もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'05旅 その12 シリアに入国

アラブ1>シリア・レバノン>シリア北部 Sep.2005

アンタキア→国境→アレッポ→ハマ←→クラック・デ・シュヴァリエ

 

 

 

 

夜行バスは朝の7時半にアンタキアのオトガル(バスターミナル)に到着。トルコのバスは最後まで時間が正確でした。更に言えばこの時乗ったバス会社のサービスは良過ぎです。夜中の3時の休憩直後に飲物のサービスを行うんですよ。寝ぼけ眼でも、ここはやっぱりコーラを一杯!。

同じオトガルからシリアのアレッポへ直通バスが出ているので、その場で9時半発のチケットを購入。すぐ裏のロカンタでトルコ最後の食事、チョルバ(スープ)の軽い朝食をとりました。

アレッポとは英語読みで、アラビア語ではハラブ、トルコ語ではハレプと言うらしい。その ”HAREP” という行先表示を掲げたバスに乗り込みます。国境では特に時間を喰ったという印象は無く、順当に昼過ぎアレッポに到着。バスで一緒だった日本人学生、アメリカのおばちゃん、リトアニアカップル達と一緒に街中の宿へ向かいました。

 

今となっては昔の話ですが、この国境は常に外国人旅行者で溢れていました。トルコ~シリア~レバノン~ヨルダン~イスラエル~エジプトというルートは中東旅行の定番中のド定番で、見所も多く、誰もが楽しむことのできるルートでした。世界中から人々が集まり、長期短期を問わず、多くの旅行者が砂漠の中の暑く乾いた道をバスやタクシーに詰め込まれ、砂煙を立ち上げながら駆け抜けていったものです。

以前の旅先で出会ったとあるオーストラリア人の言葉を思い出すことがあります。彼によれば旅行に良い国の条件は、1)人々が親切 2)社会が安定している 3)物価が安い、だそうです。まあ頷ける内容です。シリアなんてその全てを満たしているうえに観光場所も多く、大抵の人にとっては悪い印象を受けることの少ない国でした。それは僕の実感であり、出会った旅行者にとってもほぼ共通の感想でした。

でもその ”2)社会が安定している” と見えたものは、表面的な様相でした。実際の社会の状況や人々の生活が外から一撫したくらいでは分かり難いものであったことは、後年の時局が全てを語っています。彼らの日常と僕の非日常は同じ時間と空間を共有していたものと記憶していましたが、それは必ずしも交わっていたわけではなかったということです。旅なんてしていても理解できることは限定的なのだと今ではつくづく思います。目に映る物事がリアルな現実のすべてであるとは限らないことも今では知っています。これら皆含めて迄が旅というものでしょう。ただ、知らないで済ますことができればよかったかもしれない現実を思う度に、寂しくも悲しくもなります。

以前にシリアを旅行して良い思い出を持っていながら、現在の状況に堪らない思いを抱いている人も多いのではないでしょうか。だからといって何ができるわけでもなく、暫く膠着状態が続きそうで、気を煩わす日々が延々と続くのでしょう。

 

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アレッポ城 城門は力強いが内部はほぼ遺跡状態 

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小高い丘の上に鎮座する城(所謂チタデラ)から街を眺める。雨が降らなければ勾配屋根を架ける必要はない。いよいよ中東、乾いた大地と砂色の町がこれから続きます。

中央に伸びるスーク 右がモスク

 

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薄暗くも妖しく賑わうスーク(バザール) 時折天窓から斜めに射し込む陽の光が幻想的

不思議な空間に半ば酔いながら彷徨い歩く。視覚、聴覚、時に嗅覚の感度を上げる必要がある。日本の明るくクリーンで均質な商空間とは対極な場所。だからこそ魅かれる。

 

写真を撮っていると片言の日本語を話す店員に呼び止められ、チャイと水煙草を頂く。チャイと水煙草の組合せは、これがまた病みつきになるんですよ。その後はもちろん彼等のビジネスタイム。とりあえずは付き合ってみることにしたが、僕は話が合わなかったら何時でも止める用意はできている。奥から持ってきたカシミア(多分違うだろうが色柄は良かった)が8400→4200シリアポンド(80$)の値下げで「トモダチプライス!」から始まった。これは前口上みたいなものだろうから頭から除外する。25$くらいにしようか話し始めたら簡単に下がる。でもよく見るとそこまでの品質には見えなかったので止めようとしたら、横から彼の叔父という人が出てきて20$という。出方をみながら更にあれこれネゴると15、10$まで下がる。結局550シリポン(10$)で手を打つ。千円程度なら色や柄は気に入ったので悪くはない買物でした。おそらく元値420SPの10倍の4200SPからスタートだったのかもしれないと推測。交渉中は雑談を交えて悠長に構えていましたが、インド人とのタフな交渉と比べれば穏やかに終わりましたね。

旅行中はこんな感じでよく暇つぶしをします。言葉数を多くしたり表情や話し方を変えたり等いろいろ考えて自分のペースは崩しません。まあゲームみたいな気分です。お互い情は無用です。そのせいか話がつかなくても大抵後腐れはありません。日本ではできない遊びみたいなものです。

アレッポといえば石鹸も有名です。地中海沿岸で作られるオリーブ石鹸はアレッポあたりが発祥だそうです。どの店で売られている石鹸も幾つかのグレードに分かれているので、何が違うのか尋ねたところ、成分のローレルオイルの割合に因るとのことでした。割合の大きい方が香りが強く値段も高いのです。と言われてもよくわからなかったので、上から2番目のクラスの物を2kg買って中央郵便局から日本の実家に送りました。この石鹸使ってみましたが、女性が何故あんなに喜ぶのか今でもよくわかりません。嫌いじゃないですけど。

 

 

砂漠の一本道を南下しハマに向かいました。この町は楽しい。

 

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町中を緩く流れる川に大きな水車が幾つも掛かっています。町の中心部にある物は周りが公園になっていて、人々が傍らで楽しそうに見上げています。夕方あたりから人が集まり始め暗くなると多くの人出で賑わいます。単純な物でも動く物には大人子供を問わず心惹かれるということですかね。実際本当に飽きません。そして音をたてて回る水車の横で行き交う人を眺めながらアイスクリームを舐めるというのが、この町での一番の楽しみでした。大きくはない町ですが水車の存在だけで人を呼べるほどです。

かたかたかたかた…

 

f:id:pelmeni:20191216022001j:plainf:id:pelmeni:20191216022530j:plain時々虹もf:id:pelmeni:20191216022557j:plainf:id:pelmeni:20191216022618j:plain

 

 

 

中世十字軍時代の城塞 クラック・デ・シュヴァリエ

途中ホムス乗換でハマから日帰りで行くことができます。マッシブで力強くいかにも城塞といった形態で有名です。よく目にする全景写真を撮るためには少し離れた高い所を探さなければなりません。帰り際にまとめてそんな写真を撮ろうと考えましたが、何だか面倒になって停まっているバスにさっさと乗り込んで帰ってしまいました。よって此処は部分的な写真だけです。

