もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'05旅 その16 イエメン3

アラブ5>イエメン3 Sep.-Oct. 2005

サナア→タイズ→アデン→サナア←→シバーム&コーカバン

 

 

 

『アデンはおそろしい岩地です。草は一本もなく、良い水は一滴も出ません。蒸溜した海水を飲むのです。暑さは桁はずれで、・・・』 (家族宛の手紙)

詩を捨て当地で交易に従事していたランボーが一滴の水も無いといったアデン。諸々ずいぶんな言い様ではないか、これは是非とも行かなくてはならない、と当時考えたかどうかは今となっては定かではないが、妙な期待と共に訪れた実際のアデンは… 一言、

 -----蒸し暑かった

ゆるゆると漂う湿気の多い空気は他のイエメンとは異なるものだった。暑さの中のむせかえるような人いきれも此処の所無かったものだ。町中にわずかに漂う饐えた臭いは、熱帯の町特有のものだろう。熟れ過ぎた果物、捨てられた野菜、腐ってゆく生ものが露わに晒されている。暑い所ではどうしても隠すことのできない自然のプロセス。何となく雑然として投げ遣りな雰囲気も港町らしい。

 

※そこでもうひとつの感想

 -----まるでインドだな!

 

個人的には暑い所はあまり好きではない。大抵、たまっている疲労が表出し行動力が鈍ることになる。ここでも途中で歩き回るのが嫌になった。のんびり落ち着くことのできるカフェなどがあるわけでもなし。何処に行っても暑さから逃れることができないというのは、長く滞在すれば慣れるのだろうけど初めは気が萎える。如何ともし難い。

アデンという名前を聞けば、当時は二人の文学者のことが思い浮かんだ。両者ともフランスの詩人。ランボーの他、もう一人はそのタイトルずばり「アデン・アラビア」の作者ポール・ニザン。多分著者が記したのと同年代の頃読んだはずだが、性急で思い上がりの激しい文章についていくことはできなかった。すっかり忘れていたので改めて読み返してみた。今はそれほどでもないが、やはりあまり受け入れられるものでもないと思った。 

それとは別に、ランボー、海と来れば、連想されるものは有名な映画の一場面。ベルモンド&カリーナとゴダール気狂いピエロ。「地獄の季節」の一節が引用されたあまりにも有名なラストシーンの印象が強い。静かな海を見下ろす崖地だった故、アデンのイメージが勝手に結びついた。しかしここは地中海ではなくアラビア海。もちろん分かっていたがアデンはあんなにドラマチックな場所ではない。共通することは遮るもの無く降り注ぐ陽差しくらいかな。でもその場に立てば眼前の現実に嫌でも惹き寄せられる。

 

f:id:pelmeni:20200516190027j:plainf:id:pelmeni:20200516190459j:plainf:id:pelmeni:20200516190052j:plainクレーター地区のスーク かなり雑然として混乱している

 

f:id:pelmeni:20200517011015j:plainかつて大英帝国領だったので、教会も時計塔も一応ある


f:id:pelmeni:20200516191036j:plainf:id:pelmeni:20200517162545j:plain

タワヒ地区にはコロニアルっぽい古い建物も多いが、少し寂れて静かな雰囲気だった

 

f:id:pelmeni:20200516193053j:plainf:id:pelmeni:20200516192758j:plain


f:id:pelmeni:20200516192141j:plainf:id:pelmeni:20200516192116j:plain

日本のODAによる新しいゴミ収集車 運転手はカートを噛みながら何それっ?て感じ

 

f:id:pelmeni:20200516194304j:plainf:id:pelmeni:20200516194606j:plain

『Rimbaud Tourist Hotel』 実際のところ、アデンでの最大の目的はこの宿に泊まることでした。ここはランボーが当時雇われていたバルデー商会の建物です。かつては近くまで海が迫っていたそうですが現在は大分先。このつい先年までフランス政府がフランスアラブ文化協会として所有していたそうで、返却後にホテルとなりました。共用部に昔の雰囲気が残っていたものの、泊まった客室は広い部屋を雑然と区切っただけで、前時代的な音をたてるエアコンを動かさなければ暑くて休むこともできないところでした。話のネタに泊まるような所でしたが、そのよう謂れの場所ですから見逃すわけにもいきません。多少は昔に思いを馳せることができました。(その後少し綺麗に改装され営業が続き、現在はもう無いみたいですが情報が入ってこない地域なのでよくわかりません。)

 

 

  *

アデンにはサナアからタイズ経由で向かった。タイズには一泊して一通り歩いたが街自体は普通でそれほど特徴はないと当時の日記に書いてある。夕食に食べた白身魚の炭火焼が美味しかったことしか書き留めてない。何となく記憶にあるがもう忘却の彼方に去りつつある場所だ。途中のサナア~タイズ間の風景は素晴らしかった。イエメンの山岳地帯はどこも力強い印象を受けるが、乾燥しているので緑で深く包み込まれるような感じはない。ただ薄くてもやはり緑、ここがアラブであることを忘れさせてくれるような安らぎは少しだが感じられた。

帰路では乗っていたバスが道路を歩いていたロバの群れを撥ねてしまった。倒れた3匹は可哀そうに助かりそうもなかった。やがて村の人に続き長老らしき人物が現れ運転手等と交渉を始め、1匹あたり20,000イエメンリヤル(約100米ドル)の補償で話がついたらしい。1時間かかった。以上は英語を話す近くの席の客が教えてくれた。時々起きる事だという。

食事休憩で停まった町では何と自警団に遭遇した。カラシニコフという機関銃を持った民間人が町中で警備をしているのだ。昼食をとった食堂の前にも銃を肩から下げた2人が立っていたので、話をした後にカラシニコフを持たせてもらった(もちろんそれが目的!)。銃口を上げるわけにもいかず鈍い重さに腕が引き下げられる感覚だった。写真を撮ってもらえばよかったが、そこまで気が回らなかった。残念。本物の銃なんて手にしたのは今まで生きてきてこれっきりだ。

f:id:pelmeni:20200516212012j:plain
f:id:pelmeni:20200516171806j:plain

 

 * 

三たび戻ったサナアからのデイトリップはシバーム&コウカバンへ。この二つの町は崖の上と下に分かれた兄弟の町の様にみえる。上の町は想像した通り敵の襲来から逃れて籠る砦のような存在でもあると教えてもらった。

f:id:pelmeni:20200419162330j:plain下の町シバーム(砂漠の摩天楼とは同名だが別)は普通の田舎町。スークに多くの人が集まり賑わっていた。コウカバンへは背後の崖を1時間近くかけて登らなければならなかった。乾燥しているが陽射しが強く、犬も猫も日陰でお休み。

f:id:pelmeni:20200419163002j:plainf:id:pelmeni:20200419204908j:plainf:id:pelmeni:20200419203004j:plainコウカバンは赤い石積みの建物が多い。住民はあまり見かけなかった。
f:id:pelmeni:20200419201827j:plainf:id:pelmeni:20200419203451j:plain

 

 

 * 

アラブでは日中は非常に暑いため、たいていの場所では陽が落ちるあたりから街に人が出始める。サナアは標高が高いせいでそれほど暑くはないのだが、暗くなった後もスークは賑わっている。おかげで夜の散策も楽しかった。総じてイスラムの大きな街は夜でも家族連れが多く安全なところだ。

 

f:id:pelmeni:20200420054044j:plainf:id:pelmeni:20200420054945j:plainf:id:pelmeni:20200420055550j:plainf:id:pelmeni:20200420060223j:plainf:id:pelmeni:20200420060633j:plain

