もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

旅のさなかに聴いていた音楽2

何と今頃に大昔に載せた投稿の続編です。

前回は直近の旅行中に聞いた音楽についてでしたが、今回は昔を振り返ってのものばかりなので、自分で言うのも何ですがヒジョ~に懐かしいです。具体的な映像だけでなくその場の空気や雰囲気のようなものまで、色々忘れていたものごとが蘇ってくるのが不思議です。no music, no life!

 

 

●リヨン(フランス) Ace of Base - The Sign

 

学生の頃春休みにヨーロッパを1か月旅した。それが最初の海外旅。今思えばそんな寒い時期によく行ったものだが、夏休みの航空券なんて高くて買えなかったのだから仕方がない。行くだけで十分満足だった純真無垢なあの頃(笑)が懐かしい。宿泊は安宿メインで時々ユースホステル&夜行列車のよくある学生旅。当時は首都クラスの街以外ではホステルといえばYHAしかなく、YHAリヨンは街の中心から離れていたが大規模で多くの旅行者で賑わっていた。ヨーロッパのユースは日本と違い家族室や自炊用のキッチン、娯楽室はもとより酒の飲めるバーまであったりもする。館内の雑然とした雰囲気も当時の僕にとっては目新しいもので、驚きもあったが新鮮に感じた。そのバーのカウンターでコーラをチビチビ飲みながら日記をつけていた時に大音量で掛かっていたこの曲を今でも憶えてるのは、知らない曲が流れる中偶然知っているものだったからだろう。

リヨンは食通の街といわれるが、学生の身分にとってはあまり意味のない形容だった。街中にそれほど観光するところはなかった気がするが、丘の上にあるこじんまりとした旧市街の静けさと二本の川がゆったりと流れる市街地の眺めは、何となく憶えている。季節はまだ冬。街路樹の葉は殆ど落ち細い枝越しに素っぴんの街並が目に入る。色彩をあまり持たない冬のヨーロッパが好きなのは、三つ子の魂百まで、というか最初の旅で強く印象付けられたからという理由も幾分あると思う。

 

 

 ●クレルモンフェラン(フランス) Georges Brassens - Je me suis fait tout petit

 

以前は旅行の度に小さなラジオを携帯していた。これは高性能な奴で、インターネット以前の時代はSWの Radio Japan なんかも時々聞いていた。安宿の狭い部屋で手持ち無沙汰にしている時なんかラジオがあると気が紛れる。知らない言葉や音楽をBGM代わりに小さな音でかけながら一人でベッドの上で寝転んでいると、それだけでも何だか嬉しくなり小さな笑いがこみあげて来ることもあった。

フランスでは放送法により、ラジオで流すポピュラー音楽のうちフランス語による音楽の割合が40%以上と決められている。一旅行者としては流行りの英語の曲が掛かるよりは、知らなくても現地語の曲を耳にする方がはるかに旅情をそそるというものだ。それにしてもフランス(人)の自文化に対する特別なる意識の高さには、羨ましさが半分鼻持ちならぬいけ好かなさが半分といったところだ。本当は嫌じゃないけど簡単に認めたくもないね(笑)。

クレルモンフェランはとある映画の舞台となった街で、近くの山地から切り出した黒い石造りの町並みや教会が印象的だった。適当に探して入った宿の受付の無愛想な婆が、宿泊代の支払の前と後では現金な程に態度が変わったのはおかしかった。ヨーロッパなんてそんなところさ。いろいろあって日本の常識と世界のそれはイコールではないと二十歳そこそこで知り得たことはその後の人生において有益だったと思う。多分。 

何を聞いていたかなんて憶えていないが、何事にも一筋縄ではいかないフランスらしいこの曲を選んでおきます。

 

 

●渋谷(日本) 宇多田ヒカル - Automatic

 

’98年暮れのこと。タワーレコード渋谷店のレコメンドコーナーに変わった名前の若い女性のCDがあった。聞いてみるとそこらの若い歌手とは一味違った味のあるボーカルだけどまだ十代?と驚いた記憶がある。彼女こそが宇多田ヒカル。僕が99年新年早々に旅に出てから程なくして注目され始めたようで、藤圭子の娘という事が知られ話題は更に沸騰(したらしい)、半年後に帰国したら超ブレイクしていたのには驚いた。そのあたりの経緯をリアルタイムで知らないのが残念だった。え、あん時の女の子が?って感じで、また世紀末にすごい奴があらわれたと思ったものだ。当時の人気もすごかったが、現在のマイペースな雰囲気もいいですね。デビュー以来ほとんど変わらないこの声が好きです。

 

 

バンコク(タイ) Beck - Lord only Knows

 

’99年の旅の始まりはバンコクから。有名なカオサンロード一帯も当時は本当に外国人旅行者のためだけの町といった感があった。通りに面した宿の一階はバーや食堂になっていて、大音量でかかるハリウッド映画を観ながら酔っぱらった白人たちが「ワオーッ」とか「イェーイッ」、「ファーーッ◎!」と何時も盛り上がっていた。そんな騒ぎを横目で何だかなあと思いながら僕は少し離れた川沿いの通りにある宿に泊まっていた。とはいってもあらゆるものが安価に調達でき便利な場所には変わりはないので、準備のためにいろいろなものを買いそろえたり食事や暇つぶしに足を運んだ。小物は露店のハシゴにて買い集める。絞り染めのような柄の通称カオサンパンツを室内着用に選び、冗談のつもりで記念の(偽)国際学生証、立ち食いでパッタイをかけ込み、最後の日に Beck の Odelay というアルバムのミュージックテープを買った。当時の日記によると1本55バーツ(約176円)。ベックは好きだったがCDを買うほどでもなく、この際なので選んでみた。音楽は良かったが、テープの音質は酷い!の一言。明らかに素人のダビングだろうと判って買っていたし値段からすれば文句は言えないのだが…。ちなみにそのアルバムCDを近所のBOOKOFFにて100円で購入したのは20年後、つまり去年の事です。久々に聞いたけど良いものは良い。

 

 

ウズベキスタン Адреналин - Ковыляй потихонечку

 

アドレナリンはロシアのロックバンド。これは99年に旅したウズベキスタンで流行っていた曲、所々で耳にするので名前を知りたくなった。その前のインドで何度か会った日本人旅行者にブハラで再会し、城塞近くの公園にあるチャイハナで情報交換をしていたところ、流れていたラジオでちょうど掛かったので店員に尋ねてみた。初め言葉が通じなかったが、確かムージカと言ったところでわかってもらえた。以前どこかで書いたが、その甘く切なくて何となく安っぽいメロディの多いロシアンポップスに気を取られ始めたのは、この時が最初だったと思う。

その後タシケントに戻り街中にあるアライ・バザールでミュージックテープを探して購入した。アライ・バザールへ行ったのは情報では此処の両替レートが市内で一番良かったから。当時、闇レート(市中)は公定レート(銀行)の3倍で、USドルでなく現地通貨ソムで支払いを続ける限り旅行者にとっては激安の国だった。イランから中央アジアにかけて、あの辺りは皆そんな感じだった。

ところで以前所有していた多くのカセットテープはもう聞かなくなったので2本を残して既に処分してしまった。そのうちの一本はこれ、もう一本は大学の入学式後にもらった校歌や応援歌等が入ったもの。どちらも思い入れがあるから……、というわけではなく、たまたまのことだ。その証拠にもう長い間聴いていない。あれは何処に仕舞ってあるのかな。

 

 

●アマゾン河(ブラジル) Companhia Do Calypso - Impossivel Te Amar 

 

