もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'04南米 その13 南米の旅は終わるが気分は上の空

 

 

さてブエノスアイレスを思うように動けなかったのは、時間が無くなってしまったことのせいだけではありません。

前回プエルトイグアスの川で泳いで問題が起きたと書きましたが、思いもよらぬ事に足をすくわれたのです。それは、、、「日焼け」!。僕は特段敏感肌ではありません。ただ、日焼けには弱い。普段から露出していた首筋や腕などは問題無いのだけれど、いきなりの南米の強烈な日差しには、背中や肩などの生っちろい肌はたった2時間ほどでも耐えられませんでした。BsAs到着の翌日くらいからヒリヒリは痛みへと変わり、街歩きをしようにもバッグは手で持たなければならず、Tシャツが肌と擦れるだけでもいちいち気になって仕方ありません。自由に動き回る気が起きなくなり、最低限決めたところ以外には足も運ばずカフェでぼうっとしてました。

それでも後が押しているので次の場所へ移動しなければなりません。ピークは過ぎたものの痛みはまだまだあり、普段どおりバックパック担いで移動など無理無理無理。でも背負う他はないので、手を後ろに回して下側から少し持ち上げながらヒョコヒョコ歩くしかありません。本当に痛くて涙が出そうになった。街中で近い距離なのに仕方なくタクシーを使ってフェリー乗場へ。ブエノスアイレスウルグアイモンテビデオは街同志がフェリーで直接繋がっているのでこれには助かりました。大きな荷物は搭乗時に預けるシステム。日本人は入国にビザが必要無いので面倒な手続きも必要なし。

入国後これまたタクシーで宿の近くまで。こちらも普段なら問題なく歩く距離なのですが、この日は切羽詰まっていて躊躇せず楽を取りました。宿に着きシャワーを浴びるため服を脱いだら、両肩とも物の見事に皮膚が赤く腫れ水膨れになっていて、片方は破れてました。自分の旅史上最低(最悪ではないw)の思い出の一つです。

でもウルグアイを諦めてブエノスでゆっくりとする考えは無かったです。ウルグアイにはとりあえず行きたかったので。

 

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そもそも何故ウルグアイなのか。

ウルグアイとの最初の出会いは、僕が学校出てすぐの仕事場でアルバイトのウルグアイ人留学生、モンテビデオ出身のセルヒオ君と知り合ったことです。実はこの男、まったく野菜を食べなかった。食事に誘ってもビザに入っているトマトやピーマン、玉ねぎ等ひとつひとつすべて取り除き食う様には驚き、尋ねればポテト以外の野菜は口にしないという。当地ではそれが普通なのか聞きそびれたが、おかげで「ウルグアイ」という名前は頭の片隅に残り続けることとなったのです。

……いや、実際のところは、サッカー選手のアルヴァロ・レコバの印象の方が強かったかな、そうだ、そっちの方だ。サッカーの世界ではウルグアイナショナルチームは古豪です。

 

実際のモンテビデオのレストランではやはり野菜が食べられることはない… なんてことはなく、ブエノスアイレスと同じように巨大な牛肉に大量の野菜サラダが付け合わされる。肉料理はシンプルなBBQが基本の様で、油分も良い具合に落ち意外と量を食べられる。塊が大きいのは筋や骨など食べられない部分もいちいち分けることなくサーブされるからであり、日本の過保護なおもてなしとは違う食文化だ。まあ「肉に食いつく」こと自体が食事のメインイベントなのだ。土曜の午後になると市場には焼いた肉(アサード)の香ばしいにおいが充満しもう堪らない気分になる。価格はブエノスより更に幾らか安いくらい! 肉好きにはここも天国としか言いようがないでしょう。

 

 

かつて羊毛と牛肉の輸出で裕福になったウルグアイは福祉の充実した「南米のスイス」と呼ばれるほどの国家となったものの、モノカルチャー経済の行詰まりかつ重工業化に遅れた後は経済が低迷し混乱しました。それでも現在は南米で2番目に安定した生活水準らしいです。旅行時はアルゼンチンの道連れで経済が底でしたが、かつての栄華の残り香もどことなく漂い人々の雰囲気にも余裕が感じられるのは、お国柄なのでしょう。

