もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。

過去旅'99アジア その13 トルコ

トルコ

(イラン)ギュルブラック国境→ドウバヤジッド→ギョレメ/カッパドキアイスタンブル→(アムステルダム経由)帰国

 

 

予定では最後の訪問国、トルコ。終わりに近づくと急いでしまうのはこの頃からの癖だったようで、一気に横断してしまった感がある。イスタンブールカッパドキアには訪れたが、今思えば他にも行くところはたくさんあっただろう!ということだ。(結局2005年に再訪し1ヶ月かけて回ることになった)

 

トルコの最初の印象は長距離バスだった。

イランのラシュトから夜行バスに乗り早朝タブリーズに到着後、すぐに国境まで移動した。イランからの入国者が多かったため通過には少し時間がかかったが日本人なら問題なし。入国後ミニバンで近くの町ドウバヤジッドへ。小さな町だしとりあえずバスターミナルへ行き時刻表確認しようとしたら、ちょうどシヴァスを通るバスが出発するところで、吸い込まれるかの様にそのバスに飛び乗る。シヴァスには夜中の12時に到着。1時間の待ち時間でカイセリ行きのバスに乗り換える。朝の5時にカイセリに着き一休み後ギョレメ行きのバスに乗る。8時にギョレメに着き町中の食堂で朝食をとり、さあ宿探し。

ラシュトの出発が前々日の午後7時だから1日半まるまる移動しっぱなしだった。もちろんイランのバスも道路も快適だったのだが、それ以上だったのがトルコだ。本当に流れるようにスムーズに移動できた。国境近くの一部の地域を除いて道路の状態は非常に良い。バスもベンツの大型で新しいタイプ。乗客も適度の込み具合。車掌が甲斐甲斐しく働き飲み物やらお絞りやらサービスに余念は無い。休憩後等の出発時には必ずコロンヤが振舞われる。オトガルと呼ばれるバスターミナルはどこも広くて多くの会社が発着便を持っているのでチケット選びに困ることはない。夜中でも走らせているので建物内も人が往き来していて安心だった。学生だと一言添えれば学生証を見せなくても即座に割引された。つまりあらゆることがスムーズで楽チンなのだ。おまけにそこそこ安価。さらに、働いている人が皆親切。アジアでこんな国は他には無かったね。というかもうアジアのレベルでは無いと思った。ヨーロッパのeurolinesか、後に訪れるブラジルやアルゼンチン並みの快適さだ。

ボロいバスに揺られ移動するということは、それはそれで得難い体験なのだが、快適なバスの車窓から流れ行く風景をぼうっと眺めるというのも気持ちの良い時間だ。あらゆる物事がタフでハードで濃密な南、中央、西アジアの後ではトルコなんてすべてが薄味に感じる。でもそれが良かった。そう感じること自体に意味があると思った。

 

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一応最終地であるイスタンブールに着く。ここまで5ヶ月と少し。こんな旅の長さを出発前は想像なんてできなかった。でもあっという間。終わってしまえばあまりにあっけないものだった。多少欲求不満を感じたのは、やはり長さが足りなかったせいだろう。旅の生活に慣れ旅の体ができあがり、精神的にも肉体的にも好調だった。本当はもっと時間をかけても良かったのだろう。でも日本での用事があったので、しばらくの間滞在した後、帰国しなければならなかった。

 

久しぶりの大きな街で、気分はお上りさん状態だった。

 

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ここではインド以来の日本人大集合状態。泊まっていた宿には到着時には3人だったのが次から次へと集まってくる。多分同じガイドブックをみての事なのだろうが、それでも分散していたとはいえ多すぎる。僕の他に前述のS君、ピンディで同室だったSS君、バムで会ったT君、バイクでインドから横断してきたKK君、その他にも男性2人、女性1人、ついでに香港人のカップルがいた。

観光は各自していたが、食事にはよく一緒に出かけた。スルタンアフメットのロカンタ、ガラタ橋傍らのサバサンド、ベリーダンスショー、etc…、そうそうポルノ映画のハシゴなんか今でも憶えてる。結構最悪な体験だったから(笑)。映画の出来がどちらも酷かったうえに、映画館内の輩の行為も最低だった。イスタンブールだけはあらゆる意味で他のトルコとは明らかに異なる空気が流れていたが、それでもイスラムでのお楽しみって厳しいんだなってその時思った。

 

 

f:id:pelmeni:20171018033621j:plain薄暗いドミトリーに群がる野郎ども ムーンライト・ペンションにて

 

旅の最後に大きめの街を選び、少しゆっくりしてから帰国することを此処でおぼえたようで、以降大抵そうしている。時間はあったが、それまでを振り返るような気分ではなく、感傷的な気分にはならなかった。次の渡航地は日本、という感覚でイスタンブールをあとにした。でも日本は日本であって、関空に降り立った瞬間から、暫くの間忘れていた現実というものに引き戻される。

夢はいつかは覚めるものである、ということをこの時ほど実感したことは無かった。

 

 

 

過去旅'99アジア その12 イラン3

ギーラーンちょっとだけ旅行記  マースーレ当時の旅日記

 

イランといえば確かに砂漠や岩山ばっかりだけど、カスピ海沿いでは気候は違って雨が降ります。緑も多くその風景は日本にさえ似ていて最初は意外に思えました。イランでも米を食べますが、この地域の田んぼで獲れたものです。 

 

 

●5月6日


テヘラーン西バスターミナルからも雪を抱いた山並みはよく見えた。 まるで北陸、富山みたいだな、と思いながらターミナル内で時間をつぶしていると、S君とばったり再会した。 (彼とはイスファハーンのアミールカビール・ホステルで同室になり知り合った) 国境手前のマクーまで直行、即トルコ突入とのこと。
良い旅を、と別れの言葉を交わしたが、その後の縁は当時は知る由もなかった。

 

  *


カズヴィンまでの道路は相変わらず素晴らしいコンディションで快適だ。 いつの間にかハイウェイに乗り込みバスは速度を上げる。 料金所の様な野暮な物は無い。いつもながら少々妙な気分だが、世界にはそんなものがある所のほうが珍しいのだ。
カズヴィンを過ぎると、あたりはうっすらと草に被われた放牧地帯となる。 そして段々山がちになってきて、ルードバールまで来ると周りの山々は緑で覆われていた。
なんとまあ、久し振りのまとまった緑だこと! やっぱり緑に囲まれると、心が落ち着くのである。