気に入ったチャイハナがあって宿への帰りがけによく立ち寄った。サナアには他のイスラムの街同様に野良猫が多く、その店にも何匹か常に出入りしていた。この子は最高にかわいかったが、そういう猫に限って人馴れしているわけではなく、不用意に手を出すと猫パンチがとんできた。簡単に気を許さないところがまた猫らしくて良い。隣にある鉄の棒で組まれた物は、チャイグラスを丸穴に上から差して出前に持ち出す器具。T型の部分を上からつかむ。実際に使っているのを見て、なるほどと思った。

 

f:id:pelmeni:20200420063804j:plain

一日歩き回り疲れた足を引きずり旧市街の宿に帰る。静かな夜の街をゆっくり歩いていると、高ぶった気分が徐々に落ち着いてゆくのがわかる。この時間が好きだ。乏しい灯は余計な物まで照らすことなく光と影による意匠のみを描き出す。オレンジ色の光の下ではあらゆる物が情緒的に見える。饒舌な昼間の顔とは異なり、夜の街は陰影に富み静かで落ち着いた世界を垣間見せてくれる。魅力的だ。

 

 

 

 

'05旅 その15 砂漠の摩天楼 イエメン2

アラブ4>イエメン2 Sep. 2005

サナア→サユーン、シバーム→アルムカッラ→サナア←→ロックパレス

 

 

もうだいぶ昔の事になるがNHKの紀行番組で、アラビア半島奥地の砂漠の真ん中にぽつんと存在する町の、高層住宅がびっしりと建ち並ぶ姿を紹介していた。確か「砂漠の摩天楼」という表現が使われ番組のタイトルにもなっていたと思う。まったく変わった町だなあという印象が持ったが、それが忘れ去ること無くずっと記憶の奥底に残っていた。イエメンに行くことを決め訪問地を調べているうちに、その砂漠の摩天楼がシバームという町であることを知った時の興奮と言ったらない。自分がそのまさかあの場所に行くなんて当時は夢にも思ってはいなかった。実はこのような経験は幾つかあり、中国貴州の鐘楼を持つ侗族集落もNHK教育テレビだし、九塞溝もそもそもは深夜のBSハイビジョン試験放送の映像に息を呑んだ所だった。

 

f:id:pelmeni:20200412021727j:plain例の2日後の朝の便には間違いなく乗せてもらうことができた。大型の新しいバスは砂漠の一本道をひた走る。舗装は新しくバスの乗心地も快適だったが、この数年前までは石畳の道だったのでサユーンまでは4WDで23時間!も掛かったということを聞いた。今はそれでも10時間。


f:id:pelmeni:20200412021021j:plain宿から眺めるサユーンの町 ワジによる巨大な浸食谷の中にある 左は王宮

  

 

 

 

車がカーブを切り、パッとその姿を現した時はどきっとした。

-----ついに来ちゃったな

特異な町の構造と、地の果てのような(印象です)イエメンの辺鄙な砂漠の中というロケーションが印象的。それ故にTVでみた時以来忘れられないでいた。あのうろ憶えな映像が実際に目の前にある。まずは感慨深い対面となった。

シバームは古代(紀元前8世紀ー3世紀)にこの地域に存在したハドラマウト王国の首都として栄えた。町自体は以後2000年もの間続いているが、この泥煉瓦でできた高層住宅建築はほとんどが16世紀以降に建てられたもの。洪水と遊牧民の襲来から身を守るためこのような形態をとるに至った。この場所で洪水というのも俄には信じられないが、2008年の豪雨では被害が出るほどだったようだ。

 

f:id:pelmeni:20200417210058j:plainf:id:pelmeni:20200417232040j:plain

 

f:id:pelmeni:20200417232748j:plainf:id:pelmeni:20200417233958j:plainf:id:pelmeni:20200417235404j:plainf:id:pelmeni:20200417234557j:plain

 上を見上げたままなので首が痛い 見上げないわけにもいかない

f:id:pelmeni:20200418000052j:plainf:id:pelmeni:20200418001645j:plainf:id:pelmeni:20200418001048j:plain

 

ただ自分がそんな場所にいることがやはり不思議に感じたかといえば、そうでもなかった。歩き回っている間じゅう考えていた。事前の想像とは少し離れ、町の体裁をなしている。ここも普通の人々によって普通の生活が営まれている普通の町であることに違いはなかった。手を伸ばせば生活している人々の日常に触れ合うことができる。余程の場所でない限り、我々が行き着くことのできるような場所は、何も特別な場所ではない。旅を重ねると、人間のあらゆる差異なんて実際は大したことではなく恐れる必要もないことがわかる。雑多な体験を経た後にたどり着いたその事実の単純さには思わず苦笑いだが静かな重みも感じた。真理とはそういうものなのかもしれない。旅とは人間が普遍的な存在であることの確認作業でもあると思う。

 

f:id:pelmeni:20200418002233j:plainf:id:pelmeni:20200418002013j:plainf:id:pelmeni:20200418002614j:plainやっぱり子供たちにはつかまるよね~ お互い暇人同志だから

 

f:id:pelmeni:20200418003342j:plainf:id:pelmeni:20200418003745j:plain何か?

 

f:id:pelmeni:20200418015424j:plain

枯れ川をはさんで反対側の町から眺める。これが全体像。砂漠の摩天楼とは言い得て妙だ。今だったら是非ドローンを使って上空から撮影したい光景。

 

帰路に同じ経路を使うと安くあがるが自分の主義に反するので別のルートを探す。本来ならムカッラからアデン方面に向かい南部を訪れたいのだが、その長距離のバスには乗車できないようだった。一度飛行機でサナアに戻ることにしたが、飛行時間自体は短いので、ムカッラまで移動した後午後遅い便で飛ぶことに決めた。

サユーンからムカッラまでは乗合で移動。しばらく巨大なワジの谷を進み、やがて賽の河原のような荒涼とした風景の中を走る。人が住むことのできない乾いた大地が続いた後、道路はつづら折りとなり視界の開けた崖を駆け下りる。ダイナミックな地形の変化に息を呑む。でも写真は無い。雰囲気は後年鉄道で通ったジブチの奥地に似ている。まあこの風景を見ることができただけでも、狭い車に詰め込まれ我慢したかいがあったというものだ。(当時の感想・今はもう憶えていない)

f:id:pelmeni:20200419004738j:plain

途中の沿道の町。ワジには雨季に水が流れるため緑があり人が住むことはできる。地下水脈もあるのかもしれない。切り立った崖に挟まれた大きな谷のよう。

 

アルムカッラの町は普通の町。あまり時間に余裕が無かったので、ざっと歩いた後タクシーをひろって空港へ急いだ。イエメニア航空の国内便は自由席のせいか乗客は騒がしい。以前に乗ったアリタリア航空のイタリア人の子供ほどではないが、いい歳した若者が… 50分でサナアに到着。3日ぶりでは何かが変わっているわけでもなし。

 

 

サナアに戻り、これまた特徴的なロケーションで有名なダール・アルハジャール(ロックパレス)を訪れる。ワディダハールという町はサナアから14㎞しか離れていないので半日のデイトリップ。

 

f:id:pelmeni:20200418205406j:plainf:id:pelmeni:20200418211036j:plainf:id:pelmeni:20200418211717j:plain