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城塞自体は話題にのぼるほど面白い物とは正直思えませんでした。半ば遺跡に近く、もう少し細かいディティールがあれば良かったのに、というのが個人的な感想です。暑い所では想像力を要求されるものに対してはなかなか気が乗りません。ただ西洋人にとっては歴史的に意味のある場所なので多くが行きたがります。日本人がインド辺りで仏教や釈迦ゆかりの地に特別な感情を持つのと似たものでしょうか?。立地は最高で眺めは良いので、気分は晴々としますが… 

 

帰りのバスで、アレッポで同じ宿に泊まっていたイタリア人男性二人連れに再会し、一緒にハマまで帰ることになりました。腹が減ったと言うのでホムスのバスターミナル近くで軽食に付き合いました。

此処ではバスの乗換をしただけなのでこれが唯一の記憶であって、その後は長い間忘れていました。後年再びその名を耳にしたのは内戦のためです。この街が反体制派の拠点だったために戦闘が起こり、市街戦により荒れ果てたホムスの状況を報道により知ることになりました。もう憶えていませんでしたが車窓から眺めたであろう街並みが破壊され、何処かですれ違ったかもしれない人々の身に降りかかった大きな不幸が、揺れる映像の向こうに確かにありました。こんな状況は当時の記憶とは全く結び付きません。現実の世界で起きている事であっても他人事の様にみえてしまうのが嫌でしたが、現在の自分とは隔たりが大き過ぎてどうしようもありません。 

おかげで本来であれば忘却の彼方へと去っていたはずの記憶が幾つか呼び起こされたのは事実です。でもそれは残念ながらあまり嬉しいことではありません。できれば別の種類の話、懐かしく思い返すことのできる話であって欲しかった。

 

 

 

'05旅 その11 トルコ4

トルコ4>トルコ西部~ Aug.-Sep. 2005

→ブルサ→イズミール、エフェス→コンヤ→

 

(経路内の時間は参考にしないでください)

 

サフランボルからはブルサに行こうとしたところ、珍しく直行バスの便が悪く1日1本それも夜の中途半端な時間しかありません。バスターミナルで尋ねると、イスタンブール行きに乗り手前のイズミットで乗り換えればよいと教えてくれました。それなら本数は多い。イズミットはイスタンブールより少し内陸側にあり、交通の結節点として位置しているようです。ターミナルも大きく乗換もスムーズでした。

 

ブルサはオスマン帝国かつての首都。モスクや廟が残る古都で緑も多く観光も楽しいですが、イシュケンデルケバブというヨーグルトと一緒に食べるケバブ発祥の地なので、もちろんいただきました。ただこの頃は普段食べつけない羊料理に飽きていたせいか、、、味の感想は憶えていません。トルコで肉料理といえば、簡単な料理なら羊か鶏を選べるのですが、きちんとした店では大抵羊だったような気がします。いやそうでもないかな。ただトルコに行ってまで鶏はないだろうという気概で無理にでも羊を食べ続けていました。ちなみに日本でも少しは名を知られるようになったパンにはさむ軽食としてのドネルケバブは、ベルリンのトルコ人が始めたという説もあるようです。僕はベルリンでわざわざトルコ人街まで食べに行きましたが、実は最初にパリで食べた牛肉ドネルケバブの方が好きだと今でも思っている不届者です(笑)。

 

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やっぱりモスクは居心地の良いところです。トルコでは大抵誰でも自由に入ることができ、静かにしている限りは各人が思いのままに過ごすことができます。端の方では寝ている人も時々見かけます。人が多くても基本的には静謐な場なので、旅行者にとっては心身ともに休まります。ただし祈りの場では男女の区別は厳守、不問なのは猫だけ、、、多分。

 

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モスクにもいろいろあります。

 

 

 

イズミルはトルコ第3の都市。港町で見所はいろいろあったはずですが、気が向かずにあまり歩き回りませんでした。ここはエフェスの遺跡へ行くための立寄りと割り切っていました。僕の場合、長く旅をしていると気分の乗らない時期が必ずやってきます。国が変わると気持ちは大体リセットされますが、広い国を時間掛けて移動し続ける場合バイオリズムのように自分の「ヤル気」が波の様に上下することが何だかわかります。

まあ、そうでなくても僕は大きな街ではただ単に雑踏に紛れて時間を過ごすことが好きです。外国に行ってまでとは思うのですが、習慣というか日常生活に戻ってみたいという気が時々頭をもたげてくるのです。

ということで、大通りを暫く歩きまわり、市場へ向かいお決まりのように猫と時間を潰し、バスマネ駅前のだだっ広い床屋で散髪をしてもらいました。適当に頼んだところ、当時多くの若者にみられたソフトモヒカンっぽい感じに仕上げてくれました。まあ、頂部がちょっと長めのスポーツ刈りみたいなもので、自分ではトルコカットと勝手に呼んでいました。よく見ると似合ってない(笑)。時間を掛けずに値段も安い。多くの客が頻繁に来店してはサッと刈ってもらいすぐに出てゆくのも気軽でいいなと思いました。でもそれをおしゃれだと思っているのか、髪型なんてあまり気にしていないのか、どっちだったのだろう。

 

 

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エフェスの遺跡  

程良い広さの敷地内に建物や遺構が散在しています。古代都市の遺跡の場合、大通りを中心に歩けば大抵は効率的に廻ることがことができます。ピクチャレスクな屋外劇場跡や神殿は規模も大きく状態も良いので、前に立つと心が弾み、想像力が飛躍します。遺跡としては一級品です。

 

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地図でみるとわかりますがトルコは東西に結構長い国で、西のエーゲ海沿いから南のシリア国境まで行こうとすると国土の半分を横切らなければなりません。日本でいうと東京~福岡くらい。今にしてみれば地中海沿いを移動した方が良かった様にも思えますが、旅行時は何か魅力を感じなかったのでしょう、多分。国境近くのアンタキヤに急ぐ途中コンヤで逗留しました。

 

コンヤといえばセルジュク朝の古都ですが、イスラム神秘主義スーフィズム)、メヴレヴィー教団の中心地です。

「スカートをはいた信者が音楽にあわせて、くるくると回転をし踊るという宗教行為(セマー)で知られる。これは祈りの手段であり、回転は宇宙の運行を表し、回転することで、神との一体を図るというものである。(Wikipediaより)」

教団はトルコ革命時に解散させられましたが、今はその舞踏も始祖ルーミーの命日に披露されており、コンヤを象徴する祭礼となっているようです。なかなか興味深かったのですが旅行時には時期が合わず見ることができませんでした。ただイスタンブールやカイロなどでは観光客相手の舞踏ショーとして続けられており、そのような形ではうかがい知ることはできます。後年訪れたパキスタンのラホールではスーフィーナイトと称する音楽儀礼として、深夜に聖者廟で音楽に合わせながら熱狂的に踊り陶酔状態に陥ったり、まったりしたり(もちろんアレで)していました。(日本でいうクラブみたいな意味合いの場所かも?)