ここギーラーン地方は降雨量があり緑も豊かなところ。砂漠と岩山の印象が強いイランのなかで、こういう地域も自分の目で見ておきたかった。
バスは川沿いの道を縫うように進む。気がつくと外は弱い雨が降っている。狭い平地と緩やかな斜面にはオリーブの樹々。オリーブはどこでも規則的に植えられるのだな、と思いながら、この町のあたりで撮られた映画を想い出していた。あの映画は当時の彼女と観に行った。僕は主人公のはっきりしない態度が気に入らず、観終わった後に悪態をつき彼女と口喧嘩をした記憶がある。 しばらくしてその彼女とは別れた。
そんな昔のことを思い出しても、バス旅のさなかでは車窓の風景とともに、アッという間に後に飛び去っていく。

 

 *


山合いなので日暮れは早く、気がつくと外は既に薄暗かった。雨脚も強くなり、ワイパーの動く音が規則的に聞こえていた。

ラシュト到着、ただこのバスはバンダレアンザリ行きなので、町中の交差点で降ろされた。 バスからの客をあてにするタクシーが数台たむろしている。値段を聞くが、高い。
大体イランのタクシーはせこい。乗車前に交渉しても降車時にそれ以上を要求してくる奴が多く、喧嘩ばかりしていた。これでも短気なのである。 バスや鉄道で働く人は皆親切なのだが、何故だろう。
しつこいので断る。別れ際に街の中心の広場の方向を尋ねてみたが、案の定違う方向を教えてくれた。こっちは旅続きで方向感覚だけは錆びついていないので、 そんな手に乗らない。 日本語でば~かと言って、正しい方向へと交差点を渡っていった。やっぱりこれだからイランのタクシーはせこい。


■T君と会うのはここで3回目、その後ギョレメで会い、イスタンブールでまたもや1週間同室となる。 その後彼は中南米からアフリカへ渡った。額が小堺一機に似ていた。
■「オリーブの樹をぬけて」アッバロ・キアロスタミ監督。当時リアルタイムでイラン映画が紹介され少し話題になったが、正面から社会問題を捉える映画が無かったので、 あまり興味は持てなかった。でも「桜桃の味」は不思議な映画だったと記憶している。もはや映画全般を観なくなったので現状はわかりません。

 

 

●5月7日


昨晩は宿を幾つかあたったが、思っていたほどの安宿は探せなかった。小雨の中食堂を探し回るのも面倒で、宿近くのところで済ませてさっさと寝た。

一晩たって雨こそ降ってはいないものの、空は曇り。 思いがけず宿の斜め向かいにお気に入りのバス会社No.15のオフィスを発見。タブリーズまでの夜行バスのチケットを予約し、 日中は荷物を預かってもらう。そう、今日は昼間にマースーレへ行くのだ。
町外れのミニバス乗り場まで歩いて30分位、少し遠いが一直線の道なので迷うことはない。ここからフーマーンという町まで行き、そこで車を乗り換える。
フーマーンはとりたてていうほどのこともない小さな町。月餅に似たくるみあん入りの饅頭が売られている。いつの間にか雨脚が強まり、傘を買うことにした。 日本から持ってきた折畳み傘はタシケントトルクメニスタン大使館に置き忘れてしまった。折畳みにしては少し大柄なその傘には、 何とMade in Japanと記されていた。本当だろうか? その傘もイスタンブールを発つ際に前述のT君にあげてしまい、今では確かめられない。

 

  *


道端に標識が規則的に現れ、そこに記された目的地までの距離は確実に減っていた。
外は雨と霧に静かにつつまれている。 生活が自然の中に優しくとけこんでいる様な風景の懐かしさに思わずほろっとしてしまい、少し気恥ずかしくなった。 山は樹木に覆われ、点在する農家の屋根は日本の茅葺きに似ている。ちょうど今が季節なのか、田んぼでは女性が田植えをしている。 空き地には雑草が茂っている。気候が似ていると、風景とはこうも似てくるものなのだなあ。

坂道を上り詰めたところで車は突然止まる。
しかしここがマースーレと言われても、全然実感がわかなかった。霧が低いところまでたちこめ視界なんて全然無かったから、そこに町が存在するであろう斜面を見上げても何も見えない。 霧雨というよりかは空気中を漂う水蒸気の粒に包まれている感じだった。なかなかよろしい演出をしてくれるではないか。
とりあえず坂道を登ることにした。途中で分かれる道があったので、勘でそちらへ行く。 暫く歩き、ようやく民家が現れ始めたな、と思った矢先に目の前に開けた光景は、紛れもなくマースーレだった。

 

f:id:pelmeni:20170812202707j:plain霧が深すぎて全貌が判らない!

 

霧と小雨に煙るマースーレ。斜面に階段状に積み重なった陸屋根の家々、下の家の屋根が上の家の前の通路になっていて(写真参照) そこではそれぞれの人が思い思いに歩き語り合い、子供はサッカーボールを蹴っている。僕はぐるっと回り裏(横)から町に入ってしまったので、 このように一望できる場所にいきなり来てしまったということだ。

しかし霧が濃くて辺りの風景が全くわからない。おかげでこの町がぽっかり霧の中に浮かんでいるように思えてくる。

 

f:id:pelmeni:20170812204657j:plainこの日は霧がひどかったけどおかげで幻想的だった

 

f:id:pelmeni:20170812203041j:plainマースーレは山の斜面に住宅が階段状に積み重なってできた町

 

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楽しい2時間を過ごした。まるで模型の町の中をさまよっている気分だった。上を歩いているひとの体がすぐ頭上にある。 自分の足下には下を歩く別のひとの頭がある。 なんだかスケール感が狂っていておかしい。
夢中になって全部の道を歩いた。といっても小さな町なのですぐに終わってしまうのだが、 全然飽きなくて同じ場所を何度も歩いた。
話ながら歩いている男性が多いのだが、よく見ると彼等は狭い範囲を往ったり来たりしている。そんな人達があちらこちらで往復運動をしている様子は、とてもユーモラスだった。

 

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見晴らしのよい場所で、霧の向こうに見えるであろう風景を想像していると、少年が話しかけてきた。

