ニャウンウー・バガン遺跡→マンダレー→ピンウールウィン(メイミョー)
雨はまったく予想していなかった。雨期ではないのに、ニャウンウー到着の午後から出発日まで計4日もの間雨にあたり続けるなんて、運が悪いのか日頃の行いが悪いせいかはしらないが、とにかくついていなかった。特に空を見上げながらパゴダ巡りを決行した日が結果的に一番雨脚が強かった。なんてこった。おまけに気温はそれほど高くなかったが湿度がものすごい。雨に濡れた服などを乾かそうとして一晩掛けておいても全く乾く気配がない。常に湿った物が体に纏わりついている感覚は正直嫌だった。地元の人が身に着ける簡素で風通しの良さそうな着物こそ、この土地に相応しい服装なのだ。
広い平原に数多くのパゴダや寺院が点在しているバガン遺跡を個人で見学するには何か足が必要なので、自転車をレンタルして巡ることにした。しかし雨だった。ここはミャンマー。幹線道路付近を除けばアスファルト舗装などという洒落た物は無い。未舗装の道に撒かれた砂には水が浮き自転車で進むには結構な障害になった。更に砂が無いところはただでさえ柔らかい土が水を含んでグニャグニャになり人が歩くことさえままならない。結局一部はあきらめ翌日に持ち越したが、その翌日も途中で雨が降ってきたのでもう面倒になって途中で引き返した。
平原に古いパゴタが点在するのんびりとした雰囲気が、雨のせいで一部しか楽しむことができなかったのが残念だった。天気が良ければ気持ちの良いサイクリング日和になっただろう。1か月の滞在なのでここだけに長居するわけにもいかなかった。気分は、次行こう、次!である。
美しい平面
最後は雨脚が強くなって散々な目にあった
ニャウンウーからマンダレーまでの移動はマイクロバスに詰め込まれて8時間。到着間際に久し振りに太陽を見た。最初の日だけ良さ気なホテルに泊まったのは、湿った服等、特に靴を乾かしたかったからだった。くるぶしまである人工皮革のトレッキングシューズは内部が全く乾かず気持ち悪い。部屋のエアコンの前にぶら下げ強制乾燥しなければカビでも生えてきそうな感じだった。
濃い朝霧に包まれる日が多かった
マンダレーも久し振りの晴天らしく、多くの人がイラワジ川に洗濯をしに出ていた
マンダレーは古い王朝の都。日本でいえば京都に相当するのかな。マンダレーヒルと王宮。町中には僧院やパゴダが多い。中心を離れるとすぐに長閑な住宅地になる。
以上3枚を頭の中で合成してください。パノラマ写真になります、多分。19世紀に造られた王宮。
マンダレーヒルで沈む夕日を眺めていたら一人の僧侶に話しかけられた。先日までカメラマンとして働いていたそうで、流暢な日本語だった。日本語はここで教えてもらったというが、発音も語彙もこれまた教えてもらったというレベルではない。カルカッタに続き不思議な感覚で話をしていた。見掛けは… もしかしたら日本人だったのかな。
東南アジアの仏教は日本などとは違う種類のもので、「信じる者は救われる」ではなく、救われるためには自ら功徳を積まなければならない。ゆえに男性は一生のうち一度は出家するそうだ。ただ仏門に入るといっても一定期間のちに還俗する。彼ものちに社会に戻ったのだろうか。初めはわからなかったがそうと知ったのは町外れにある僧院を訪れた時のこと。そこで話をした若い僧侶たちは見掛け以外はごく普通の雰囲気で、サッカーなど詳しい。当時活躍していた日本人選手、中田英寿のことまで知っていた。一時出家の習慣の事も話の中に出てきた。日本とは違った形で仏教が生活に関わっているものだと納得した。
シュウェインピン僧院にて
普通の町中だが熱帯は樹木の育ち方が全く違う。
ミャンマースタイルのストリートカフェ
市場の周囲はどこでも人で溢れる
ピンウールウィンは大英帝国時代の避暑地で当時の建物が幾つか残っている。この町を訪れた理由はポール・セルーの『鉄道大バザール』という旅行記に載っていたからだった。マンダレーから近いので寄ってみた。
旅行記に出てくるカンダクレイグ 現在はホテル
町中にて。タコ焼きを期待したが甘いスイーツだった!
ところで、後年タジキスタンで出会った日本人旅行者と話をしていてこの町の話になったことがある。彼女がミャンマー旅行時にピンウールウィンに寄ったのは、祖父が太平洋戦争従軍時にこの町に滞在したからだという(ここには日本軍の司令部があった)。そういえば以前ブダペストで会った旅行者がシベリア鉄道乗車中にバイカル湖畔の町で降りたのも、彼女の祖父が終戦時に抑留された場所を自分でも一目見たかったからだった。意外とそういう話はあるようだ。僕の場合で言えばニューギニアか。僕の祖父はニューギニアで交戦中に脚を撃たれ野戦病院で治療していたおかげでその後の激しい戦闘から逃れられたらしい。戦争のことはほとんど話さなかったので詳しいことはわからない。僕にはニューギニアを訪れるという発想は無かった。
ある時祖父は箱一杯の鉄道の硬券を僕にくれた。その多くは寝台券だった。昔はいちいち切符の回収をしなかったのでいつの間にか貯まったらしい。戦後は化粧品会社の経理や営業職にあり、北海道から九州まで各地の販売店へ頻繁に足を運んだ。見たことのない地名や記号が刻まれた硬券は何も知らない小学生の想像力をかき立てるには十分過ぎるおみやげだった。
でもそのおかげで孫が旅行好きになった… という簡単な話ではない。なにしろ僕は日本国内では寝台も夜行列車も乗ったことがない(正確には一度だけ)。北海道にも九州にも足を踏み入れたことがない。それだけからすれば単なる出不精な人間としかみられないだろう。ところが、初めて乗った夜行列車にそれも海外で魅了されてしまった。
薄暗い照明の下でうつらうつらしたり、冷たい窓に顔を近づけ真っ暗な夜景に眼を凝らしていると、ふと、何十年も前に場所は全く違えど祖父も同じ様な状況で同じような感覚を覚えていたのかもしれないと思うことがあり、異国の夜空の下でも寂しさや心細さからは一時的にも気持ちが離れた。特に旅を始めた頃は、そんな事が時々あったと記憶している。
祖父が必ずしも好き好んで夜汽車に乗っていたわけではない。その時代には他に手段が無かったからだ。でも僕は海外に行くたびに至るところで好き好んで乗っている。昔もらった切符のことを思い出すことは少なくなっていたが、その存在が無意識のうちに僕の個人的な好みに影響を与えたと考えることは、まず妥当なことだろう。見慣れない紙片を片手に子供ながらにあれこれ考えたことが結果的に、将来の僕の地に足の付かない生活に繋がったのであれば -----もちろんそれがすべてとは思わないが----- うちの爺さんも罪なことをしたもんだなあと、思い出す度に何だか妙な形のつながりを感じるのだった。
つながりといえば、祖父は軍隊では上官からは可愛がられたものの生意気だったのでよく殴られたらしい。僕も小学生の頃は口が達者で生意気だったので教師によくぶたれたが、実際のところは贔屓にされた方だ。そんな人間はうちの親族には他にいない。これは余談です。