もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

’05旅回想 その25 ミャンマーは昔の日本の田舎に似ているそうです

ミャンマー3 シーポウ  Dec.2005 - Jan.2006

ピンウールウィン(メイミョー)→シーポウ→マンダレー

 

 

ピンウールウィンから次の目的地シーポウまでは鉄道で移動した。今回の旅程ではあまり鉄道に乗る機会がないのだが、ここは乗車したかった。何故なら途中にゴッテイ鉄橋 / Gohteik Viaduct があるからだ。イギリス統治時代に作られたこの鉄橋は世界第2位の高さを持つそうで(詳細不明)、眺めは壮観だ。これには昔に乗った山陰線の餘部鉄橋を少しだけ思い出した。まだ華奢な鉄骨橋だった頃で、風が強かったため緊張感に溢れた20分ほどを手前の駅で待機した。以前強風にあおられ車両ごと落下したという痛ましい事故が起きた場所だった。国内では有名だったがそれでもゴッテイとは規模が全く違う。

この日は天候の心配をする必要は無かった。高さがあるうえに距離も結構長く、徐行運転をする列車はスリルを含めてなかなかの楽しさだった。写真を撮ることができなかったが、これはYouTubeで多くの人がアップしている動画を見る方が良いでしょう。

 

f:id:pelmeni:20210404053450j:plainピンウールイン出発!

 

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f:id:pelmeni:20210404051820j:plain鉄橋手前の駅Gohteikで停車

f:id:pelmeni:20210404051226j:plain幾人もの乗客が線路から離れていくので後をついて行くと、鉄橋の一部が遠望できた。

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列車は1日上下各1本。停車時間は長く、乗客や町の人が車輌の前を行き交ったり適当にぶらぶらと過ごしていた。

 

 

 

シーポウは普通の小さな町だが、田舎のひなびた雰囲気を求めて外国人が集まる。町自体には特に何も無く静かなところ。この町も周囲の地域も観光地というほどではない。

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実は滞在中に所謂新年を迎えたのだが、地元シャン族の新年は西暦でいうと11月頃らしく、中国人の新年は春節、よってこの日この場所で新年を祝うのは外国人旅行者ばかりとなる。シーポウはミャンマーの他の町と同様に停電が多く、毎晩10時過ぎになると決まって電気が消え、その後はもう何もすることはなく眠るしかなかった。さすがに大晦日~新年にそれでは寂しいので外国人が集まる宿に泊まった。庭に焚火があって囲むように椅子が置いてある。電気が落ちた後は部屋にいてもしょうがないので、もう一人の日本人客、鹿児島の養護学校で教える松村さんに呼ばれて庭で話を始めた。ちょうど日付が変わる時にその場にいる外国人数人が小さな声で「ハッピーニューイヤー…」。気分は盛り上がらずに程なくして皆部屋に帰っていった。

松村さんは僕より一回り年齢が上で、既に何度もミャンマーを訪れていた。昔の日本の田舎に風景が似ているところを気に入っているそうだ。僕はそこまでの印象を持っていなかったが、どこもかしこもひなびた雰囲気があるところなど、そう言われたらそうかもしれないと思った。そもそも田舎に縁の無い生活をしていたので真意はよくわからなかったと思う。

宿でガイドを雇い、翌日3人で近くの村などを半日ほど巡ることにした。

 

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白いストゥーパは緑に映える

居心地が良かったのでもう1日滞在を延ばした。といっても何か特別なことをしたわけではない。何もしなくても気持ち良く過ごすことができるのは何故なのだろう。ストレス無くのんびりできる東南アジアの田舎こそ行くべき所と思い始めたのはこの頃のことだった。自然と溶け合うように一体化した生活というものが東南アジアの田舎ではごく普通に営まれていることを実感したのは、まとまった時間をとることのできたここミャンマー旅行時のこと。東南アジアはまだ2か国目だった。それまではどちらかといえば興味の少ない地域でいずれ行けば良しとしていたが、滞在中に自分の中での優先順位が変わっていったことが日記を読み返すとわかる。乾いた中近東の後だけに、水と緑が常に傍らにある環境の優しさというものに、疲れの溜まった体と気持ちが癒された。(インドにも緑はあるが少し別な印象で何事にも剥き出しの厳しさがあると感じた。)これは、藤原新也の言うところによる「乾いた鉱物世界の西東洋」と「潤った植物世界の東東洋」の対比で、それを身を以て感じ取ったということなのだろう。そ、移動し続ける旅の楽しさはこのようなところにある。 

-----でも考えてみればその素晴らしい環境を最も享受できる所って、実は、、、最も身近な日本ではないか? 

-----それが昔の日本の田舎なのかはわからないけど。

-----ただ一番の気持ち良さはこの気候でしょう。何時訪れても夏休みのような暑さに精神が自然と緩んでゆく。休め休めと仏陀が語り掛けてくる気がする。その証拠に彼は何処でも寝そべっている。肘枕に大きな体を横たえている。

 

 

最後の夕暮れは、川向こうの丘の上にある寺院から町を眺めながら日没までまったりと過ごした。夕もやが流れるように増え始め、段々と日が暮れるなか徐々に余計なものが見えなくなってゆく。人工的な光の少ないこの町では、やがてすべてが夜の闇に同化してゆくのだろう…

 

一日の中で最も美しい時間を美しい風景の中で迎える。んー、旅って贅沢。

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刻々と変化する茜色の空のグラデーションが美しかった。名残惜しいが暗くなるまでに山を降りなければならない。

 

 

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シーポウの町中には妙な気持になる看板があった。わざわざ掲げてあるこの標記は、亜細亜的な優しさか、それとも形式的な下達なのだろうか。

 

 

マンダレーに戻り隣接するアマラプーラへ行く。大きな池の上を長く長く続く(1.2km!)木造歩道橋、ウーベイン橋が有名。渡りきるのに20分位かかった。昔はミャンマーの首都だったこともあったが現在はマンダレーの町の一部に組み込まれている。ここもパゴダや僧院が多かった。

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