大きな岩の塊の上に鎮座するイエメン建築様式の宮殿。ここはイマームの建てた夏の離宮。元々は1786年頃に建てられ1930年代に現在のかたちに増築された。マッシブなボリュームの幾何学的構成とそのうえに施されたかわいらしくもある漆喰の装飾の対比。室内の装飾や色ガラスの使い方も独特で美しい。建物自体はこじんまりとしているが、5層で17室もあるとのことです。

 

f:id:pelmeni:20200418212421j:plain
f:id:pelmeni:20200418204209j:plainf:id:pelmeni:20200418203254j:plainf:id:pelmeni:20200418203747j:plain

 

f:id:pelmeni:20200418211748j:plain

宮殿から眺めたワディダハルの町 切り立った岩山の表情が厳しいが意外と緑も多そう

 

 

 

 

 

'05旅 その14 気分は千夜一夜物語 イエメン1

アラブ3>イエメン1 Sep. 2005

アンマン→入国・サナア←→マナハ&アルハジャラ

 

 

この旅のルートを決めた時に、ぜひとも訪れたいと思った国の第1がイエメンだった。ただトルコやエジプトなどの国と違って、陸路で簡単に入ることのできる国ではないうえ、治安などの状況は安定していなかった。諸々の確認は近隣で情報を仕入れたうえで決める。このような国があった場合、僕は俄然行く気になる。大抵面倒な手続きや多少の苦労が付き物だが、それらのプロセスを含めて全部を旅として楽しむつもりで。

イエメンには、リゾートやショッピング、グルメといったモダンな娯楽が出現する以前の素朴だが少々荒っぽい世界を期待していた。それは確かにそこにあった。ヴァナキュラーで風変わりな外身の印象は強いが、昔から変わらずに続く文化や伝統、風習のかたちは頑固で優雅だ。アラブでありながら石油が無く産業や開発が遅れたおかげで、旅人にとっては天国のような場所がアラビアの端に残されたということなのだろう。

サナアにはどこかの街から飛行機を使って飛ぶことになるので、これまでダマスカスやベイルートの旅行代理店を幾つかあたってみた。良い便が無かったり値段が高すぎたりで結局アンマンから往復することになった。でもこのロイヤルヨルダン航空のフライト、出発が夜遅くなうえ、なんと11時過ぎにフルコースの機内食が出た(でもよくあることを後に知る)。深夜1時半到着、アライバルビザを取得後到着ロビーに出たのが3時。サナアの空港は70年代の日本の地方空港のように(…嘘、知りません)ひなびた雰囲気だった。空港で朝まで過ごすことも考えたが気付いたらタクシーをつかまえていた。当時の日記には「深夜だったので激しくは値切らなかった」なんて書いてある。こんな時でも値段交渉を気にするほど旅ズレしていた自分に苦笑だ。車を降りた大きな広場は無人で、まったく何をやってるんだろうと思いがら近くの安宿に転がり込んだ。

 

翌日、満を持してサナアの旧市街へ歩み入る。誰が初めに考え出したのかしらないが、楽しい意匠である。煉瓦と漆喰で固められた砂糖菓子のような建物が密集してたち並び、狭い通路が入組んだ地上は中世の迷宮のようである。ここは楽しいパラレルワールド、日本のテーマパークなんて比じゃない。作り物ではない現実の世界を彷徨うのである。我々の見知ったものとは少し違う、でも現在進行形で人々に生きられている確かな世界だ。そのリアルさがまた肝銘的で、これほど旅をすることの幸せを感じる場所はなかったと、今でも思う。

 

f:id:pelmeni:20200408052123j:plainf:id:pelmeni:20200408051840j:plain
f:id:pelmeni:20200408051345j:plainf:id:pelmeni:20200408053955j:plain

イスラム旧市街の中心はスーク(バザール)。サナアでも此処に人も物も集まる。当然の様に足が向かう。大勢の人が、用が有るのか無いのかわからないが、とにかく歩いているという印象。ジャンビーヤ(湾曲した刀、今は装飾品)を腰に帯刀している人も多い。一緒に歩いているだけで気持ちが高揚する。気分はアラビアン・ナイト千夜一夜物語の世界。

f:id:pelmeni:20200408143356j:plainf:id:pelmeni:20200408144215j:plainf:id:pelmeni:20200408145039j:plainf:id:pelmeni:20200408145829j:plain

どんどん奥に入ってみる。

f:id:pelmeni:20200408151856j:plainf:id:pelmeni:20200408152636j:plainf:id:pelmeni:20200408153043j:plainf:id:pelmeni:20200408153526j:plain

昼下がりのカートタイムに突入したようで、皆さん微睡んでいました。もう仕事をする時間ではありません。カートとは弱い覚醒作用をもたらす成分を含む樹木の葉で、新芽の葉をくちゃくちゃ噛むのです。飲酒をしない人々の嗜好品として男性の間で絶賛大人気です。どんどん口の中に放り込み続けるのですぐに頬が膨らんできます。大抵ごろんと横になったり何かにもたれ掛かったり体をリラックスさせた状態です。頭の中も休憩中みたいでした。僕も彼等に分けてもらって噛み続けましたが効果はわかりませんでした。コカコーラ&カフェイン中毒者にとっては刺激が弱過ぎたようです。水パイプのほうが好きだなあ。ジブチエチオピアでも同じ様な習慣がありました。

 

f:id:pelmeni:20200408160134j:plain

サラームアレイコム! かわいい男の子が出迎えてくれた… のかな?

 

別の宿にある眺めの良さそうな屋上カフェに行ってみる。マフラージ(伝統様式の休憩室)で寛ぎ、テラスに出て360度のパノラマを楽しんだ。

f:id:pelmeni:20200408141434j:plainf:id:pelmeni:20200408141901j:plain

 

 


次の目的地は内陸にあるシバームだった。滞在する町サユーンへは10時間掛かるので夜行バスを使い宿代を浮かそうと目論んだところ、なんと出発直前にパスポートをチェックされたあと荷物と共に強制的に車から降ろされてしまった。すぐ近くのオフィスで代金を律義にも払い戻した後にバスは去って行った。説明が無かったのでぽかんとしていたところ、近くにいたサウジアラビア人の学生が窓口で話を聞き英語で教えてくれた。彼曰く、セキュリティの為外国人は夜行バスに乗せないとのこと。じゃあ何で売ったんだという話だが、、、。そういえばムカッラからアデンへ行くバスの切符を旅行者が買えなかったという情報が知られていたが、それも長距離バス。この頃はやはり夜行となる便には外国人旅行者を乗せない決め事だったのだろう。

当時イエメンは治安が必ずしも良くはなく、少し離れた所へ行く際は場所によりパーミッションが必要だった。該当する地域の行先が記入された許可証を10枚くらいゼロックスでコピーして携帯し、道路の検問の度に提出する必要があった。確か、9.11以降の悪者アルカイダに協力する部族が国内にいたため、政府と米軍が協力して掃討作戦が行われた後の頃だったはず。

 

翌朝のバスの席は取れなかったので再出発は翌々日の朝便となり、サナア滞在が二晩増えた。 翌日は気を取り直して後の予定の前倒しをすることにした。サナアからマナハとアルハジャラという町を日帰りで訪れる。マナハまでの山の風景は中東では珍しい山岳地帯。乾燥地帯の段々畑というのも珍しいが、何かさっぱりし過ぎていて少し寂しい。途中通過する沿道の集落はみなゴミに溢れてインドの様だ。乾燥しているので砂っぽくカサカサした印象だが、汚いことには変わりなく困ったものだ。