それはともかく、この街も古い歴史を持つのでモスクや博物館が多く、意外と楽しむことのできる場所です。人間や動物を示す具象的なものは何も無く、一切が植物の文様や幾何学、カリグラフィー等による抽象の世界に浸るにも審美的な感覚が必要ですが、毎日接していれば自然と感覚は慣れました。イスラムの世界はこの後も長く続きます。

 

以下、最後の町なので写真多めです。

 

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▽メヴラーナ博物館(ルーミー廟)

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▽アラエッディン・モスク

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▽カラタイ・マドラサ 保存され現在は博物館

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▽インジェ・ミナーレ・マドラサ こちらも現在は博物館

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▽Aziziye Masjid モダンで明るく美しいモスク  ここは気に入って長居をした

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f:id:pelmeni:20191026150055j:plainアンタキヤ行のバスを探す

 

散々乗りまくった夜行バスも最後です。今回のトルコのバス旅の感想は前回と同じです。あらゆることがスムーズで楽なのです。大抵は流れるように移動できました。それが普通にできない国を旅してきた後だけに、初めの頃は有難みさえ感じました。ボロいバスに揺られ移動するということは、それはそれで得難い体験なのですが、快適なバスの車窓から流れ行く風景をぼうっと眺めるというのも気持ちの良い時間です。あらゆる物事が一筋縄では行かなかった中央アジアコーカサスの後では、トルコは正直すべてが薄味に感じました。それでも良かった。そう感じること自体に意味があると思ったわけです。ただ心に残る印象としては多少浅くなることは否めません。

 

 

あーっ!!!

バスが街から外れて明かりが少なくなってゆく窓の外を眺めながら、突然思い出しました。

 -----パムッカレに行き忘れた!

以前タシケントのロシヤホテルで偶然知り合ったU君がその後絵葉書を送ってくれたパムッカレ。水量が減り石灰棚には立入禁止になってしまったが、せっかくだから行ってみようと楽しみにしていた。近くに来ているのに何故だかすっかり忘れていました。う~と呻いてみても後のまつり。せめて町の中で思い出すことができれば、、、戻ったかな?。

ただ、こういうことは長旅の最中では時々あるものです。そんな時は縁が無かったと諦めるしかありません。明日の昼にはアレッポに着くのだから、来たるべき新たな時間に期待をしよう、そう自分に言い聞かせて眠りに入りました。毎日が思いもよらぬ体験の連続なので、次を楽しめばよいのです。過ぎた事、無理な事に拘ることは無くなり、その種のことには無頓着になっていった気がします。あ~、元々の性格に因るのかもしれないですけど。

 

 

 

 

 

 

'05旅 その10 トルコ3

トルコ3>トルコ中部 Aug. 2005

→アマスヤーアンカラサフランボル

 

 

(経路上の時間は参考にしないでください) 

 

ほとんどアラブのような乾燥した南東部を脱してアマスヤまで移動しました。アナトリアを一気に縦断したかたちです。夜行バスで一晩を過ごし、目を覚ましたら昨日までとはうって変わっての別世界です。山と川のある風景には心が癒されました。この町にはオスマン帝国時代の住宅や町並みがきれいに保存されています。なかには内部も見学できるよう修復された住宅もあります。

 

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ディヤルバクルでもそうだったのですが、保存住宅では人々の生活がわかるよう室内に人形や雑貨が設置されています。はじめ見た時は妙にリアルでぎょっとしましたが… 実はトルコだけでなくアラブ諸国などでもこのような展示はみられます。おもしろいですね。

 

 

首都アンカラの人口は、トルコ第2ですがイスタンブールの1/3でしかありません。中心地は近代的で首都なんだなあと思いましたが、規模が規模だけにトルコという国の割にはこじんまりとした印象を拭えません。旧市街とよばれるエリアは確かにトルコ的であはあります。かつての滞在を思い返すと、イスタンブールだけが他のトルコの町とは違った空気が流れているような気がしてきました。 歴史も文化も他とは大分違うのですからある意味当然かもしれません。そんなことを確かめてみたくもあり実はイスタンブールに寄ってみようかという気持ちも少なからずはあったと記憶しています。(結局行きませんでしたが)

この街では首都ならではの重要な仕事がありました。それは次に訪れるシリアのビザとり。まずは日本大使館へ行きサポーティングレターを発行してもらい、それをもってシリア大使館でビザの申請。翌日発行。スタンプ状のビザが押されたパスポートを眺めていると小さな喜びがこみあげてきます。長期旅行者にとっては次の国へ進むことができるということは単純だけれども重要なことです。動き続ける旅行者にとってはプラクティカルな面での旅を続ける原動力のようなものです。

 

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アンカラ地下鉄の車両のマーク

 

 

サフランボルもトルコでは有名な場所です。斜面に並ぶ住宅の景観、モスクやハマムなどの古い建築で知られています。寄棟の屋根をもつ独立住宅は、日本では普通にみられますが、世界ではあまりないようです。ヨーロッパなどでも切妻の木造建築はありますが、寄棟が様式としてまとまった数が存在する地域は珍しいのではと思います。この光景には親近感が湧きます。

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チャイハナ、といってもそこは野郎だけの世界 ただその足元には彼らに不釣合いな…

 

 

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昨今の猫ブームでトルコ人の猫好きも日本で知れ渡ることとなったようです。僕が訪れたことのある国の中では親猫度はモロッコがおそらく一番で、あすこは何処へ行っても至る所に生息していました。もちろんトルコもなかなかのもので彼の国には引けを取りません。トルコ人は寝そべって動かない猫の上を平気でまたいで歩きます(笑)。人に気を許している野良猫が多いことからも両者の良好な関係が窺い知れます。イスラムでは犬と猫の扱いが他とは違いますからね。彼らの付き合い方も今に始まったことではないのでしょう。

 

サフランボルにも伝統的な住宅が修復保存されており、内部を見学することができます。ここでも多くの人形たちが出迎えてくれます。今日は宴会ですか?

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そして中庭に… 仔猫団子! 3匹いる!

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ここまできたら今回は最後まで猫でいきます。↓彼は宿猫。共有スペースで朝食とか何か食べてると気が付けば傍らで静かにしているのです。黙ってこんな顔して待たれると、何かあげたくなるというものです。猫ほど、実利的にはあまり人間の役に立っていないにもかかわらず、一方的に寵愛を受ける動物はいませんね。

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'05旅 その9 トルコ2

トルコ2>トルコ南東部 Aug. 2005

→ディヤルバクル、ハザンケイフ、マルディン→シャンルウルファ、ハラン→

 

(経路上の時間は参考にしないでください)

 

ヴァンから夜行バスに揺られ、ディヤルバクルのバスターミナルにはほぼ遅れなく朝着きました。この辺りはクルド人が多く住んでいる地域です。クルドといえば僕が最初に思いつくのがクルディスタン労働者党、略してPKK。その昔IRAアイルランド)とかETAバスク)とかPKKクルド)など独立運動がゲリラやテロ等に過激化していったのは、皆アルファベットの頭文字3文字で呼ばれる組織だった。現在トルコでの停戦の合意はなされています。この旅行時は平穏化していて非常事態宣言は解除されていましたが、何か起きれば外国人は入域禁止になるエリアでした。そのせいもあるかもしれませんが他と比べて人が来ないところでした。ディヤルバクルの街自体は起源が非常に古く、様々な出来事を乗り越え現在まで連綿と続く歴史があります。