 ---名前は? どこからきた?  日本から 俺も日本に働きに行きたいよ ああ、そう---

イランでお決まりの会話だ。これに、

 ---イランはよくない、日本はいい国だ。 どうして? 云々…---

がたいてい加わる。ここでもやはりそういった会話となってしまう。 まあ、わざわざ外国人に話しかけてくるような人との会話ではあるが、本当に自分の国が嫌なのか、単なる社交辞令と受けとってよいものか。
いずれにせよ飽きてきた会話だし先が続かないのでサッカーに話を振る。彼の眼が輝く。身振り手振りで楽しいが簡単な英語しか通じないので、それ以上の深い会話はできない。でも考えてみればこちらだってペルシャ語は挨拶と決まり文句程度しかできない。
そんなこんなでまた面倒な気持ちになる。 旅をしていく限り、何かしらのかたちで人々とコミュニケートせざるを得ないのだが、この国では何だか欲求不満になることが多かった気もする。
ただ、こちらが相手を呼び寄せないのだ、と言われればそれまでのハナシなのだ。
急に湿っぽいところへ来ると、思考回路も湿ってしまう。

 

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  *


ラシュトへ帰り、少し歩き回った。思いのほか小奇麗な街にみえたのは、雨に濡れていたせいだろう。


街外れのがらんとしたターミナルからバスは夜7時出発。カスピ海沿いの道を走る。カスピ海は右手にちらっと見えたような気がしたが、 すぐに暗くなってしまった。

 

  *


途中の食事休憩は同じバスに乗車している西洋人の二人連れと同席した。男性はニュージーランドから来た。女性はフランスから。 旅の途中で一緒になったらしい。そういえばマースーレでも短い時間だが見かけた。僕はスカーフを被っている彼女をからかってみた。

 -----そのスカーフ、かわいいね。

 -----冗談じゃないわよ! こんなもの国境を一歩でも越えたら、このライターで燃やして捨ててやるんだから! こうして、こうして…

 -----はっはっはっ(男2人で笑う)

彼女は血相を変えて怒り始め、決して冗談で応えていなかったのがおかしかったが、まあフレンチギャルには無理もないことだろう。服装の自由を制限されるなんて理解の範囲外の事に違いない。

二人は途中のアスタラからアゼルバイジャンに入りたいと言っていたが、そこは外国人には開放されていないのではなかったか。 でも変わりやすい情報だし、そういうことは実際に行ってみなければわからない。幸運を祈る。(夜中に下車したようだ)

 

 

●5月8日


朝の5時前にタブリーズのバスターミナルに着いたが、ものすごく寒い。建物の中に入ってチャイをポット一杯たのむが、体の芯までは温まらない。
待合室はたくさんの人ですでに一杯だった。本当はビザを延長してこの街で数泊するつもりだったが、 急にイランを去りたくなってマクーまでのチケットを買ってしまった。 いつのまにか気持ちは既にこの先のトルコに飛んでいた。

ターミナルは高台にあるので街を見下ろすことができる。まだ日の出前なのにたくさんの明かりが灯っていた。この街の人は早起きのようだ。

(おわり)


マースーレは、この地を旅した知人から写真を見せてもらい、ぜひ訪れたくなったところ。当時は宿泊施設は無かったのでラシュトから日帰り。

 

過去旅'99アジア その11 イラン2

モジガンと一緒   テヘラン当時の旅日記

 

かつて日本に出稼ぎに来ていた親切なイラン人にお世話になった、というお話

イラン人といえば偽造テレホンカードの不法販売で一躍有名になりましたが、それ以前は建設業等で結構真面目に働いていた印象があります。バブル崩壊後暫くして、景気の悪化やビザ制度の変更により多くのひとは国に帰りました。まだ日本の記憶が懐かしい彼等に、当時、日本人旅行者はイラン旅行中よく片言の日本語で話しかけられました。そういえばパキスタンにも同じような人がいました。

 

 

 

マシュハドからテヘラーンに向かう夜行列車のコンパートメントの中で、僕が例によって身振り手振りを交えて会話していると、廊下から片言の日本語で話しかけてきた男性がいた。
彼がジャヴァ・タへリさん。日本で2年間働いていたことなど簡単な日本語で話してくれた後、半ば無理やり僕を食堂車へ連れて行き、夕食にチェロモルグをおごってくれた。
翌朝彼は再び僕のコンパ-トメントへやってきて、家に来い、という。これがよく言われる「親切なイラン人」なのだなと思い、ここは彼についていくことにした。 いい加減そうな人には見えなかったが判断は難しいところ、その場の直感としか言い様がない。

彼の家はテヘラン駅の南側にあり、日本でいうコートハウス。2階には弟夫婦が住んでいて、日本で働いたお金でこの家が持てたという。
日本でのことを思い出す時、彼は本当に楽しそうな表情をした。アルバムの写真を見せてもらったが、そこには今より少し若いジャヴァさんが、色々な所で仲間と一緒に写っている。 本人としては良い条件で働くことができたということがすぐに判った。再び日本へ働きに行くことを熱望しており、次はぜひ家族そろって行きたい、 今年中に60万かけてビザをとると言っていたが、その単位が何だか聞き忘れた。まさかドルじゃないだろう。 いろいろ難しいとは思うけど、願いがかなえられたらいいなと思う。

 

さて、彼は3人家族で、奥さんと小さな娘さんと住んでいる。奥さんのソへイラさんはふっくらしていて、やはり室内でもスカ-フをかぶっている。そして小さなモジガンちゃん。はじめ5、6歳かとみえた彼女は10歳。 可愛い顔して妙に大人っぽい仕草したり、大人っぽい表情しながら子供っぽいところみせたり、あー、何とも言えない…
学校で使っている教科書をみせてもらい言葉を色々教えてもらった。(余談だがこの本の最初のペ-ジには、子供と一緒にに微笑むホメイニの写真が載っている!) そのお礼に折り紙で鶴を折ってあげたら非常に喜んでくれて、けなげにも自分の写っている写真やら、サッカ-選手のカ-ドのセットをくれた。
うーん、うれしいよ。あまりに愛くるしい。その間僕は何を思っていたかというと、彼女をさらって日本に連れて帰ったらどうなるかということだった(笑)。目に入れても痛くないとはこういう気持ちなのだろう。多分自分に女の子ができてもこうは思わないんじゃあないかな、よくわからないけど。

 