カリプソってトリニダードトバゴ発祥のラテン音楽と知っていたが、このバンドを見たときには驚いた。アマゾン河をベレンからマナウスまでフェリーで遡上していた時のことだが、甲板のバーで流れていたのがこのバンドや Banda Calypso という当時ブラジルの北部地域で人気の音楽だった。カリプソという名がついているが一般に知られているものとは大分雰囲気が違っていて、その辺りの所以はわからない。毎日同じDVDばかり繰り返しかけていたので頭から離れなくなり、サンパウロに戻った後に街中の露店でバンドの安いVCDを買ってみた。今でも思い出したかのように見ることはあるが、倖田來未なんて目じゃないね、こりゃ。見る度聴く度に「アマゾネス」という言葉が頭にちらつく。正にその名にふさわしい。

 

 

サンパウロ(ブラジル) Nana Caymmi - Segue o Teu Destino

 

南米旅が終わりサンパウロの空港から飛行機で日本に帰ることになった。コインが結構余っていたので処理すべく空港内の土産物店に置いてあった音楽CDを買った。それはフェルナンド・ペソアというポルトガルの詩人の詩に曲をつけた楽曲のコンピレーションアルバム。ペソアは以前ポルトガルあたりの文学を調べた時に知っていた(というかこの人くらいしか知らない)ので手に取ってみた。いくつかの変名でそれぞれ違った作風の詩を書き分けたという少し変わった人で、同じポルトガル語圏のブラジルでも良く知られている。

搭乗機を待っている間に聴き始めたのだが、何曲か聴き進めていくうちに、何だかもう帰る気がしなくなって駄目だった。後ろ髪を引かれるなんてものじゃなく、胸をかきむしられる様な感情に抗しきれなくなりそうだった。搭乗口前の待合スペースという、もう後がない特別な歪んだ空間がいけなかったのかもしれない。しかしブラジル人は能天気な人が多いのにどうしてあんなに多くの哀愁あふれる曲を作ることができるのだろう。ボサノバでもジャズや他のポピュラーにしてもブラジル人にしか作り得ない別格の才能表現としか言い様がない。

  

 

 

多分、その3に続くでしょう

 

 

 

 

’05旅回想 その19 エジプト1

エジプト1>シナイ、カイロ、ナイル上流 Oct.-Nov. 2005

ウェイバ入国→ダハブ→カイロ→アスワン→ルクソール→カイロ

 

 

  

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ダハブはバックパッカーの沈没地として有名な所。僕は初め興味無く直接カイロまで行ってしまいたかったのだが、ヌウェイバ入港はまだ暗いうちで公共交通の姿は無く、タクシーに一緒に乗ることにした皆が行くと言うので立ち寄ってみることにした。一人だったらおそらく1,2日で出発しただろう。4人も一緒にいると主体性が無くなるのはいつものとおりだった。

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海を眺めているうちに、寄せては返す波の音に引き込まれるかの如くダイビングスクールに申し込んでしまった。というかここで何もせずにブラブラすることはできないとすぐに悟った訳。オープンウォーターとアドバンストコース。合わせて確か50USDくらいだった。同じ宿に泊まっていた旅行者は以前ベトナムの二チャンでダイビングのインストラクターをしていたそうで、彼が言うにはベトナムとエジプトが世界で最も安くダイビングをできるのではないかということだった。もう一人の宿泊者と二人でコースをとった。

毎日午前中に海に潜り、その間は旅のさなかでは珍しくも規則正しい生活だった。陽が落ちると海沿いの食堂に皆で食事に出かけた。別の宿に泊まっている日本人旅行者もいて、他の外国人旅行者も含めて賑やかになることもあった。ただ大抵は気が付けば、暗い照明の下生暖かい海風がゆるゆると流れるなかで波の音を聞きながらチルアウトする時間になっていた。当時のダハブは海に沿った1本道の両側に宿や商店、食事処など旅行者相手の施設が連なり、のんびりするにはちょうど良い大きさの小振りな町だった。町外れに1件だけ酒類を売っている店がぽつんとあり、背後に広がる砂漠ではベドウィンから特産物を買うこともできた。この小さな町に皆が長逗留する理由はすぐにわかった。

当時聞いた話によれば、ダハブはイスラエルシナイ半島占領中に開発したリゾート地シャルム・エル・シェイクが大きくなりすぎたために新たに作られたという。町外れにプライベートビーチ共々塀に囲まれた高級宿泊施設はあったが、それ以外高級さは感じられず長閑だった。そのせいか滞在者はバックパッカーを含むバジェットトラベラー、もしくはロシア人だった。この後に知るのだがエジプトの観光地には何処にもロシア人がいた。比べれば判ることだが彼らは西欧の旅行者とは明らかに雰囲気が違ってなんか野暮ったい。それは何処でも物価の安い所に群がる人たちだから…、ということだけでもないらしい。かつてエジプトが社会主義政権で交流のあった頃のよしみで其後も観光ビザは容易に取得できた。気軽に西側諸国等へ行けなかったソビエト連邦時代からの馴染深い国外の観光地ということらしい。

まだラマダンの期間中だったが、外国人旅行者相手の場所なので町中はほぼ通常営業だった。結局長居した理由はそれが第一だったのかもしれない。初めは慣れない風習にも興味深々で接していたが、この頃は正直なところ飽きていた。1週間のダイビングのコースが終了すると一日何もすることが無くなり、まるで廃人みたいだなんて自嘲するような生活になってしまった。

 

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当時のカイロを思い出そうとしたものの、実は2012年再訪時の印象が強く、05年訪問時の記憶が古い分霞んでしまうのは仕方の無いことだ。12年前後は情勢が不安定で治安も悪かったため、通常なら街中に溢れんばかりの外国人旅行者の姿はどこにも無く、そのせいかウザくてしょうがなかった呼び込みや勧誘の存在は皆無だった。多くの住民が通りを行き交う普通の都会だった。-----でもそれは本来のカイロの姿ではないな。途切れることなく訪れる外国人旅行者とは持ちつ持たれつの関係、というかウザいほど依存していた彼等こそが僕のカイロの街の印象の幾許かを占めていたはずだったから。

それでも当時の事を思い出してみる。タハリール広場やタラアトハルブ通りあたりを歩いていると、観光客目当ての色々な客引きが声を掛けてきた。こちらもだいたい暇なので断ることなくついてゆき、画廊でラッセンもどきの色鮮やかな絵画を前に適当なことを喋ったりして暇をつぶした。あるいは工芸品の店だったりローズオイル等の土産物の店でも適当に時間を過ごした。でももちろん何も買った記憶はない。彼らはインド人の様に商売熱心な訳でもなく、多少強引だが雑であきらめも早いように感じた。どこまで真面目に商売に気が入っていたか怪しいもので、正直いえば油を売るといった表現が適切だと思った。ただその気持ちの緩さは嫌ではなかった。子供からいい歳した若者まで躾がなってないと思わせることも時々あったが、腹が立っても憎み切れずに小さく笑ってしまうような、どこか許したくなる小さな気持ちがあったことは否定しない。それはひとえに僕自身も劣らずいい加減な人間だからに違いない。

大相撲の大砂嵐関を思い出す度に、カイロの街中で騒いでいた若者たちの姿と重なってみえた。おそらく(エジプト人としては普通な)自らに甘い性格故に、規律が重視される日本の社会の中に居場所をみつけることは最後までできなかったのではないか。

  

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カイロに到着してすぐにラマダンが明けた。目抜き通りは上機嫌の人々で溢れ、夜遅くまで人通りが途切れることはなかった。一緒に喜ぼうと誘ってくれる人も調子に乗ってちょっかいを出してくる奴も皆様々。それが彼等の平常運転なのだろう。