宿泊にはエアコン付きの中級宿を選びましたがそれは理由のあること。何故ならこの時期は非常に暑い! 夜に部屋でTVを観ていたらディヤルバクルの最高気温は41℃と表示されていました。それならハサンケイフは多分45℃くらいだっただろう。

 

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古代の城壁に囲まれた旧市街はごちゃごちゃしていて楽しかった記憶があるにもかかわらず、なぜか写真を撮り残していません。上の写真はきれいに修復保存、公開さている当地の建築様式をもつ邸宅です。


 

 

ハサンケイフ

途中バトマンという町でバスを乗換え日帰りで訪問。ここは非常に古くからの歴史がある町で、チグリス川を望む高台には新石器時代の洞穴住居跡とビザンチン帝国時代の要塞の遺構があります。古代ローマ時代の痕跡がある集落や、シルクロードに沿って架けられた橋など、中世のイスラム建築も残されているところです。

f:id:pelmeni:20190909004639j:plain対岸から眺める

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ところが、歴史的に大変重要なハサンケイフがトルコ最新の一大ダムプロジェクトでほとんどが水底に沈む危機に見舞われているのです。当時から計画があることは知られていました。今回少し調べようと思ってググったところ最初に目に入ったトピックがこれでした。救出発掘調査、修復、搬出のプロジェクトも話題になったようです。更に今年の10月から立入禁止となることも発表されていて、本当に水没が始まるのかもしれません。これにはどうやら、単に治水のみならず、水を資源として掌握し下流の国シリア、イラクに対する政治的牽制の意味合いもあるということです。でも犠牲は非常に大きい。信じたくないです。

 

 

マルディン

この町へも日帰りで。斜面に展開する町の雰囲気はトルコというより中東です。乾燥地帯で建物は陸屋根。階段状の通路も多くバザールが活発な町です。砂色の町並みは夕陽に映えてとても美しい。

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南方のシリアから続く平原の終端に在る 視界の中のこの先の何処かに国境が引かれている

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細い道が入組み坂や階段も多いせいかロバが使役されているf:id:pelmeni:20190910194659j:plainf:id:pelmeni:20190910195223j:plainf:id:pelmeni:20190910195346j:plainf:id:pelmeni:20190910200236j:plain気がつけば日没の時刻 さらばマルディン

 


シャンルウルファ 

ここも暑い。ムシャクシャするほど暑い。それでも既に旅の体となっているので、そんな場所でもひたすら足が動いてしまうのだ… さまよえるバザール、光と影が織りなす迷宮。砂色のサンドストーンの家で固められた細く曲がりくねる路地。夕陽の中ですべてが美しい。こんな面白い町を彷徨わずにして何のために旅をしているのか、ということだ。<もちろん個人の趣味です>

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f:id:pelmeni:20190911141903j:plainf:id:pelmeni:20190911142257j:plainf:id:pelmeni:20190911142007j:plainアブラハムの聖地 モスクが面する長方形の長いプールは爽やかな水辺の空間f:id:pelmeni:20190911141927j:plainバザールの中庭は野外のチャイハネ 娯楽と交流の場 木陰が心地良い

ここでウロウロしている時に何故か若い女性に来訪を祝福されて(と勝手に推測)、頬にぶちゅっとキスをされたのがこの街一番の思い出? 遠い東アジアからはるばるウルファにようこそ、アッラーの祝福を!といったところだろうか。テシェキュレール。

 

大通りから細い道に入ってみる。砂岩でできた住宅は閉鎖的なつくりなので、何だか迷路に迷い込んでしまったような気分になります。生活空間は中庭を中心に展開されているのだろうが道路からはなかなか窺い知れないことが少し残念。とはいえ鍵状に続く小道を当て所なく歩いていると、時を忘れてしばらくの間、意識は異国の空の下を半ば夢見ながらさまよいます。気が付けば陽は落ちて周囲は既に薄暗くなっていました。通りに戻れば店には照明が点き、肉を焼く香ばしいにおいが漂い始めています。さて、現実も悪くないですね。

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ハラン

何もない一本道を進む。その先にあらわれたのは、紀元前に歴史をさかのぼる古い町。かつては城壁に囲われていたらしいが当時の都市は滅ぼされた。現在、目を惹くものは薄い石材による円錐状のドームです。遠目には日干し煉瓦の積み上げに見えました。石材なのでイタリアの有名なアルベロベッロの住宅に似ていますね。原始的で誰もが何処でも考え付くものといえば、そういうものかもしれない。多分石の他に使える材料が無いのでしょう。一部の住宅は修復保存されていて内部に入ることができます。しかしー、ここはー、更に暑かった。じりじり焼かれるような感じで、もう暑さも限界でした。ウルファに帰ってアイスクリーム屋のはしごをしたと当時の日記に書いてあります。

 

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f:id:pelmeni:20190912015548j:plain民家は少なく、現在では居住スペースは陸屋根の増築部分だそうです




 

'05旅 その8 トルコ 1 

 

トルコ1>トルコ東部 Aug. 2005

国境ートラブゾン、スメラ修道院ーカルス、アニ遺跡ードウバヤズットーヴァンーディヤルバクル、ハザンケイフ、マルディンーシャンルウルファ、ハランーアマスヤーアンカラサフランボルーブルサーイズミール、エフェスーコンヤーアンタクヤー国境

 

(経路上の時間は参考にしないでください)

 

 

黒海沿いのサルプというポイントからトルコに入国しました。先を急ぐウッチーとはトラブゾンで別れ、気ままな一人旅の再開です。

実は、アルメニアで一緒だったフランソワが往きに使ったトルコのガイドブックを帰り際に僕に貸してくれたので、それを活用するためにもある程度まとまった時間を使ってトルコを一周することに決めました。ただ、前回旅行時に滞在したカッパドキアイスタンブールは除くことにしました。トルコ旅行の目玉、というかほとんどの人が集中するであろうこの場所を省いて1か月も旅するなんて物好きは、変人の多いバックパッカーでもあまりいないのかも。

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*  *  *

 

国境から乗るバスにして違います。大きさは小振りなものの、新しくて燃費が良さそうな車は、道路の舗装の良さも相まって気持ち良く進みます。車掌も甲斐甲斐しく働き、さらには陽気です。 何処にも問題は無く心に引っ掛かりの無い旅は本来ならば歓迎すべきなのでしょうが、僕は天邪鬼なのでその点に関しては物足りないです。でもまあ素直にみれば、日々の営みや生活が計画のもとに統制された共産主義から離れるも未だ混乱の残る地域から、自由な商業活動を背景に活気のある都市生活を文明として育んできたイスラムにようこそ!と迎え入れられたような気分になりました。 