マナハの町は金曜でもないのにスークも店も開いていない。閑散として寂しかったが、地元の人は幾らか出歩いていたので簡単な立ち話をした。斜面に四角い建物が貼りついている光景が物珍しかった。イタリア山岳都市みたいでかっこいい。

ここからハジャラの町までは緩やかな坂道を約1時間かけて歩く。ピクニックのように長閑な気分。山の中で眺めも良い。

崖の上に建つこの町もピクチャレスクだ。内に入ると建物が綿密に寄添い道の狭さも相まってまるで迷路。時を超える不思議な空間だ。そしてウザいガキかわいい子供たちが集まってくる。しかし彼等は物か金を渡すまでは追い払っても追いて来ようとする。今まで観光に来た旅行者が気前良く物をあげ続けたものだから、当然の様に付きまとい要求するのだろう。子供に罪はないが一人でゆっくり観光できないので多少苛ついた。最後には小石の投げ合いになり(笑)続けても大人気無いので早々に退散した。

 

f:id:pelmeni:20200408162740j:plainf:id:pelmeni:20200408163141j:plain
f:id:pelmeni:20200408162356j:plain

マナハ

 

f:id:pelmeni:20200408171102j:plain山道を歩く マナハの町が遠ざかる

f:id:pelmeni:20200408171559j:plainf:id:pelmeni:20200408172038j:plainf:id:pelmeni:20200408194311j:plain

f:id:pelmeni:20200408201552j:plain

アルハジャラ 城砦のような町!

 

 

 

 

'05旅 その13 すべては砂に還る シリア2&レバノン

アラブ2>シリア2、レバノン Sep. 2005

ハマ→パルミラ→ダマスカス→国境→ベイルート←→スール、シドン、バールベック→国境→ダマスカス→ボスラ→国境→アンマン

 

 

あまりエアコンの効いていないバスだった。トルコと違って小国シリア、それも地方都市ハマ出発の中型バスのせいか車体は古くて少しくたびれていた。日差しが強く黒いカーテンがどの窓にもひかれている。旅行者としては、たとえ周囲が変化のない砂漠地帯であってもそれはそれで眺めたいものだが、地元の人にとっては特に興味を持つ理由などない風景なのだろう。皆何かに耐え忍ぶかのようにじっと動かない。まあ気持ちはわからないでもない。暫くは我慢するしか他はないのだろう。時々動くカーテンの間から変わり映えの無い砂色の大地が地平の先まで続いていた。

やがてバスは止まった。ターミナルではないが乗客は降り始める。周囲には何もなくホテルのような建物一軒の前にミニバス、タクシーが泊まっている。ははん、そういうことかと事態はすぐに飲み込めた。タクシーとバスの運転手が結託したのだ。ここから町までは停まってるタクシー等を使ってください、と。ただ旅行者はごく少数しかいないようで、地元の人たちと一緒に僕も町まで歩いた。既に遠くに見えていたので10分くらいかな、これぐらいだったら問題は無いが、理不尽な話である。あまり裕福でない国では個人事業主であるタクシーの運転手って癖のある人間が多い。

今までずっと勘違いしていたのだが、パルミラ遺跡に隣接する町の名はパルミラではなくタドモルという。グーグルマップで検索しても聞いたことのない町にとんでしまうので不思議に思ったが、実は僕が知らなかっただけなのだ。今回記憶を掘り返さなければ死ぬまで知らないままだった可能性もある(笑)。

 

パルミラの遺跡は、がらんとしているせいか一見あっけない印象だ。起伏の無い平坦な土地に、1.3kmを一直線に伸びるコロネードと幾つかの神殿、アゴラ、劇場、他に何かの遺構と崩れた石の山。ただこれが素晴らしい通りだ。往時の繁栄を確かにしのぶことができる。でもそんなことを想像しながら当時の商人になりきって通りを闊歩するには、瓦礫が多くて歩きにくい。まあそれは仕方が無いかな。そのうえ暑くて陽射しが眩し過ぎる。乾いた風が時々砂塵を巻き上げるせいで眼が痛い。雲一つ無い空と砂色の風景。よくみればほぼ二色しかない。しかしこの二色は世界中至る所で美しい世界を作り出している。太古から不変のこの二色があれば人類の偉大な歴史を描き表すには十分なのかもしれない。そしてこの二色は人類が滅びても地球が存在する限り永遠に続く。

ここもローマ時代の遺跡のなかでは一級品である。間違いない。でも観光客は少なかった。

f:id:pelmeni:20200318091405j:plainf:id:pelmeni:20200318091934j:plainf:id:pelmeni:20200318092403j:plainf:id:pelmeni:20050907142716j:plainf:id:pelmeni:20050907142651j:plainf:id:pelmeni:20200318094601j:plainf:id:pelmeni:20050907162102j:plain

夜のライトアップも美しい。星空を期待したがあまり見えなかったのは、光が強すぎるせいか、それとも空中を漂う砂塵のせいか。

f:id:pelmeni:20050907213642j:plain

 ※残念なことに内戦中ISにより一部破壊された。詳しくは知らないが、では直しましょう、と簡単にいかないことは容易にわかる。

 


首都ダマスカスに向かう。パルミラからのバスは、途中エンジンのベルトが切れて交換する(意外とよくある故障)等により、1時間程度の遅れで小さなバスターミナルに到着した。しかしここはローカルバスとミクロ(ワゴン車)のみが集まるマイナーなターミナルのようで、英語表記も無くちょっと困った。でもそんな時は親切なシリア人が近くにいるのだ。車内で知り合った少年が街の中心まで行く車に案内してくれた。運転手も到着後に金を受取ることなく去って行った。シリアではこの種の小さな親切を受けることが多かった。大抵ごく自然でさりげないものだったと記憶している。旅が続くと他人の善意に対する感覚は鈍くなる。長旅を続けるということはこのような好意を食い物にし続けることでもある、ということは終ってみてわかるものだ。後になってしみじみと思う。

 

f:id:pelmeni:20050908211349j:plain大きなスークはアーケード

f:id:pelmeni:20050910163755j:plain何かの果物ジュース売りf:id:pelmeni:20200401184024j:plain静かな裏通り

 

f:id:pelmeni:20200401030738j:plainf:id:pelmeni:20200401181704j:plainf:id:pelmeni:20200401180408j:plainf:id:pelmeni:20200401182950j:plain

キリスト教のカテドラルを改築して接ぎ木するように造られたウマイヤドモスク。重厚で絢爛な建築。全体の構成はモスクの求心的な空間というよりは古い教会の雰囲気。この辺りは古くから人が住み始めただけあって、打ち捨てられ砂に埋もれる歴史もあれば、しぶとく生き延びる歴史もある。これは後者の典型例か。

そのあたりを少し知りたくなって国立博物館へ行く。大昔から人が住み続けてきた地域だけのものはあったが、その痕跡は今や崩れつつある遺跡という形でしか残っていない。それさえも運良く残ったごく一部であり、殆どのものは既に形を成していない。足下で踏みしめていた砂の粒が、かつて大いに繁栄した人々の生活の一部であったのかもしれないと思うと何だか無下にできない気分になった。目の前にある種々の存在も、もう何百年何千年経てば砂に同化して跡形もなくなってしまうのだろう。深い轍もいずれ消え、すべては砂に還ってゆく。そう考えると人間の存在なんて儚いものだ。

 