下町の一角にとある古ぼけたビルがある。下階から順にスルタン、ベニス、サファリという3つの安宿があり、日本人旅行者ばかりが集まっていた。それは、わかる人にしかわからない砂漠のオアシス、あるいは砂地の蟻地獄… みたいなところ。僕は最上階の宿に滞在してみたが、ここも世界各地にあった多くの日本人宿の多分に違わず、そこだけ「日本」がふわっと現れたパラレルワールドでありながら劣悪な衛生環境で、定期的に殺虫剤が撒かれていたほどだ。必要な情報だけ入手して雰囲気がわかったらすぐに出ようと思っていたが、長居をしている人を中心に内向きな共同体生活っぽいことをしているようにみえたのが興味深く、予定より滞在を少し延ばした。気に入った人は沈没し、合わない人はすぐに去るような場所だった。後年とある街の「準」日本人宿が英文旅行ガイドブックに掲載された際の紹介文に ”commune like” とあったので、当時の僕の感想もあながち間違いではなかろう。まあ確かに色々な出自の人が集まっていたが、昔の様に特別な感銘を受けることもなかった。もうそのような環境に感化される旅歴ではなかったということだろう。とはいっても、気が抜けてしまう環境であることは確かで、大したことせずに数日位はあっという間に経ってしまう。

近いところではイスタンブールでヨーロッパとアジアを旅する人が行き交うように、カイロも中東やアフリカをそれぞれ旅する人が集まる所だった。街の規模も大きく一級の見所も揃い、多くの旅行者が集まるのにふさわしい場所だ。ここではかつて出会った旅行者と再会することも多いようだ。僕なんかこの2年前にエストニアのタリンの宿で数日一緒だった日本人旅行者に話しかけられ驚いた。彼とはダハブの海沿いのレストランで確か一緒にトランプをしたこともあったはずなのに全く気付いていなかった。

 -----2003年の6月頃にエストニアにいませんでしたか?
 -----えーと、確かにエストニアには行ったけど…、そう、その頃。ということは、
   あの時の、リュウ君???

彼は宿で僕の青いバックパックを見て当時を思い出したらしい。

 -----世界は狭い。

 

f:id:pelmeni:20200823012215j:plainしかし汚ねえ部屋だな、おい!

f:id:pelmeni:20200823014422j:plain近所の路上野菜果物市場

f:id:pelmeni:20200823014817j:plain堂々たる大河ナイル

 

 

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カイロには再び戻ってくるので、あまり長居はせずにナイル川を遡ることにした。まずは列車でアスワンまで行く。夜行列車で12時間、それも寝台ではなく座席車。でも予想外に近代的な車輌だったので助かった。長距離列車はたいてい遅れるものだがほぼ定時に着いた。特にここはエジプトなのだから全く期待はしていなかったが、すごいぞエジプト国鉄

アスワンに滞在する旅行者は2種類。アスワンハイダムやアブシンベル等への観光客と、観光を終えスーダン国境への唯一の交通である週一便の船を待つ大陸縦断旅行者。ゆったりと流れるナイルの眺めが美しいが、緑はほぼ川沿いにしかなく、町自体は乾燥して込み入った普通の町。観光客が多いせいかボッてくる店が多く、数少ない正直な店を探し出すのも一苦労だった。

f:id:pelmeni:20200823020522j:plain町の対岸に渡る。フェルーカという帆船がゆっくりと漂うナイルの光景はのんびりとしていて気持ちのよいものだった。

 

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ホテル・オールドカタラクト アガサ・クリスティーナイル殺人事件を執筆したホテル 格式高く気軽に歩き回れないのでロビーだけ

 

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ヌビア博物館 イスラムの国によくある人形を使用したリアルな民俗の展示はここでも!

 

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f:id:pelmeni:20201202192754j:plainアブシンベル 「巨大」

f:id:pelmeni:20201202194216j:plainイシス神殿

上記どちらも保存のために移築されたもの 分割解体して運んだ後に合体させるとか、その発想がちょっと信じられない

 

その後ルクソールへ。カイロに次ぐここもエジプト最大の見所。町はナイル河東岸だが遺跡は両方にまたがって存在する。陽が沈む西側には死者の眠る王家の谷、東側にはカルナック神殿ルクソール神殿、博物館など。西岸の遺跡へはナイルを船で渡るがその先には交通がないのでたいてい宿でツアーに申し込む。自力で回りたい少数は自転車を借りて行くが、想像以上の苦役になるようだった。僕はといえば、更に少数派、レンタルのオートバイでちゃちゃっと回ろうと考えた。宿の従業員に尋ねると1日20ドルで可能というので喜ぶ。ただナイルを渡る船は自転車までしか載せないので、9km上流にある橋を往復しなければならなかった。メットもブーツも無しの解放感は日本ではまず得られないものだ。スピードを出すと周囲の風景があっという間に去ってしまうのがもったいなく思えて、必要以上にゆっくりと転がす。おかげで普通の集落の中に入りこみ子供たちに追いかけられたりしながら、遺跡巡り以外も含めて一日を楽しみ無事帰還。

 

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 今写真見ても、もはやどこがどこだか憶えていないのだった。

 

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中国製125㏄シングル 以前に乗っていた単車もシングルだったので、単気筒の規則的なエンジン音が懐かしかった

 

東岸は自転車でまわった。カルナック神殿で知り合った日本人女性と夕食後に彼女が泊まっている宿に遊びに行ったところ、そこにいた日本人旅行者達は、僕が今まで所々で出会ってきたすべて知っている顔だった。ついでにエルサレムで一緒に酒を飲んだ韓国人たちまで居たのには笑ってしまった。何でみんな揃っているんだよ、え?。それは多分この宿が「地球の歩き方」に載っている宿だったからだろう。

僕は到着時に鉄道駅で声をかけてきた客引きについていって宿を決めた。街中にあって出来たばかりできれいで安かったうえ、その客引き、というか若い従業員も明らかに仕事始めたばっかりですといったフレッシュな感じで、スレた印象を受けなかった(それがいつまで続くかはしらないけど…)ので、所謂当たりの宿だったのだろう。そういった従業員とは仲良くなっておくべきである。細かく気にすれば困りごとは結構生じるもの。頼んでも碌に仕事をしてくれない輩は想像以上に多い(笑)。

当時ルクソール鉄道と街が結託していて、外国人旅行者には、直近の期日の鉄道切符を駅で販売してくれなかった。1日でも多く滞在させるためか1ポンドでも多く金を使わせるためかは知らない。日本ではまず考えられないことだが、この様なセコい話は海外では時々お目にかかる。僕もこの時窓口で週末まで空席は無いなんて言われたので、宿に戻りその従業員に買ってきてもらうことにした。彼ハッサンとは立話したりちょっとした頼み事をしていたので一言で話は通じた。希望日の切符は入手でき上乗せも安いものだったので、ま、それはそれでよかった。つまらないことに腹を立て気を煩わす時間は非常にもったいない。時間は限られている。旅も長く続けると必然的に割り切った即断というものをパッとできるようになる。ただ帰国後もそのままの気分でいるとドライな奴だと冷めた目で見られることにもなる。

 

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しかしすべてがデカくて大味だった…、それがエジプト。全く以ってヒューマンスケールから逸脱していて、それが古代というあまりに遠い時間の隔たりを実感させてくれた。

 

 

 

'05旅 その18 ベツレヘム、アンマン、ペトラ 

アラブ7>イスラエルパレスチナ、ヨルダン Oct. 2005

エルサレム←→ベツレヘム→国境→アンマン→ワディ・ムサ/ペトラ遺跡アカバ出国

 

 

せっかくイスラエルまで来たのだから「パレスチナ自治区」へも足を伸ばしてみた。エルサレムの近くにはPLOアラファト議長が事実上軟禁されていたラマッラという街があるが、氏は既に前年亡くなっていたので、ベツレヘムへ行くことにした。パレスチナといってもベツレヘムはキリスト生誕の地、クリスマスシーズンには世界中から巡礼者が訪れる観光地でもある。エルサレムからはたった10kmしか離れていないのでミニバスが利用できた。ただ、これで街中まで行くことはできない。