町に出て、広場からとりあえずは人の出足の多い方へ歩いてみる。あらわれたのはモスクとその周りにひろがるバザール。人や物、情報にあふれた活気のあるエリアの中に、気づいた時には既に足を踏入れていました。静謐と喧噪、聖と俗が交じり合う独特の混濁空間。今までは無意識に押さえてきた感情が開放され、久しく感じて来なかった種類の高揚感を感じました。これ以前もこれ以降も、迷い込んではしばしの間時を忘れて彷徨を楽しむイスラムの町のつくりは何処も基本的に似ています。この旅でも以降数か月の間ひたすら続きます。

 

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ここトラブゾンも、バザールの細い道を行き交う買物客が途切れることはなく、彼らに混じって飽きずにずっと歩きました。時々顔を見せるモスクのドームやミナレットが良い感じのアクセントで視界に入ります。いやこういうところ大好き。

港町で近代的な港湾の眺めもありますし、ビザンチン様式の教会アヤソフィア、旧市街の城壁や城門も残っています。食べ物も美味しいし良い所です。

 

 

スメラ修道院 

断崖の中程に抱かれるように建ち、現在の名目は博物館として保存されています。キリスト教修道院は俗世との交流を絶ち人里を離れて修行を行う地を求めたので、後世の旅行者は一苦労です。聖書の物語がフレスコ画によって表現されています。ルーマニアモルダヴィア北部にある有名な修道院と似た感じで、鮮やかな色彩が印象的です。なかなか神秘的な場所です。トラブゾンから日帰りで。

 

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夜行バスで朝早くカルスに着きました。この街へは近くのアニ遺跡に行くために寄りました。まずツーリストオフィスに行くと遺跡の入場パーミッションは必要なくなったとのことで 、天気も良いことだし(ここでは重要)気が急いでしまいタクシーをひろって直行してしまいました。実はこれは失敗で、この街ではホテルに泊まると必ず安いツアーの勧誘があるのでした。何人かまとめて運ぶので一人で行くよりは車代がかなり安くなるということです。

 

 

アニ遺跡

10-11世紀に栄えたアルメニア王国の首都。何か強い感銘を受けたというわけでもないのですが、気がつけば独特な喪失感のような感情が心に響いていました。兵どもが夢のあと、です。アルメニアとは僕にとって旅行の間は微妙に感傷的な響きをもつ言葉になっていました。遺跡といっても敷地があまりに広くて2-3時間ではすべて歩き回る事ができないほどです。在りし日の古い都を想像するのもよいですが、残っている教会や建物の残骸が離れ離れになり過ぎていて、ほとんどの時間を草むらの中をひたすら歩き回ることに費やしてしまうかも? 寂寞さを感じられる場所は此処を最後にしばらくの間ありませんでした。

 

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この中で、トビリシでお会いした世界全ヵ国征服氏に再会しました。2度あることは本当に3度あるもので、この後に訪れた町の宿で氏とは隣室になりました。

 

 

お次はイラン国境近くの町ドウバヤズットへ。カルスからはウードゥルという町でミニバスを乗り継ぎ到着。トルコではミニバンやミニバスは「ドルムシュ」と呼ばれています。昼過ぎに宿決め、その後町を見下ろす山腹に建つイサクパシャサラユを見学。そして宿に帰れば世界征服氏。移動を含めて無駄のない完璧な1日。こういう日がたまにあると気分が良いです。

思えば前回(この5年前)、国境から到着後に直ぐにオトガル(バスターミナル)へバスの出発時間を確認に訪れたところ、ちょうど動き始めた車が乗りたかった行先だったので何も見ずに飛び乗ってしまった。以来気にはなっていましたがようやく再訪です。でもちょっと冷めた感じだった気がします。時間があき過ぎてしまった感は否めません。

 

 

イサクパシャ・サラユ

かつて同地を治めていた領主イサク=パシャの宮殿

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ヴァン

ヴァン湖に浮かぶアクダマル島のアルメニア教会が有名です。でも行ってみると、肝心の建物自体が修復中で囲いに覆われ中に入ることすらできなかったのです。Shock!  Shock!  Shock!  同じくがっかりしていたディヤルバクルから来た若者3人と適当に時間を潰してから帰りました。これなら有名なヴァン猫の研究センターにでも行った方が良かった(笑)と思いましたが、当日の夜行バスに乗る予定だったのでその後に行く時間も無かったです。

 

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現地で買った絵葉書の方が良い写真ですね

 

カルス → ウードゥル → ドウバヤズット → ヴァン とトルコの東の一番縁の部分を移動したことになります。さらに縁の部分を進みます。

 

 

 

'05旅 その7 グルジアの奥地、スヴァネティへ

コーカサス6 > グルジア(現ジョージア)スヴァネティ ●Aug. ’05 

 

 

 

 

グルジアの奥地へ

 

1  話が決まる~遠路はるばる~満点の星空

 

列車の終点はズグディディという不思議な名前の町だった。夜行列車に乗ると翌朝早く、頭が完全に回り始める前にプラットフォームにポンと投げ出された気がするのはいつもの事だ。今回は4人いる。自分以外の3人はトビリシのプライベートルームで知り合った日本人なのだが、彼らも長旅の途中でひとりひとり出会ってきたという。

目的地はスヴァネティ谷。周りの地域とは隔絶された谷間に点在する村々は、それ故に中世以来の様式が保たれているという。アクセスは難しく、一人で行くか迷う一方、他人を積極的に誘うのもどうかと思っていた。でも宿で話をしていたら、いつの間にか事が決まっていた。2人はアフガンの未踏の村々を強行突破してきた強者である。1人はイランの屈強な若者を向うにまわしファイティングした短気者らしい。僕の英文ガイドブックに、途中は治安が悪く盗賊が出ると記載されていたことなど、敢えて話すことも無いだろうと思い黙っていた。

 

ズグディディの駅で降りバスの溜り場まで歩いた。旧ソ連の国を今迄幾つか旅してきたが、地方だとバス乗場が適当なことが多い。以前営業していた公営バスが業務を縮小・廃止してバスターミナルはすさび、私営のミニバスや乗合タクシーが近所だったり別の広場から発着する、とか。運行は需要のある朝夕のみだったり、席が全部埋るまで出発しなかったり。かといって看板表示等が立っていることもなく、町の人に教えてもらった場所に悠長に構えて行っても途方に暮れることになる。

この町もそうだったかもしれない。人と車が群がっている中へ適当に入って尋ねると、目的の車は満席で出発間際。周りの人は皆ここで待っていろと言うが、次の車が何時出発なのかは誰も知らない。小雨も降ってきて、気持ちのやり場に困ったが、話し相手がいるので少し楽だった。

結局2時間後に出発できた。列車が早朝着で本当に良かった。この後に次の車があるとはちょっと思えなかった。

 

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とても美しい渓谷を見下ろしながら、ミニバスは山道を登って行く。手付かずの自然というものはどこの国でも美しいが、猥雑な街を抜けてきた後だけになおさら心を動かされる。

