もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'05旅回想 その27 カローでトレッキング、バゴーの涅槃仏、輝くゴールデンロック

ミャンマー5  Jan. 2006

ニャウンシュウェ→カロー→バゴー(ペグー)→キンプン/ゴールデンロック→ヤンゴン

 

 

シュウェニャウンからカローまではバスではなくピックアップトラックで移動した。近距離移動ではポピュラーな手段で、後ろの荷台に木製の長椅子が括り付けてあるだけなので乗心地は良いはずもないのだが、2時間もかからない距離なので文句を思いつく前に到着した。ぬるい風が吹き抜け気持ちは良いが、時間が長いと髪の中まで土埃が入ってきてベトついてくる。東南アジアではよくあることだ。

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観光の特別な目玉があるわけでもなく旅行者の集まるところは大抵トレッキングの基地だ。といっても外国人旅行者自体がそれほど多くはないので、町自体は静かな普通の町だった。物の本によると、英国統治時代は軍の駐屯、その後米国から宣教師が学校に教えに来たおかげで住民の多くが英語を話せるという。そんな訳で外国人が集まり易かったのだろうか。

小さな町だったのですぐに一通り歩き終えた。夕食に入った食堂で日本語を話す女性に声を掛けられた。それほど流暢ではなかったが、ガイドの仕事をしているという。彼女が言うには日本人相手の仕事は少ないらしい。それはそうだろう。その時はドイツ語かフランス語を新たに学ぶよう勧めた。彼らは1年12か月のうちバカンスで約1か月のまとまった休暇をとることができる。その時間を旅行に充てる人は多く、また時期も必ずしも夏だけとは限らないようだ。1-2か国に絞ってゆっくりと滞在する独語や仏語喋りの旅行者に僕はこれまで多くの所で出会ってきた。年齢層は幅広く普通の常識的な人々も多かった。そうして毎年過ごす事のできる旅の時間は特別ではない人生の一部といえるだろう。羨ましい。日本でそんなことしようとすれば仕事を辞めて出るしかない。堅気の人ならまずそんなことしないので、旅先で出会う日本人(長期)旅行者は自分を含めて何処か外れた人間ばかりだった。

仕事としてやっていくには日本語は割に合わないよ、と伝えたが、彼女は日本のことが好きなようで残念がっていた。気持ちは嬉しいのだが、やがて現実を知ることになる。残念な気持ちが大きくなったり愛想を尽かすようになる前に、他の選択肢を持っておいた方がよいと思った。まあ僕に言われなくともいずれそうなっただろうが…。

泊まった宿の一家はシーク教徒のインド人で、イギリス統治時代に宿主の祖父が軍隊でこの地に滞在して以来住み着いたそうだ。4代目にあたる彼の息子にガイドしてもらい近くの村をトレッキングしに行くことにした。ミャンマーでは結局こんなことばかりしていた。雄大な自然や絶景も悪くはないが、僕にとっては普通の人の生活に接する時の方が異国を旅していることを実感できる。ただガイドの手を借りなければ普通の人々の生活の中に入っていくことは難しい。それがわかってからは必要な際は現地ガイドを雇うことを厭わなくなった。

 

f:id:pelmeni:20210807025816j:plain結構、山道f:id:pelmeni:20210807030237j:plainf:id:pelmeni:20210807030022j:plain

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集落を幾つか回り家の中を見せてもらった。建物はたいてい切妻の細長い平屋で、英語では”Long House”と呼んでいたが、正しく長屋である。寒さや治安、地震に対策をする必要のない造りは、中の生活ともども非常に簡素なものである。

一軒の長屋には複数の家族が共同で住んでいる。身近な家族や親戚同志らしい。

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左がガイド君

 

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軍隊退役後にこの地の住み着いたネパール人家族の家も訪れた。ここから見下ろす風景は僕の記憶の中のネパールに似ていた……気がするだけかな。

 

 

ヤンゴンに戻る前に有名な観光地、ゴールデンロックを最後に訪れる。カローからはずいぶんな距離になり直接行くことはできない。巨大な寝仏で有名なバゴーという町が途中にあるので中継で寄ることにした。それでもバスで一晩かかる。日本の中古の乗合バスで夜行というのも終いには慣れたが今思えばキビシイものがあったが、何時も空いていて席に余裕があったのがせめてもの救いだった。宿のおばちゃんからは、バゴーまで18時間だけど何かあったら30時間かかるよと平然と言われた。別に脅しでもなく良くあることみたいな感じでさらっと口にしたが、こちらももう特に驚かなくなっていた。

 

まだ明るい時間に隣の席に座っていた同年代の女性が頭を僕の肩に乗せたり体を寄せてきたりしてきた。眠っているのだか起きているのだかよくわからなかったが、明らかな外国人に対して積極的であることは確かだった。暫くしてから簡単な会話をして、最後に訊かれた。

 -----一人で旅をしているの?

 -----そうだよ、

 -----それは幸せではないわね…

 

大きなお世話だ。

でも傍から見れば寂しそうにみえたのかもしれない。それは彼女が単に海外を一人で旅するという様な習慣が無いせいか、それとも僕の表情から読み取れたのか。確かに今回の旅はもう終盤だし東南アジアは気が緩むので疲れが出て表情無くぼうっとしていた時もあったのだろうが、そんな気分ではなかった。夜になり車窓に流れる小さな灯りを眺めながら昼間のことを思い出し、日本に帰ることなどあれこれ考え始めると少し寂しくなった。そうなったら旅も終わりだ。一人旅なんて、気持ちがその先の目的地に向かなくなったら続かないもの。帰りのチケットを持たない旅では必ずそういう時が訪れる。夜の移動はどこでも大抵暗くて余計なものが見えないせいか、気持ちが自分に向かい柄にもなく内省的な気分になる。実はそういう時間は、嫌いでなはい。

 

 

バゴー、シュエターリャウン涅槃仏(寝仏) 

当地にあった王朝が滅ぼされて以来、この仏陀は長い間忘れられ去られていたそうだが、熱帯のジャングルはこんな巨大な物でも覆い隠してしまうのだろうか。

f:id:pelmeni:20211013154124j:plain全長55m、高さ16m

f:id:pelmeni:20211013154500j:plain足の裏だけでコレというのもすごい

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夕陽に輝くシュウェモードパゴダ ミャンマー3大パゴダのうちの一つらしい

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バゴー市街地

 

 