 

 

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車の通行は手前のチェックポイントを通過し壁の目前のロータリーまで。ここがイスラエルパレスチナの境界(停戦ライン)なのだが、壁はパレスチナ側に侵食して建てられているところもある。イスラエルの入植地がパレスチナ領内に作られているからだ。

壁の通過自体に問題は無かった。記憶が定かではないがパスポートチェックはあったはずだ。大きなプレキャストコンクリート版がうねうねと連なる景観は異様である。無表情で威圧的、人が生活や活動する空間には相応しくないものだ。

20分位歩いて街に着いた。多くの観光客が訪れるだけあり普通にきれいな町。店先で売られている商品にヘブライ文字の表記は無くラテン文字ばかり。ヨーロッパからの輸入品なのだろうか。

 

f:id:pelmeni:20200706194626j:plainf:id:pelmeni:20200706195120j:plain聖誕教会

f:id:pelmeni:20200706195501j:plain地下にあるミルクグロット教会

 

 

エルサレムに帰り、同じ宿に泊まっていた日本人の女子2人とアンマンに戻ることになった。

 

f:id:pelmeni:20200707032424j:plainアンマンのダウンタウン、フセイニモスク前(これはラマダン以前)

f:id:pelmeni:20200707033652j:plainf:id:pelmeni:20200707033059j:plainアンマンは丘に囲まれた街で、一番低い所が上記ダウンタウンの中心となる。ローマ遺跡があり、円形劇場はきれいに整備されている。すぐ横にある小さな博物館は展示がわかりやすく楽しむことができた。民族衣装や、伝統的な生活様式の紹介、変遷の展示が主なものだった。

f:id:pelmeni:20200707034239j:plainチタデラからの眺望 この先に新市街が広がっている

 

アンマンではどうしようか迷ったが、再び安宿クリフホテルに泊まってしまった。この宿の従業員サーメルも当時の日本人旅行者の間で名高い人物の一人だったが、評判通りの好人物とはすぐに判った。客に対する対応が常に真面目で親切だ。喋り方や表情等ひとつひとつに偽りが感じられない。親切なだけでは必ずしも人格まで素晴らしいと決めつける理由にはならないのだが、彼の場合有無を言わせずポジティブな印象を抱かざるを得ない。多少過剰なところもあり逆に気遣いしてしまうこともあったが、それは日本人とアラブ人の考え方の違いに因るものかもしれない。個人で長旅をしていると不愛想な外国人と接しなければならないことも続き、たまに遇う暖かなもてなしには心を動かされるものだ。こんな僕でも。彼はパレスチナ難民の家族の生まれだった。宿のノートにはいろいろな事情が書かれていて -----言葉のわかる旅行者が聞き取ったようだ----- 生い立ちから現在の職場まで長いこと恵まれた環境に居ないことを知った。そんな訳で出発の際は他の旅行者同様に僕も、厳しいかもしれないが彼の今後の幸せを願わずにはいられなかった。

-----実は旅行後しばらくしてから彼の情報が幾らか入ってきた。あのブラックな環境のクリフホテルから解放されて雇われだが別の宿を任されているとか、何と日本人女性と結婚して来日したとか… みな断片的なもので今現在どうしているかはわからない。旅先で会った忘れ難い人物の一人ではある。

 

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彼がサーメル こう見えても案外若かった。夜になると宿泊客とUNOをするのが唯一の楽しみだったようで、仕事中とは人格が豹変することに驚いたが、皆笑って許せた。

 

出発前日に再び新市街へ行きインターコンチネンタルホテルなど尋ねてみる。食器のカチャカチャ触れ合う音やコーヒーの良い香りに足をすくわれ、1階のデリ・カフェでまた1時間以上もまったりと過ごしてしまった。まったく外国人のためのアジールですなここは。その後セーフウェイという大きなスーパーマーケットへ行ってみたが、通常のように身なりの良い客が多く来店していた。入口横にあるKFCはドアが開いていたので覗くと開店休業状態。途中まで歩いてぶらぶら帰ってきたが、飲食に関しては新市街でも全くやっていなかった。

 

 

アンマンからワディムサへはミニバスに乗る。地元の若者と話をしたが気がつけば眠気に襲われて意識が朦朧となり内容なんてどうでもよくなっていた。何故なら前の晩は夜中の3時まで宿でDVDを観ていたからだ。ジブリのBOXセットが置いてあり、紅の豚ラピュタを翌朝のことも考えずに夜中過ぎまで見続けるなんて、相変わらず気ままなものだ。でも何故そんなものがそこにあるのだ、まがい物だろうと思った人は正解で、中国製のコピー品だった。以前北京の街中でアニメやハリウッド映画のDVDが日本の1/10以下の値で売られているのをみたことがある。出自を問わず「安い」ということがそれだけで物事が拡まってゆく理由となる地域はかなり多い。需要があるから供給されるのも事実とはいえ間隙を衝くような姑息さを許していることは嘆かわしい。ただそんなものでも楽しんでしまう僕等は大きなことを言えない。

ワディ・ムサはペトラ遺跡隣の町。ほぼ観光客で成り立っているようなもので、すべてがツーリストプライス。何だかなあと思いながらも町中には選択肢はない。早々に遺跡へGO!

 

f:id:pelmeni:20200711041756j:plain遺跡は奥に長い

f:id:pelmeni:20200711042807j:plainシークを進むf:id:pelmeni:20200711043127j:plainアル・ハズネ/宝物殿 素晴らしいf:id:pelmeni:20200711043508j:plain凱旋門を望む

f:id:pelmeni:20200711043852j:plain赤い谷を延々と歩いてきた

f:id:pelmeni:20200711044200j:plain最奥にある修道院f:id:pelmeni:20200711051227j:plain岩山に刻まれた壺の墓

ペトラはそもそも古代の都市遺跡で、広大なエリアに遺構等が散在している。まあ古すぎるので大きな構築物以外に人々の生活の跡がしのばれるようなものは殆ど残っていない。ただ強烈な自然、燃えるように赤い大地の印象がとび抜けて強かった。あまりにすべてが赤かったので眼が一時的におかしくなり、遺跡から出ると周りの色が違って見えたほどだ。

 

 

我々は更に南下しエジプトを目指す。ヨルダンから陸路エジプトに入国する場合は、アカバ~ヌウェイバ間のフェリーを利用することになる。アンマン以南は他にルートが無く、フェリーも1日各1本なのでここで旅行者は合流することになる。この時も僕の他にはエルサレムで知り合った2ガール、アンマンで同室だった男性1人、ワディムサの食堂で会ったカップル、計6人もの日本人がフェリーを待つことになった。

船は高速船と普通船の2種類があり所要時間はそれぞれ1時間、4時間程度、料金は45USD 、32USD、出発時間はそれぞれ3時と昼だった。我々は遅い方を選んだが通常だったらそれでもおかしくはないことだ。ところが当時はラマダンで遅い船の出発は夜間になるが時刻は決まっていないという。まずは待つしかないのでとりあえずトランプを始めた。大貧民とシットヘッドを延々と繰り返すのだが不思議と飽きなかった。エルサレムで会った韓国人も乗場に現れたが、彼らは高速船のチケットを買い早々と行ってしまった。ふと思ったのだが、このような選択肢がある場合、理由はわからないが日本人旅行者は大多数のローカルな人と行動を共にすることが多い。僕自身も経験的にそうだといえる。