途中休憩が何度かあった。少し前に事故が起きた場所では、乗客は皆降りて花を投げ黙祷をしていた。我々は部外者なのでその間手持ち無沙汰にしていたが、喉渇いているんだろ?、と言いながら彼らが差し出したペットボトル、水と疑わずにごくりと飲んだ透明な液体は、そう、水で割ったウォトカだった…、いい国だ。今でも心からそう思う。

 

f:id:pelmeni:20190828014031j:plainちょっと休憩

 

山間なので日暮れは早い。終点のメスティアにたどりついた頃にはもう薄暗かった。予想外に大きいが何もない広場に、さて、はるばる日本人がやって来たものの、宿の情報等ほとんど無い。ここは地域で一番大きな町だが、ホテルと名の着く施設は確か無かった。人の行き来も少ない。さてどうするかね。こういう時は人数がいると余計なことを考えずにすむのが良い。すぐにバスの運転手に尋ね、そのまま彼の知っているプライベートルームに連れて行ってもらうことにした。

がらんとした大きな部屋にまとめて通され、荷物を置きベッドの上に横たわる。やっぱり皆疲れていたようで、しばらくの間まったりとしていた。外は既に暗く周囲の雰囲気がよくわからないせいか、小さな緊張感が続いている気がした。

簡単につくってもらった食事をとった後、中庭に出て夜空を見上げれば、本当にビックリした。何故なら視力0.4の裸眼でも天の川がよく判ったのだ。こんな夜空は初めてで、あわてて部屋に眼鏡をとりに戻った。

改めて見上げれば、満天にちりばめられた零れんばかりの星々。「星屑」とはこういうことだと言わんばかりの夜空を、もう首が上がらなくなるまで飽きずにずっと眺めていた。そのまま宇宙に吸い込まれそうな感覚だった。考えてみれば、この場所には地上に届く星の光を遮るものなど、何もない。

 

 

 

2  メスティアでのんびり~石積の塔に上る~歌唄いおばさん

 

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この地方に有名な石造りの塔の家は、ここメスティアにもまとまった数が点在する。つまりたくさんある。緑の中に塔が幾本も突き出ている集落の眺めは何だか微笑ましい。

ひとり旅の場合は、長い滞在となる場所でなければ結構こまめに動くのだが、僕は、連れがいるとだらけてしまう性格なのだ。この日も昼近く迄皆で部屋でうだうだしていたが、それはさすがにもったいないというものだ。何ていったって、グルジアの山の中まで来ているのだから。でもこういう時間も久しぶりで楽しい。やっぱり、田舎とはゆったりとした景色や雰囲気を味わう場所である。もっとも部屋のベランダに出ても、裏山の緑以外は何も見えないが。

 

f:id:pelmeni:20190828020705j:plainシンプル故に美味

 

昼食をいただき、さすがに外に出ることにした。広場を突き抜け、町外れまでやってくる。道なりに坂を少し上ってゆくと、子供たちが不思議そうに見つめている。それはそうだろう、普段見慣れぬ東洋人が4人もいるのだから。しかし子供というものは、それでも余計な事を考えずに興味津々で話しかけたり、あるいは黙ったままだったりでいながら、いつの間にか仲良くなってしまう。これを純真というのだろう。世界どこでも共通の純真である。

彼らについてゆくと、とある塔の上で女性が歌を歌っていた。

 

f:id:pelmeni:20190828023205j:plainf:id:pelmeni:20190828021714j:plain石造りの塔 内部f:id:pelmeni:20190828021325j:plain僕らの可愛いガイドです

 

世界遺産の対象になっているスヴァン人の伝統家屋の代表例として、石造りの、方形の塔のような多層家屋が有名であり、今まさにその一つに登らんとしている。高さは10m位で、内部は5〜6層になっている。木製の狭いはしごを子供たちについて昇り、屋根の上に出れば、ぱっと視界は360°の大パノラマとなるはずだ。やっとのことで顔を出すと、一人のおばちゃんが本を片手に歌を歌っていた。きれいな服装にハイヒール。どうやってのぼったのだろうか。

 -----こっちにいらっしゃい

おばちゃんは手招きをし、子供たちと僕らが皆上がると、今にも崩れそうな屋根の上は足の踏み場も無い。しかしそんな様子などお構いなしに歌は続いている。歌が終われば話を始める。ただし、僕らの誰も理解できないグルジア語?この地方の言葉? それだのに、まるで普段通りの自分のペースで話続けるこの人がとても不思議で、横顔をずっと眺めていた。その先にはきれいな谷間の村の景色が広がっていた。気が付けば再び歌い始め、透き通るきれいな歌声は村を囲う谷のずうっと先まで届いているような気がしていた。それにしても、気持ち良さそうに歌う人である。

 

 

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腹が減ったので、帰りに食堂でビールとハチャプリを食した。ハチャプリとはグルジア版ファストフード、どこでも食べられる。パイやナンのような(場所により異なる)平べったいパンの中にチーズが入っている。あたためて食べるのでチーズはとけていて、少しくせのある味だがこれは好きな人ははまると思う。アチャルリと呼んでいたところもあった。ビールは「カズベギビール」という銘柄で、確か普通より度数が高かったと思う。しかし、ビールといいウォッカといいワインといい、この国は酒飲みばっかりだな。今思い返しても「グルジア人=酒飲み」の感は拭えない…

ここで不思議な親父に出会った。JUDOのコーチで、あの大相撲の黒海関を小さい頃教えたという。黒海といえばグルジア出身! でも本当だろうか、こんな山の中で? まあ確かに彼はここから比較的近いスフミ出身であるがねえ。まあ、そんなことはどうでもいい。酒飲んで良い気分になり、歓迎してもらえて、楽しいひとときを過ごし、そして明日塔の家がまとまって残っているウシュグリ村へ車で連れて行ってもらう約束をしたから…。

 

 

 

 

 

3  中世の町~グルジア式宴会~別れはあっけなく

 


柔道親父は時間通り待ち合わせ場所に待っていたが、何故か中々出発しない。車が目の前にあるので我々も大袈裟に文句は言わなかったが、少し苛立った。ようやく出発したが久々の悪路を3時間近く。道は整備されておらず、途中水浸しになっているところもあった。アルメニアでもさんざん乗せられたが、旧ソ連製の4WDはたて付けが悪く、悪路で弾んでいるうちにどこかでネジが飛び、果ては車が崩壊してしまうのではないかという悪夢が今回も頭の片隅をよぎる。ただし車窓の風景はとても美しく気が紛れるというものだ。そうこうしているうちに、静かな谷の中に幾つもの塔が見え始め、期待が高まってきた。

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ウシュグリ村にたどりついた。山を背景に塔が立ち並ぶ不思議な集落の光景は、映像や雑誌で記憶していたとおりだった。これら石造りの塔は、アッパー・スヴァネティ地方各所の集落に数百が残っており、地域の中心地メスティア近くのウシュグリ村に多くが残っていることが知られている。写真好きでこだわる一人を村の手前で降ろし、とりあえず道の行き着くところまで行った。橋のたもとで車を降り、一番遠くに見える教会まで緩やかな坂をのぼって行った。とても穏やかな風景だった。

 

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実際に使われているのか怪しい教会だったが、そこからの眺めはすばらしものだった。正面には雪を抱いた力強い山々が連なる雄大な景色。振り返れば谷に点在する集落が一望のもとにあった。あの山の向こうはロシアなのだろうか?