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彼等はハマダーン出身で、家ではトルコ語を話すという。
その日は祝日で、午後から親戚や友人たちが集まり男性はチャイと煙草と阿片、女性はこの怪しい東洋人が気になるらしく、そわそわしていた。 ただ男性と女性は分かれて座っていた。
ごく簡単な英語で他愛のない会話した。彼女達は一応皆人妻なのだが、若いこはまだ10代後半!なので男としては当然のことながらそちらの輪の方に入りたかったが、そんなこと許されそうになかったので男性陣の方で我慢した。こちらでは浮かれた気分にはならないものの、チャイと煙草で何とか間がもつ。片手で角砂糖をかじりながら飲むイラン式のチャイだが、それ程甘くないのでつがれるがままに飲み続け、途中からトイレにばかり立っていた。 煙草もガンガン勧められ喉はガラガラ。 阿片は自家製水パイプで自家精製したブツを吸引する。ハシシに似ていたので尋ねたら強く否定(!)された。そいつは体に悪い、と。 でも…阿片なら良いのか? だいいちそれはどういう理論なのだ? そもそも彼の言うとおりオピウムなのかは怪しいところだった。

昼食はコルマサブジ、夕食はキャシキバデムジャンをご馳走になった。コルマサブジパキスタンでも同じ名前の料理を食べたが、野菜カレーのようなもの。 ちょっとクリーミーで野菜はかたまりでは入っていない。バデムジャンとはナス、キャシキとはヨ-グルトをと水を混ぜ、それを一晩袋に入れて吊るして自然に漉したもの、と教えてもらった。 それを一緒に炒める(煮る?混ぜる?)。不思議な味。悪くはない。
ナンは3種類あるという。サンギャギは一番薄っぺらくて機械でつくる。バルバレは日本で極く普通にナンと考えられているものに近い。 ラボシュは肉厚で少し甘みのあるもの、だったかな。
やっぱりここでも、食事は、床に敷いたビニルの真ん中に置かれた大皿を、囲んで座って食べる。

もっと長居しろといわれたのだが、所用(ビザ延長をテヘランより容易なイスファハンで行う)のため一泊だけさせてもらった。
いろいろな親切や気遣いが忘れられない。

 

テレビもビデオレコーダーもミニコンポもある。壁にはきれいな絵が掛けられている。 ごく普通のテヘラン市民の生活はのんびりと快適そうであったが、これらはみな日本での出稼ぎのおかげなのだ。この生活を長く続けるためには、また何処かで働かなければならないという。国内でそれが可能ならば、来日をあんなに熱望したりはしないだろう。
彼は言った。昔はハマダーンでも多くの日本人が働いていた。ホメイニが来てから皆いなくなり、テレビや車の価格が上がり簡単に買えなくなった。
その後に言葉は続けなかったけれど。

 

その時思った。イランには、一体どれだけのジャヴァさんがいるのだろう。

でも家族連れて日本に来たら、いいことできないよ。

 

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過去旅'99アジア その10 イラン1

イーラーン

 

トルクメニスタン)サラフス国境→マシュハド→テヘラーン→イスファハーン→シーラーズ/ペルセポリス→バム→ヤズド→イスファハーン→テヘラーン→ラシュト/マースーレ→タブリーズ→マークー→バザルガン国境(トルコ)

 

 

 

アシュガバートで世話になったメルダンがある時、カーペットで商売をしないかと話を持ちかけてきた。僕が日本で客をとり注文を受け、彼がトルクメニスタンから発送する。そして売り上げを山分けする。今でこそ面白い話だとは思うが当時は思いも寄らぬ事だった。

あまり知られていないが、トルクメニスタンは絨毯の一大生産国とのことだ。イラン製やトルコ製となっている絨毯のうちのある程度の割合はトルクメニスタンで作られたものらしい。ハンドメイドと工場製の違いも語ってくれた。

そんなこと思い出したのは、サラフスの国境でカーペットを運ぶオバちゃんたちと一緒に国境を渡ったからだ。両国の入管の建物間は距離があり彼女たちが乗ってきたボロいバスに乗せてもらった。細長く丸められて床に積み重ねられた大量のカーペットを見てメルダンが教えてくれたことも本当なのだなと思った。日曜バザールで売られていた数多くの目の覚めるような深紅の絨毯はいまだ忘れられない情景だ。

現在開いているアシュガバート近くの国境は当時は外国人通行不可のため、バスで6時間かけてサラフスという町まで来なければならなかった。ただマシュハドへはこちらの国境からの方が距離は短かい。

 

 

マシュハドは聖地ということだが僕にはなんだかテーマパークのようにみえた。イマームレザー廟は夜遅くまで人足が絶えない。でも巡礼者というよりごく普通の観光客ばかりのように見えた。シリアスというよりはリラックスしている人が多い印象である。外国人は自由に歩き回ることも歓迎されないし写真撮影もできないのだが、明りもこうこうと照らされていてどこも金ピカだし、何か俗だなと感じた。

その最初のインスピレーションは間違っていなかった。翌日スークにホメイニグッズを物色しに行ったがそういった宗教臭い物に既に人気が無いことはすぐに判った。なんていったって、もう、デイヴィッド・ベッカムレオナルド・ディカプリオばかりなのである!(ここだけでなく当時はイラン中がそうだった)なんだ、人間なんて何処に行っても同じなのだ。宗教により生活様式は厳格に縛られていても、内部特に人間の嗜好なぞ変わらないのだ。フットボールに映画のスターか。アジアの女子は金髪サラサラヘアの若い白人男性に眼が無いのである。ベールに包まれたイランという国が一気に身近に感じられるようになった瞬間だった。

街中にはアラビア文字ばかりで何がなんだか分からなくなることもあるが、基本的な社会システムは意外と近代的で我々の理解の範疇にある(そうでない国も多いことをいずれ知ることになる)。そのうえ、なんといっても人々が親切※だった。

 

※これについては旅行した時期によって見解が異なるのは事実のようである。以前は本当に親切な人ばかりだったそうだ。僕らの頃は大人は親切だがガキが生意気だったという共通の印象がある。それ以降になると外国人旅行者に対して不遜な態度をとる若者が多いとみな口を揃えていた。僕らが会った当時のガキがそのまま成長したと考えれば辻褄が合う。でも基本的には親切な人の多い国ではあるのだが。

 

 

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 「世界の半分」は確かに息を呑む美しさだった。ペルセポリスも往時の繁栄を十分に感じることのできる遺跡だ。

 

