もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'99アジア その13 イラン2

モジガンと一緒   テヘラン当時の旅日記

 

イラン人といえば偽造テレホンカードの不法販売で一躍有名になりましたが、それ以前は建設業等で結構真面目に働いていた印象があります。バブル崩壊後暫くして、景気の悪化やビザ制度の変更により多くのひとは国に帰りました。まだ日本の記憶が新しい彼等に、当時、日本人旅行者はイラン滞在中よく片言の日本語で話しかけられました。そういえばパキスタンにも同じような人がいました。

 

 

 

マシュハドからテヘラーンに向かう夜行列車のコンパートメントの中で、僕が例によって身振り手振りを交えて会話していると、廊下から片言の日本語で話しかけてきた男性がいた。
彼がジャヴァ・タへリさん。日本で2年間働いていたことなど簡単な日本語で話してくれた後、半ば無理やり僕を食堂車へ連れて行き、夕食にチェロモルグ※をおごってくれた。
翌朝彼は再び僕のコンパ-トメントへやってきて、家に来い、という。これがよく言われる「親切なイラン人」なのだなと思い、ここは彼についていくことにした。 いい加減そうな人には見えなかったが判断は難しいところ、その場の直感としか言い様がない。

ペルシャ語で チェロウ=白米、モルグ=鶏肉 チェロモルグ=鶏肉ご飯 鶏肉の塊がご飯の中に埋まっている料理

 

彼の家はテヘラン駅の南側にあり、日本でいうコートハウス。2階には弟夫婦が住んでいて、日本で働いたお金でこの家が持てたという。
日本でのことを思い出す時、彼は本当に楽しそうな表情をした。アルバムの写真を見せてもらったが、そこには今より少し若いジャヴァさんが、色々な所で仲間と一緒に写っている。 本人としては良い条件で働くことができたということがすぐに判った。再び日本へ働きに行くことを熱望しており、次はぜひ家族そろって行きたい、 今年中に60万かけてビザをとると言っていたが、その単位が何だか聞き忘れた。まさかドルじゃないだろう。 いろいろ難しいとは思うけど、願いがかなえられたらいいなと思う。

 

さて、彼は3人家族で、奥さんと小さな娘さんと住んでいる。奥さんのソへイラさんはふっくらしていて、やはり室内でもスカ-フをかぶっている。そして小さなモジガンちゃん。はじめ5、6歳かとみえた彼女は10歳。 可愛い顔して妙に大人っぽい仕草したり、大人っぽい表情しながら子供っぽいところみせたり、あー、何とも言えない…
学校で使っている教科書をみせてもらい言葉を色々教えてもらった。(余談だがこの本の最初のペ-ジには、子供と一緒にに微笑むホメイニの写真が載っている!) そのお礼に折り紙で鶴を折ってあげたら非常に喜んでくれて、けなげにも自分の写っている写真やら、サッカ-選手のカ-ドのセットをくれた。
うーん、うれしいよ。あまりに愛くるしい。その間僕は何を思っていたかというと、彼女をさらって日本に連れて帰ったらどうなるかということだった(笑)。目に入れても痛くないとはこういう気持ちなのだろう。多分自分に女の子ができてもこうは思わないんじゃあないかな、よくわからないけど。

 

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彼等はハマダーン出身で、家ではトルコ語を話すという。
その日は祝日で、午後から親戚や友人たちが集まり男性はチャイと煙草と阿片、女性はこの怪しい東洋人が気になるらしく、そわそわしていた。 ただ男性と女性は分かれて座っていた。
ごく簡単な英語で他愛のない会話した。彼女達は一応皆人妻なのだが、若いこはまだ10代後半!なので男としては当然のことながらそちらの輪の方に入りたかったが、そんなこと許されそうになかったので男性陣の方で我慢した。こちらでは浮かれた気分にはならないものの、チャイと煙草で何とか間がもつ。片手で角砂糖をかじりながら飲むイラン式のチャイだが、それ程甘くないのでつがれるがままに飲み続け、途中からトイレにばかり立っていた。 煙草もガンガン勧められ喉はガラガラ。 阿片は自家製水パイプで自家精製したブツを吸引する。ハシシに似ていたので尋ねたら強く否定(!)された。そいつは体に悪い、と。 でも…阿片なら良いのか? だいいちそれはどういう理論なのだ? そもそも彼の言うとおりオピウムなのかは怪しいところだった。

昼食はゴルマサブジ、夕食はキャシキバデムジャンをご馳走になった。コルマサブジパキスタンでも同じ名前の料理を食べたが、野菜カレーのような煮込み料理。 ちょっとクリーミーで野菜はかたまりでは入っていない。バデムジャンとはナス、キャシキとはヨ-グルトを一晩袋に入れて吊るして漉した時に分離したもの、と教えてもらった。 それを一緒に炒める(煮る?混ぜる?)。不思議な味。悪くはない。
ナンは3種類あるという。サンギャギは一番薄っぺらくて機械でつくる。バルバレは日本で極く普通にナンと考えられているものに近い。 ラボシュは肉厚で少し甘みのあるもの、だったかな?。
やっぱりここでも、食事は、床に敷いたビニルの真ん中に置かれた大皿を、囲んで座って食べる。

もっと長居しろといわれたのだが、所用(ビザ延長をテヘランより容易なイスファハンで行う)のため一泊だけさせてもらった。
いろいろな親切や気遣いが忘れられない。

 

テレビもビデオレコーダーもミニコンポもある。壁にはきれいな絵が掛けられている。 ごく普通のテヘラン市民の生活はのんびりと快適そうであったが、これらはみな日本での出稼ぎのおかげなのだ。この生活を長く続けるためには、また何処かで働かなければならないという。国内でそれが可能ならば、来日をあんなに熱望したりはしないだろう。
彼は言った。昔はハマダーンでも多くの日本人が働いていた。ホメイニが来てから皆いなくなり、テレビや車の価格が上がり簡単に買えなくなった。
その後に言葉は続けなかったけれど。

 

その時思った。イランには、一体どれだけのジャヴァさんがいるのだろう。

でも家族連れて日本に来たら、いいことできないよ。

 

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