そして、多くの人が集まっていた。人が集まり始まるものといえば、ここではそう、宴会。場所が場所だけに、おそらく地元の人の何か集まりなのだろう。英語のできる人が誘ってくれた。せっかくなので末席に参加させていただくことにした。「タマダ」という音頭とりの様な人が前口上らしきことを述べ、もちろんウォトカの乾杯。あれ、ワインもあったかな? そしてそのタマダが順々に入れ替わり次から次へと乾杯が続いて行くのだった。これが大事。そう、このグルジア式宴会は酒が強い人間でないときつい(笑)。その他には捌いたばかりという茹でた羊肉、パン、チーズが振る舞われた。さっきまで知らない者同士がお互いつたない英語で精一杯のコミュニケート。こういう時間は楽しいんだよね。だから、旅は止められない。

ただし男2人は酒に強くなかった。酔い冷ましに、一人場を離れ、もう一人、、、。集落入口の橋で待っていた帰りの車と写真君に落ち合ったが、残して来た姉さんはすぐには戻って来そうもないので、僕は近くの集落の中へ散策に行った。

 

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時間が止まっているような場所だった。黒ずんだ石積みの壁には本当に長い時間を経てきたことが感じられた。人間の営みを長きにわたり見届けて来た石の壁というものを見るたびに、僕はいつも言い知れぬ安堵感を覚える。日本の木造文化も清潔で気持ちの良いものだが、強固な石の表面に時間というものだけが作用できる微妙で柔らかな風化には、格別な味わいを感じる。寡黙さや、力強さ、安定感、大地との一体感。

デジカメで写真を撮っても水平になっていない。宴会の酔いがまわってきて歩くのが面倒になってきた。道端に蛇口を見つけたので顔を洗おうとして、出て来た水の冷たさに驚いた。グルジアの山の雪解け水なのかしらん。ははは、小さな笑いがこみ上げてきた。

その後ひと気の無い集落の中を時間がたつのも忘れてしばらく歩き回った。塔の根元は意外と太い。何故か犬に後を尾けられたが、距離を空けずに黙って居るだけだった。ただ単に他所者とかそういう観念がないのだろう、か。

 

f:id:pelmeni:20190829205505j:plainコーカサスの子供たち


集落の入口で僕を呼ぶ声が聞こえた。帰りの時間だという。小走りで車に戻ると後ろの座席で姉さんが酔いつぶれて何かぶつぶつつぶやいている。親父がアクセルを踏んだ。

まあ楽しかったなと思いながらの帰路の途中で、またもや宴会に遭遇! おまけに親父の知り合いがいるらしく、ちょっとだけと言って彼は車から降りてしまった。上での宴会に加わらなかった写真君がどんなものか知りたいと親父について行き、そして見事に撃沈、ふらふらになって戻って来た。今日は祝日なのかそれともこれが平常なのだろうか? 

酒の国、グルジア。人々は皆陽気で人当たりが良く親切、そして酒飲みの国。本当に彼らの人生に欠かせない一部分なのだろうと思う。

 

夕食後、今日も無心で星空を眺める。相変わらず見事という他はない。何だか吸い込まれそうな気分になり、一瞬、星空と自分の距離が無くなったかのように感じられる時があった。原初的な宗教的体験かもしれませんね、これは。

 

 

 

僕はもう一日くらいここでだらだらと過ごすのだろうと思っていたが、何となく成り行きで翌朝出ることになった。でも十分楽しんだ感はある。

 

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帰り道はほぼ下り坂だったので5時間でズグディディに着いた。楽しかったことを思い出しながら窓の外を眺めていたら全然長くは感じなかった。でも正に下界に降りてきたという感だ。気温も高い。

 

乗ってきたミニバスはトビリシ行きだったので途中下車のかたち。駅前で客待ちでもして少し時間をとるかと思ったが、ここで降りる僕とウッチーの荷物を下ろすとすぐに動きだした。 えっ。 別れの言葉を交わす間も無く、これには皆驚き、タカシ君もヤマさんも窓から身をのりだし思いっきり手を降ることしかできなかった。

 -----えー、行っちゃうのーっ!?

ウッチーはほとんど半泣き状態だった。こいつらに負けられるかとウシュグリの宴会で地元民と一緒に酔いつぶれるまで飲んだ彼女も、やはり女性。

予想もできなかったあっという間の別れ。でも、これも、旅。

 

  -----また、どこかで!

 

 

 

 

<追記>

僕が今まで訪れた中では五指に入る場所。唯一無二の光景、手付かずの自然と人々の素朴な営み、平和な雰囲気での寛いだ滞在は何物にも変え難い体験となりました個人的には「風の谷」のイメージがパキスタン北部のフンザとともに重なります

当初はまずカズベギの方に足を伸ばしてからスヴァネティへ行くかは考えるつもりでした。再びトビリシまで同じルート往復するのは嫌だったので、カズベギはあきらめトルコに向かいました。この後はみんなバラバラで旅行したようですが、イスタンブールやカイロで再会したりしていたらしい。時々メールがきました。でも僕だけが結局誰にも会えなかったのは、移動のスピードが遅く寄り道も多かったから。カイロまで多分2か月分近く遅かった。

 

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ちなみに当方所有の書籍に掲載されているウシュグリの写真「スヴァネティアの要塞化村落」 撮影時期はわからないがおそらく60年代前半より前と思われる 山々の形や手前の道、建物など変わっていない 塔は少し減り新しい住宅は増えている

それから更に14年、現状はさて…

 

●終了したジオシティーズの自身のサイトに載せてあった旅日記。多少加筆修正しましたが、基本的には旅行直後の文章です。写真は追加しました。 

 

 

 

'05旅 その6 トビリシ散景

コーカサス5 > グルジア(現ジョージアトビリシ ●Jul. Aug. 2005

 

 

 

スマホやデジカメの進化が写真撮影の在り方を変えたということは、自身の体験としてはっきりと実感できるものです。スマホの画質やデジカメ記録媒体の容量の小ささに苦心していた頃は、枚数なんか気にせずメモ代わりに使う現在の撮り方なんて夢みたいなものでした。僕は特に写真を趣味にする程ではありませんでしたが関心は持っていました。それでも今思えばリミッターが掛かったような気分で撮影していたような気がします。

昔の旅の写真を何度か整理して分かったことですが、滞在の長さや印象の強さのわりには撮影枚数が非常に少ない場所があるのです。何度も通った大通りや公園、広場、記憶に未だ新しい町並みなど当然撮ってあるのだろうと調べてみると、すっかり抜け落ちているのがわかってがっかりです。それは大抵だらだらと滞在している場所です。観光気分を忘れ去り、リラックスしていたのか気が抜けてしまったのか… そのうち撮ればよいと思いながら結局忘れてしまうのでしょう。ただ、ひとつ確かなことは、そこは本人とても気に入った場所なんですよ。制限が無ければ長く滞在してみたいと思わせるような魅力的な場所。ポルトもそう、ブダペスト然り、バンコクですら、そしてトビリシもそれほど長く居たわけはありませんが、僕にとってはその種の場所でした。鉄道駅付近も市場もルスタヴェリ大通りも共和国広場も何度も往復しました。川沿いの風景も気に入っていたと思いますが、写真には何故か残っていません。