街の中心にバックパッカーに人気の宿がすぐ近くに並んで2軒建っていた。アルハラメインとアルラビエ。両方とも泊まったが同じような造りの似た宿で、いつも外国人旅行者で溢れていた。ドミトリー(相部屋)は男女混合で、男1人に女3人なんて日もあった。常に雑然としたあのバックパッカー宿特有の雰囲気が今となってはとても懐かしい。僕は大きめのパッカー宿が嫌いではない。ざわざわしていて必ずしも落ち着く訳ではないのだが時々好んで泊まっていた。ここには色々な種類の旅人が入れ替わり立ち替わりやってくる。ただ共通しているのはみな荷物一つで旅をしているということ。この一点のみで何か連帯感のようなものを感じていたように思える。話をしても必ずしも親密な仲になるわけではなく、挨拶など無しに次の地に去って行くのが常なのだが、その関係の希薄さに旅を実感することもあった。好んで一人旅をしていたのだが、やはり人恋しくもなるのだろう。ローカルなその土地の人々はもちろんだが、各国からやってくる同じ境遇の旅人ともたまには会いたくなる(このルート上に限れば何処でもいたけど…)。

ただ、これらの宿が現在どうなっているのか想像することは、難しい。そんなこと諸々を思い返す時 -----僕は遠い眼をしているのだろう。多分。

 

f:id:pelmeni:20050911105358j:plain
いつもだらけていた宿猫。滞在者が可愛がってくれるものだから警戒の素振りもみせない。数匹が中庭を我が物顔で闊歩し、よくソファを占領していた。でも何か薄汚いな、体をきれいに舐めてから寝ろよ(笑)。

 

 

 

f:id:pelmeni:20050909125856j:plain
旧駅近くの映画館で何とインド映画「クチュクチュホタヘ」が上映しているではないか。この映画は僕が初めてインドを旅行した99年初頭に「タイタニック」と人気を二分していた。子供の間ではこちらの方が人気だったようで、彼等とは「クチュクチュ観た?」が挨拶代わりだった。懐かしい。夕方5時の回を観る。小屋は古くフィルムに傷も多い。酷いことに初めの10分位が切り取られ、いきなり話の途中から始めやがった。でも音や画質の悪さはそのうち気にならなくなった。インド映画の割には考えられているラブストーリーで、出演者にも魅力があるので見入ってしまうのだ。とはいえ例のボリウッド映画の範疇ではある。

※後年シンガポールのインド人街にあるムスタファセンターでDVDを買いました。原題/日本語タイトル「Kuch Kuch Hota Hai / なにかが起きてる」

 

 

 

ここからレバノンを往復する。ベイルート直行バスがダマスカス市内から出ていて、ビザは国境で簡単に取得できた。

現在は奇麗になっているのだろうが、ベイルートといえば当時はまだ内戦の跡が街中に多く残っていて、それを見に行く旅行者も多かった。状況は既に安定していたものの、受ける印象のギャップは大きいものだった。中心街は結構きれいになっていて、かつて中東のパリと呼ばれただけのことはある美しさだ。アラブでありながら地中海文化圏の一部でもあることも実感できる。エトワール広場付近は小綺麗なカフェの多いショッピングエリア、ハムラ地区には商業地区でメーベンピックやスターバックスもあった。

 

f:id:pelmeni:20200401191614j:plainf:id:pelmeni:20200401193748j:plainf:id:pelmeni:20200401191633j:plainf:id:pelmeni:20200401194835j:plainf:id:pelmeni:20200401200225j:plainf:id:pelmeni:20200401191933j:plain誰?


この街にも安宿が近所に2軒建っていた。中東は何故かこのようなパターンが多かった気がする。僕が泊まった宿には一人旅をしている中年の日本人女性がいた。とりあえず何か食べようと彼女と近くに出たら、立ち食いのサンドイッチ屋でもう一つの宿に泊まっている日本人旅行者と会った。何でも旅は既に4年、ベイルートでは3週間籠って自分の旅行サイトを一から書き直しているとのことだった。いろんな旅行者がいるものだと思った。(彼はこの後のルートでも時々見かけた)

宿の近くによく通った食堂があったが、アラブ人顔のごっつい店員なのに「シャルル!」とか「ポール!」とか呼び合っていたのもレバノンならではの光景だ。今でも憶えている。

 

 

レバノンは小さな国なので、大抵のところへはベイルートから日帰りで行くことができた。

 

f:id:pelmeni:20200401202817j:plainf:id:pelmeni:20200401203517j:plainf:id:pelmeni:20200401203131j:plain

海に突き出したロケーションが魅力的な古代都市遺跡ティルスは、スールの町すぐ裏に隣接している

 

f:id:pelmeni:20200401204914j:plainf:id:pelmeni:20200401204203j:plain

シドン(サイダー)の旧市街は閉じた迷宮のよう

どちらも海に面した小さな町。広い地中海の一番奥に位置している。学校で習っただけでよく知らないフェニキア人が活躍した地だ。小さなミクロバスに詰め込まれての移動だったが、俊敏で車窓が美しかったのであっという間だった。

 

f:id:pelmeni:20200402015009j:plainf:id:pelmeni:20200402021338j:plainf:id:pelmeni:20200402015822j:plainf:id:pelmeni:20200402020416j:plainf:id:pelmeni:20200402020726j:plain

バールベックの遺跡もとても美しい。都市ではなく神殿単体。ローマ時代の遺跡はどこも見事で素晴らしい。

 

 

帰路も国境でシリアのビザがとれた。ダマスカスに戻ってすぐに発つつもりでいたので安価なトランジットビザ(8$)を買った。

次の国ヨルダンの首都アンマンへは、途中ボスラというこれまた遺跡に立ち寄るため、車の乗継ぎで向かった。朝出て午後遅くには宿に着いたので意外と近かった。日本人はビザ無しで入国できる。

f:id:pelmeni:20200401024123j:plainボスラの円形劇場

 

アンマンも丘に囲まれた古い街でローマ時代の遺跡も残っている。

この街での第一のミッションは、旅行代理店でイエメンの首都サナアまでの往復航空券を購入する事だった。

 

 

 

 

f:id:pelmeni:20200405012501j:plain

第二のミッション~死海 はしゃぐ日本人御一行様
浅瀬に座って見えるのは死海の水の屈折率のせいで、皆浮いてます 

 

 

'05旅 その12 シリアに入国

アラブ1>シリア・レバノン>シリア北部 Sep.2005

アンタキア→国境→アレッポ→ハマ←→クラック・デ・シュヴァリエ

 

 

 

 

夜行バスは朝の7時半にアンタキアのオトガル(バスターミナル)に到着。トルコのバスは最後まで時間が正確でした。更に言えばこの時乗ったバス会社のサービスは良過ぎです。夜中の3時の休憩直後に飲物のサービスを行うんですよ。寝ぼけ眼でも、ここはやっぱりコーラを一杯!。

同じオトガルからシリアのアレッポへ直通バスが出ているので、その場で9時半発のチケットを購入。すぐ裏のロカンタでトルコ最後の食事、チョルバ(スープ)の軽い朝食をとりました。

アレッポとは英語読みで、アラビア語ではハラブ、トルコ語ではハレプと言うらしい。その ”HAREP” という行先表示を掲げたバスに乗り込みます。国境では特に時間を喰ったという印象は無く、順当に昼過ぎアレッポに到着。バスで一緒だった日本人学生、アメリカのおばちゃん、リトアニアカップル達と一緒に街中の宿へ向かいました。

 