バゴーからゴールデンロックのあるキンプンという町へはそれほど遠くない。朝出て昼に着いた。ずっと昼間の風景を眺めて終わる移動なんて久し振りだ。酷い乗心地だった夜行バスにはもう乗ることもないのかと思うと、それはそれで寂しいものだ。

f:id:pelmeni:20211017011620j:plainキンプンの町の中心 観光地っぽい雰囲気だが…f:id:pelmeni:20211017011521j:plain一歩入るとこんな感じ

 

宿を決め遅い昼食をとり一休みをすると、ゴールデンロックで日没の時刻を迎えるにはちょうど良い時刻だった。

ロックのあるチャイティーヨー・パゴダは山の上にあり、麓からはベンチが縦に何列も並べられたトラックの荷台にちょうど45人ずつ詰め込まれ運ばれる。石張りの境内ではここも裸足、水が常に撒かれ冷たくて気持ちが良かった。

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これです、すごいロケーションです 巡礼者が貼り続ける金箔で光り輝いている

ちょっと押せば転がり落ちそうにも見えるが、誰もできない不思議な岩

 

 

 



'05旅回想 その26 インレー湖

ミャンマー4 インレー湖  Jan.2006

マンダレー→ニャウンシュウェ・インレー湖

 

 

次の目的地はミャンマー旅行のハイライト、インレー湖。マンダレーの出発は午後6時半、夜行バスというものは乗り続けると体が慣れるのか普通に眠れるようになる。今回は「遠鉄バス」と文字が車体に残っていた。車内は見慣れた乗合バスの雰囲気でまったく長距離バスのものではない。まあそれも慣れる。

朝の4時に運転手に起こされバスを降りたのはシュウェニャウンという町。ここで乗り換え湖近くの町ニャウンシュウェまで行く。シュウェ?ニャウン?何でこんなに紛らわしい地名が近くにあるのだろう。ライトバンが停まっていたが料金を訪ねると2500チャットとのこと。この金額は高すぎるので見送る。まだ暗い中で一軒だけ裸電球が灯っていた店に入り、コーヒーミックス(全部入インスタント)を頼んで時間待ち。やがて別の車がやってきて地元の人が何処からともなく集まって来たのでその車に乗る。料金は1000チャットだったが皆は普通に支払っていたので多分早朝料金なのだろうと推測する(後にわかったが昼間の2倍の金額)。ちなみにコーヒーミックスは500チャット、これも多分通常の倍くらいの値段だろう。それでも50円くらいだけど。

 

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f:id:pelmeni:20210611010534j:plainシュエヤンピイ僧院

f:id:pelmeni:20210611005738j:plain本当にある標識f:id:pelmeni:20210611011448j:plain

ニャウンシュウェはインレー湖の北にある町。街道筋に近く地域の中心の町であり外国人の観光基地なので、のんびりしているがそれなりに物は揃っていた。10分も歩けば長閑な農村地帯だった。標高も高く夜は寒いくらいだ。そして相変わらず停電は多い。蝋燭の炎はもう飽きた。ここへ来る旅行者のほとんどはインレー湖観光のためだろう。朝~夕方までの一日ボートツアーは、数人の観光客とドライバーがのボートに乗って湖を縦断し、湖畔の町や諸々を巡るもの。ボート一艘の金額を客の人数で頭割りするので定員に満たない場合一人分の金額は増えると言われたが大丈夫だった。

 

 

朝の水路や湖面はまだ寒い。陽が昇り少し経つまでは風が冷たく感じられた。とても静かで朝靄がまだ少し残っていた。インレー湖は南北に長く、山が迫っているわけではないが両側に山並みが続いている。やがてどこからともなく小さな漁船が近寄って来て片足で漕ぎ投網をしてくれた。

 

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 片足で器用に櫓を漕ぐ彼は少年だった

f:id:pelmeni:20210615180542j:plainコテージ形式のリゾートホテルも水上にある

 

湖の南西側に人の住んでいる湿地帯があり、水路が縦横に張り巡らされていた。ここでは舟による通行がメインのようだ。また午後に寄るので、まずは素通り。

f:id:pelmeni:20210615181557j:plainf:id:pelmeni:20210615181809j:plainストゥーパも浮島の上に?

 

水路を奥に進みたどり着いた先にあるのがインデイン。ここには僧院があり門前に市が立つ。

中国南部~東南アジアにかけての少数民族が住む山間の地域では定期市の立つところが多くある。同じエリアの幾つかの町の間で一定の期日毎に順繰りに市場が立ち、周辺の村々から色々な人々が物を売りにやってくるのだ。以前ベトナム北部でお目当ての市に行き損ねたことはリアルタイムで書いたが、僕は市場という言葉に弱い。まだナイーブな頃にとある人の「市場があれば国家はいらない」なんて言葉の意味を真剣に考えた身にとっては(笑)、旅先でそこに市が立ち人々が集まれば、足を運ばないとなんだか気が済まないのだ。

ここインレー湖周辺地域でも定期市は開かれ、ちょうど滞在中にボートツアーで訪れるインデインで市が立つ日が重なった。それほど目を見張るというものでもなかったが、売りたい買いたいという人間の根源的な欲望が交差する時間や空間を、僅かではあるが共有できることが、いつもながら嬉しい。

声のするテントは遊技場になっていて男たちが単純な賭事に勤しんでいた。彼らにとっては数少ない娯楽のひとつなのだろう。それに対し野菜などを売っているのは大抵女性だ。東南アジアではどこでも明らかに女性の方が男性よりも働き者である。

 

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丘の上の僧院の周囲には無数のストゥーパが林立する。まだ新しく真っ白な仕上げが美しいものから、風雨に曝され半ば崩れつつあるものまで様々。その中を時間を忘れて歩き廻る。不思議な光景は空想の世界に紛れ込んだかの様だった。SNSの時代はカックー遺跡が有名だが、当時はあまり知られてなかった。外国人に開放されていないエリアも多く、カックーも行けるようになってからまだそれほど時間が経っていなかったと思う。

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再びボートに乗り込み来た 道 水路を戻る。金ピカなファウンドーウーパゴタに寄った後集落に戻り自由時間。といっても水に囲まれているので自由に動くことはできない。遅い昼食をとり建物内の土産物の店をうろつく。隣の工房では銀細工や漆器、葉巻などの作成を実演していたので見て回るうちに時間はすぐに過ぎた。物は悪いというほどでもなかったが、ヤンゴンのアウンサン市場の方が種類も多く色々選べそうだったのでここでは買わなかった。実は土産物店は何か所も寄るので終いには飽きて、ボートのドライバーと一緒にお茶を飲んでやり過ごした。