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バムの遺跡が地震で崩壊したとニュースを聞いて以来その後が気になっていた。先日TVで修復が進んだ現地の映像を見ることができて一安心。でも当時からオーバーレストアードという評判だったのだが、修復は進み相も変わらず綺麗な遺跡に見えた。魅力はあるが、それ程までの事をする意味のある場所とは思えないのだが…

 

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ぷらぷら歩くにはヤズドの旧市街が一番楽しかった。

ちょうどアーシュラーの祝日で多くの人が目抜き通りを練り歩いていた。行進の中央では黒い服を着た人が鞭で体を痛めつける仕草をしながら歩いていた。街角では炊き出しが行なわれ道行く人に食事が振舞われていた。大きな鳥籠ような物もこの時期に街に引き出して歩く。

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特徴あるウィンドタワーはバードギルと呼ばれ幾つかの形が見受けられる。暑い時期に風を塔下部の室内に取り込み日中の暑さを和らげる装置。土壁に囲まれた細い路地やカバードバザール。町外れには拝火教寺院や沈黙の塔がある。

 

 

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テヘラン ”DOWN WITH USA!” 旧アメリカ大使館外壁 まだ今でも残っているのかな…

 

 

 

 

 

 

過去旅'99アジア その9 トルクメニスタン

当時のトルクメニスタン旅日記です

 

 

 

●国境を越える

 -----このバス、トルクメニスタンへ行く?
 -----トルクメニスタン? あー、そんならタモージュネへいくんやなー
 -----タモージュネって何?
 -----カラクル、アラート、ほんでタモージュネ アフトーブスは向こうからや
 -----タモージュネ?

ブハラのバザール前にあるバススタンドで尋ねたところ、トルクメニスタン国境方面へのバスは別のスタンドから出ていると筆談を交えて教えてもらった。教えられた方向に5分位歩くと、確かにひなびた建物が目に入ってきた。でも全くひと気が無く、運行地図の描かれた時刻表が捨てられているかのように無造作に壁に立てかけてある。1時間に1本位あるようだが、誰もいないので確かめられない。

半信半疑で翌朝9時前に行くとミニバスが数台停って呼び込みを行っていた。普通のバスも奥に停まっている。ミニバスがすぐ出そうなのでそれに乗り込み、人数が揃ったところで出発。

アラートという町までは、幾つかの町を経由するものの、ひたすら一本道を進む。土壁で囲まれた田舎の民家、ぶどう棚のある町の長屋、砂色の地面に低い潅木。それ以外何も無い淡い色彩の風景が約1時間続いた。

町へ着くと運転手は800ソム(2$)でボーダーまで連れていってくれるという。タクシーで行ってもどうせ2、3ドルはとられるので、申し出にのる。20分で国境に着いた。ここには町は無く入管の建物がぽつんと建っているだけである。駐車場にたむろっている両替屋と余ったソムをマナートに替える。レートが悪いのはあきらめていたので、小額を許せるレートまで電卓で交渉して両替した。ゲームみたいなもので慣れてしまえばこれも旅行の楽しみのひとつになる。
ちょうど昼休みで係員が交代の時間らしく、新しい係員は仕事をしようとしない。僕を連れてきた係員が早くやってしまえというので険悪な雰囲気になる。頼むから、こんなところで喧嘩なんかしないでほしい。出国時はただでさえ緊張してるのだよ。皆軍服を着ているので、はたから見ていてちょっと恐い。
結局1時間後ということになり、建物2階にあるカフェでラグマンとアイランの昼食をとり、時間をつぶす。カフェと看板が出ていても中央アジアではほぼ単なる食堂である。
書類の確認だけで出国自体には何も問題は無かった。待たされる割にはあっけないのは、いつものこと。

 

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イミグレを出たところでタクシーが待っていた。その先へと続く道以外は、トルクメニスタンのイミグレどころか何も見えず、かなり距離がありそうだったので乗ることにした。トルクメニスタンのイミグレでは運転手が話をしてくれて、パスポートチェックのみ。<追記註;本当はここで税関申請の書類の作成提出が必要だったようだ>
陽が昇ったせいか、ブハラでは気にならなかった暑さが国境付近からはかなりのものとなっている。ほとんど砂ばかりの風景もそれに輪をかけて暑苦しかった。途中、アムダリヤの浮き橋を渡ったり、他の車と追い越し合戦をしたり、車はすっ飛ばし30分でチャルジョウ※駅裏に到着。この辺りのタクシーの運転手は皆おしゃべりで陽気なので、時間を感じさせないのが嬉しい。

 

※チャルジョウは現在トルクメナバードと改称されている

 

 

寝台列車でメルダンと出会う

混雑した駅の窓口で列車の切符を買う。構内にいたおばちゃんたちに助けられて何とかやりとりしたが、クペーというコンパートメントの席だった。

出発してしばらくすると夕方の西陽を浴びて室内が徐々に暑くなってきたので、仕方なく廊下に出るが、1車両に数個しかないキチンと開く窓に大勢人が群がっていた。げんなりする。トルクメニスタン鉄道車両は蒸し暑い。というのも大抵の窓は元々固定されて開かないか、壊れて開かないかのどちらかだからだ。パキスタンウズベキスタンと列車に乗らなかったので、流れる車窓を見つめるのは本当に久しぶりのことだった。でも、砂と潅木しか見えなかった。やがて陽は落ちた。

コンパートメントの客は老女と中年男性、僕と同じ歳位のビジネスマン、メルダンの4人だった。彼等は皆、初め僕のことをカザク人と思ったらしい。カザク人とはこういう顔をしているのだろうか<追記註;モンゴロイドらしい>。そのメルダン、交換留学生としてアメリカで学んでいた頃に日本語を少しかじったという。そこで早速忘れていた日本語のレッスンが始まった。言葉の解らない中にいた僕としては間がもつので助かった。しかしトルクメニスタンで日本語解る人がいるとは思いも寄らなかった。

やがて車掌がやってきて、切符とパスポートチェックが行われたが、書類が足りない、その書類が無いと次の駅でこの列車を降りなければならないという。その場はメルダンが何とか説得してくれて、事無きを得た。彼には感謝をしたがなんだか釈然としない。この辺りでは書類関係の不備は致命的だ。この国ではよくあるトラブルなんだ、とメルダンは言ってはくれたが。(足りなかったものは、やはり税関申請の書類だったようだ。出国時に判明する。入国時に自分で確認しなかったから。)

夜10時頃、マルイ到着。皆、駅のプラットフォームへ買い出しにでかけ、それらをコンパートメントの小さなテーブルに拡げて食事の時間。ナン、シャシリク、コーラ、サラダ、果物等々、隣の国と変わらない。

 

●メルダン家に居候?