今となっては昔の話ですが、この国境は常に外国人旅行者で溢れていました。トルコ~シリア~レバノン~ヨルダン~イスラエル~エジプトというルートは中東旅行の定番中のド定番で、見所も多く、誰もが楽しむことのできるルートでした。世界中から人々が集まり、長期短期を問わず、多くの旅行者が砂漠の中の暑く乾いた道をバスやタクシーに詰め込まれ、砂煙を立ち上げながら駆け抜けていったものです。

以前の旅先で出会ったとあるオーストラリア人の言葉を思い出すことがあります。彼によれば旅行に良い国の条件は、1)人々が親切 2)社会が安定している 3)物価が安い、だそうです。まあ頷ける内容です。シリアなんてその全てを満たしているうえに観光場所も多く、大抵の人にとっては悪い印象を受けることの少ない国でした。それは僕の実感であり、出会った旅行者にとってもほぼ共通の感想でした。

でもその ”2)社会が安定している” と見えたものは、表面的な様相でした。実際の社会の状況や人々の生活が外から一撫したくらいでは分かり難いものであったことは、後年の時局が全てを語っています。彼らの日常と僕の非日常は同じ時間と空間を共有していたものと記憶していましたが、それは必ずしも交わっていたわけではなかったということです。旅なんてしていても理解できることは限定的なのだと今ではつくづく思います。目に映る物事がリアルな現実のすべてであるとは限らないことも今では知っています。これら皆含めて迄が旅というものでしょう。ただ、知らないで済ますことができればよかったかもしれない現実を思う度に、寂しくも悲しくもなります。

以前にシリアを旅行して良い思い出を持っていながら、現在の状況に堪らない思いを抱いている人も多いのではないでしょうか。だからといって何ができるわけでもなく、暫く膠着状態が続きそうで、気を煩わす日々が延々と続くのでしょう。

 

f:id:pelmeni:20191215215009j:plainf:id:pelmeni:20191215215412j:plain

アレッポ城 城門は力強いが内部はほぼ遺跡状態 

f:id:pelmeni:20191215215837j:plain

小高い丘の上に鎮座する城(所謂チタデラ)から街を眺める。雨が降らなければ勾配屋根を架ける必要はない。いよいよ中東、乾いた大地と砂色の町がこれから続きます。

中央に伸びるスーク 右がモスク

 

f:id:pelmeni:20191215234108j:plainf:id:pelmeni:20191215233906j:plainf:id:pelmeni:20191215234845j:plain

薄暗くも妖しく賑わうスーク(バザール) 時折天窓から斜めに射し込む陽の光が幻想的

不思議な空間に半ば酔いながら彷徨い歩く。視覚、聴覚、時に嗅覚の感度を上げる必要がある。日本の明るくクリーンで均質な商空間とは対極な場所。だからこそ魅かれる。

 

写真を撮っていると片言の日本語を話す店員に呼び止められ、チャイと水煙草を頂く。チャイと水煙草の組合せは、これがまた病みつきになるんですよ。その後はもちろん彼等のビジネスタイム。とりあえずは付き合ってみることにしたが、僕は話が合わなかったら何時でも止める用意はできている。奥から持ってきたカシミア(多分違うだろうが色柄は良かった)が8400→4200シリアポンド(80$)の値下げで「トモダチプライス!」から始まった。これは前口上みたいなものだろうから頭から除外する。25$くらいにしようか話し始めたら簡単に下がる。でもよく見るとそこまでの品質には見えなかったので止めようとしたら、横から彼の叔父という人が出てきて20$という。出方をみながら更にあれこれネゴると15、10$まで下がる。結局550シリポン(10$)で手を打つ。千円程度なら色や柄は気に入ったので悪くはない買物でした。おそらく元値420SPの10倍の4200SPからスタートだったのかもしれないと推測。交渉中は雑談を交えて悠長に構えていましたが、インド人とのタフな交渉と比べれば穏やかに終わりましたね。

旅行中はこんな感じでよく暇つぶしをします。言葉数を多くしたり表情や話し方を変えたり等いろいろ考えて自分のペースは崩しません。まあゲームみたいな気分です。お互い情は無用です。そのせいか話がつかなくても大抵後腐れはありません。日本ではできない遊びみたいなものです。

アレッポといえば石鹸も有名です。地中海沿岸で作られるオリーブ石鹸はアレッポあたりが発祥だそうです。どの店で売られている石鹸も幾つかのグレードに分かれているので、何が違うのか尋ねたところ、成分のローレルオイルの割合に因るとのことでした。割合の大きい方が香りが強く値段も高いのです。と言われてもよくわからなかったので、上から2番目のクラスの物を2kg買って中央郵便局から日本の実家に送りました。この石鹸使ってみましたが、女性が何故あんなに喜ぶのか今でもよくわかりません。嫌いじゃないですけど。

 

 

砂漠の一本道を南下しハマに向かいました。この町は楽しい。

 

f:id:pelmeni:20191216021648j:plain

町中を緩く流れる川に大きな水車が幾つも掛かっています。町の中心部にある物は周りが公園になっていて、人々が傍らで楽しそうに見上げています。夕方あたりから人が集まり始め暗くなると多くの人出で賑わいます。単純な物でも動く物には大人子供を問わず心惹かれるということですかね。実際本当に飽きません。そして音をたてて回る水車の横で行き交う人を眺めながらアイスクリームを舐めるというのが、この町での一番の楽しみでした。大きくはない町ですが水車の存在だけで人を呼べるほどです。

かたかたかたかた…

 

f:id:pelmeni:20191216022001j:plainf:id:pelmeni:20191216022530j:plain時々虹もf:id:pelmeni:20191216022557j:plainf:id:pelmeni:20191216022618j:plain

 

 

 

中世十字軍時代の城塞 クラック・デ・シュヴァリエ

途中ホムス乗換でハマから日帰りで行くことができます。マッシブで力強くいかにも城塞といった形態で有名です。よく目にする全景写真を撮るためには少し離れた高い所を探さなければなりません。帰り際にまとめてそんな写真を撮ろうと考えましたが、何だか面倒になって停まっているバスにさっさと乗り込んで帰ってしまいました。よって此処は部分的な写真だけです。

f:id:pelmeni:20191217062008j:plainf:id:pelmeni:20191217061114j:plainf:id:pelmeni:20191217062441j:plainf:id:pelmeni:20191217060751j:plain

城塞自体は話題にのぼるほど面白い物とは正直思えませんでした。半ば遺跡に近く、もう少し細かいディティールがあれば良かったのに、というのが個人的な感想です。暑い所では想像力を要求されるものに対してはなかなか気が乗りません。ただ西洋人にとっては歴史的に意味のある場所なので多くが行きたがります。日本人がインド辺りで仏教や釈迦ゆかりの地に特別な感情を持つのと似たものでしょうか?。立地は最高で眺めは良いので、気分は晴々としますが… 

 

帰りのバスで、アレッポで同じ宿に泊まっていたイタリア人男性二人連れに再会し、一緒にハマまで帰ることになりました。腹が減ったと言うのでホムスのバスターミナル近くで軽食に付き合いました。

此処ではバスの乗換をしただけなのでこれが唯一の記憶であって、その後は長い間忘れていました。後年再びその名を耳にしたのは内戦のためです。この街が反体制派の拠点だったために戦闘が起こり、市街戦により荒れ果てたホムスの状況を報道により知ることになりました。もう憶えていませんでしたが車窓から眺めたであろう街並みが破壊され、何処かですれ違ったかもしれない人々の身に降りかかった大きな不幸が、揺れる映像の向こうに確かにありました。こんな状況は当時の記憶とは全く結び付きません。現実の世界で起きている事であっても他人事の様にみえてしまうのが嫌でしたが、現在の自分とは隔たりが大き過ぎてどうしようもありません。 