現地の利用客は夕方になると外に出て集まり始め、日没と同時に少し賑やかな食事を始めた。僕らも彼等の輪に加わったりテントの屋台で何か買ったりした。出発時間が夜半になったのは、この時期大切な食事の時間を無事終えてからのためだったのだろう。出国手続きを済ませ船内で席についても我々は馬鹿みたいに大貧民を続けた。眠るには短い運航時間だったし、妙な高揚感にうなされていた感もあった。

 

 

 


 

'05旅 その17 ラマダンから逃れイスラエルへ

アラブ6>ヨルダン、イスラエル Oct. 2005

→アンマン←→サルト、ジェラシュ→国境→エルサレム→テルアビブ←→アッコ→エルサレム

  

 

昨年の9月にサウジアラビアが個人旅行者に対する観光ビザの発行を開始するというニュースを耳にした時の印象は正直なところ、俄には信じられないというのが半分、ついにその日が来たかというのが半分だった。というのも、何もない小国や情勢が不安定で旅に適さない国を除けば、ある程度名の知れた国で個人旅行の許されていない最後の砦がサウジアラビアだったからだ。世界全ヵ国制覇を目指す旅行者でもサウジだけはツアーで訪れなければならなかった(この旅行中グルジアで会った人も確かそう言っていた)。一応公式にはそのようになっていた。と、敢えて書いたのは抜け道は存在したから。違法手段を使わない文字通りの抜け道、トランジットビザの利用だった。滞在時間が限定されるので観光どころではなく一気に駆け抜けることになるのだが、それも一興と思える人間ならOKだろう。日本人はヨルダンにビザなしで入国できるので、サナアでトランジットビザをとりイエメン→サウジ→ヨルダンと抜けることは可能で、ジエッダあたりで一泊位はできたはず。帰りの航空券は捨てることのなるのだが、僕は可能ならそのつもりでいた。

でも結局はしなかった。ラマダンがもう間近だったからだ。ラマダンの一週間前からサウジは外国人入国禁止となるので、日程ギリギリで組んだとしても、イエメン2週間の滞在を半分に減らしてサウジに入国しなければならないことになるのだ。少し考えてイエメンの方を選んだ。サナアに滞在して2,3日目だったがこの国の魅力に心を奪われ始めた頃だった。滞在を半分に減らす気にはなれなかった。

予めラマダンの開始日を調べて行動すればよかったのだけれど、そんな難しいこと苦手なんですよねえ。長旅中に予定をたてて行動することがどれだけ大変なことかは、経験した人でなければ解らないでしょう(笑)。できるのは最初の頃だけです。というか、予定に捉われず自由に動くことにこそ長旅をする意味があるわけで、まあ、こればかりはしょうがない運の巡り合わせと考える。ただ、この流されるままに生きる楽しさを知ってしまうと、駄目人間に堕ちていく可能性は大だ(実感です…)。

 

さて、それから既に15年経った。サウジアラビアは頑なに拒んでいた個人旅行者を受け入れ始め、最後の楽園などと呼ばれたイエメンは簡単に旅することのできない国となってしまった。当時の選択の際に現状を予測していたわけではないが、歴史とは得てして不思議なものである。

 

※トランジットビザ~通過査証 交通の乗換や移動で一時的に滞在する場合のビザ。大抵は短時間(数十時間~数日)。出国先の入国保証(ビザ等)が無ければ得られない。

 

 

ラマダンが迫っていた。イスラム太陰暦なので西暦での開始日は毎年異なる(早くなる)。イスラム聖職者の長老が新月の確認をもって正式な発表となるが、それは微妙なところでこの時も予定日よりは一日遅れての開始が発表された。

ラマダンとはイスラム歴の第9月の名前で、この月に断食が行われます。「ラマダン=断食」ではないのです。詳しい内容はWiki等を見てください。

ヨルダンには長く滞在したので他国を経由して来た旅行者から話を聞いた。トルコはかなり緩く断食していない人もいたり、バスの運転手の中には普段と変わらず運転中も煙草を吸っていた人もいた。シリアやレバノンもヨルダンに比べれば雰囲気は穏やかだったという。意外だったがこの近辺ではヨルダンが一番保守的で厳しく戒律を守っているということだった。

そのヨルダン、アンマンのダウンタウンの雰囲気というと、多くの店がシャッターを下ろし、必要最低限の店のみ開けている感じだった。街角によくあるジュース屋なんて、開けていたがその場で飲むことは許されず透明のビニール袋に入れて持ち帰り家で飲めということだった。パン屋も早朝のみ。この期間は帰宅時間が早くなり午後3時頃から道路が渋滞し始める。クラクションもうるさかった。そして日没を待って夜遅くまで飲み食いを始めるのだろう。夜間の人出はそれなりに多かった。

初めは物珍しかったが面倒になり、新市街にある外資系ホテルまで足を運んでみた。ここへ来れば空調の効いた快適なカフェでヘラルドトリビューン片手にコーヒーを飲みながら寛ぐことができる別世界だった。たまにはいいよねえと思いながらも、泊まっていた宿の下階にある地元の男性で賑わう喫茶店のカルダモン入珈琲が懐かしく思い返された。新市街の方が開いている商店などは多かった気がする。

ラマダンはこのあと1か月間、カイロ滞在の途中まで続く。

 

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アンマンから日帰りでサルト、ジェラシュの遺跡へ。サルトはかつて商業で栄えた町で、オスマン朝時代の大きな商家が残っているが全面修復中で見ることができなかった。近くの山から切り出した黄色っぽい石の住宅が丘の斜面に積み重なっていた。ジェラシュはあまり知られていないが広くて保存状態の良い都市遺跡。アゴラや屋外劇場、コリドール、神殿などが残っている。ラマダンが始まった日に訪れたせいか観光客はとても少なかった。暇そうな物売りがジュースを持って来たので断ったら「おまえもラマダンをするのか?」と訝しまれたので笑って済ませた。

 

サナアからアンマンに戻った後はイスラエルへ向かった。ここの国境(キングフセインブリッジ)は面倒で長時間にわたる入国審査で有名だったので覚悟をしていたが、何故か拍子抜けするほどすぐに終わった。普通なら多数のビザや出入国印で埋まったパスポートを片手に根掘り葉掘り尋ねられても不思議ではないのだろうが、形式的なことしか聞かれなかった。不思議に思ったが入国後その日と翌日がユダヤの新年の祝日だったことを知った。多分通常の休日のように業務は半ドンでイミグレの姉さんは仕事したくなかったのだろう。こういうツキはとても嬉しい。旅の間は些細な事でも良い方向に思考回路を動かす習慣がいつの間にかついている。

入国後はまずはテルアビブへ。安息日シャバットの土曜日は何と市バス等公共交通までストップすることには驚いた。街中は静まり退屈だったのでビーチに寝転んで昼寝をした。ここには人が集まっていた。

f:id:pelmeni:20200628211638j:plain眩しい太陽の下、薄目で見慣れた光景を眺めながら、自分が本来所属している世界はこちらなんだということを思い出した。久しぶりに戻ってきたという感じだった。でも束の間の何とか、またすぐ出て行かなければならない。

テルアビブは普通の都会。街路樹が多くベンチも至る所にあり休憩に困ることはない。ロシアから移住してきたユダヤ人も多いようで、町中でロシア文字を目にすることもままあった。コミュニティがあるのかそうした商店や食堂が集まっている一角では、ロシアンポップスが流れていた。彼の地を訪れた人であれば耳に残っているかもしれない、あの、リズム感の無い甘く切なくそして妙に安っぽいメロディ。何だか懐かしく思ったのは、実は嫌いではないから(笑)。