 

さてさて街歩きを

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f:id:pelmeni:20190701091118j:plain街中には重厚な建物も多い

f:id:pelmeni:20190705151529j:plain市場の焼肉も結構本格的

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f:id:pelmeni:20190701092132j:plain海もあるある

f:id:pelmeni:20190701092151j:plain夕暮れの中心街

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↑この時は既に夜の12時でしたが、夜は遅くまだ多くの人々がブラブラしていました。モンテビデオの治安は安定していたようで夜もそこそこ安全、というか適度に緩い雰囲気です。ブラジルまでの都会ではこういう訳にはいきません。普通にリラックスできる街が僕は好きです。

夕食後夜遅くまで僕も街中で所在なくブラブラしていました。海に面しているせいか生暖かい風が常に吹いていて肌に心地良く感じました。モンテビデオは何時でものんびりとした時間が流れていたように思えます。コンパクトで特別な観光場所はありませんが、南米で一番リラックスできる首都でしょう。

セルヒオ君は元気かなあ。

 

 

背中の日焼けも落ち着いてきたので、近くの町まで日帰りで行ってきました。コロニア・デル・サクラメント。石畳のある古い町並みが奇麗なところです。

f:id:pelmeni:20190701093502j:plainf:id:pelmeni:20190701101234j:plainはぐはぐぺろぺろぺろ

 

 

帰国の飛行機はサンパウロアウトでしたが、ウルグアイから陸路で戻る時間はもう残されていなかったので、旅行代理店に飛び込み安いエアチケットを購入、帰国前日に慌ただしくも戻りました。今は亡きUairです。記念に機内食(昼食)を下にアップします。あっ、ペリメニ?がある(笑)

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サンパウロ滞在は1晩だけなのでペンション荒木は避け日系の池田ホテルに泊まりました(あすこに泊まったら帰国する気が萎えてしまう…)。こちらはコンパクトな普通のビジネス用ホテルといった風情でしたが、宿泊客は日本人や日系人ばかりで、小さなロビーで日本語で会話をした記憶があります。ゲストハウスとは違ったごくありふれた雰囲気で、通常の一人旅モードでいられました。残念ながら今はもう閉めたそうです。

最後の食事は日本食としたはずですが、何食べたかは憶えていません。帰国直前は何故か、日記をつける気が無くなりいつの旅行も空白のままなんです。

 

 

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3か月はあっという間でしたね。正直なところ南米でこれは短かかった。旅先には南米半年とか3回目で通算2年とかハマっている人も結構いました。南米が一番好きという人ならそれでも構わないでしょうが、僕はなるべく広く歩き回りたい派なので、このくらいの期間が妥当といえなくもない。キリが無いうえに、そもそも先立つものもありません。

もし更に1か月の旅の時間があったなら、多分アルゼンチンやチリを通り南端まで行ったでしょう。実はその2年くらい前に南米を旅した人から20万円で南極ツアーに行った話を聞いていました。旅行時にはもう開催されていませんでしたが、その話が今回の南米旅のそもそものきっかけです。結局端折りましたが元々はパタゴニアや最南端辺りのエリアへ行くイメージから始まりました。端とか先とか旅行者は割と好きなんですよ。

 

今回はあらゆる印象が強烈だったせいか、日本に帰国しても旅が終わったという気持ちの切替が上手くいかずに、半ばカルチャーショックを受けたような状態のまましばらく時間が過ぎました。

職に就いたらしばらく旅できないけどどうしようかと考えていたところ、図ったようなタイミングで、以前の仕事先から人が足りないから暇だったら手伝ってくれないかと連絡が来たのです。何故僕の周りには僕を堕落させる環境が整ってしまうのだろうw。一番は本人がオカシイのだけれど。

でもとりあえずはこれで迷う事はない。結局半年の間バイトという形で働き、自分にこれが最後だと言い聞かせ、再び機上の人となったわけです。

 

※今振り返ってみると、一時期流行った言葉「ダメ人間」に向かってまっしぐらでした笑。