おかげで本来であれば忘却の彼方へと去っていたはずの記憶が幾つか呼び起こされたのは事実です。でもそれは残念ながらあまり嬉しいことではありません。できれば別の種類の話、懐かしく思い返すことのできる話であって欲しかった。

 

 

 

'05旅 その11 トルコ4

トルコ4>トルコ西部~ Aug.-Sep. 2005

→ブルサ→イズミール、エフェス→コンヤ→

 

(経路内の時間は参考にしないでください)

 

サフランボルからはブルサに行こうとしたところ、珍しく直行バスの便が悪く1日1本それも夜の中途半端な時間しかありません。バスターミナルで尋ねると、イスタンブール行きに乗り手前のイズミットで乗り換えればよいと教えてくれました。それなら本数は多い。イズミットはイスタンブールより少し内陸側にあり、交通の結節点として位置しているようです。ターミナルも大きく乗換もスムーズでした。

 

ブルサはオスマン帝国かつての首都。モスクや廟が残る古都で緑も多く観光も楽しいですが、イシュケンデルケバブというヨーグルトと一緒に食べるケバブ発祥の地なので、もちろんいただきました。ただこの頃は普段食べつけない羊料理に飽きていたせいか、、、味の感想は憶えていません。トルコで肉料理といえば、簡単な料理なら羊か鶏を選べるのですが、きちんとした店では大抵羊だったような気がします。いやそうでもないかな。ただトルコに行ってまで鶏はないだろうという気概で無理にでも羊を食べ続けていました。ちなみに日本でも少しは名を知られるようになったパンにはさむ軽食としてのドネルケバブは、ベルリンのトルコ人が始めたという説もあるようです。僕はベルリンでわざわざトルコ人街まで食べに行きましたが、実は最初にパリで食べた牛肉ドネルケバブの方が好きだと今でも思っている不届者です(笑)。

 

f:id:pelmeni:20190919040953j:plainf:id:pelmeni:20190919042107j:plainf:id:pelmeni:20190919042149j:plainf:id:pelmeni:20190919042455j:plain

 

やっぱりモスクは居心地の良いところです。トルコでは大抵誰でも自由に入ることができ、静かにしている限りは各人が思いのままに過ごすことができます。端の方では寝ている人も時々見かけます。人が多くても基本的には静謐な場なので、旅行者にとっては心身ともに休まります。ただし祈りの場では男女の区別は厳守、不問なのは猫だけ、、、多分。

 

f:id:pelmeni:20190919210050j:plainf:id:pelmeni:20190919210754j:plainf:id:pelmeni:20190919210816j:plainf:id:pelmeni:20190919211838j:plain

モスクにもいろいろあります。

 

 

 

イズミルはトルコ第3の都市。港町で見所はいろいろあったはずですが、気が向かずにあまり歩き回りませんでした。ここはエフェスの遺跡へ行くための立寄りと割り切っていました。僕の場合、長く旅をしていると気分の乗らない時期が必ずやってきます。国が変わると気持ちは大体リセットされますが、広い国を時間掛けて移動し続ける場合バイオリズムのように自分の「ヤル気」が波の様に上下することが何だかわかります。

まあ、そうでなくても僕は大きな街ではただ単に雑踏に紛れて時間を過ごすことが好きです。外国に行ってまでとは思うのですが、習慣というか日常生活に戻ってみたいという気が時々頭をもたげてくるのです。

ということで、大通りを暫く歩きまわり、市場へ向かいお決まりのように猫と時間を潰し、バスマネ駅前のだだっ広い床屋で散髪をしてもらいました。適当に頼んだところ、当時多くの若者にみられたソフトモヒカンっぽい感じに仕上げてくれました。まあ、頂部がちょっと長めのスポーツ刈りみたいなもので、自分ではトルコカットと勝手に呼んでいました。よく見ると似合ってない(笑)。時間を掛けずに値段も安い。多くの客が頻繁に来店してはサッと刈ってもらいすぐに出てゆくのも気軽でいいなと思いました。でもそれをおしゃれだと思っているのか、髪型なんてあまり気にしていないのか、どっちだったのだろう。

 

 

f:id:pelmeni:20190921024838j:plainf:id:pelmeni:20190921024859j:plainf:id:pelmeni:20190921025048j:plain野良なのに毛並みが黒光りしていた奴

 

 

エフェスの遺跡  

程良い広さの敷地内に建物や遺構が散在しています。古代都市の遺跡の場合、大通りを中心に歩けば大抵は効率的に廻ることがことができます。ピクチャレスクな屋外劇場跡や神殿は規模も大きく状態も良いので、前に立つと心が弾み、想像力が飛躍します。遺跡としては一級品です。

 

f:id:pelmeni:20190921200954j:plainf:id:pelmeni:20190921200931j:plainf:id:pelmeni:20190921202829j:plainf:id:pelmeni:20190921201144j:plainf:id:pelmeni:20190922054727j:plainf:id:pelmeni:20191013004622j:plain

 



地図でみるとわかりますがトルコは東西に結構長い国で、西のエーゲ海沿いから南のシリア国境まで行こうとすると国土の半分を横切らなければなりません。日本でいうと東京~福岡くらい。今にしてみれば地中海沿いを移動した方が良かった様にも思えますが、旅行時は何か魅力を感じなかったのでしょう、多分。国境近くのアンタキヤに急ぐ途中コンヤで逗留しました。

 

コンヤといえばセルジュク朝の古都ですが、イスラム神秘主義スーフィズム)、メヴレヴィー教団の中心地です。

「スカートをはいた信者が音楽にあわせて、くるくると回転をし踊るという宗教行為(セマー)で知られる。これは祈りの手段であり、回転は宇宙の運行を表し、回転することで、神との一体を図るというものである。(Wikipediaより)」

教団はトルコ革命時に解散させられましたが、今はその舞踏も始祖ルーミーの命日に披露されており、コンヤを象徴する祭礼となっているようです。なかなか興味深かったのですが旅行時には時期が合わず見ることができませんでした。ただイスタンブールやカイロなどでは観光客相手の舞踏ショーとして続けられており、そのような形ではうかがい知ることはできます。後年訪れたパキスタンのラホールではスーフィーナイトと称する音楽儀礼として、深夜に聖者廟で音楽に合わせながら熱狂的に踊り陶酔状態に陥ったり、まったりしたり(もちろんアレで)していました。(日本でいうクラブみたいな意味合いの場所かも?)

