もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。

'98ヨーロッパ その7 

f:id:pelmeni:20180102014134j:plainブルノ駅前通り

 

 

本来ならばウィーンに着く頃のはずだが、せっかくビザ※をとったチェコを見ないわけにはいくまい。まあ、ウィーンは今後も大きく変わることは無いだろうし、また来る機会はきっとあるだろうと判断して今回はあきらめた。それでもプラハにすら行けそうも無いのには愕然とした。我ながら行き当たりばったりのドタバタには苦笑せざるを得なかった。でもそのおかげで予想外の経験もした。今だったら帰りの切符を当然のごとく捨てているだろう。いやいや、やっぱり旅なんてほどほどが良いのかも… とはもうとてもじゃないが思えない。

 ※まだチェコ入国もビザが必要な時代。とても美しいデザインのビザでした。

 

ブルノでの最初のお仕事は帰国便のリコンファームだった。鉄道駅隣にある第二郵便局でテレフォンカードを買い、駅構内の公衆電話から国際電話をオランダ(KLM)まで掛けた。窓側の座席もとれ、これで帰国の足が確定し一安心。

ブルノはチェコ第二の都市だがすいぶんとこぢんまりとした印象だった。到着したのが日曜日で夜が早いことにも驚いた。ここへはトゥーゲントハット邸という有名なモダニズム住宅を見学しに来たのだが、運悪く月火曜日が休館のため後回しとして、今後4日間をアクロバティックな行程で廻らなければならなくなった。

宿は Hotel Avion に投宿。実はこのホテルはチェコ機能主義建築のひとつ。間口が狭く外観にあまり見所はないが内部は細かいところまで手が入っている佳作。ただメンテナンスは行き届いていなく、時は流れてこのまま朽ち果てるのかなあと思っていたが、先日調べたところ現在なんと修復中みたいです※。

※ Hotel Avion – Wikipedieチェコ語 

 

f:id:pelmeni:20180108182447j:plainホテル・アヴィオンのホテルカード、紙ナプキン、シャンプー、石鹸。我ながら物持ちが良いですなあ。

 

 

ブルノ → テルチ → チェスケー ブデヨヴィツェ(泊) → チェスキー クルムロフ(泊) → ブルノ →ウィーン(泊)→帰国か、   何とか廻れそう……

 

テルチはブデヨヴィツェへ行く途中にあるのでバスを途中下車して立ち寄った。細長い形をした広場にルネサンス様式の建物のファサードが書割のように並ぶ。見所は広場周辺に限られるが、とてもかわいらしい小さな町。夕方のバスが来るまでの滞在だった。 

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チェスキークルムロフ、これまた愛すべき町だ。S字状に蛇行した川の両岸に町が拡がる。そうそう、この様な地形に座する町で景観の美しくないところなど無い。旅慣れれば地図を見るだけで判るようになる。ランドマークは崖の上に建つ城の塔。旧市街は細い道が入り組み中世の雰囲気が色濃く残っている。歴史的建造物も多く観光地らしい良質な観光地だった、と思えたのは、意外と人が少なく何処ももの静かだったせいもある。それはそれでよかったが、できれば暖かい時期に来たかったなあ。旅の終わりも迫り、名残惜しさや一抹の寂しさとともに、ヨーロッパの冬の寒さが最後に身に凍みてきた。

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宿は旧市街の入口にある Hostel 99 という小さなホステル。できてまだ間もないのか手作り感色濃く素朴な雰囲気だった。(2003年再訪時にはかなり立派になっていて驚いた)

 

 

クルムロフから来た道を逆にたどりブルノに戻る。荷物を駅に預けトゥーゲントハット邸へ行く。当時はまだ世界遺産に認定されていなかった。自由見学はできず午後は3時に集合でガイドが付いた。英語ガイドの見学者は僕一人。チェコ語訛が強かったがそういう人の話す英語の方がネイティブより聞き取りやすいのは…、今でも変わらない。内部撮影は事前申請が必要で不可、外部撮影料金を別に支払いカメラを持ち込んだ。シンプルな空間構成や素材の効果的な使い方により創り出される空間の強度は特筆すべきものだった。 