テルアビブのような新しい街にも世界遺産があった。それは「テルアビブの白い都市」。第一次大戦後移民が急増し住宅不足に陥ったテルアビブに、当時ヨーロッパの最新鋭だったバウハウス様式で一気に建てまくった結果だ。本家バウハウスも閉校に追い込まれた時期で欧州でも建築家が仕事にあぶれていた。せっかくだからインフォメーションでガイドを買って巡ってみた。幾何学に基づく意匠は同様なのだがよくみれば暑い気候に合わせて開放的なつくりとなっている。南欧の住宅に似た雰囲気だ。ヨーロッパで創出された様式に対して新たな土地の気候的要件に合わせて取り込まれた変化は確かに興味深いものだが、世界遺産の認定が安売されている現在ならいざしらず、旅行当時は、それほどのものなのかというのが正直な印象だった。これより先に認定されるべきものが世界中に多々存在していたはずである。

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写真写りは良い 流線形は個人的に好みです

 

一通り歩き廻った後広場で休んでいると若いカップルから話しかけられた。彼女の方が日本に滞在したことがあるということで片言の日本語だった。尋ねると熊本など九州に1年半滞在しアクセサリーを売っていたとのこと。よく駅前で黒い布を拡げてシルバーの小物を売っているあれで、日本だけではなく他の国でも見かけるのはユダヤのネットワークが元締めである故と聞いていた。仕事内容はともかく難しい事無しで外国に滞在できるシステムがあるというのは少しだけ羨ましい。英米人やオージー達が世界中で英語教師という職に気軽にありつくことができるのと同様なことか。ちょっと違うか。

 

この旅初めて鉄道を利用してアッコ(アクレ)まで足を延ばす。車両もシステムも西欧並の快適さだった。音も無く流れて行く車窓の風景が妙に感じられるほどだった。硬いシートで尻や背中が痛くなったり急ブレーキで体ごとつんのめったり窓の隙間から砂が入ってくること等とは無縁の世界だ。

レバノンで訪れたスールやシドンと同じような形態の町。場所も近い。海に向かって幾らでも空間があるのに防御的に閉じて住まうのも同じ。

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海が見えると走り出したくなるのは何故だろう

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手を伸ばせば人々の生活に触れ合うことができる。でも彼等の日常には割り込まずにさっと横を抜けて行くこともある。結局旅人は一介の通過者でしかあり得ないのだから、それでいい、と思うこともある。

 

 

エルサレム。説明など必要ないほど有名で常に話題の尽きない都市。

新市街を一通り歩いたが普通の都市だった。ただしここでは皆横断歩道で車の通行が無い赤信号を律義に守っていた。そんな糞真面目な国は日本以外ドイツしか知らなかったがこの国も仲間入りか。街中に軍人が多いのは有名で、軍服に身を包みライフルを肩から下げた男女が普通に歩きバスに乗っている。若い人が多いのは高校卒業後に兵役に就くから。

旧市街のムスリム地区は典型的な中東の街。通路は狭く入組みスークが続く。キリスト教地区やアルメニア人地区は清潔でヨーロッパの町のよう。この時期でも当然ながら飲食に問題は無かった。まともなエスプレッソが美味しかった。

 

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早起きして朝一番で岩のドームへ 異教徒は中に入ることはできないので外から見るだけ

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'05旅 その16 イエメン3

アラブ5>イエメン3 Sep.-Oct. 2005

サナア→タイズ→アデン→サナア←→シバーム&コーカバン

 

 

 

『アデンはおそろしい岩地です。草は一本もなく、良い水は一滴も出ません。蒸溜した海水を飲むのです。暑さは桁はずれで、・・・』 (家族宛の手紙)

詩を捨て当地で交易に従事していたランボーが一滴の水も無いといったアデン。諸々ずいぶんな言い様ではないか、これは是非とも行かなくてはならない、と当時考えたかどうかは今となっては定かではないが、妙な期待と共に訪れた実際のアデンは… 一言、

 -----蒸し暑かった

ゆるゆると漂う湿気の多い空気は他のイエメンとは異なるものだった。暑さの中のむせかえるような人いきれも此処の所無かったものだ。町中にわずかに漂う饐えた臭いは、熱帯の町特有のものだろう。熟れ過ぎた果物、捨てられた野菜、腐ってゆく生ものが露わに晒されている。暑い所ではどうしても隠すことのできない自然のプロセス。何となく雑然として投げ遣りな雰囲気も港町らしい。

 

※そこでもうひとつの感想

 -----まるでインドだな!

 

個人的には暑い所はあまり好きではない。大抵、たまっている疲労が表出し行動力が鈍ることになる。ここでも途中で歩き回るのが嫌になった。のんびり落ち着くことのできるカフェなどがあるわけでもなし。何処に行っても暑さから逃れることができないというのは、長く滞在すれば慣れるのだろうけど初めは気が萎える。如何ともし難い。

アデンという名前を聞けば、当時は二人の文学者のことが思い浮かんだ。両者ともフランスの詩人。ランボーの他、もう一人はそのタイトルずばり「アデン・アラビア」の作者ポール・ニザン。多分著者が記したのと同年代の頃読んだはずだが、性急で思い上がりの激しい文章についていくことはできなかった。すっかり忘れていたので改めて読み返してみた。今はそれほどでもないが、やはりあまり受け入れられるものでもないと思った。 

それとは別に、ランボー、海と来れば、連想されるものは有名な映画の一場面。ベルモンド&カリーナとゴダール気狂いピエロ。「地獄の季節」の一節が引用されたあまりにも有名なラストシーンの印象が強い。静かな海を見下ろす崖地だった故、アデンのイメージが勝手に結びついた。しかしここは地中海ではなくアラビア海。もちろん分かっていたがアデンはあんなにドラマチックな場所ではない。共通することは遮るもの無く降り注ぐ陽差しくらいかな。でもその場に立てば眼前の現実に嫌でも惹き寄せられる。

 

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f:id:pelmeni:20200517011015j:plainかつて大英帝国領だったので、教会も時計塔も一応ある


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タワヒ地区にはコロニアルっぽい古い建物も多いが、少し寂れて静かな雰囲気だった

 

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日本のODAによる新しいゴミ収集車 運転手はカートを噛みながら何それっ?て感じ

 

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『Rimbaud Tourist Hotel』 実際のところ、アデンでの最大の目的はこの宿に泊まることでした。ここはランボーが当時雇われていたバルデー商会の建物です。かつては近くまで海が迫っていたそうですが現在は大分先。このつい先年までフランス政府がフランスアラブ文化協会として所有していたそうで、返却後にホテルとなりました。共用部に昔の雰囲気が残っていたものの、泊まった客室は広い部屋を雑然と区切っただけで、前時代的な音をたてるエアコンを動かさなければ暑くて休むこともできないところでした。話のネタに泊まるような所でしたが、そのよう謂れの場所ですから見逃すわけにもいきません。多少は昔に思いを馳せることができました。(その後少し綺麗に改装され営業が続き、現在はもう無いみたいですが情報が入ってこない地域なのでよくわかりません。)

 

 

  *

アデンにはサナアからタイズ経由で向かった。タイズには一泊して一通り歩いたが街自体は普通でそれほど特徴はないと当時の日記に書いてある。夕食に食べた白身魚の炭火焼が美味しかったことしか書き留めてない。何となく記憶にあるがもう忘却の彼方に去りつつある場所だ。途中のサナア~タイズ間の風景は素晴らしかった。イエメンの山岳地帯はどこも力強い印象を受けるが、乾燥しているので緑で深く包み込まれるような感じはない。ただ薄くてもやはり緑、ここがアラブであることを忘れさせてくれるような安らぎは少しだが感じられた。

帰路では乗っていたバスが道路を歩いていたロバの群れを撥ねてしまった。倒れた3匹は可哀そうに助かりそうもなかった。やがて村の人に続き長老らしき人物が現れ運転手等と交渉を始め、1匹あたり20,000イエメンリヤル(約100米ドル)の補償で話がついたらしい。1時間かかった。以上は英語を話す近くの席の客が教えてくれた。時々起きる事だという。