 

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f:id:pelmeni:20210622153710j:plainf:id:pelmeni:20210626174441j:plain浮島の水上菜園は結構規模の大きいものだった


最後に寄ったところはガーペー僧院、通称のジャンピングキャットモナストリーの方が有名かもしれない。西陽が差し込み御堂の中は黄昏の雰囲気。まったりとしてヤル気無さそうに動かない猫たちだが、一人のお坊さんが来た途端に、、、

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数匹の猫がぴょんぴょんと輪くぐりを披露する。観光客は拍手。暖かな雰囲気となったところで、本日の観光は終了。

 

帰路途中で日没となった。淡々と進んでゆくボートの存在以外は、遮る物の無い広い空と滑らかに揺れる湖面の表情がすべてだった。陽の光の変化と共にそれらがゆっくりと移ろう様を全身で感じながら、もしかしたらこの時間がツアーで一番印象的かもしれないと思った。地球上どこにいても日没は等しく美しいものだ。

 

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’05旅回想 その25 ミャンマーは昔の日本の田舎に似ているそうです

ミャンマー3 シーポウ  Dec.2005 - Jan.2006

ピンウールウィン(メイミョー)→シーポウ→マンダレー

 

 

ピンウールウィンから次の目的地シーポウまでは鉄道で移動した。今回の旅程ではあまり鉄道に乗る機会がないのだが、ここは乗車したかった。何故なら途中にゴッテイ鉄橋 / Gohteik Viaduct があるからだ。イギリス統治時代に作られたこの鉄橋は世界第2位の高さを持つそうで(詳細不明)、眺めは壮観だ。これには昔に乗った山陰線の餘部鉄橋を少しだけ思い出した。まだ華奢な鉄骨橋だった頃で、風が強かったため緊張感に溢れた20分ほどを手前の駅で待機した。以前強風にあおられ車両ごと落下したという痛ましい事故が起きた場所だった。国内では有名だったがそれでもゴッテイとは規模が全く違う。

この日は天候の心配をする必要は無かった。高さがあるうえに距離も結構長く、徐行運転をする列車はスリルを含めてなかなかの楽しさだった。写真を撮ることができなかったが、これはYouTubeで多くの人がアップしている動画を見る方が良いでしょう。

 

f:id:pelmeni:20210404053450j:plainピンウールイン出発!

 

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f:id:pelmeni:20210404051820j:plain鉄橋手前の駅Gohteikで停車

f:id:pelmeni:20210404051226j:plain幾人もの乗客が線路から離れていくので後をついて行くと、鉄橋の一部が遠望できた。

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列車は1日上下各1本。停車時間は長く、乗客や町の人が車輌の前を行き交ったり適当にぶらぶらと過ごしていた。

 

 

 

シーポウは普通の小さな町だが、田舎のひなびた雰囲気を求めて外国人が集まる。町自体には特に何も無く静かなところ。この町も周囲の地域も観光地というほどではない。

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実は滞在中に所謂新年を迎えたのだが、地元シャン族の新年は西暦でいうと11月頃らしく、中国人の新年は春節、よってこの日この場所で新年を祝うのは外国人旅行者ばかりとなる。シーポウはミャンマーの他の町と同様に停電が多く、毎晩10時過ぎになると決まって電気が消え、その後はもう何もすることはなく眠るしかなかった。さすがに大晦日~新年にそれでは寂しいので外国人が集まる宿に泊まった。庭に焚火があって囲むように椅子が置いてある。電気が落ちた後は部屋にいてもしょうがないので、もう一人の日本人客、鹿児島の養護学校で教える松村さんに呼ばれて庭で話を始めた。ちょうど日付が変わる時にその場にいる外国人数人が小さな声で「ハッピーニューイヤー…」。気分は盛り上がらずに程なくして皆部屋に帰っていった。

松村さんは僕より一回り年齢が上で、既に何度もミャンマーを訪れていた。昔の日本の田舎に風景が似ているところを気に入っているそうだ。僕はそこまでの印象を持っていなかったが、どこもかしこもひなびた雰囲気があるところなど、そう言われたらそうかもしれないと思った。そもそも田舎に縁の無い生活をしていたので真意はよくわからなかったと思う。

宿でガイドを雇い、翌日3人で近くの村などを半日ほど巡ることにした。

 

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白いストゥーパは緑に映える

居心地が良かったのでもう1日滞在を延ばした。といっても何か特別なことをしたわけではない。何もしなくても気持ち良く過ごすことができるのは何故なのだろう。ストレス無くのんびりできる東南アジアの田舎こそ行くべき所と思い始めたのはこの頃のことだった。自然と溶け合うように一体化した生活というものが東南アジアの田舎ではごく普通に営まれていることを実感したのは、まとまった時間をとることのできたここミャンマー旅行時のこと。東南アジアはまだ2か国目だった。それまではどちらかといえば興味の少ない地域でいずれ行けば良しとしていたが、滞在中に自分の中での優先順位が変わっていったことが日記を読み返すとわかる。乾いた中近東の後だけに、水と緑が常に傍らにある環境の優しさというものに、疲れの溜まった体と気持ちが癒された。(インドにも緑はあるが少し別な印象で何事にも剥き出しの厳しさがあると感じた。)これは、藤原新也の言うところによる「乾いた鉱物世界の西東洋」と「潤った植物世界の東東洋」の対比で、それを身を以て感じ取ったということなのだろう。そ、移動し続ける旅の楽しさはこのようなところにある。 

-----でも考えてみればその素晴らしい環境を最も享受できる所って、実は、、、最も身近な日本ではないか? 