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見学後は駅に急ぎ荷物を受取り裏手にあるバスターミナルへ走る。このバスターミナルも何度も利用したがこれで最後。売店でテイクアウトを買いバスに乗り込む。外はもう暗くて車窓を楽しむことはできなかったが、ウィーンまではたった3時間。国境通過時もパスポートチェックのみで、あっという間にミッテ駅横のバスターミナルだった。ここを出発したのは3週間前のことだったが、ずいぶんと昔のことのような気がした(と当時の日記に記していた)。ウィーンなんて宿の近くの街を夕食がてらに散歩しただけで終わってしまった。翌朝帰国。

あー、何たる消化不良。欲求不満。急いで旅をしても良いことはないなというのが当時の率直な感想だった。それ故に、ブダペストの宿で出会った人たちが楽しんでいた長期旅行というどこまでも自由な時間の使い方に、尋常ならぬ憧れを抱いた訳であった----------to be continued! といったところだ。しばらくの間続くことになる「旅あっての人生」は、ここから始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おまけ)ウィーンの空港へは鉄道で向かったのだが、ぼうっとしていて乗り過ごしてしまった。今でも覚えているのだが、駅についても人が沢山降りるなーと思いながら、頭と体が離れているような感覚で窓の外を眺めていたのだ。終着駅ではなかったので列車はそのまま出発、自分が降り損ねた事を理解したのはその数分後。まずいなと思いながら更に乗り続け、国道沿いの無人駅で下車する。逆方向の列車が暫く来なかったら隣の道路でヒッチすればいいなんて思っていた。列車は20分後に来て飛行機にはなんとか間に合った。しかし、何やってたんだろう?

 

 

 

'98ヨーロッパ その6

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サラエボからドブロブニクへバスで移動した。途中の風景には内戦の傷跡も残りいたたまれないものがあったが、内陸部からクロアチアダルマチア海岸沿いの道路に出てからは、もう、広い空! 青い海! 美しい島影! 別世界のようだった。

まだ肌寒かったけど、溢れんばかりの陽の光の中、開放感で気分が一気に弾けた。特異な町の景観も素晴らしい。こう言っては悪いが、陰鬱だったサラエボとは何もかも対照的だった。レストランでワイン飲んだりスカンピを食べたり夜遅くまで海沿いを散歩したり。旧市街を取り囲む壁上の遊歩道は遮る物無く360°のパノラマだ。この町は大きく内戦の被害を受けたわけではなかったが※、旅行者が(恐らく)まだ少ない分、のんびりと時間を過ごすことができた。

 

やっぱり旅はこうでなくては。

いろいろあるから楽しいのだ。そもそも旅行者は好奇心が強い分、移り気だ。過ぎ去ったことはすぐに忘れ、目の前の楽しみに飛びつき、次の訪問地に想いを寄せる。

 

 -----ここは美しい場所だから新婚旅行にぴったりだ、なんて皆言うけど、来ちゃったねー。また来ればいいか-----

なんて話しながら同行者とザグレブ経由でブダペストまで帰った。

(実は2003年に再訪している。結局新婚旅行で来ることは無かったw)

 

※裏山へ登るケーブルカー休止中だったが、内戦の影響は限られたものだった。

 

* 

宿は例のテレザハウス。数日間居なかった間に建物の入口に扉が付いてオートロック仕様となっていたことには驚いた。住人?は2,3人を除いて皆入れ替っていた。こういう宿の場合偶々居合わせたメンバー次第で雰囲気は意外と変わるものである。当然ではあるが楽しかった記憶がいつまでも続くわけではない。先も押し詰まっていたので、名残惜しかったが2泊のみで発った。

 

ブダペスト・ケレティ駅からチェコ行きの列車に乗る。当日は少し早めに行ったはずだったのだが…、一つしかない国際列車の窓口は発券の処理が異常に遅く、長い列ができていた。そして、何と予定の列車を乗り損ねてしまった!! ここが西欧ではないことを忘れていたよ、まったく。でも運が良かった。チェコ方面の特急列車は複数本あり何とか4時間後の列車に乗ることができた。

一人旅が再開したが、残りの日数は僅かしか残っていなかった。急がなければ -----でもこの頃はまだゆっくりと旅をする術を知らなかった。今思えば何か常に急かされていたようにもみえるが、こういう気分で移動し続けること実はそれほど嫌いではない。

ブルノには夕方到着した。

 

 

 

 

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f:id:pelmeni:20171226214154j:plain最近洞窟ツアーに人気があるようだが、ブダペストでは当時既にケービングツアーがあった。