食事休憩で停まった町では何と自警団に遭遇した。カラシニコフという機関銃を持った民間人が町中で警備をしているのだ。昼食をとった食堂の前にも銃を肩から下げた2人が立っていたので、話をした後にカラシニコフを持たせてもらった(もちろんそれが目的!)。銃口を上げるわけにもいかず鈍い重さに腕が引き下げられる感覚だった。写真を撮ってもらえばよかったが、そこまで気が回らなかった。残念。本物の銃なんて手にしたのは今まで生きてきてこれっきりだ。

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 * 

三たび戻ったサナアからのデイトリップはシバーム&コウカバンへ。この二つの町は崖の上と下に分かれた兄弟の町の様にみえる。上の町は想像した通り敵の襲来から逃れて籠る砦のような存在でもあると教えてもらった。

f:id:pelmeni:20200419162330j:plain下の町シバーム(砂漠の摩天楼とは同名だが別)は普通の田舎町。スークに多くの人が集まり賑わっていた。コウカバンへは背後の崖を1時間近くかけて登らなければならなかった。乾燥しているが陽射しが強く、犬も猫も日陰でお休み。

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 * 

アラブでは日中は非常に暑いため、たいていの場所では陽が落ちるあたりから街に人が出始める。サナアは標高が高いせいでそれほど暑くはないのだが、暗くなった後もスークは賑わっている。おかげで夜の散策も楽しかった。総じてイスラムの大きな街は夜でも家族連れが多く安全なところだ。

 

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気に入ったチャイハナがあって宿への帰りがけによく立ち寄った。サナアには他のイスラムの街同様に野良猫が多く、その店にも何匹か常に出入りしていた。この子は最高にかわいかったが、そういう猫に限って人馴れしているわけではなく、不用意に手を出すと猫パンチがとんできた。簡単に気を許さないところがまた猫らしくて良い。隣にある鉄の棒で組まれた物は、チャイグラスを丸穴に上から差して出前に持ち出す器具。T型の部分を上からつかむ。実際に使っているのを見て、なるほどと思った。

 

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一日歩き回り疲れた足を引きずり旧市街の宿に帰る。静かな夜の街をゆっくり歩いていると、高ぶった気分が徐々に落ち着いてゆくのがわかる。この時間が好きだ。乏しい灯は余計な物まで照らすことなく光と影による意匠のみを描き出す。オレンジ色の光の下ではあらゆる物が情緒的に見える。饒舌な昼間の顔とは異なり、夜の街は陰影に富み静かで落ち着いた世界を垣間見せてくれる。魅力的だ。

 

 

 

 

'05旅 その15 砂漠の摩天楼 イエメン2

アラブ4>イエメン2 Sep. 2005

サナア→サユーン、シバーム→アルムカッラ→サナア←→ロックパレス

 

 

もうだいぶ昔の事になるがNHKの紀行番組で、アラビア半島奥地の砂漠の真ん中にぽつんと存在する町の、高層住宅がびっしりと建ち並ぶ姿を紹介していた。確か「砂漠の摩天楼」という表現が使われ番組のタイトルにもなっていたと思う。まったく変わった町だなあという印象が持ったが、それが忘れ去ること無くずっと記憶の奥底に残っていた。イエメンに行くことを決め訪問地を調べているうちに、その砂漠の摩天楼がシバームという町であることを知った時の興奮と言ったらない。自分がそのまさかあの場所に行くなんて当時は夢にも思ってはいなかった。実はこのような経験は幾つかあり、中国貴州の鐘楼を持つ侗族集落もNHK教育テレビだし、九塞溝もそもそもは深夜のBSハイビジョン試験放送の映像に息を呑んだ所だった。

 

f:id:pelmeni:20200412021727j:plain例の2日後の朝の便には間違いなく乗せてもらうことができた。大型の新しいバスは砂漠の一本道をひた走る。舗装は新しくバスの乗心地も快適だったが、この数年前までは石畳の道だったのでサユーンまでは4WDで23時間!も掛かったということを聞いた。今はそれでも10時間。


f:id:pelmeni:20200412021021j:plain宿から眺めるサユーンの町 ワジによる巨大な浸食谷の中にある 左は王宮

  

 

 

 

車がカーブを切り、パッとその姿を現した時はどきっとした。

-----ついに来ちゃったな

特異な町の構造と、地の果てのような(印象です)イエメンの辺鄙な砂漠の中というロケーションが印象的。それ故にTVでみた時以来忘れられないでいた。あのうろ憶えな映像が実際に目の前にある。まずは感慨深い対面となった。

シバームは古代(紀元前8世紀ー3世紀)にこの地域に存在したハドラマウト王国の首都として栄えた。町自体は以後2000年もの間続いているが、この泥煉瓦でできた高層住宅建築はほとんどが16世紀以降に建てられたもの。洪水と遊牧民の襲来から身を守るためこのような形態をとるに至った。この場所で洪水というのも俄には信じられないが、2008年の豪雨では被害が出るほどだったようだ。

 

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 上を見上げたままなので首が痛い 見上げないわけにもいかない

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ただ自分がそんな場所にいることがやはり不思議に感じたかといえば、そうでもなかった。歩き回っている間じゅう考えていた。事前の想像とは少し離れ、町の体裁をなしている。ここも普通の人々によって普通の生活が営まれている普通の町であることに違いはなかった。手を伸ばせば生活している人々の日常に触れ合うことができる。余程の場所でない限り、我々が行き着くことのできるような場所は、何も特別な場所ではない。旅を重ねると、人間のあらゆる差異なんて実際は大したことではなく恐れる必要もないことがわかる。雑多な体験を経た後にたどり着いたその事実の単純さには思わず苦笑いだが静かな重みも感じた。真理とはそういうものなのかもしれない。旅とは人間が普遍的な存在であることの確認作業でもあると思う。

 

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枯れ川をはさんで反対側の町から眺める。これが全体像。砂漠の摩天楼とは言い得て妙だ。今だったら是非ドローンを使って上空から撮影したい光景。

 

帰路に同じ経路を使うと安くあがるが自分の主義に反するので別のルートを探す。本来ならムカッラからアデン方面に向かい南部を訪れたいのだが、その長距離のバスには乗車できないようだった。一度飛行機でサナアに戻ることにしたが、飛行時間自体は短いので、ムカッラまで移動した後午後遅い便で飛ぶことに決めた。

サユーンからムカッラまでは乗合で移動。しばらく巨大なワジの谷を進み、やがて賽の河原のような荒涼とした風景の中を走る。人が住むことのできない乾いた大地が続いた後、道路はつづら折りとなり視界の開けた崖を駆け下りる。ダイナミックな地形の変化に息を呑む。でも写真は無い。雰囲気は後年鉄道で通ったジブチの奥地に似ている。まあこの風景を見ることができただけでも、狭い車に詰め込まれ我慢したかいがあったというものだ。(当時の感想・今はもう憶えていない)

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途中の沿道の町。ワジには雨季に水が流れるため緑があり人が住むことはできる。地下水脈もあるのかもしれない。切り立った崖に挟まれた大きな谷のよう。

 

アルムカッラの町は普通の町。あまり時間に余裕が無かったので、ざっと歩いた後タクシーをひろって空港へ急いだ。イエメニア航空の国内便は自由席のせいか乗客は騒がしい。以前に乗ったアリタリア航空のイタリア人の子供ほどではないが、いい歳した若者が… 50分でサナアに到着。3日ぶりでは何かが変わっているわけでもなし。

 

 

サナアに戻り、これまた特徴的なロケーションで有名なダール・アルハジャール(ロックパレス)を訪れる。ワディダハールという町はサナアから14㎞しか離れていないので半日のデイトリップ。