-----それが昔の日本の田舎なのかはわからないけど。

-----ただ一番の気持ち良さはこの気候でしょう。何時訪れても夏休みのような暑さに精神が自然と緩んでゆく。休め休めと仏陀が語り掛けてくる気がする。その証拠に彼は何処でも寝そべっている。肘枕に大きな体を横たえている。

 

 

最後の夕暮れは、川向こうの丘の上にある寺院から町を眺めながら日没までまったりと過ごした。夕もやが流れるように増え始め、段々と日が暮れるなか徐々に余計なものが見えなくなってゆく。人工的な光の少ないこの町では、やがてすべてが夜の闇に同化してゆくのだろう…

 

一日の中で最も美しい時間を美しい風景の中で迎える。んー、旅って贅沢。

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刻々と変化する茜色の空のグラデーションが美しかった。名残惜しいが暗くなるまでに山を降りなければならない。

 

 

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シーポウの町中には妙な気持になる看板があった。わざわざ掲げてあるこの標記は、亜細亜的な優しさか、それとも形式的な下達なのだろうか。

 

 

マンダレーに戻り隣接するアマラプーラへ行く。大きな池の上を長く長く続く(1.2km!)木造歩道橋、ウーベイン橋が有名。渡りきるのに20分位かかった。昔はミャンマーの首都だったこともあったが現在はマンダレーの町の一部に組み込まれている。ここもパゴダや僧院が多かった。

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COSTA COFFEE

 

連休中にTVのCMを見てあれっと思った。

 

 

特徴あるロゴと臙脂色の色使いは間違いない。世界第2のコーヒーチェーン店”COSTA”?

早速調べたところ、Petボトルのコーヒードリンクが発売されるよう。そして、迂闊にも去年夏に日本に上陸していたことを知らなかった。これではコスタファンを自称できない。ただ飲食店への供給が主で、海外で行われているような店舗の展開はまだのようだ。

 

コスタ、以前の旅行中には各地でよく利用した。ニューデリー、マスカット、ドバイ、マナマ、カイロ、ケープタウン… 他にも何処かの空港で見かけた。当時は何となくだが欧州外では旧英国領や関係国を中心に展開しているような気がした。他の地域ではどうだったのだろうか。

店内はいずれも比較的シックなインテリア、地元カフェよりも値段設定が高いせいか客層も静かで落ち着いた印象を受けた。泡立てたミルクを載せたカプチーノスタイルが主流。コーヒーは地元の小さな店でも美味しく雰囲気の良いところは結構あったが、此処は此処で高い金を払う価値はあると思った。僕はコーヒーには糸目を付けないので見掛けるとよく利用したが、それはコーヒー自体だけではなく気持ち良く時間を過ごす事を含めての対価と考えている。だから、すぐに席を立つことはなく1-2時間くらいは平気で居させていただくよ(笑)。

懐かしく思ったので写真をいくつか探してみました。

 

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ニューデリーのコンノートサークル内 駅のブックストールで買ったインド国鉄時刻表がコーヒーのお供 インドではこの店内は別世界、流れる時間が違っていると感じた

 

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カイロ、メトロのドッキ駅近く エチオピアスーダンの大使館にビザの申請に行った時に数回寄った カイロともなれば選択肢は多くたまには違った空気に触れるのも良い

 

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アスタナ(現ヌルスルタン、カザフスタン)、ショッピングモール"MEGA"内 12月で外は吹雪、暖かい館内で腰を下ろすともう暗くなるまでまったりと過ごす他に選択肢は無かった 

 

値段はどの辺りか、当時の小遣帳から拾ってみた。

 

・2012インド、カプチーノ 税込(以下省略)122ルピー(約180円)

   ちなみにマクドナルドのアルーティッキ(じゃが芋コロッケバーガー)セット75ルピー

・2013バーレーンカプチーノ1.6ディナール(約380円)

   ちなみにバーガーキングのジュニアワッパーセット1.8ディナール

・2013エジプト、コーヒー+アップルパイで34ポンド(約510円)

   ちなみにKFCのチキンバーガーLセット47.5エジポン、地元カフェでコーヒーとケーキを頼んでも20エジポンぐらい

・2013カザフスタンカプチーノ 600テンゲ(約390円)

   ちなみに駅中のカフェでコーヒー+ホットドッグを頼んで450テンゲ

’05旅回想 その24 ミャンマーの旅は続く

ミャンマー2 バガンマンダレー Dec. 2005

ニャウンウー・バガン遺跡→マンダレー→ピンウールウィン(メイミョー)

 

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雨はまったく予想していなかった。雨期ではないのに、ニャウンウー到着の午後から出発日まで計4日もの間雨にあたり続けるなんて、運が悪いのか日頃の行いが悪いせいかはしらないが、とにかくついていなかった。特に空を見上げながらパゴダ巡りを決行した日が結果的に一番雨脚が強かった。なんてこった。おまけに気温はそれほど高くなかったが湿度がものすごい。雨に濡れた服などを乾かそうとして一晩掛けておいても全く乾く気配がない。常に湿った物が体に纏わりついている感覚は正直嫌だった。地元の人が身に着ける簡素で風通しの良さそうな着物こそ、この土地に相応しい服装なのだ。

広い平原に数多くのパゴダや寺院が点在しているバガン遺跡を個人で見学するには何か足が必要なので、自転車をレンタルして巡ることにした。しかし雨だった。ここはミャンマー。幹線道路付近を除けばアスファルト舗装などという洒落た物は無い。未舗装の道に撒かれた砂には水が浮き自転車で進むには結構な障害になった。更に砂が無いところはただでさえ柔らかい土が水を含んでグニャグニャになり人が歩くことさえままならない。結局一部はあきらめ翌日に持ち越したが、その翌日も途中で雨が降ってきたのでもう面倒になって途中で引き返した。

平原に古いパゴタが点在するのんびりとした雰囲気が、雨のせいで一部しか楽しむことができなかったのが残念だった。天気が良ければ気持ちの良いサイクリング日和になっただろう。1か月の滞在なのでここだけに長居するわけにもいかなかった。気分は、次行こう、次!である。

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最後は雨脚が強くなって散々な目にあった

 

ニャウンウーからマンダレーまでの移動はマイクロバスに詰め込まれて8時間。到着間際に久し振りに太陽を見た。最初の日だけ良さ気なホテルに泊まったのは、湿った服等、特に靴を乾かしたかったからだった。くるぶしまである人工皮革のトレッキングシューズは内部が全く乾かず気持ち悪い。部屋のエアコンの前にぶら下げ強制乾燥しなければカビでも生えてきそうな感じだった。

 

f:id:pelmeni:20210308152300j:plain濃い朝霧に包まれる日が多かった

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マンダレーも久し振りの晴天らしく、多くの人がイラワジ川に洗濯をしに出ていた

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 マンダレーは古い王朝の都。日本でいえば京都に相当するのかな。マンダレーヒルと王宮。町中には僧院やパゴダが多い。中心を離れるとすぐに長閑な住宅地になる。