 

 

 

'98ヨーロッパ その5 サラエボ2

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サラエボは周囲を丘陵や山に囲まれ、ミリヤツカ川沿いに市街地は長く展びる。西洋と東洋が微妙に入り混じり、イスラム教、キリスト教ユダヤ教それぞれの特徴が街を形作りアクセントになっている。僕はそもそもがこういった異文化混在の場所が好きであるが、今思えばこの街がきっかけだったのかもしれない。町中にはモスクが点在し多くのミナレットが景観のアクセントになっている。高台に上がり眺めたらそれがよくわかった。美しい光景だと思った。でも騒音がしてきたので振り返るとなんと戦車が2台やってきてすれ違った。オイルの臭いが強い本物の国連軍SFORの戦車だった。夢現な気分でいてもそうやって現実に引き戻される。

旧市街は石畳に瓦屋根の木造建築が並び、こんなに遠く離れた所で、妙に安らぎや懐かしさが感じられる不思議な町並みだと思った※。京都の町家にみられるばったり床机と同じような作りの仕掛けもみられる。趣があってよろしい。

 

※トルコの影響を多分に受けているものだが、バルカン半島では結構共通のようだ。

 

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ここの住人は心底明るい性格のようだ。生活もまだ色々大変なはずなのだが、そのような素振りはあまり感じられなかった。

町中ではふとしたことから始まる会話も多かった。総じて人懐っこく話好きな人が多い印象をもった。例えばカメラを構えて写真を撮ろうとすると、こちらが何も言ってないのに皆ポーズをとりたがる。勝手に笑顔でフレームに入ってくるのだ。

 ---ヘイヘイ!写真取ってよ!

 ---こっち、こっち!

銀行へ行けば話が始まる

 ---ようこそ、ここは現在のサラエボでは唯一の外貨両替のできる銀行なんですよ!ところで……

 

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正直おっかなびっくりでやってきたサラエボで、予想以上の重苦しい現実に混乱したのは事実だ。冬の寒空に耐え切れずカフェに飛び込みトルココーヒーやエスプレッソで暖をとる。その日に眼にした光景だったり人々の温かな笑顔などを思い返しながら暗い気持ちに落込んだり気分が緩んだりと悲喜交々な時間を過ごす。日常から遠く離れたこの地でこんなに感情を揺さぶられる経験をするなんて、まったく思いもよらぬことだった。 

これが旅をするということなのか。

 

隣り合わせになったオッチャンやオバチャンと他愛無い会話が始まる。

 

   ---元の生活に戻るのが一番。以前の様に多くの観光客で賑わうサラエボに早く戻ってほしい。だから今来てくれて嬉しいよ…

そう言ってくれる人もいた。 

復興を願う彼らにとって少しでも役にたったということなのだろうか。それはわからない。僕にはそういった自負も無ければ単なる物見遊山以上のことをしたという認識も無かった。

以前の様な状態に戻ることはそう簡単なことではない。かつてのマルチカルチャーな豊かさが本当に脆い基盤の上に成り立っていたものであることを、帰国後に色々調べた過程で知った。時間の流れを巻き戻すことはできない。彼ら自身が築き始めた新しい社会を僕らは遠くから見守ることしかできない。でもずっと気にかけていたい、とその時思った。

 

 

'98ヨーロッパ その4 サラエボ1

f:id:pelmeni:20171113111059j:plain駅構内に留置されていた客車 当時は旅客運行がまだ再開されていなかった

 

 

かなり昔の事であるから忘れてしまったことも多い。でもこの時この場所を訪れたということは、僕の旅人生の中では、もしかしたら最初にして最大のハイライトだったのかもしれない。この時に受けた重みのようなものを、その後も事有る毎に求めていた気がする。でも色々なものを見てきたが、この時の経験に勝るものはあったのだろうか。何ともいえない。今はそう思えて仕方が無い。

長旅に出るには皆それなりの理由がある。もちろん飽くなき好奇心の追求といったものが根底にあるのだろうが、それだけではなく何か非常に個人的な衝動が人をより長い時間の旅に駆り立てるはずだ。98年のサラエボという硬くて確かなものが僕の内部の奥底深くに沈んでいた。以降の旅の時間は常にそれと共にあった。時々思い出したかのように掬い上げてその存在を確認してはそっと投げ戻すことの繰り返しだった。

