もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードです。

'05旅 その18 ベツレヘム、アンマン、ペトラ 

アラブ7>イスラエルパレスチナ、ヨルダン Oct. 2005

エルサレム←→ベツレヘム→国境→アンマン→ワディ・ムサ/ペトラ遺跡アカバ出国

 

 

せっかくイスラエルまで来たのだから「パレスチナ自治区」へも足を伸ばしてみた。エルサレムの近くにはPLOアラファト議長が事実上軟禁されていたラマッラがあるが、氏は既に前年亡くなっていたので、ベツレヘムへ行くことにした。パレスチナといってもベツレヘムはキリスト生誕の地、クリスマスシーズンには世界中から巡礼者が訪れる観光地でもある。エルサレムからはたった10kmしか離れていないのでミニバスが利用できた。ただ、これで街中まで行くことはできない。

 

 

f:id:pelmeni:20200706192511j:plain

車の通行は手前のチェックポイントを通過し壁の目前のロータリーまでだった。ここがイスラエルパレスチナの境界(停戦ライン)なのだが、壁はパレスチナ側に侵食して建てられているところもある。イスラエルの入植地がパレスチナ領内に作られているからだ。

壁の通過自体に問題は無かった。記憶が定かではないがパスポートチェックはあったと思う。大きなプレキャストコンクリート版がうねうねと連なる景観は異様である。無表情で威圧的、人が生活や活動する空間には相応しくないものだ。

20分位歩いて街に着いた。多くの観光客が訪れるだけあり普通にきれいな町。店先で売られている商品にヘブライ文字の表記は無くラテン文字ばかり。ヨーロッパからの輸入品なのだろうか。

 

f:id:pelmeni:20200706194626j:plainf:id:pelmeni:20200706195120j:plain聖誕教会

f:id:pelmeni:20200706195501j:plain地下にあるミルクグロット教会

 

 

エルサレムに帰り、同じ宿に泊まっていた日本人の女子2人とアンマンに戻ることになった。

 

f:id:pelmeni:20200707032424j:plainアンマンのダウンタウン、フセイニモスク前(これはラマダン以前)

f:id:pelmeni:20200707033652j:plainf:id:pelmeni:20200707033059j:plainアンマンは丘に囲まれた街で、一番低い所が上記ダウンタウンの中心となる。ローマ遺跡があり、円形劇場はきれいに整備されている。すぐ横にある小さな博物館は展示がわかりやすく楽しむことができた。民族衣装や、伝統的な生活様式の紹介、変遷の展示が主なものだった。

f:id:pelmeni:20200707034239j:plainチタデラからの眺望 この先に新市街が広がっている

 

アンマンではどうしようか迷ったが、再び安宿クリフホテルに泊まってしまった。この宿の従業員サーメルも当時の日本人旅行者の間で噂高い有名人の一人だが、評判通りの好人物だった。客に対する対応が常に真面目で親切だ。喋り方や表情等ひとつひとつに偽りが感じられない。親切なだけでは必ずしも人格まで素晴らしいと決めつける理由にはならないのだが、彼の場合有無を言わせずポジティブな印象を抱かざるを得ない。多少過剰なところもあり逆に気遣いしてしまうこともあったが、それは日本人とアラブ人の考え方の違いに因るものかもしれない。個人で長旅をしていると不愛想な外国人と接しなければならないことも続き、たまに遇う暖かなもてなしには心を動かされるものだ。彼はパレスチナ難民の家族の生まれだった。宿のノートにはいろいろな事情が書かれていて -----言葉のわかる旅行者が聞き取ったようだ----- 生い立ちから現在の職場まで長いこと恵まれた環境に無いことを知った。そんな訳で出発の際は他の旅行者同様に僕も、厳しいかもしれないが彼の今後の幸せを願わずにはいられなかった。

-----実は旅行後しばらくしてから彼の情報が幾らか入ってきた。あのブラックな環境のクリフホテルから解放されて雇われだが別の宿を任されているとか、何と日本人女性と結婚して来日したとか… みな断片的なもので今現在どうしているかはわからない。旅先で会った忘れ難い人の一人ではある。

 

f:id:pelmeni:20200707040238j:plain

彼がサーメル こう見えても案外若かった。夜になると宿泊客とUNOをするのが唯一の楽しみだったようで、仕事中とは人格が豹変することに驚いたが、皆笑って許せた。

 