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以上3枚を頭の中で合成してください。パノラマ写真になります、多分。19世紀に造られた王宮。

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マンダレーヒルで沈む夕日を眺めていたら一人の僧侶に話しかけられた。先日までカメラマンとして働いていたそうで、流暢な日本語だった。日本語はここで教えてもらったというが、発音も語彙もこれまた教えてもらったというレベルではない。カルカッタに続き不思議な感覚で話をしていた。見掛けは… もしかしたら日本人だったのかな。

東南アジアの仏教は日本などとは違う種類のもので、「信じる者は救われる」ではなく、救われるためには自ら功徳を積まなければならない。ゆえに男性は一生のうち一度は出家するそうだ。ただ仏門に入るといっても一定期間のちに還俗する。彼ものちに社会に戻ったのだろうか。初めはわからなかったがそうと知ったのは町外れにある僧院を訪れた時のこと。そこで話をした若い僧侶たちは見掛け以外はごく普通の雰囲気で、サッカーなど詳しい。当時活躍していた日本人選手、中田英寿のことまで知っていた。一時出家の習慣の事も話の中に出てきた。日本とは違った形で仏教が生活に関わっているものだと納得した。

 

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シュウェインピン僧院にて

f:id:pelmeni:20210321035616j:plain普通の町中だが熱帯は樹木の育ち方が全く違う。

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ミャンマースタイルのストリートカフェ

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市場の周囲はどこでも人で溢れる

 

 

 

ピンウールウィンは大英帝国時代の避暑地で当時の建物が幾つか残っている。この町を訪れた理由はポール・セルーの『鉄道大バザール』という旅行記に載っていたからだった。マンダレーから近いので寄ってみた。

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旅行記に出てくるカンダクレイグ 現在はホテル

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町中にて。タコ焼きを期待したが甘いスイーツだった!

 

ところで、後年タジキスタンで出会った日本人旅行者と話をしていてこの町の話になったことがある。彼女がミャンマー旅行時にピンウールウィンに寄ったのは、祖父が太平洋戦争従軍時にこの町に滞在したからだという(ここには日本軍の司令部があった)。そういえば以前ブダペストで会った旅行者がシベリア鉄道乗車中にバイカル湖畔の町で降りたのも、彼女の祖父が終戦時に抑留された場所を自分でも一目見たかったからだった。意外とそういう話はあるようだ。僕の場合で言えばニューギニアか。僕の祖父はニューギニアで交戦中に脚を撃たれ野戦病院で治療していたおかげでその後の激しい戦闘から逃れられたらしい。戦争のことはほとんど話さなかったので詳しいことはわからない。僕にはニューギニアを訪れるという発想は無かった。

ある時祖父は箱一杯の鉄道の硬券を僕にくれた。その多くは寝台券だった。昔はいちいち切符の回収をしなかったのでいつの間にか貯まったらしい。戦後は化粧品会社の経理や営業職にあり、北海道から九州まで各地の販売店へ頻繁に足を運んだ。見たことのない地名や記号が刻まれた硬券は何も知らない小学生の想像力をかき立てるには十分過ぎるおみやげだった。

でもそのおかげで孫が旅行好きになった… という簡単な話ではない。なにしろ僕は日本国内では寝台も夜行列車も乗ったことがない(正確には一度だけ)。北海道にも九州にも足を踏み入れたことがない。それだけからすれば単なる出不精な人間としかみられないだろう。ところが、初めて乗った夜行列車にそれも海外で魅了されてしまった。

薄暗い照明の下でうつらうつらしたり、冷たい窓に顔を近づけ真っ暗な夜景に眼を凝らしていると、ふと、何十年も前に場所は全く違えど祖父も同じ様な状況で同じような感覚を覚えていたのかもしれないと思うことがあり、異国の夜空の下でも寂しさや心細さからは一時的にも気持ちが離れた。特に旅を始めた頃は、そんな事が時々あったと記憶している。

祖父が必ずしも好き好んで夜汽車に乗っていたわけではない。その時代には他に手段が無かったからだ。でも僕は海外に行くたびに至るところで好き好んで乗っている。昔もらった切符のことを思い出すことは少なくなっていたが、その存在が無意識のうちに僕の個人的な好みに影響を与えたと考えることは、まず妥当なことだろう。見慣れない紙片を片手に子供ながらにあれこれ考えたことが結果的に、将来の僕の地に足の付かない生活に繋がったのであれば -----もちろんそれがすべてとは思わないが----- うちの爺さんも罪なことをしたもんだなあと、思い出す度に何だか妙な形のつながりを感じるのだった。

つながりといえば、祖父は軍隊では上官からは可愛がられたものの生意気だったのでよく殴られたらしい。僕も小学生の頃は口が達者で生意気だったので教師によくぶたれたが、実際のところは贔屓にされた方だ。そんな人間はうちの親族には他にいない。これは余談です。

 

 

’05旅回想 その23 ヤンゴンに来ました

ミャンマー1 ヤンゴン Dec. 2005 

ヤンゴン→ニャウンウー

 

 

物心ついてから僕が初めて接した外国人は実はビルマ人だ。

僕の通っていた小学校の近くにビルマ大使館があった。近所の人はそう呼んでいたが正しくは大使館員の官舎だ。色の浅黒い子供達が敷地内や近くの道路で遊んでいるのを時々みかけ、当時の僕はビルマを黒人の国だと勘違いしていた。まったく馬鹿な小学生を許して欲しい。その彼らがある年以降普通の公立小学校に入学転校してきた。僕らの2つか3つ下の学年からだったので同じ教室で学んではいないが、計10人位はいたのかな、校内でも時々見かけるようになった。僕は中学の途中で引っ越したので、その後は知らない。彼らは国に帰ったのだろう。ビルマは政変でミャンマーとなり、安定しない状況が今でも続いている。-----2010年頃、ふと思い立ってその場所を訪れてみた。以前と変わらず樹木に囲まれた庇の深いコンクリートの建物があった。敷地には明らかに人の手が入っていて、静かにしていると女性が話すような声が僅かに聞こえた。ただ外に向かってミャンマーを示す表示や痕跡は何もなかったので、建物等の所有者が誰なのかはわからなかった。表札も何も無いことがかえって想像力をかきたてる。目の前の光景は長い時を一気に巻き戻された。

 

 