 

 *

 

鉄道はまだ再開していなかったので、ザグレブから夜行バスに乗り込んだ。夜も開けきらぬ薄暗闇の中バスターミナルに着く。2月の終わりだからまだ寒かった。大きな交差点の黄色い街灯の下で機関銃を肩に下げた歩哨が警備をしている姿をバスの中から寝ぼけ眼で見て、いきなり緊張したことを昨日の事のように憶えている。

この時存在した安宿は二つ。一つは駅のヤードに放置されている客車のコンパートメントを利用した宿泊施設。もう一つは旧市街にある小さなホテル「ペンション・コナック」。ホリデーイン等の大きなホテルはこの際関係無し。後にサラエボ名物となるイヴァナが現れるのはもう少し後のことだ。

そのコナックという宿には滞在中に自分を含めて計7人もの日本人が出入りすることになり、これにはちょっとした驚きというかあきれてしまった。何処にでも行くんだな、日本人。他には親戚を含め一緒にドイツ迄行く新婚旅行中のイラン人のファミリー。仕事の機会が有るか早くも動き始めた近隣の国に在住の中国人にはさすがと思った。宿では時間による給水制限がまだ残っていた。

 

この地が気になり既に3回も訪れている日本人の学生君に3-4人で街を案内してもらった。中心部の繁華街は壊された建物の修復も進み地元の人で普通に賑わっているようにもみえた。しかし否が応でも内戦の傷跡は眼に入ってくる。高層の建物は標的にされ易かったのか損傷が大きかった。新市街は被害が激しく剥き出しのままの所が多かった。冬季オリンピックも開催され観光客で賑わうかつての姿は… 見掛ける外国人は皆軍服を纏った国連軍の兵士だ。

 

f:id:pelmeni:20171128190404j:plain朝のバシュチャルシヤ(旧市街)

f:id:pelmeni:20171129024622j:plain焼け落ちたゼトラ・オリンピックホールと周囲に拡がる墓地 奥のスタジアムには確かイタリア軍が駐留していた

f:id:pelmeni:20171129024636j:plain街の外に拡がる墓地

f:id:pelmeni:20171129024702j:plain街中で命を落とした多くの人の遺体は公園の土の下に埋めるしかなかった。墓石代わりの石がたくさん散らばっていた。そのすぐ横を人々は通り過ぎる。

 

f:id:pelmeni:20171129024717j:plain攻撃されたオスロボジェニェ新聞社屋がそのまま残されていた

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f:id:pelmeni:20171129040419j:plain足下にはグレネードの着弾跡

 

新市街へ歩いてゆく 

こちらの方が戦闘は激しかったそうだ

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f:id:pelmeni:20171205065516j:plainおびただしい銃弾の跡f:id:pelmeni:20171205065530j:plain

崩れ落ちた壁面

 

---何が起きたのか自分の眼にしっかりと焼き付けておこう

ただそれだけを思いながらサラエボの街を歩いていた気がする。でも考えることがあまりに多すぎた。初めのうちは興味深々といった感じだったが、気が付けば無言になっていた。一緒に歩いていた学生君がいろいろと教えてくれたり説明してくれたりした内容について、何か感想を言いたかったのだが言葉が出て来ない。自分の内部で渦巻く言葉にならない感情を整理するだけで精一杯だった。感情のキャパを超えていたのだろう。そんな経験は初めてのことだった※。

 

 

※その後戦場跡や民族浄化された町など酷いところを訪れたが、これが最初の体験でした。今でこそ大したことでは驚かないけど、最初は何事にもウブなんです。なんか死を感じる暗い写真ばかりですが、それを見ていたということです。更にいえばその場で感じた空気は写真には写っていません…多分。

 

 

 

'98ヨーロッパ その3 

f:id:pelmeni:20171110190932j:plain建物の中庭に設けられた小さな市場

 

 

とか何とかいろいろ書いたが、この街、宿にやってきた理由は以下の2つだった。

 1)国際学生証

ヨーロッパでは学生は優遇されていて、あらゆる場所で料金の割引が受けられる。外国人がその恩恵を受けるための唯一そして絶大なるものが国際学生証だ。大げさな言い方ではなく、小額の割引きも積もり積もれば長旅においてはかなりの金額になるはずである。