朝早く車掌に起こされ目覚める。6時にアシュガバート到着。ホテルは決めていないというと、メルダンに家へ来いと誘われる。色々話をしてもう知らない仲でもないので、とりあえず好意に甘えることにした。
タクシーの中からみたアシュガバート市内は、緑の多い清潔そうな街だった。
メルダンは市内のアパートメントに兄弟姉妹4人で住んでいた。台所以外に2部屋しかなく、(それも1室はバルコニーを部屋に改装したものらしい)何だか邪魔するのも申し訳ない気がした。が、今更どうしようもなく、朝食をごちそうに なった。このへん、ずうずうしいね。
ここの家族はというと、メルダン・・農業政策関係の会社員、前述の経歴、弟バクバン・・フランス語学校の生徒、姉 (名前は失念、石という意らしい)・・警察署に勤務、独語が話せる、妹グルナース・・映画学校の生徒、英語が話せ る。この国では外国語、それも各国の言葉を喋れることが普通なのだろうか。

ゆっくりしていけと言い残し、メルダンは仕事に行ってしまった。さて、知らない人たちの中で、どうしよう。向こうも 困っているようだ。ロシア語は皆話せるが、僕は×、英語は皆話せるわけではないらしい。
急に眠くなってきた。

 

■後日談 ; タモージュネとは露語で税関の意味。出国時にはやはり書類が無いという理由でドルを要求され、ブルース・りーのまねしたり、さんざんごねたが話がつかづ、 最後に余っていた小額のマナート無理矢理押しつけて去った記憶が・・・

 

 

●100ドル

バクバンに街を案内してもらうことになった。
第一印象どおり、緑が多く清潔で落ち着いた街だった。人も車も多くなく、さわやかな印象さえ受ける。ただ、この位の規模の都市になればみられる繁華街というものがなく、どこが街の中心だか今ひとつわかりづらい。少し退屈するかもしれないな、とも思った。

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今やトルクメニスタン名物ニヤゾフ大統領の肖像画が、街の至る所に見られる。国や政府関係の建物には必ずあるとのこと。スロ-ガンのような「Halk Watan Turkmenbashi <平和 祖国 大統領>」の標記とともに、よく目についた。

 

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まず僕はここでとあるトラベルエイジェンシーへ行かなければならない。ブハラから頼まれたビザ申請のためのインビテーションレター代金を払うためである。
しか~し、彼等は100$を要求してきた。内訳はレター60$(緊急用の為、通常30$)手数料30$FAX代10$。これらを紹介してくれたブハラのエイジェンシーとシェアするといっていたので、普通にとれば、大体適当の値段だったようだ(といっても本当のところは判らない)。
領収証に記された数字を見たときには、予想外の金額に正直少し慌てた。旅に出て以来、飛行機代を除いてこれだけの金額をまとめて支払ったことなど無かったし、ここの物価に比べてちょっと不当な金額だと感じたからだ。
でもこれにはバクバンのほうが青ざめていた。あの社長はよくない、金にずるいよ。 ああ、そうだね、でもね、どこの国でもドルには目の色が変わるんだよ。
僕にとっては、100$という金額は結局のところ、日本での月給の数十分の一程度に過ぎないのだが、彼等にとっての100$とはその何倍にあたるのだろうか。仕方のないことだがあまりケロっとする気になれず、これはメルダンには内緒だ、と言いながら、神妙な顔をつくってエイジェンシーを後にした。

 

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その後、2人で街を散策。市場で昼食をとったり、黄金のニヤゾフタワ-を見に行ったりした。この頂部には黄金に輝くニヤゾフ像があり、太陽に向かって1日1回転するとのこと! 個人崇拝は滑稽にうつるが、いかがなものだろう。

塔のすぐ脇には真新しいギャラリーがあり、そこへ入る。1階の展示物は写真、1948年10月6日にこの街を襲った大地震の惨状である。往時のアシガバートは美しい街並みだったが、それが一瞬にして消え去り、人口の2/3が失われたという。美しいものほど理不尽と思わざるを得ない理由によって失われてしまうのも何度と繰り返されてきた地球の歴史の一部だ。そして復興。この街の、こう言っては失礼だが奥行きのないさわやかさがわかった気がした。
2階へ上がると、まずはでましたニヤゾフ氏の胸像。そして最近外国資本によって建てられた大きなホテルや商業施設、ギョク・テぺに建てられた大モスク等のきれいなカラー写真、つまり新生トルクメニスタンだ。バグバンはこれらはみな大統領がつくってくれた、という。個人のためのプロパガンダはあまり気持ちの良いものではなかったが、まあ2階はおまけみたいなものだろう。
バクバンは夕方から学校があるというので別れて、それからは一人で歩いた。

 

 

●ピクニック

本当はすぐにお暇しようと思ったのだが、翌日の日曜日はグルナースの誕生祝いで郊外にピクニックに行くからぜひ来てくれ、といわれたので滞在が伸びてしまった。でも本当は郊外のタルクーチュカ(サンデーバザ-ル)に行きたかった。アシュガバートではここくらいしか見所はないと思い、そのために日曜日を滞在に含めたのだ。僕がそう言うと、メルダンは午前中に案内をしてくれるという。
彼はとても親切だった。田舎のひとの素朴な親切さ、というよりはもう少し洗練された親切さといった感がある。一族郎党の頭であり、それにふさわしい人柄は皆に慕われるのもうらやましいかぎりである。

前日の夜は彼の従弟のアナーシュ(化学の教師といっていたがそれらしく少々理屈っぽい)を含め数人の親戚友人が集まり、夜遅くまでウォッカを飲み続け、僅かしか眠らずに当日の早朝家を出る。
やってきたバスは何と貸し切り。途中で友人達を拾い、結局そのバスが満席となるほどの人と荷物を載せて、郊外の山の中に入っていった。場所の名前は忘れた。そこには自然以外何があるわけでもないのだが、ピクニックに来る人達が大勢いた。
場所決めをしてから、僕はしばらくタルクーチュカのことなど忘れていたのだが、メルダンは僕を連れていってくれた。往きのバスが市内に帰るのに便乗させてもらうかたちだったが、このバス途中で客を拾っていた。何だか自由で良い。