ヤンゴンに来ました。上記はミャンマーに行くことを決めた段階で、懐かしく思い出したこと。でも実際街の通りを歩いていても、当然だが大人になった当時の子供たちに会えるはずもない。顔も名前も憶えていない。ただ、もしかしたらどこかですれ違っているかもしれないとその可能性を想う度に、僅かに胸が騒ぐのだった。それはヤンゴンに限らず他の町でも、気が付けば人々の中に誰でもない誰かを探している様な気分になっている自分がいた。見ようとしているものと見えているものが違うような。ミャンマーの旅を通してそんなふわっとした気分になることが時々あった。

  

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カルカッタに続きこの街も元大英帝国領。それらしき特徴の有る建物が多く顔を上げ続けるので首が疲れる。おまけに暑い。必然的にコーラ中毒患者はコカ・コーラを探し求めるのだが、当時この国でコカ・コーラ社は製造販売をしていなかった。地元産で一段味の劣る瓶入りスターコーラやクエンチしか… まあ、それはそれで良いのだが。缶入りの「可口可乐」や「雪碧」を中国からの輸入品として扱っている店を一軒見つけた。瓶入より値段は高いが内容量も多いので自分を納得させる。

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f:id:pelmeni:20210223025024j:plainf:id:pelmeni:20210307041944j:plain大通りから入る細い横道は緑多くとても静かな場所

f:id:pelmeni:20210223015241j:plainf:id:pelmeni:20210223015258j:plain路上にも店がひろがる

 

旅行前はこの国にはインターネットが来ていないと聞いていたのである意味楽しみだったが、実際行ってみるとヤンゴンマンダレーではかろうじて触れることができた。まあ無いよりはマシといった程度のものだったが、 動かない画面をじっと待つのもそれはそれでミャンマーらしいとも思った。昔インドで激遅の回線に怒りをぶちまけた頃と比べれば自分も大人になったものだ。でも日本も黎明期は同じようなものだった。そんな新しいサービスがあるだけで夢中になっていたのも今は昔の話。

また、当時既に話題になっていたが、通りを走っているバスのほとんどが日本の中古車で驚いた。外観の塗装は基本的にそのままで文字のみ消されているのだが、何故か知っているものばかりだった。右側通行なので出入口が少し強引に増設されている。ここでも第2の人生はタフでハードなのだ。当時の日記によれば、一番多く見かけたのが断トツで神奈川中央交通、次いで(知らない緑のラインの車体)、阪急、千葉中央。ほかにも都バス、京都市、京王、京成、などなど。

f:id:pelmeni:20210225053408j:plain一番多かった神奈中バス

f:id:pelmeni:20210225053427j:plainこれは阪急バス

f:id:pelmeni:20210225053443j:plain珍しく文字が残っていた立川バス


 

カルカッタの空港で搭乗前にガイドブックを貸したスイス人&ドイツ人のカップルと同じ宿へ行くことになった。ホワイトハウスという思わせぶりな名前の宿は、安宿の中では外国人に人気だった。ここは面白い造りをしていた。普通の6階建くらいの建物の屋上に3層ほど軽量な構造で建て増しされ、外国人が泊まりたがる安いが簡素で暑い部屋があった。こんな安普請の部屋は東南アジアならではのものだ。ちなみにシングルで6米ドル。下階には普通の部屋があるのに何故かひと気がなかった。元々の屋上は半屋外の食堂と厨房になっていて、ビュッフェ形式の朝食は取り放題なので、朝から腹一杯、幸せな気分で毎日が始まった。ミャンマーでは他の町でも屋上に食堂がある宿に幾つか泊まったが、どこも気持ち良く、熱帯の明るく生暖かい空気の中では屋内で朝食をとる理由など考えられない。果物が食事やおやつの替わりなんて、以前の南米の旅を思い出した。

 

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よく見たらヤバイな 

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------ちょっと失礼、 -----ん、邪魔するにゃよ

地上数十mの食堂階に住み着く猫 東南アジアには顔の細い猫が多い

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上階テラスから このアングルが好き

 

ヤンゴンで一番大きなシュウェダゴンパゴダへ行く。観光客も見かけるが、地元の人と思しき人々に愛されている場所だと感じた。皆自由にリラックスしている。東南アジアではテンプルやパゴダは日常生活の一部に程良く溶け込んでいる。ミャンマーではパゴダは釈迦の家なので裸足になる。屋外なので多少汚れるが石張りの床がひんやりとして気持ちよかった。

f:id:pelmeni:20210225043610j:plainf:id:pelmeni:20210225044520j:plain大きな黄金のストゥーパを中心に無数の仏塔や廟、通路がぐるっと取り囲む平面配置

f:id:pelmeni:20210225045845j:plainf:id:pelmeni:20210225050207j:plainf:id:pelmeni:20210225044808j:plain通路幅一杯に横一列になって進みながら掃き清める f:id:pelmeni:20210225051148j:plainf:id:pelmeni:20210225051156j:plainf:id:pelmeni:20210225045910j:plainf:id:pelmeni:20210225045153j:plain

世界中の至る所で金ピカは求められ愛されている。それを横目に、わびやさびを理解する能力なんて特殊なものだとつくづく実感した。

 

 

次の目的地バガンへ行くために長距離バスターミナルに来た。チケットを買い乗る車を教えてもらったところで目を疑った。街中を走っているのと同じ神奈中の乗合バスが停まっていた。今日は夜行なんだよ、これで一晩過ごすのか… と心配になったが、車内の座席は古いがしっかりとした物に換装されていていた。それでも乗心地が良いとは思えない。先が思いやられる。

この日は体調が良くなく頭痛がしたので出発前にバファリンを飲んだのだが、これは逆に良かったようだ。というのもそのバファリンはエジプトのカイロで購入したもので、日本のものと違って飲むとかなり眠くなる代物。そのせいか思っていたよりもぐっすり長く眠れた。途中で眼が覚めてもあまり時間を空けずに再び眠りに陥ることができた。翌朝はごく普通の体調でニャウンウーに着いた。でも朝4時半は早過ぎる。

 

 

 

’05旅回想 その22 インドその2、バングラデシュ少し

インド2、バングラデシュ Dec. 2005

カルカッタ(現コルカタ)←→ダージリン、→ダッカ

 

 

 

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ダージリン方面へはもう一つのターミナル、シアルダー駅より列車が出ている。機能的な駅だがハウラー駅のような趣きは無い。こちらには床に寝ている人が多数いた。今回も夜行列車、僕のインド旅では定番のスリーパークラス。長大な客車の編成を牽いているせいか出発後なかなかスピードが上がらないのはいつものことだ。街を抜けるまでは窓を開けない方が良いね・笑。

近くの席のバングラデシュ人の家族と知り合い、親父が最近手相に凝っているのでみてくれるという。嫌な予感がしたが、無下に断るわけにもいかない…、というか僕の場合今まで何を見ても大抵同じような事を言われる。この時もやはり予想通りになった。彼曰く、仕事は変わる、結婚は先になる。それらはもう何度いわれたことか。さらに、性格は難しい、が加わるが多分黙っていてくれたのだろう。そもそも日本とインドで手相占いの基準は同じなのか? でも笑うしかない、ホントそれ以外言われたことないですから!