宿泊者に教えてもらったとおり近くの鉄道駅(東駅/ケレティ・プー)構内にある旅行会社へ行き、簡単な手続きで入手した。これ以降も数回国際学生証を入手したが、カード自体はバンコクのカオサンで冗談半分で購入したもの以外は本物だ。既に学生は卒業していたため入手方法が違法だっただけである(笑、学生時代は正規につくりました)。

 2)情報ノート

この頃既に『地球の歩き方』はバックパッカーに限らず自分でいろいろ決めて旅行するスタイルには必ずしも合致しない内容のガイドブックだった※。ロンプラやラフガイドといった英語のガイドブックを携帯する人も多かったが、何だかんだいって現地では生の情報というものが一番役に立つのだ。律儀な日本人は情報をノート記して共有する習慣がいつの間にかできたようだ。異国での小さな助け合いといった感覚だろうか。

内容はあまり知られていない有益な情報や予め知っておいたほうが良い事項、旅のTipがメインなのだが、もちろんそれだけではなく、暇つぶしにちょうど良い話や、どうしようもなくくだらない内容、単なる伝言、旅に関係有ること無いこと何でも有りのごった煮状態。それがまた良いのだ。日本を離れながらも現在何処に居るとも判らない多くの旅行者と幾許か繋がっているという感覚は、個人的には心強く思えた。

 

 

ブダペストはヨーロッパのほぼ中心にあるからして、北から南から西から東から、あらゆる方向から集まり、あらゆる方角へと旅立っていく。人だけでなく情報も集まりやすい場所なのだ。僕が滞在したこの時もシベリア鉄道経由で東欧まで来た人や英国の語学留学帰り、ヨーロッパぐるぐるとか様々な人が集まっていた。ここで同行を募ってルーマニアやバルカン方面へ出発する人も多かった。

当時の最大のトピックは、サラエボだったかな。ノートにある情報のページはよく持ち出されてコピーされていたし、サラエボ経由で辿り着いた学生君には皆いろいろと尋ねていた。日本にいる限りではサラエボの現状を知ることは殆どない。しかし中欧まで来ればもう眼と鼻の先。行ってみようという気分になる人は多かったと思う※。欧米人は日常的に内戦の情報に接していたであろうから、そう簡単に行く気にはなれないのは想像に難くない。日本人はよく知らないおかげで純粋に好奇心のみで動いていた。

そんなこと予定に入ってない。主だった場所の観光を終えた後はチャイナマーケット辺りでだらだら過ごし、既に予定をオーバーしている。でも結局、サラエボには行こう、この先のチェコ方面は大幅に変更するしかないという気になっていた。

 -----ぜひ行くべきです。危険じゃありませんから。今見るべきですよ!

当事者の話ほどリアルで説得力のあるものはない。

 

当初の予定通り終えていたら、単なる普通の旅行だったと思う。この時の移り気が、結果的には、予定も期限も無きに等しい長旅という世界に飛び込む引鉄になった。ちょっとした偶然で、旅の素晴らしさも知ることなく違った人生を送ることになった可能性もある。

 

 

 

※ 観光地の紹介は詳しいが、アクセスや移動、宿の情報といった実用的な内容に乏しかった。そういうことを重要視しない編集方針に変わりつつあったのは、創刊当初の個人旅行者からツアーを含めた幅広い旅行者へと購買者の対象範囲を拡げたからだろう。雑誌旅行人がバックパッカー御用達の情報源と代わっていたが、ガイドブックである旅行人ノートが発売されるのはこの少し後のこと。

※当時のボスニアヘルツェゴビナには95年の内戦終結後SFORが展開していた。でも実際何がどうなっているかを尋ねても誰もあまりよく知らなかった。ノートに記された幾人かの旅行者の話だけだった。

 

 

(写真)

そのまま持って帰った情報ノートのコピー

 

 

 

'98ヨーロッパ その2 ブダペスト

 

ミラノから夜行列車に乗りウィーンへ向かった。ヨーロッパで夜行はたいていクシェットを利用した。学生の頃は4日連続列車で夜を過ごしたこともある。この時の切符は下段、上段はブラジルから旅行に来た女の子だった。何か少し話して南駅で別れた記憶がある。航空券がウィーンアウトだったため、この日は立ち寄らずミッテ駅横にあるバスターミナルに直行してブダペスト行きのバスに乗った。たった3時間である。気が付けばバスは広いドナウ河を渡るところで、程なくして街のど真ん中にあるバスターミナルに着いた。現在のネプリゲットターミナルはまだなく、デアーク広場横に窮屈に混み合う長距離バスターミナルがあった。