 

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タルクーチュカは確かに広く、様々なものが売っていた。メルダンが買っていた靴下などの日用品から化粧品、民族帽、鮮やかなカーペット、はたまたエンジンのピストンにいたるまでの自動車部品、動物はラクダまで何でも売っていた。規模は大きく、人々の民族衣装は目が覚めるような華やかさだったが、喧騒や熱気のようなものは無かった。僕は彼に促されてサッカーボールを買い、ピクニックに持っていくことにした。 

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昼に戻ると、火を起こしてプロフをつくっていた。コーラと、もちろんウォッカがある。外で食べるゴハンってなんで美味しいんだろ。その後はバレーボール、サッカー、トランプ(七並べ、憶えてくれたかな)、山登り、料理づくり、大勢の人がいたのでどこかしらで何かが行なわれていて、退屈しなかった。日本の情報などあまり入ってこないと思われるのに、みんなそれなりに日本について興味をもっているのは何故だろう。やっぱり「made in Japan」の力は本当に強いのかねえ。
最後は乾杯の連続、これがウォッカで行なわれるので最後はへばった。僕も日本式のやつをやってみたが、当人のろれつが既に回っていなかったせいか、みんなよくわかっていなかった。
結構疲れたが良い思い出となった。予想もしてないことだったが、だからこそ旅は楽しい。こういう時間の過ごし方もなんか、いい。

 

●いつまでいるのだ

実は、僕はこの時家に一つしかないベッドを使わせてもらっていたので、少々気疲れを感じ始めていた。もう去らなければと考えていたのに、翌朝メルダンは昼までちょっと小金を貸して欲しいなんて言ってきたので、また滞在が自動的に伸びてしまった。

バスターミナルでサラフス行きのバスを確認した後、部屋に帰ると、グルナースが料理をつくっていた。小麦粉を練ったものを伸ばして切り、油で揚げて砂糖をかける。もうひとつは、パンと鳥肉とグリーンオニオンを混ぜて油で揚げたもの。どちらも、どこかで食べたことがあるようなないような味と食感だった。

この家にはテレビは無い。その代わりといっていいのか、音楽好きで、トルコで有名なエブラヒム・タトリセスやら昔懐かしのネーナから、ドイツ語や日本語の練習用教材まで、カセットテープをラジカセから常に流している。
食事は絨毯の敷かれた大きな部屋の中央にビニルのシートを敷き、そこで大皿に盛られた料理を囲んで座って食べる。家長が帰宅しないと食事は始まらない。
民族の生活様式は、それをとり囲むハ-ドが変化しても変わらないのだろう。

その晩もメルダンの帰りが遅く、食事は夜遅かった。その前に親戚のダフレットがやって来た。彼はグルナースと同じ学校のアクターコースに通う学生で、自分のことをデイヴィットと呼んでいた。英語は片言で上手くはなく、途中からグルナースが間に入っての会話だった。

 -----僕は日本の家、大きなや、屋根、が好きで、将来そんな家住みたい、建てて住みたいよ

気に入ったので財布に残っていた日本の10円玉をあげたらグルナースが嫉妬をした。ごめん、最後の1枚だったんだ。そんな彼は役者志望だけあってインド映画がお気に入りだが、Miss.Stone があんなもの嫌だと隣で顔をしかめていたのがおかしかった。ここへもインド映画は進出している。

メルダンとアナーシュが帰ってきたのはもう夜中。でもその後1時過ぎまで話は続く。もちろんウォッカ付き。翌朝5時半起床だということはわかっているはずなのに。

 

 

●さらば、アシュガバート

5時半起床、バクバンは昨夜帰って来なかった。メルダンとアナーシュと3人で静かに家を出た。駅まで連れていってもらって、タクシ-に乗り換えるところで、お別れとなった。
別れ際に軽く抱擁。別れはゆっくりと決めたかったが、何故か急いでしまった。急ぐ必要など、特に無かったのに。うまい言い回しが欲しかったが、頭に浮かんで来なかったので、最後はにっこり微笑んだ。さよなら、メルダンとみなさん、ふらっとやってきた闖入者に親切にしてくれて感謝してます。はっきりと言葉では伝わらなかったかもしれないなあ。でも、列車の中で出会えて、よかったよ。
別れは寂しい。僕にできることは、残った思い出を忘れないことだけ。

 

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再び後日談 ; 恩をあだで返すとはこのことか~。実は滞在中借りていた部屋の鍵を返し忘れてしまった。ごめんなさい!テヘランGPOから送りましたが、届いてますか?

 

 

●ビザについて --- 当時の話です

10日有効観光ビザ 31米ドル インヴィテーションレター必要 タシケントの大使館にて即日発行 

レターウズベキスタンのエージェンシー経由で現地のエージェンシーに頼んだ。おかげで手数料がかさんだ。レターが無ければ3日有効のトランジットビザとなるが代金は同じ。入国日(有効開始日)、入出国地点、滞在場所を管理される今となっては古典的なビザ。国内の重要会議開催のため国境が閉まり、おかげでウズベキスタンビザを苦労して延長する羽目になった。

 

 

 

●写真について 

撮り終えたコニカローム(ポジフィルム)をイスタンブールで現像に出したところ、間違ってネガ現像されてしまった。カートリッジに現像プロセスの番号は記されていたのに判らなかったのか? コニカロームは街中で普通に売られていたぞ。
というわけで、スキャン時にどうにか見ることのできるレベルまで色を修復しました。総天然色っぽくみえるのは、だから、悪しからず。 でも SilverFast は有能!

