネズエラ方面にしか通じておらず、国内の他の主要都市とは繋がっていなかった。そのため長距離バスの運行は限定的で、大抵の移動はアマゾン河の利用か飛行機しか術が無い。帰路に今までたどって来た経路を再び戻るなんて奇特な行為はいくらなんでも考えられないので、ここはサクッと飛行機で次の目的地まで飛ぶ。迷いは無かった。そもそも普通の旅行者ならマナウスへは往きも帰りも飛行機だろう。

延々と拡がるアマゾンの密林を眼下に眺めながら感慨に耽った。5日もかけてひたすらゆっくりと船でやって来たところを(更にそれ以前の移動も含めれば何日かかった?)たった数時間でブラジリア、サンパウロへとひとっ飛びなのである。苦行の様な移動からようやく開放される嬉しさや満足感の中に、若干の虚しさが紛れ込んでいた気がした。でもこれは典型的な「長旅あるある」でしょう(笑)。ブラジルの大きさがリアルに実感できたことも含めて。

 

 

 

f:id:pelmeni:20190226175743j:plainBoas Festas!  日本のどこかの街といってもまったく通じそうな風景

 

 

そうして着いたサンパウロ、リベルダージの日本人街はそこだけ時空を超えて日本がぽっと出現したような場所だった。当時は中国人や韓国人は少なく日本人の町。中華エリアは他にあった気がする。近くの中華料理店で食べきれない量の料理を出された記憶がある。

 

年末。日本とは時差がちょうど12時間ある。NHK衛星放送の紅白歌合戦が放映されるのが当地では12月31日の午前中。それを見終わって街に出る。リベルダージの広場では餅つきが行われており、その横には即席テント張りの「南米大神宮」なるものが設えられていた。宮司さんにお払いをしてもらい御守が配られ、つきたての紅白餅もふるまわれる。日系人を含む現地の人々や旅行者が列をつくり待つ姿は、なんとも日本的な光景にみえた。

 

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紅白餅はすぐに頂いたが御守は今でも大事に保管してあります

 

 

新年といえばカウントダウン。ここサンパウロでも盛大に行われる。普段の日なら夜間に地下鉄に乗って外出なんてする気にもなれないのだが、この日は大丈夫だろうと思いパウリスタ大通りまで出かけた。人通りも多く地下鉄も混雑していて、これだけの人出があれば逆に危険は少ないと思えた。

 

f:id:pelmeni:20190226235135j:plainFeliz Ano Novo!  花火が打ち上げられる

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路上ディスコ状態を期待したが彼等そこまで能天気じゃありませんでした。失礼!

 

 

日を改め正月らしく静かな「日本の」町を歩く。ここは見かけはともかく、町を成立させているシステムが日本のそれとほぼ同じで、一通りの商店が揃っている。多少怪しくても日本語が基本的に通じる店は多かった。マクドナルドハンバーガーの看板もカタカナ表記。スーパーでは普通に弁当や寿司、おにぎりが売られている。ロッテコアラのマーチぺんてるのボールペンも多少値は張るが入手可能だ。夕食に店構えも内装も日本のものと変わらないとんかつ屋の暖簾をくぐる。そこではカウンター越に店の人と馴染の客が「親がずぼらで私の日本人の申請をしなかったからパスポートが無くていろいろ大変なのよ、もういいけど」なんて会話が普通に日本語で行われている。目の前のとんかつはコロモもカリッと揚がっていてキャベツも山盛り。ここは何処なんだ。

日本人街というものは、実際その中に紛れてしまうととても不思議な感覚だ。

 

 

この時滞在した宿はペンション荒木。<世界3大日本人宿>なる括りがあるのならば確実にその一角を占めたであろう有名な宿(残りは何処?)。日本人移民の荒木さん夫婦が経営を始めた宿で、親父さんは既に亡くなっており、当時は確かお婆ちゃんと女性のお手伝いさんが切り盛りしていた。ほぼ住み込んでいる現地の日系人を除けば泊り客は皆日本人長期旅行者/バックパッカー

たまたま新年だったこともあり、元日に皆で集まりお手製の菓子や巻寿司を頂いたりと日本人らしく和気あいあいとした時間だった。時期が時期だけにこのような雰囲気を求めて来たわけで、楽しい思い出として今でも憶えている。

宿泊環境については今となってはあまり言うことはないな(笑)。当時から、何を好んでこのような宿で皆長居するのか不思議でならないという気持ちが半分、それでもやっぱり集まってしまうのだなという気持ちが半分だった。もっと安くて快適な宿はあったはずなんだけど、長々と居続けてしまう多くの人のことを、僕は理解できるんですよ。なんせこの前年にブダペストという薄汚れた街に気がつけば計3か月近くも滞在していたので……。

旅自体は楽しくても、言葉は通じない・食事もいつも口に合うとは限らない・移動も常に大掛かりとなれば、どんな変わり者の旅行者でも、目の前に慣れ親しんだ「日本」が現れれば飛びつきたくなるだろう。日本での日常のシガラミとは隔絶された時間を本当に自由に生きていることを自覚しているのかいないのかはともかく、そうして何もすることが無くても幾らでもずるずると目的無く滞在するなんてこと、できる人はできるのです。エアーポケットに嵌った様な感覚、一時的な現実逃避なのかもしれない。まあ長旅ならそれも吉かな。

 

空きが出たので途中で移った部屋は普通だったがその分料金が少し高かった。こちらには旅行者ではない人も幾人か泊まっていた。ベットの周りを私物で囲み、平日はサンパウロで働いているため泊まり込み週末自宅に帰るという日系人。同じ部屋なので会話をするのだが、普通に日本語で話すことが最初は妙に思えたが、考えてみれば何も不思議なことではない。

小学生の頃僕は、短波付のラジカセで海外放送の他にNHKの国際放送も時々聞いていた。「かぞえうた」のインターバルシグナルから始まる日本語放送を一体誰に向けて放送しているのだろうかとその頃は漠然と思っていた。乏しい知識しか持ち合わせていない子供には知る由も無かったが、今ではわかる。遠く離れた場所で生活していても、日本人の社会で生きている限り本国との繋がりが途切れることはないのだろう。海外在住の日系人や日本人にとって、衛星放送もない時代にはリアルタイムでの本国との繋がりはラジオ放送が唯一のものだった。今はTVをつければ、その日の出来事も料理番組も少し遅れるが朝の連続テレビ小説も届けられ多くの人々が共有できる。至極当然のことの様に皆視聴していた。ネット時代は既に到来しており、情報の享受は更に幅がひろがり容易になることを当時既に感じていた。

日本の文化会館の類の施設では、来訪者にも分かりやすい説明で移住の歴史等知ることができる。そのような場所で幾らかの時間を過ごし多少なりとも理解が深まった頭で、かつて日本から海を渡った多くの人々のことを思い巡らした。彼らは今後もいろいろな形をとりながら世代を越えて各地に根を張り続けるだろう。

地球の裏側に日本の方を向いている人たちは常にいる。今も昔も、これからも。

 

 

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ブラジル国内最後の移動はサンパウロからフォス・ド・イグアスまで。終いくらい奮発して最高級クラスのバスを選んだら、座席はゆったりと大きく隣の無い1×3列、まるで歯医者の診察みたいであまり落ち着けなかった。椅子の背はほぼ水平まで倒すことができ快適だ。でも、何だかなあ、と思いながら、これもこれで思い入れの多かったブラジルのバス旅最後の思い出。帰国時にまた戻る予定だが一応これで見納め。