 

f:id:pelmeni:20171025213725j:plainブダ側から国会議事堂を望む

 

 1

 

民主化の始まった旧東欧諸国では、他所からの旅行者も以前より往き来が容易になりました。 しかし、西側諸国と違いそれまでがそれまでだったせいか、気軽に泊まることのできる安宿など観光地ですらあまり多くありません。
ただ自宅の空き部屋を手頃な金額で旅行者に貸すことは「プライベート・ルーム」と呼ばれ昔から行われており、 その後東欧を安く旅できるようになったバジェットトラベラーにも利用されています。 宿主自ら駅やバスターミナルに客引きに行ったり、または町の観光事務所に登録といった具合に地域によりそのあり方は様々です。

ブダペストに日本人の個人旅行者が集まり始めたのは、地理的条件が良く(中欧の真ん中、ウィーンから3時間)、 元々先進的な文化を持っていた都会のため一通りのモノがそろっており、そんなところにもかかわらず当初は物価が非常に安かったため、 そこそこ快適に過ごすことができる居心地の良い場所だったせいと思われます。

 

おっと、それ、違いましたね、すみません。


おそらく最大にして唯一の要因は、一人の女性が上記プライベート・ルームを開いていたことでしょう。 彼女の名前をとって ”テレザハウス” と呼ばれたこの宿に何時頃から日本人が泊まり始めたか等、昔のことは知りませんが、 かなり多くの旅行者がこのブダペスト版「民宿」 を利用してきました。 ネットの世界にも、かつてここに宿泊した元旅人が大勢いらっしゃるようです。

二室ある部屋にベットが10台くらい置かれ、そこでは合宿のような生活が各人好き勝手に行われていました。 いわゆる「ドミ」(ドミトリー)です。当初はヨーロッパ唯一の日本人宿として、バックパッカーから学生、短期旅行者、 放浪カメラマン、 怪しい職業の人等々さまざまな旅人(一応そういっておく)がここを通り過ぎていきました。

今のように何処にいてもPCやスマホで情報が得られる時代ではありません。 特にメディアに載ることもなく、旅行者間の口伝えや情報ノートだけでその所在が広まっていった訳です。 西から東からこの東欧の薄汚れた都会にやってきて恐る恐るたどりついた宿は、、、エキセントリックな女主人テレザのもとに、 ここだけエアーポケットの如く日本が時空を越えてふわっと現われたかのような、不思議な場所でした。
旅人にとっては孤独感なんて慣れたものですが、それでも実は心身共に堪えている時もあります。 しばらくの間日本語を話すこと無く旅を続けていた人もいます。この生暖いパラレルワールドに流れ着き、 意識的にも無意識のうちにも 「沈没」してしまうのでしょう。

 

 

f:id:pelmeni:20171025220338j:plain3階向かって右側に「民宿」の看板あり

f:id:pelmeni:20171026000224j:plainテレザとはこの人

 



宿泊者のほとんどを常に占めている日本人のことをテレザがどうみていたのか、僕にとってはいまだに謎です。 親愛の情を示す時も(稀に)あれば、 小馬鹿にしているような態度をとる時も(結構)あったと記憶しています。

・騒いでいるとよく「…ジャパニーズ … 、ピーピーピーピー …」なんて馬鹿にするような口ぶりで部屋に入って きましたが、 本当にたしなめられていたのか半ばからかわれていたのかは不明です。多分その両方でしょう。
・午後1時~5時頃までは掃除のため部屋から締め出されます。 結局外へは行かずに玄関ポーチのテーブルで話しの続きを始めたりするのですが「ブダペスト、ルックルック!」 なんて言葉とともに追い出されます。まあ、言わんとしていることは解るのですがねえ、 できないもんはできないんですよ。 
・たまにつくってくれるグヤーシュの味に何故あれほど喜んだりしたのかも謎です。 多分催眠術でもかけられていたのだろうと思いたい。
・そして散らかしたモノは「フィニーシュッ」と叫びながら勝手に捨てられてしまうことも度々ありました。 非常に迷惑と思いました。