 

過去旅'99アジア その8 ウズベキスタン2

この国には工芸品に対するような愛おしさを随所に感じる

 

 

 

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f:id:pelmeni:20170729082505j:plainどこでも子供たちは皆無邪気に集ってくる

 

 

ヒヴァ

 

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中央アジアの秘宝。説明は必要無いと思う。今まで訪れた場所の中で五指に入る。

アルクの上部が展望台になっていて壁に囲われた旧市街の見晴らしが素晴らしかった。特に夕方は、傾いた日差しが砂色の町に本当に似つかわしい。

夜がまた魅力的で、暗い中所々ドームやミナレットが薄っすらと浮かび上がりマジカルな雰囲気。今だったら多分ライトアップなんてされているのだろうが、当時はそんな無粋な物など無かった。

 

宿はホテル・ヒヴァが改装中だった為イチャンカラ内ではアルカンチ一択だった。当時はチャイハナ以外食事をする所が無かったため、宿泊に三食含まれていた。何故か此処だけ実勢米ドル払いだった。1泊3食付25米ドルを3泊50米ドルで交渉したら、すぐにOKが出て驚いたw。

 

 

f:id:pelmeni:20170729103638j:plainブハラのムビンジョンハウス:元は古い民家で室内は伝統的な装飾で一杯、簡素だが雰囲気のある宿 一泊2000ソム(実勢5米ドル) 床に布団を敷いて寝る

 

当時の中央アジアはまだ個人旅行者が世界中から押し寄せる以前で、現在のように安くて居心地の良いホステル等は無かった。だからムビンジョンの様な宿は当時は珍しかった(今はたくさんある)。旧来の「ホテル」はクタビレていて共産主義時代の残り香をいたる所で感じ取ることができ、それはそれで興味深いものだった(笑)。

ビザサポートを頼んだ現地のエージェンシーB&Bの提携を始めたというので2軒利用した。タシケントのSam-Buhは当時はできたばかりのきれいな宿。ブハラでは個人住宅の広い居間を宛がわれ実質的にはプライベートルーム(ホームステイ)だった。食べ切れないほどの豪勢な朝食や、言葉はあまり通じなかったけど家族の人たちとのやりとりを楽しんだ記憶がある。でも5ドルと比べると割高だなあなんて思ってしまう、そんな時代でした。

 

 

 

 

 

過去旅'99アジア その7 ウズベキスタン1

オズベキスタン

タシケントサマルカンド、ブハラ、ヒヴァ、国境(トルクメニスタン

 

 

飛行機がタシケント上空にさしかかり高度を下げると、街を流れる運河の川面が目に付いた。絵の具を垂らしたようなはっきりとした水色だった。砂漠地帯を流れる川の水は透明感が少なくきれいに濁るのだ。アジア中央部にはこの様な色をした川が多い。白っぽく乾いた山の岩肌と点在する細い樹木。そして水色の川。この後幾度となく目にする中央アジア共通の風景が僕は好きだ。

 

パキスタンからウズベキスタンに着いて最初の感想は、何もかも薄いなということだった。むせ返るような人いきれも、旅人に対する隠しきれない好奇心もここでは感じられない。ソビエト時代に造られた新市街はよそよそしく、古くからある旧市街は土壁で閉じている。町から出れば、青々と繁る山の樹木や麦の穂ではなく、荒々しく乾いた岩肌と少ない樹木が支配的な風景と変わった。すべてにおいて淡い色彩だなと感じさせる按配なのである。

(まあ最大の違いは、女性の多くが良い匂いをふりまきながらオシャレして街中を歩くことではないかな?)

 

同じ人間という生物が地球上の様々な気候や地形の場所で、様々な社会や習慣の中で、多様なスタイルを持ちながら生活している。長い時間をかけて移動しながらそれらを自分の目で見る。ひとつひとつの違いや類似をみつけては一喜一憂する。

これこそが長旅の楽しさであると僕には思える。だから、一つの箇所に長く滞在するよりは、多くの場所を移動し続けるというのが僕が好む旅のスタイルである。

 

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至る所に青いタイルが散りばめられているタシケント

地下鉄駅構内の装飾が見物なのだが、見張の警官が必ずいて写真撮影を見逃してくれなかった

 

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外国人宿泊不可のホテルが多い中、泊ることのできたロシヤホテル

外観も中身もソビエトスタイルの典型的なホテル。各階にジェジュールナヤ(フロアレディ)がいて鍵の管理をしている。フロントで両替を頼んだら地下階のボイラー室に連れて行かれ公定レートの3倍でくたびれた札の束をどっさりくれた(当時の闇レート)。真っ赤なミニスカのメイドが廊下ですれ違うなり話しかけてきた。「2000ソム(5米ドル)で私とどう?」 部屋にフロアレディからいたずら電話?がよくかかってきた。言葉は理解できなかったが笑い声だけはわかった。僕の泊まっていた部屋は6階の道路側一番奥。一泊2500ソムは実勢で6米ドル前後。名前や見掛けから判るとおりそれなりのホテルでこの宿泊代… まあゴキブリ出たけどね… 建物自体はしっかりしているものの、内部は何処もとにかく古びている。いや~趣がありますな。以降僕が偏愛するようになった旧共産主義的ホテル、記念すべき最初の宿泊となった。

このホテルでも日本人旅行者U君に出会った。彼は「地球の歩き方 ロシア編」にあった中央アジアのページを切り取って携帯していたが、たった数頁しかなく内容もガイドというよりは単なる紹介。彼曰く、全く使えねーとのこと。中央アジアの日本語ガイドブックなんて、歩き方も旅行人ノートもまだ無かった。ロンプラだって 1st Edision だった。それでも後にもう一人日本人に会うことになる。(彼ともインドで二度会っていたw)オージー、ニュージー、ジャーマン、ジャポーネは何処にでも行くんだなと旅行者同士で話をした記憶がある。

 

タシケントは、そもそもソビエト時代は人口第4の都市なので、地域性というものはあまり感じられない。でも一部に残る旧市街は人工的な新市街とは対照的な中央アジアの町そのものである。町を歩いていると普通に話しかけられたことが何度かあった。ここではウズベク人やロシア人の他にも東アジア人の顔つきを持った人もちらほら見かける。彼等はスターリンの時代に沿海州から強制移住させられた高麗人で、今でも旧ソ連中央アジア地域で広く生活をしている。市場ではキムチも手に入る。このエリアの地理や歴史を探っていくと、複雑な事実が次々と目の前に起ち現れ本当に興味は尽きない。

 

f:id:pelmeni:20170727205707j:plainシャシリクを焼く香ばしいにおいが市場に漂う

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イスラムのタイル装飾の美しさに嘆息する

碧い色が大好きだ。中央アジアに来て自分の好みを再認識するなんて…

f:id:pelmeni:20170727210342j:plainすごいもの見ちゃった 人間技とは思えない

 

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成り行きでサマルカンドのバスターミナル内にある床屋で散髪 裁ち鋏みたいに大きな鋏でジョキジョキ音をたてて切られた。腕ですか? まあ男性の髪型なんてファッションの範疇に含まれない国のものでしたな!