それはともかく、この街も古い歴史を持つのでモスクや博物館が多く、意外と楽しむことのできる場所です。人間や動物を示す具象的なものは何も無く、一切が植物の文様や幾何学、カリグラフィー等による抽象の世界に浸るにも審美的な感覚が必要ですが、毎日接していれば自然と感覚は慣れました。イスラムの世界はこの後も長く続きます。

 

以下、最後の町なので写真多めです。

 

f:id:pelmeni:20191117191043j:plain


f:id:pelmeni:20191117190506j:plain

 

 


▽メヴラーナ博物館(ルーミー廟)

f:id:pelmeni:20191026203029j:plainf:id:pelmeni:20191026203052j:plainf:id:pelmeni:20191026203541j:plainf:id:pelmeni:20191026203113j:plain


▽アラエッディン・モスク

f:id:pelmeni:20191026204201j:plainf:id:pelmeni:20191026204344j:plain

 

▽カラタイ・マドラサ 保存され現在は博物館

f:id:pelmeni:20191026205314j:plain

f:id:pelmeni:20191026205608j:plain

f:id:pelmeni:20191026205802j:plain

 

▽インジェ・ミナーレ・マドラサ こちらも現在は博物館

f:id:pelmeni:20191026205954j:plainf:id:pelmeni:20191026210502j:plainf:id:pelmeni:20191026211014j:plainf:id:pelmeni:20191026211528j:plain

 

▽Aziziye Masjid モダンで明るく美しいモスク  ここは気に入って長居をした

f:id:pelmeni:20191117125010j:plain

 



 

 

 

f:id:pelmeni:20191026150055j:plainアンタキヤ行のバスを探す

 

散々乗りまくった夜行バスも最後です。今回のトルコのバス旅の感想は前回と同じです。あらゆることがスムーズで楽なのです。大抵は流れるように移動できました。それが普通にできない国を旅してきた後だけに、初めの頃は有難みさえ感じました。ボロいバスに揺られ移動するということは、それはそれで得難い体験なのですが、快適なバスの車窓から流れ行く風景をぼうっと眺めるというのも気持ちの良い時間です。あらゆる物事が一筋縄では行かなかった中央アジアコーカサスの後では、トルコは正直すべてが薄味に感じました。それでも良かった。そう感じること自体に意味があると思ったわけです。ただ心に残る印象としては多少浅くなることは否めません。

 

 

あーっ!!!

バスが街から外れて明かりが少なくなってゆく窓の外を眺めながら、突然思い出しました。

 -----パムッカレに行き忘れた!

以前タシケントのロシヤホテルで偶然知り合ったU君がその後絵葉書を送ってくれたパムッカレ。水量が減り石灰棚には立入禁止になってしまったが、せっかくだから行ってみようと楽しみにしていた。近くに来ているのに何故だかすっかり忘れていました。う~と呻いてみても後のまつり。せめて町の中で思い出すことができれば、、、戻ったかな?。

ただ、こういうことは長旅の最中では時々あるものです。そんな時は縁が無かったと諦めるしかありません。明日の昼にはアレッポに着くのだから、来たるべき新たな時間に期待をしよう、そう自分に言い聞かせて眠りに入りました。毎日が思いもよらぬ体験の連続なので、次を楽しめばよいのです。過ぎた事、無理な事に拘ることは無くなり、その種のことには無頓着になっていった気がします。あ~、元々の性格に因るのかもしれないですけど。

 

 

 

 

 

 

'05旅 その10 トルコ3

トルコ3>トルコ中部 Aug. 2005

→アマスヤーアンカラサフランボル

 

 

(経路上の時間は参考にしないでください) 

 

ほとんどアラブのような乾燥した南東部を脱してアマスヤまで移動しました。アナトリアを一気に縦断したかたちです。夜行バスで一晩を過ごし、目を覚ましたら昨日までとはうって変わっての別世界です。山と川のある風景には心が癒されました。この町にはオスマン帝国時代の住宅や町並みがきれいに保存されています。なかには内部も見学できるよう修復された住宅もあります。

 

f:id:pelmeni:20190912095031j:plainf:id:pelmeni:20190912095949j:plainf:id:pelmeni:20190912102140j:plainf:id:pelmeni:20190913015332j:plain独特な二階の迫出しf:id:pelmeni:20190913020147j:plain

ディヤルバクルでもそうだったのですが、保存住宅では人々の生活がわかるよう室内に人形や雑貨が設置されています。はじめ見た時は妙にリアルでぎょっとしましたが… 実はトルコだけでなくアラブ諸国などでもこのような展示はみられます。おもしろいですね。

 

 

首都アンカラの人口は、トルコ第2ですがイスタンブールの1/3でしかありません。中心地は近代的で首都なんだなあと思いましたが、規模が規模だけにトルコという国の割にはこじんまりとした印象を拭えません。旧市街とよばれるエリアは確かにトルコ的であはあります。かつての滞在を思い返すと、イスタンブールだけが他のトルコの町とは違った空気が流れているような気がしてきました。 歴史も文化も他とは大分違うのですからある意味当然かもしれません。そんなことを確かめてみたくもあり実はイスタンブールに寄ってみようかという気持ちも少なからずはあったと記憶しています。(結局行きませんでしたが)

この街では首都ならではの重要な仕事がありました。それは次に訪れるシリアのビザとり。まずは日本大使館へ行きサポーティングレターを発行してもらい、それをもってシリア大使館でビザの申請。翌日発行。スタンプ状のビザが押されたパスポートを眺めていると小さな喜びがこみあげてきます。長期旅行者にとっては次の国へ進むことができるということは単純だけれども重要なことです。動き続ける旅行者にとってはプラクティカルな面での旅を続ける原動力のようなものです。

 

f:id:pelmeni:20190914023243j:plain

アンカラ地下鉄の車両のマーク

 

 

サフランボルもトルコでは有名な場所です。斜面に並ぶ住宅の景観、モスクやハマムなどの古い建築で知られています。寄棟の屋根をもつ独立住宅は、日本では普通にみられますが、世界ではあまりないようです。ヨーロッパなどでも切妻の木造建築はありますが、寄棟が様式としてまとまった数が存在する地域は珍しいのではと思います。この光景には親近感が湧きます。

f:id:pelmeni:20190917153956j:plainf:id:pelmeni:20190917155622j:plainf:id:pelmeni:20190917161038j:plainf:id:pelmeni:20190917160315j:plainんー、実にトルコ的。坂を下りた町の中心にはモスクやバザールがあり…

f:id:pelmeni:20190918181814j:plainf:id:pelmeni:20190917162035j:plainf:id:pelmeni:20190919035809j:plain葡萄の葉に覆われた気持ちの良い空間f:id:pelmeni:20190919034947j:plain

f:id:pelmeni:20190917221017j:plain

チャイハナ、といってもそこは野郎だけの世界 ただその足元には彼らに不釣合いな…

 

 

f:id:pelmeni:20190918175837j:plain
f:id:pelmeni:20190918175812j:plain

昨今の猫ブームでトルコ人の猫好きも日本で知れ渡ることとなったようです。僕が訪れたことのある国の中では親猫度はモロッコがおそらく一番で、あすこは何処へ行っても至る所に生息していました。もちろんトルコもなかなかのもので彼の国には引けを取りません。トルコ人は寝そべって動かない猫の上を平気でまたいで歩きます(笑)。人に気を許している野良猫が多いことからも両者の良好な関係が窺い知れます。イスラムでは犬と猫の扱いが他とは違いますからね。彼らの付き合い方も今に始まったことではないのでしょう。

 

サフランボルにも伝統的な住宅が修復保存されており、内部を見学することができます。ここでも多くの人形たちが出迎えてくれます。今日は宴会ですか?

f:id:pelmeni:20190918182146j:plainf:id:pelmeni:20190918181027j:plain

そして中庭に… 仔猫団子! 3匹いる!

f:id:pelmeni:20190918182601j:plain

 

ここまできたら今回は最後まで猫でいきます。↓彼は宿猫。共有スペースで朝食とか何か食べてると気が付けば傍らで静かにしているのです。黙ってこんな顔して待たれると、何かあげたくなるというものです。猫ほど、実利的にはあまり人間の役に立っていないにもかかわらず、一方的に寵愛を受ける動物はいませんね。

f:id:pelmeni:20190918192405j:plain