ああ、いろいろ思い出してきた!(笑)

僕は彼女に対して基本的にはドライな印象を持っています。直接話をする機会が多くなかったことは、 今となっては少々悔やまれます。 まあ話が通じたらのことですけどね。 この点は5年後にだらだら滞在することになる別のプライベート・ルーム※とは印象が少し違います。

 

※ヘレナハウスとかマリアハウスとか… わかる人にしかわからない名前ですね

 

 

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玄関ポーチ横より、昼なお薄暗い中庭を見下ろす。
新たな旅行者の姿を見掛けると手を振って招いたものです。

 

 



僕がテレザハウスに漂り着いたのは ’98年2月のことでした。 今思えばその後の人生に影響を与える滞在になったわけですが、当時はそんなこと知る由もありません。

ここで出会った人達といえば、番頭さんと呼ばれる長々々期滞在者とか、もう4年もの間日本に帰っていないとか、 この街に3週間のつもりが既に3ヶ月とか、ブダペストでつくった愛人を日本に連れて帰ろうと画策している貿易商氏とか、 ちょっと買い物に行くといい実は女を買っていた自称19歳医大生とか、床に寝袋で寝ている(その方が宿泊費が安い) 既に半年滞在の香港人とか…
いやはや、何が何だかわからないまま彼等とともにディープな時間を過ごしたわけです。そして受けた印象も強いものでした。僕が心を奪われた人たちは、日本での日常的な常識から外れたところに存在していましたが、 彼らと接していると、そのキャラクターはさておき、長きに渡り旅の空の下で眠るということが 目眩するほど魅力的に思えて仕方なかったのです。
同じ体験をすべく時期を改めて長期旅行に出かけることを直ぐに決めました。

ただ、海外旅行なんて長くて1~2ヶ月だと常識的に思っていた人間は、 こんな世界など知らない方が良かったのかもしれないと思うこともあります。
僕はそれほど堅実な人生を歩むことを指向していたわけでもないのですが、結果的にこの後自分の進んだ方向がそれまで 考えていたものとズレていったのは確かです。 というのも、しばらくの間、旅というものが自分の中で大きな割合を占め過ぎ、 色々なことを中途半端のまま無為に過ごしてしまった。 得られたものが多かった半面、得られなかったものもまた多かったというのが今となってはの実感です。 それで良いのか自問することも時々ありました。まあ人生なんてそんなものではありますが。

たまに思うのですが、彼の時点でテレザハウスに行くことがなければ…  それでも遅かれ早かれ何らかの形をとり旅の空の下に飛び出ることになったでしょう。仮定について今更考えてもしようがない。結局はこうなる運命にあったのだと思います。

あの薄暗い玄関ポーチや当時の汚れた裏通りの光景を思い出すたびに、 懐かしいんだか寂しいんだか重苦しいんだか等色々と綯い交ぜになった感情が呼び起こされ、 正直なところ、何ともいえない気持ちになります。

でも、今となってはやっぱり「懐かしい」以外に適切な言葉は思いつきません。僕自身歳をとりました。あれから更に幾らかの時間を生きて多くの出来事を経験し、おかげでもう遠い過去の一頁に過ぎないのですが、それでも自分としては忘れることのできない一頁です。

 

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夜はこんな感じで、適当な時間が来たら消灯だけどメンバー次第…
長野オリンピックのジャンプもこのベッドに寝転び眺めていた

f:id:pelmeni:20171025215540j:plain夕方のブラハルイザ広場前交差点

 

<以下、余談です>

翌年予定通り半年かけてアジア横断旅行をしましたが、 これは普通に有意義に楽しむことのできた旅でした。
その後は気持ちが旅から離れ、自分の生活を建て直すことに腐心していました。一時的に普通の日常に満足し、 ごく普通の人生を送ろうとしていたようです。 (でも普通の人生ってナンだろう。正直いまだにわかりません。)
ところで空手には「3年殺し」という技があるそうです。文字通り3年経った頃に技が効いて死に至るというものです。 僕の場合は5年経って間違いなく技が効いて来ていることを実感しました。当然の結果です。
急にいてもたってもいられなくなり、有り金かきあつめて旅立ちました。
まあ悩み多き年頃で(いつでもそうみたいだけど)理由は色々あったのですが、この時の冬のヨーロッパ、 特にブダペストに戻ってみたいという後ろ向きな気持ちを持っていた事は、否定しません。 日常生活とは何のしがらみもなく完全に自由で、 そして居心地の良い疑似共同体のような時間と空間がそこに在ったと記憶していました。
もちろん、今回は急ぐつもりはなく、また上記再訪だけが目的でもなく、 使うことのできる時間目一杯で種々雑多なものをひたすら見て廻ろうと野心に燃えた旅立ち (……かなり誇張)は、 2003年4月のことでした。