 

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大きな岩の塊の上に鎮座するイエメン建築様式の宮殿。ここはイマームの建てた夏の離宮。元々は1786年頃に建てられ1930年代に現在のかたちに増築された。マッシブなボリュームの幾何学的構成とそのうえに施されたかわいらしくもある漆喰の装飾の対比。室内の装飾や色ガラスの使い方も独特で美しい。建物自体はこじんまりとしているが、5層で17室もあるとのことです。

 

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宮殿から眺めたワディダハルの町 切り立った岩山の表情が厳しいが意外と緑も多そう

 

 

 

 

 

'05旅 その14 気分は千夜一夜物語 イエメン1

アラブ3>イエメン1 Sep. 2005

アンマン→入国・サナア←→マナハ&アルハジャラ

 

 

この旅のルートを決めた時に、ぜひとも訪れたいと思った国の第1がイエメンだった。ただトルコやエジプトなどの国と違って、陸路で簡単に入ることのできる国ではないうえ、治安などの状況は安定していなかった。諸々の確認は近隣で情報を仕入れたうえで決める。このような国があった場合、僕は俄然行く気になる。大抵面倒な手続きや多少の苦労が付き物だが、それらのプロセスを含めて全部を旅として楽しむつもりで。

イエメンには、リゾートやショッピング、グルメといったモダンな娯楽が出現する以前の素朴だが少々荒っぽい世界を期待していた。それは確かにそこにあった。ヴァナキュラーで風変わりな外身の印象は強いが、昔から変わらずに続く文化や伝統、風習のかたちは頑固で優雅だ。アラブでありながら石油が無く産業や開発が遅れたおかげで、旅人にとっては天国のような場所がアラビアの端に残されたということなのだろう。

サナアにはどこかの街から飛行機を使って飛ぶことになるので、これまでダマスカスやベイルートの旅行代理店を幾つかあたってみた。良い便が無かったり値段が高すぎたりで結局アンマンから往復することになった。でもこのロイヤルヨルダン航空のフライト、出発が夜遅くなうえ、なんと11時過ぎにフルコースの機内食が出た(でもよくあることを後に知る)。深夜1時半到着、アライバルビザを取得後到着ロビーに出たのが3時。サナアの空港は70年代の日本の地方空港のように(…嘘、知りません)ひなびた雰囲気だった。空港で朝まで過ごすことも考えたが気付いたらタクシーをつかまえていた。当時の日記には「深夜だったので激しくは値切らなかった」なんて書いてある。こんな時でも値段交渉を気にするほど旅ズレしていた自分に苦笑だ。車を降りた大きな広場は無人で、まったく何をやってるんだろうと思いがら近くの安宿に転がり込んだ。

 

翌日、満を持してサナアの旧市街へ歩み入る。誰が初めに考え出したのかしらないが、楽しい意匠である。煉瓦と漆喰で固められた砂糖菓子のような建物が密集してたち並び、狭い通路が入組んだ地上は中世の迷宮のようである。ここは楽しいパラレルワールド、日本のテーマパークなんて比じゃない。作り物ではない現実の世界を彷徨うのである。我々の見知ったものとは少し違う、でも現在進行形で人々に生きられている確かな世界だ。そのリアルさがまた肝銘的で、これほど旅をすることの幸せを感じる場所はなかったと、今でも思う。

 

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イスラム旧市街の中心はスーク(バザール)。サナアでも此処に人も物も集まる。当然の様に足が向かう。大勢の人が、用が有るのか無いのかわからないが、とにかく歩いているという印象。ジャンビーヤ(湾曲した刀、今は装飾品)を腰に帯刀している人も多い。一緒に歩いているだけで気持ちが高揚する。気分はアラビアン・ナイト千夜一夜物語の世界。

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どんどん奥に入ってみる。

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昼下がりのカートタイムに突入したようで、皆さん微睡んでいました。もう仕事をする時間ではありません。カートとは弱い覚醒作用をもたらす成分を含む樹木の葉で、新芽の葉をくちゃくちゃ噛むのです。飲酒をしない人々の嗜好品として男性の間で絶賛大人気です。どんどん口の中に放り込み続けるのですぐに頬が膨らんできます。大抵ごろんと横になったり何かにもたれ掛かったり体をリラックスさせた状態です。頭の中も休憩中みたいでした。僕も彼等に分けてもらって噛み続けましたが効果はわかりませんでした。コカコーラ&カフェイン中毒者にとっては刺激が弱過ぎたようです。水パイプのほうが好きだなあ。ジブチエチオピアでも同じ様な習慣がありました。

 

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サラームアレイコム! かわいい男の子が出迎えてくれた… のかな?

 

別の宿にある眺めの良さそうな屋上カフェに行ってみる。マフラージ(伝統様式の休憩室)で寛ぎ、テラスに出て360度のパノラマを楽しんだ。

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次の目的地は内陸にあるシバームだった。滞在する町サユーンへは10時間掛かるので夜行バスを使い宿代を浮かそうと目論んだところ、なんと出発直前にパスポートをチェックされたあと荷物と共に強制的に車から降ろされてしまった。すぐ近くのオフィスで代金を律義にも払い戻した後にバスは去って行った。説明が無かったのでぽかんとしていたところ、近くにいたサウジアラビア人の学生が窓口で話を聞き英語で教えてくれた。彼曰く、セキュリティの為外国人は夜行バスに乗せないとのこと。じゃあ何で売ったんだという話だが、、、。そういえばムカッラからアデンへ行くバスの切符を旅行者が買えなかったという情報が知られていたが、それも長距離バス。この頃はやはり夜行となる便には外国人旅行者を乗せない決め事だったのだろう。

当時イエメンは治安が必ずしも良くはなく、少し離れた所へ行く際は場所によりパーミッションが必要だった。該当する地域の行先が記入された許可証を10枚くらいゼロックスでコピーして携帯し、道路の検問の度に提出する必要があった。確か、9.11以降の悪者アルカイダに協力する部族が国内にいたため、政府と米軍が協力して掃討作戦が行われた後の頃だったはず。

 

翌朝のバスの席は取れなかったので再出発は翌々日の朝便となり、サナア滞在が二晩増えた。 翌日は気を取り直して後の予定の前倒しをすることにした。サナアからマナハとアルハジャラという町を日帰りで訪れる。マナハまでの山の風景は中東では珍しい山岳地帯。乾燥地帯の段々畑というのも珍しいが、何かさっぱりし過ぎていて少し寂しい。途中通過する沿道の集落はみなゴミに溢れてインドの様だ。乾燥しているので砂っぽくカサカサした印象だが、汚いことには変わりなく困ったものだ。

マナハの町は金曜でもないのにスークも店も開いていない。閑散として寂しかったが、地元の人は幾らか出歩いていたので簡単な立ち話をした。斜面に四角い建物が貼りついている光景が物珍しかった。イタリア山岳都市みたいでかっこいい。

ここからハジャラの町までは緩やかな坂道を約1時間かけて歩く。ピクニックのように長閑な気分。山の中で眺めも良い。

崖の上に建つこの町もピクチャレスクだ。内に入ると建物が綿密に寄添い道の狭さも相まってまるで迷路。時を超える不思議な空間だ。そしてウザいガキかわいい子供たちが集まってくる。しかし彼等は物か金を渡すまでは追い払っても追いて来ようとする。今まで観光に来た旅行者が気前良く物をあげ続けたものだから、当然の様に付きまとい要求するのだろう。子供に罪はないが一人でゆっくり観光できないので多少苛ついた。最後には小石の投げ合いになり(笑)続けても大人気無いので早々に退散した。

 

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マナハ

 

f:id:pelmeni:20200408171102j:plain山道を歩く マナハの町が遠ざかる

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アルハジャラ 城砦のような町!