 

 

さっそく散策に出かけます。川沿いに長く続く市街地はまわりを小高い丘に囲まれています。こういう地形の街は良い所が多いこと経験上知っていますが、やはりその通りの場所でした。

周囲の列強が次々にこの地を制覇しては去っていった土地です。そのたびに文化が積み重ねられ、それが地層のように表出している様が興味深く、このような都市は街歩きが楽しいものです。気が付けばいつのまにか旧市街に足が向かっていたなんてことが幾度もありました。

 

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ソビエトの贈り物~旧共産圏の首都によくみられる典型的な建築物 たいてい「科学アカデミー」を名乗っているがここも同じなのだ プロポーションは良い

 

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壁面は語る

f:id:pelmeni:20190827192314j:plainやっぱり此処もスイカの季節です

f:id:pelmeni:20190825185509j:plain旧ソ連地域独特、奈落の底へ落ちていくような地下鉄の高速エスカレーター

f:id:pelmeni:20190825185527j:plain皆さん荷物が多いようで

f:id:pelmeni:20190827200247j:plainこれは何様式?

f:id:pelmeni:20190827193532j:plainf:id:pelmeni:20190825185616j:plainf:id:pelmeni:20190825185630j:plainどの車も車体がべこんべこん、老体に鞭打ち走るトロリーバス

f:id:pelmeni:20190827191506j:plain丸っこいバスの見掛けはかわいいが内部はたいてい…

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郊外の丘陵地に屋外博物館がありました。これは北欧、東欧でよくみかける公園施設で、国内各地から移設された住宅や展示をとおしてそれぞれの地域の文化風習に親しんでもらおうというもの。 好きなのでアクセスが良ければたいていの街で訪れます。

f:id:pelmeni:20190825210929j:plain新市街をのぞむ丘の中腹にある

 

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f:id:pelmeni:20190825211247j:plainf:id:pelmeni:20190825211313j:plain家屋の一つに”Cat Heaven"なる看板が掛けてあり猫がたくさん飼われていた 何故ここに? 

 

 

トビリシ鉄道駅からほど近い町中の一角、鉄柵の大きな扉を開いて中庭に入るとすぐ左手にある鉄の階段を上った二階にその宿があります。プライベートルーム、通称「ネリ・ダリの家」。姑のネリと息子一家とが住む住居内の数室にベットが置かれ旅行者を泊めています。この時は夏休みで嫁のダリは子供を連れて里帰り中、ネリ婆さんと彼女の息子の親父二人だけでした。宛がわれた部屋は蔵書で一杯だったので尋ねたところ、亡くなった爺さんは教師で物腰の柔らかい息子(もう親父)はエンジニアだが失業中とのこと(この辺記憶が少し曖昧です)。英語を知りたいらしく旅行者から教わっていましたが、相手は日本人ですけどねえ。当地ではインテリのようですが仕事は無く、日々得られる宿泊費を家計の足しにしているということでしょうか。グルジアもなかなか経済が立ち行かない国です。

旧東欧では昔から行われていたプライベートルームは、家の鍵も渡され出入り自由に使わせてもらえるところからベッドが無造作に置かれドミトリー(相部屋)状態まで様々です。ただ一般の民家にお邪魔するわけで、家の人とは常に顔を合わせることになるのはどこでも同じです。そういう習慣の無い日本人にとっては慣れるまでは不思議な感覚なのですが、安く泊まることに対して背に腹は代えられない旅をしている人にとっては非常にありがたいシステムでした。居心地の良い家主の評判はすぐに広まり、情報として共有されることになります。

それほど裕福でない庶民的な家庭の場合が多く、個人的にはそういう普通の人とお話したり生活を垣間見ることに興味がありました。ここのネリ婆さんも言葉は全く通じず、お互いに話し始めても会話になっていないのですが、気が付けばコミュニケーションが成立しているという本当に不思議な人でした。文句を言ってるのだか話があるのだかよくわからないまま何か喋りながら僕らの前を通り過ぎたりすることもありました。簡単な食事を作ってくれたこともあったので満更嫌われていたわけではないと思いたいです。親父共々元気だろうか。

旧東欧辺りでは90年代後半頃でも気の利いたホステル(YHではない)などというものは限られた存在で、僕の知っている限りでは2002,3年頃から増え始めた感があります。プライベートルームがバックパッカー達によく利用されたのもコマーシャルなツーリズムの波が押し寄せる前の言わば安宿空白時代。今は安くて居心地の良い宿はどこにでもあるので以前ほど話題にはならなず、敢えて泊まろうとする外国人旅行者もいないことでしょう。商売気のあるところはゲストハウスに転換した話も聞きます。当時もネット予約サイト等は既にありましたが、あくまで有名な街や観光地に限られたものでした。片田舎ではまず現地に行かなければ始まらなかった。今からみればすべてが昔話です。

 

f:id:pelmeni:20190826034827j:plainネリとはこの人

f:id:pelmeni:20190826035218j:plain猫が子供を産んだばかりで育てていた 仔猫の色や柄が全部違う! 

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初日に泊まっていた日本人旅行者は世界全ヵ国制覇を目指している人で、あと数か国ということでした。すごい人もいるものですが本人はいたって普通の人。1日だけでしたが久しぶりの日本語で夜遅くまで話しました。その後トルコで再会しました。

翌日発った彼と入れ違いにやって来たのは3人の日本人旅行者です。少し恐れていたことですが、やはりだらだらした時間が始まりました。2人程度であればそうでもないのですが、4-5人が集まると一気に日本の緩い空気がその場に立ち現れるのは、いつものことです。

僕の案内でまた旧市街へ街歩きに行きました。この街は本当に楽しいです。目にとめるものが多くいつでも飽きません。地元の人も皆さんノリが良いので時々巻き込んでは楽しい時間を過ごしました。



f:id:pelmeni:20190825214558j:plain陽気な街の人とすぐに打ち解ける東洋人

f:id:pelmeni:20190827034712j:plain夕食にポピュラーなヒンカリ 大味な豚まん モモやボーズに近いかも 皆起源は一緒です… 

 

僕は酒をあまり飲みませんが、ビールやワイン飲むんだったらウォッカやラキアをちびちびの方が好きという変な人間です。多分この頃の旅行体験が嗜好に多大なる影響を与えているのだと思います(笑)。スターリンが愛したといわれるワイン、フヴァンチカラも美味かったです。

見所はあるし、食べ物も酒も美味しい。物価は安く、人々も陽気。グルジアいろいろヤバイ(今風に)ところだな、何であまり知られないのだろうというのが当時の印象です。