出発前日に再び新市街へ行きインターコンチネンタルホテルなど尋ねてみる。食器のカチャカチャ触れ合う音やコーヒーの良い香りに足をすくわれ、1階のデリ・カフェでまた1時間以上もまったりと過ごしてしまった。まったく外国人のためのアジールですなここは。その後セーフウェイという大きなスーパーマーケットへ行ってみたが、通常のように身なりの良い客が多く来店していた。入口横にあるKFCはドアが開いていたので覗くと開店休業状態。途中まで歩いてぶらぶら帰ってきたが、飲食に関しては新市街でも全くやっていなかった。

 

 

アンマンからワディムサへはミニバスに乗る。地元の若者と話をしたが気がつけば眠気に襲われて意識が朦朧となり内容なんてどうでもよくなっていた。何故なら前の晩は夜中の3時まで宿でDVDを観ていたからだ。ジブリのBOXセットが置いてあり、紅の豚ラピュタを翌朝のことも考えずに夜中過ぎまで見続けるなんて、相変わらず気ままなものだ。でも何故そんなものがそこにあるのだ、まがい物だろうと思った人は正解で、中国製のコピー品だった。以前北京の街中でアニメやハリウッド映画のDVDが日本の1/10以下の値で売られているのをみたことがある。出自を問わず「安い」ということがそれだけで物事が拡まってゆく理由となる地域はかなり多い。需要があるから供給されるのも事実とはいえ間隙を衝くような姑息さを許していることは嘆かわしい。ただそんなものでも楽しんでしまう僕等は大きなことを言えない。

ワディ・ムサはペトラ遺跡隣の町。ほぼ観光客で成り立っているようなもので、すべてがツーリストプライス。何だかなあと思いながらも町中には選択肢はない。早々に遺跡へGO!

 

f:id:pelmeni:20200711041756j:plain遺跡は奥に長い

f:id:pelmeni:20200711042807j:plainシークを進むf:id:pelmeni:20200711043127j:plainアル・ハズネ/宝物殿 素晴らしいf:id:pelmeni:20200711043508j:plain凱旋門を望む

f:id:pelmeni:20200711043852j:plain赤い谷を延々と歩いてきた

f:id:pelmeni:20200711044200j:plain最奥にある修道院f:id:pelmeni:20200711051227j:plain岩山に刻まれた壺の墓

ペトラはそもそも古代の都市遺跡で、広大なエリアに遺構等が散在している。まあ古すぎるので人々の生活の跡がしのばれるようなものは殆ど残っていない。強烈な自然、燃えるように赤い大地の印象がとび抜けて強かった。あまりにすべてが赤かったので眼が一時的におかしくなり、遺跡から出ると周りの色が違って見えたほどだ。

 

 

我々は更に南下しエジプトを目指す。ヨルダンから陸路エジプトに入国する場合は、アカバ~ヌウェイバ間のフェリーを利用することになる。アンマン以南は他にルートが無く、フェリーも1日各1本なのでここで旅行者は合流することになる。この時も僕の他にはエルサレムで知り合った2ガール、アンマンで同室だった男性1人、ワディムサの食堂で会ったカップル、計6人もの日本人がフェリーを待つことになった。

船は高速船と普通船の2種類があり所要時間はそれぞれ1時間、4時間程度、料金は45USD 、32USD、出発時間はそれぞれ3時と昼だった。我々は遅い方を選んだが通常だったらそれでもおかしくはないことだ。ところが当時はラマダンで遅い船の出発は夜間になるが時刻は決まっていないという。まずは待つしかないのでとりあえずトランプを始めた。大貧民とシットヘッドを延々と繰り返すのだが不思議と飽きなかった。エルサレムで会った韓国人も乗場に現れたが、彼らは高速船のチケットを買い早々と行ってしまった。ふと思ったのだが、このような選択肢がある場合、理由はわからないが日本人旅行者は大多数のローカルな人と行動を共にすることが多い。僕自身も経験的にそうだといえる。

現地の利用客は夕方になると外に出て集まり始め、日没と同時に賑やかな食事を始めた。僕らも彼等の輪に加わったりテントの屋台で何か買ったりした。出発時間が夜半になったのは、この時期大切な食事の時間を無事終えてからのためだったのだろう。出国手続きを済ませ船内で席についても我々は馬鹿の様に大貧民を続けた。眠るには短い運航時間だったし、妙な高揚感にうなされていた感もあった。