 

翌朝の列車の到着は1時間半遅れた。それはまずい。なぜなら下車駅ニュージャルパイグリ・ジャンクション(NJP)からダージリン迄は楽しみにしていたトイトレインに乗り継ぐつもりでいたからだった。接続時間に元々余裕はなかった。まあカルカッタからの乗り換え客の利便などはそもそも考えていないのだろう。列車が遅れるかどうかは神のみぞ知ること。「ありがとう」同様に「便宜を図る」という言葉もヒンズー語には存在しないのかもしれない。

既に無人のプラットフォームを呆然と眺め、1日待つわけにもいかないので車で行くことにすぐに決める。ダージリン迄の乗合ジープ(4WD車)は近くのシリグリという町から出るので駅からオートリキシャーで移動。チャイで一休みしたのち出発。こちらは地元民の足なので客が集まり次第すぐ出発、山道を3時間半。断然速い。

 

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ダージリンは山の尾根を中心に広がる町。インドらしく小さな建物が無秩序にパラパラ散らばるので町の姿は遠目にはあまりきれいに見えない。 山の町というだけのことはあり眺めはとても良く、見下ろす斜面の紅茶畑の先に青い山々が遠くまで続く。

イギリス領時代の避暑地や紅茶など清々しいと迄はいかなくとも何かポジティブな印象が持たれがちなダージリンであるが、他のヒマラヤ地方の町と変わらずきわめてヒンドゥ的な町だった。美的な秩序はあまり見受けられず、ヒトもモノも過密な集積感がかなりのものだ。イギリス時代のコロニアルな建物は少しは点在しているが、土地のほとんどが斜面のため階段状に建物がびっしり埋め込まれた町の光景は、別の意味で印象的かもしれない。ただ外国人目当てのしつこい客引き等の姿は無く、人々の穏やかな雰囲気に多少は心休まる。

 

鉄道駅前で車を降りると空気がひんやりと冷たかった。高地なのでわかってはいたが寒さは予想以上で、そのせいか困ったことに鼻水とくしゃみの連発が止まらなくなってしまった。カルカッタでは半袖Tシャツ1枚でいられたので気温は多分30度弱くらいだった。そこを一晩で一気に20度位の気温差(降下)に体が対応できなかったのだろう。というか、考えてみたらこの半年もの間ずーっと夏だったようなものだ。体も驚くはずだ。発熱まではいかなかったが体はなんとなくだるかった。更に奥に位置するガントクやカリンポンまで足を延ばしたくてシッキムの入域許可証もとったのだが、迷った末行くのは諦めダージリンに少し留まることにした。もう出国日が近づいていたので無理をして体調を崩したくなかったこともある。結局のところ滞在中ずっと症状は良くならなかった。気温差だけでなく花粉だか煤煙だかに鼻の粘膜が反応したのかもしれない。その後山を降りたら何事も無かったかのように症状は消えた。澄んだダージリンよりも汚れたカルカッタの空気の方が僕の体には合っているということなのだろう。

ダージリンは特別目玉となるような観光場所があるわけでもなく、ゆっくり滞在して独特な山の町の雰囲気を味わう所のように思えてきた(ただのんびりするは寒いし人も多い)。1つの町を肌で感じるにはある程度のまとまった時間が要る。町自体は狭いのですぐに行き尽くしたが、同じことの繰り返しもたまには良いものだ。毎日適当にほっつき歩いた後3時過ぎには町中に戻り、グレナリーズという古くからある店でポット一杯のダージリンティーを飲み読書をするのだ。僕はコーヒー党だがここでは紅茶を飲み続けた。実は何を隠そう雰囲気に呑まれるタチである。食事はチベット料理のモモやトゥクパが美味しく、久々の脱マサラも悪くなかった。レストラン、食堂、屋台、申し分なし。そうそう、ここでは納豆が食べられている。日本の物ほど糸はひかないが大豆を発酵させている。とある日本人旅行者が料理の付け合わせに出てきたソレを豆の腐った奴かと思って味わわなかったらしい。いや、間違ってはいないんだけどな。

泊まっていた宿は日本人女性が嫁いだ宿だった。ダージリンが好きで何度も訪れるうちに知り合ったらしい。父親が経営しているホテルは表通りに面していて、息子(彼女の夫)が任されているのはすぐ裏に隣接した小さな分館のような宿。そのホテルの宿泊客の運転手が泊まるような宿よ、と教えてくれた。とはいっても若いインド人旅行者も普通に宿泊している安宿だった。話によればその一家の宗教はヒンズーではなくゾロアスター教で、よくあるインド人家庭とは少し違うらしい。彼女の服装も日本にいる日本人と変わりはなかったうえに、タマという名の子猫を飼っていた。その時もっと色々聞いておけば良かったと今では思う。町の夜は早く部屋に戻っても寒いだけで相変わらず鼻水とくしゃみが止まらないので、小さなロビーに下りストーブを囲んで他の旅行者と話をした。

 

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カンチェンジュンガ(世界第3位の標高)は町中から眺めることができる。町並みの猥雑さと峰々の神々しさが同居しているところなどインドらしい。

 

f:id:pelmeni:20210218034825j:plain町外れの動物園には猛獣が多く、見ているうちに気分が次第にエキサイトしてきた。レッサーパンダはここヒマラヤ辺りに多く生息している。地元でお馴染みの動物ってところ。


 

