もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

昔の思い出とシンクロしながらカルカッタを去る

ホテルパラゴン隣の路上に小さな土産物の店を開いている一人のインド人がいる。名は通称サトシ。
1999年1月の僕の最初の滞在時には既にカルカッタ名物となっていて、パラゴンやマリア等の安宿に滞在している日本人がいつも話し相手になっていた。流暢な関西弁を聞くと最初は不思議な気持ちになる。どこで日本語を覚えたのか尋ねても、「西宮のオッチャンに教えてもろうたんや」としか話してくれなかった。
ネット上の情報ではいまだ健在らしい。なら、再び会いに行くべし。


しかし、最初の言葉が、「自分、前にも会ったことあるね。ええ? うそじゃない、インド人記憶力いいよ!」ときた。さすがにそんなはずはないとわかっていながら、前もって話そうと考えていた事は頭の中からすっとんでしまい、のっけからサトシワールドに引き込まれてしまったよ。
まあなんて奴だ。

そのうえ、何故か旅先で会う普通の日本人よりも日本人らしい会話ができる。本当は頭のキレる人間なのだろうとか、それにしても腹が出てきたな、などと思いながらつらつらと話をしているうちに、気が付けばキーホルダーだけではなく小さなカバンも買うことになっていた。

恐るべし、サトシ。この話術代込みの値段、300ルピー。
また来ます、といってその日は終わりにした。



本当に最後の日にもう一度来て、ガネーシャの置物などを買い叩き、一緒に写真を撮らせてもらい別れようと思ったのに、店を開けたまま、サトシはいなかった。
呼んでも誰も返事をしない。当然か。多分昼飯でも食っているのだろうが、それにしても無用心ではないか。せっかく、新しく持ったという2つ目の店(!)の事を聞きたかったのに。

肝心な時にサトシはいない。
そういえば前回2005年12月に訪れた時もサトシはいなかった。「多分日本人とゴア行ってたんや。頼まれればガイドもやっとる。」ということらしい。

もし会えたなら、それなら次に会うのは10年後か、なんて会話をしたんだろうな、きっと。
でもサトシに会えなかったので写真は無いし、宙ぶらりんの気持ちのままカルカッタを去ることになった。何か次の機会への伏線のような気がしないでもない。希望はしないが妙な気持ちだ。




ハウラー駅までのタクシーの中から夜の街を眺めながら、色々思い出した。

1999年のカルカッタ最終日も同じような時刻に同じ行き先のタクシーに乗っていた。
隣にいたのは永冨君という大学生。バンコクからカルカッタまで同じ飛行機だったようで、入国後に空港のロビーで「サダル、行きますか」という会話から、しばらくの間一緒に行動することになった。

当時の空港の正面、現在のロータリーや鉄道や植栽のあるところはすべて荒地で、遠くに見えるバス通りまで何も無かった。タクシーに乗るつもりはなかったので、その荒地をひたすら横切り人が数人立っているところまでたどり着くと、やってきたのは「4つのタイヤがついた汚い箱」にしか見えないもの。車掌らしきあんちゃんに「エスプラナーデ行く?」と確認できるまで、それがバスであることなど認識できなかった。中に入れば床は継ぎはぎ、椅子も皆ばらばらでゴミ捨て場から拾ってきた物が無造作に床に打ち付けてあるようにしか見えない。

そんな酷いバスに乗ったのはインド旅を通じ最初で最後だが、いきなりの遭遇に受けたショックは大きかった。
沿道も現在のように整備されておらず、窓のすぐ外の傾き崩れそうな露店や、狭い路地に汚水と野良牛と子供たちが一緒くたになり夕日に浮かび上がる、ではなくあぶり出されているかのような光景に、二人とも言葉を発することができなかった。

彼とはこの後バラナシまで一週間ほど一緒に行動したが、インドの野蛮さが嫌になり(本人談)出国の便を航空会社のオフィスで早めてしまった。
「やっぱ東南アジアは平和でいいっすよ、マレーシアに早く帰りたい」という彼の言葉を聞き、一緒にいても受け取り方は人それぞれなんだろうけど、極端だな------さすがここは名立たるインドだわ、とその時は思った。
その気持ちも今はわかる。マレーシアは本当にすばらしい所だ。人々は優しい。KLの良さもわかる。肉骨茶の良さもわかる。
シンプルにいえば、世の中にはインド様に受け入れられる人間と受け入れられない人間が存在する、ということなのだ。

その時の片割れは気が付けば13年後に三たび同じ場所に立っている。自分はおそらくインドに受け入れられる側の人間とみてよいのだろう。
ただし、深く関わるには相当の覚悟が要る国なので、一介の旅行者としてしか触れ合うことはしない、というのが3回訪れた僕の正直な感想だ。



街の灯りは今は白い蛍光灯も増えて来た。当時も幾らかあったのかもしれないが記憶は無い。心許ない白熱電球ばかりだった気がする。

青白い光は物事を分析的にみせ、オレンジの光は情緒的な印象を与える。
コロニアル様式やそれに準じた建築のファサードは、夜のため鮮やかな色彩は姿を消すが余計な物も見えなくなる。光と影による意匠のみが浮き出し、オレンジ色の光により暖かさを付与され新たな表情を持つ。昼間の猥雑な喧騒とはうってかわっての静寂さのおかげで、さらに魅力的に思える。

当時も窓の外の街をじっと眺め続けていたが、ひたすら見入っていただけで、そこまでは考えつかなかった。ただ、大英帝国の植民都市の夜の散歩の楽しさを感じたのは、ここカルカッタが最初だったのかもしれない。今のところカイロが一番好印象だ。

気が付くと既に巨大なトラスが正面にあった。ハウラーブリッジ、青や紫色にライトアップされたトラスが美しい。これまた昼間の無骨なだけの印象とは違ったものだ。

そんなこと考えているうちにハウラー駅に到着。
夜の出発には幾らかのセンチメントが伴う。思い出が多い場所では特に心に感じることが多い。