ただ残念なことに、テレザは既にがんで亡くなっていました。

'98ヨーロッパ その1 ミラノへ

これもまた昔の旅の記録のようなものです

 

■旅行期間:1998年2-3月

■旅行箇所:ミラノ、コモ、ブダペスト、ケチュケメート、サラエボドブロブニク、ブルノ、テルチチェスキークルムロフ、ウィーン、

 

■背景:ちょうど2年近く勤めていた建築設計事務所を辞めたところだった。この業界でよくあることだが、毎日定時が終電で家には寝に帰るだけ、時にはそれすらも面倒に思える程。最後には体調を崩し、仕事の切れ目でようやく逃げ出した(弾き出された)。でも仕事の内容は面白かった。体力的にはキツかったが知的好奇心は満たされていた。今振り返れば必ずしも悪い思い出ばかりではないが、さすがに若くなければ務まらない働き方だったと思う。

通勤を止めてしばらくの間は毎日寝ていた。体が動かない。自分で考えていた以上に体に負荷が掛かっていたのだ。そして2週間くらいたったある朝、ようやく気持ち良く目覚めることができた。そのときふと思った。

 -----どこか旅に出たい

無意識の内に体が要求したようだ。でもそれは漠然とした感情であって、具体的に行きたい場所はすぐには思い浮かばなかったが、とりあえず近くのHISへ行きヨーロッパ1ヶ月往復航空券を予約した。

そうなのだ。その頃はまだ長期旅行をするという概念が自分の中になかった。行き先を選び資料と持ち物を掻き集めて2週間も経たずに飛び立った。思えばこれがその後の人生に大きな影響を与える旅立ちだった。

 

■イタリア

ヨーロッパは3回目だがその何れもにちょこっと寄っている国がイタリアだった。やはり好きだったのだと思う。地中海沿いの国は食べ物が美味しいのがアドバンテージだ。何も高級なものに限らない。定食屋でも買い食いでも何食べても美味しいと思える。そのうえかなり割安に感じた物価など、一人当たりのGDPがほとんど変わらなくなってしまった現在とは金銭感覚は少し違っていた。

 

■コモ

まだどっぷりとデザインの世界に浸かっていた時分、イタリアはデザインの国であり、ジュゼッペ・テラーニという建築家に当時少し興味があった。ミラノを中心に活動していたので見学するにはちょうど良かった。モダニズムの中心はフランス、ドイツといったところであり、その影響範囲の周縁にあったイタリア、ロシアという地域には純粋なイデオロギーの範疇のみに収まらない魅力ある建築家が作品を作っていた。

 

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f:id:pelmeni:20171024155112j:plain(カーザ・デル・ファッショ、サンテリア幼稚園、ヴィラ・ビアンカ

 

ミラノと日帰りで行けるコモという街に残る彼の作品を見学に出かけた。

モダニズムの建築言語に、イタリアに連綿と続くクラシカルな規則と感覚、造形の幾何学的操作が絶妙に組み合わされ、多方面からの読み方が可能な奥深さが、まだ頭を使うことを厭わない若さを保っていた自分の嗜好に合っていた。当時はね。

 

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f:id:pelmeni:20171024185733j:plainミラノ市内の集合住宅 ジュリアーニ・フリジェーリオ、ルスティチ)

 

この時はあまりミラノの観光をしなかったのか、記憶が少ない。ドゥオモと路面電車と建築見学の間の街歩きくらいかな。そうだ思い出した。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会へ最後の晩餐を観に行ったら修復中で、見学不可の小さな貼紙にひどくがっかりしたのを憶えている。たまたま居合わせたアメリカ人が信じられないくらいFU*Kを連発していておかしかった。当時は見学に予約の必要は無かったと思う。

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今となっては懐かしい以外の何物でもありません。色々なことを、結構憶えているものです。