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ダージリンヒマラヤ鉄道は、NJPからダージリンまで通しの列車はディーゼル機関車が牽引しているが、部分運行にはこの蒸気機関車がまだ使われていたようだ。一つ手前の駅のある町グームまで1時間半の道のりを歩いてみた。途中バタシアループという眺めの良いヘアピンカーブで下から上がってくる列車にすれ違った。以前NHK教育テレビで見たテンジン・ノルゲイ(ヒラリー卿と共に初めてエベレスト登頂に成功したダージリン出身のシェルパ)の特集番組内ではこの場所は裸地だったが、公園としてきれいに整備され入園に5ルピーもとりやがった。通過する列車を動画に収めるためには入るしかないのだが…。

f:id:pelmeni:20210218040027j:plainカンチェンジュンガも見納め

 

カルカッタに戻りサトシに会いに行った。サトシとは安宿街の一角の路上に土産物の店を開いていて日本語を流暢に操るベンガル人だ。ダージリンに発つ前は会えなかった。「西宮のおっちゃんに教えてもろたんや」「日本人と話しているから忘れない」としか答えないが、どうみても日本の生活で覚えたレベルの会話を普通にする。実は英語が話せない(本人談)というのもそう思わせる理由だ。僕が初めて訪れた6年前、この界隈には日本人旅行者の姿が常にあり、彼の周りには誰かしら入れ代わり立ち代わり現れ話し相手になっていた。ところが今回彼が言うには、徐々に接し方が変わってきて、最近は日本語を話す変なインド人と見られることもあるらしく、敬遠され気味らしい。あまり物も買ってくれないとのこと。旅先で贅沢をしてこそ楽しい、という正論も彼は口にした。ただ正直に言えなかったが、土産物といってもそれほど欲しいと思わせるものが置いてないのだ。『深夜特急』や 『旅行人』に感化された多くの若者が訪れ、インドに来れば何でも目新しく面白かった時代は終わり、今ほどではないが既にインターネットで情報が入手できる時代になっていた。「商売あがったりや」と彼は言うので、別れ際に絵葉書を5枚だけ買った。買わされた、というべきか、商売上手なベンガル人に。

 

カルカッタの国際空港は以前は地名からダムダム空港と呼ばれていた。シャーロキアンならこの名前にピンとくるでしょう。「空き家の冒険」でモラン大佐が使用していた特殊な弾丸がダムダム弾。イギリス統治時代にインド人の反乱の制圧のためにコルカタ郊外のダムダム地区にあった工廠で作られた物だそうです。

地下鉄とタクシーを乗り継いでたどり着くと 、ロータリーがきちんと整備されていた。ああ、ここでも以前の記憶と重ね合わせてしまう。---入国手続きを終え建物から出て、およそ国際空港の正面とは思えない何もない荒地を横切り少し離れた所にある道路へ出る。言われなければバスとは認識できない4輪の付いた継ぎ接ぎの箱に乗り込む。西日に炙り出された道路沿いの光景を見続けた時の得も言われぬ感情。---それが僕のインドの本当にファーストなインプレッション。もう死ぬまで忘れられない印象といえば大袈裟かもしれないが、多くの旅の記憶がいずれ忘れゆく中これは残り続ける、多分。でも、もう無いんだよなあ、気になってしょうがなかったあれらの光景はすべて。6年も経てば当然といえども肯定し難い気分に少し落ち込む。過去を過去として認めぬうちには来るべきではなかったのかもしれない。あらゆることを較べてしまい余計なことばかりに気を取られて頭が変になりそうで、正直言ってこの時は楽しめなかった。でも時が経てばそれらはすべて含めて懐かしい思い出に収束するのだろう。感情の振れ幅が大きかった記憶ほど時間を掛けて確かなものとして自分の一部に取り込まれてゆくはずだ。

 

 

ダッカの空港では乗継便が翌日となるので指定のホテルで一泊することを言い渡された。パスポートを職員に預け宿泊ホテルへ行く小さなバスに誘導される。空港建物から出ると鉄柵にしがみ付く人々の群れ。なんじゃこりゃ、近年流行のゾンビフィルムみたい。

 

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バスの中から眺める通りはサイクルリキシャーで溢れチャリチャリ騒がしい。風鈴のようだと無理に思い込めば風流の欠片くらいは感じられたかもしれない。その数は車より確実に多い。噂の「日本っぽい文字」の描かれた車を発見。当時は日本の中古車がステイタスだった模様。

 

ダッカの街中のどこかにあるホテルで降ろされ翌日の集合時間を言い渡された。結局昼食にありつけたのは午後4時半。部屋を宛てがわれ食事も出されるので後はもう何もすることはないのだが、じっとしていても手持ち無沙汰だ。陽は傾いているがまだ暗くはなっていない。僕の部屋は表通りに面していたので外を眺めていると、同じ便に乗っていたドイツ人が建物の入口を出たり入ったり様子を伺っているのがわかった。すぐに行動に移す決心がつかないのだろう。僕も下に降りたくなってきたところだったので、考えていることは皆同じなんだなと思った。入国手続きをしていないうえにパスポートも預けて手元には無いので、我々は正式にはホテルから外に出ることはできないのだが、多くの人で賑わう街を目前にしてじっと留まるなんて無理な話。ちょっとだけなら出歩いても構わないだろう、なんて考えてしまうのは旅行者の性だ。ロビーには外国人旅行者が何人かウロウロしていた。ホテルの受付も何も言わないのだからいい加減なものである。

素知らぬ顔でふらっと建物から出る。にやけるのはその後だ。印となる商店等を目にとめながら、わかりやすい大通りを高架下の魚市場まで歩くと、珍しい人間がやってきたと歓迎される。以前に訪れた人から聞いた話だが、ダッカでは外国人の周りには直ぐに人が集まってきて放っておいてくれないとのこと、こんな短時間でもその片鱗をうかがわせるものだった。陽が落ちて暗くなったので戻ったが、その間1時間強と少しだけ。今の時代GPSスマホがあれば幾らでも歩けるが、その代わり、道を迷うわけにはいかないというあのちょっとしたスリルを感じることはないだろう。

ホテルに戻り簡素なフィッシュカレーの夕食を済ませ、若い従業員と話をして激甘スイーツ(イスラムの常)を貰った。その後彼は部屋までやってきて僕に職を紹介してほしいと言う。どういう形でもよいから日本に行って働きたいので連絡口になってくれとせがむのだ。おそらくこれまで話し相手の外国人旅行者みんなに同じようなことを言っているのだろう。当時の日記帳に彼の名前や連絡先が残っている。顔は忘れてしまったが元気にしているだろうか。

 

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 ギョッ

 


***My Secret Walking in Dakka***