もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。

'98ヨーロッパ その3 

f:id:pelmeni:20171110190932j:plain建物の中庭に設けられた小さな市場

 

 

とか何とかいろいろ書いたが、この街、宿にやってきた理由は以下の2つだった。

 1)国際学生証

ヨーロッパでは学生は優遇されていて、あらゆる場所で料金の割引が受けられる。外国人がその恩恵を受けるための唯一そして絶大なるものが国際学生証だ。大げさな言い方ではなく、小額の割引きも積もり積もれば長旅においてはかなりの金額になるはずである。

宿泊者に教えてもらったとおり近くの鉄道駅(東駅/ケレティ・プー)構内にある旅行会社へ行き、簡単な手続きで入手した。これ以降も数回国際学生証を入手したが、カード自体はバンコクのカオサンで冗談半分で購入したもの以外は本物だ。既に学生は卒業していたため入手方法が違法だっただけである(笑、学生時代は正規につくりました)。

 2)情報ノート

この頃既に『地球の歩き方』はバックパッカーに限らず自分でいろいろ決めて旅行するスタイルには必ずしも合致しない内容のガイドブックだった※。ロンプラやラフガイドといった英語のガイドブックを携帯する人も多かったが、何だかんだいって現地では生の情報というものが一番役に立つのだ。律儀な日本人は情報をノート記して共有する習慣がいつの間にかできたようだ。異国での小さな助け合いといった感覚だろうか。

内容はあまり知られていない有益な情報や予め知っておいたほうが良い事項、旅のTipがメインなのだが、もちろんそれだけではなく、暇つぶしにちょうど良い話や、どうしようもなくくだらない内容、単なる伝言、旅に関係有ること無いこと何でも有りのごった煮状態。それがまた良いのだ。日本を離れながらも現在何処に居るとも判らない多くの旅行者と幾許か繋がっているという感覚は、個人的には心強く思えた。

 

 

ブダペストはヨーロッパのほぼ中心にあるからして、北から南から西から東から、あらゆる方向から集まり、あらゆる方角へと旅立っていく。人だけでなく情報も集まりやすい場所なのだ。僕が滞在したこの時もシベリア鉄道経由で東欧まで来た人や英国の語学留学帰り、ヨーロッパぐるぐるとか様々な人が集まっていた。ここで同行を募ってルーマニアやバルカン方面へ出発する人も多かった。

当時の最大のトピックは、サラエボだったかな。ノートにある情報のページはよく持ち出されてコピーされていたし、サラエボ経由で辿り着いた学生君には皆いろいろと尋ねていた。日本にいる限りではサラエボの現状を知ることは殆どない。しかし中欧まで来ればもう眼と鼻の先。行ってみようという気分になる人は多かったと思う※。欧米人は日常的に内戦の情報に接していたであろうから、そう簡単に行く気にはなれないのは想像に難くない。日本人はよく知らないおかげで純粋に好奇心のみで動いていた。

そんなこと予定に入ってない。主だった場所の観光を終えた後はチャイナマーケット辺りでだらだら過ごし、既に予定をオーバーしている。でも結局、サラエボには行こう、この先のチェコ方面は大幅に変更するしかないという気になっていた。

 -----ぜひ行くべきです。危険じゃありませんから。今見るべきですよ!

当事者の話ほどリアルで説得力のあるものはない。

 

当初の予定通り終えていたら、単なる普通の旅行だったと思う。この時の移り気が、結果的には、予定も期限も無きに等しい長旅という世界に飛び込む引鉄になった。ちょっとした偶然で、旅の素晴らしさも知ることなく違った人生を送ることになった可能性もある。

 

 

 

※ 観光地の紹介は詳しいが、アクセスや移動、宿の情報といった実用的な内容に乏しかった。そういうことを重要視しない編集方針に変わりつつあったのは、創刊当初の個人旅行者からツアーを含めた幅広い旅行者へと購買者の対象範囲を拡げたからだろう。雑誌旅行人がバックパッカー御用達の情報源と代わっていたが、ガイドブックである旅行人ノートが発売されるのはこの少し後のこと。

※当時のボスニアヘルツェゴビナには95年の内戦終結後SFORが展開していた。でも実際何がどうなっているかを尋ねても誰もあまりよく知らなかった。ノートに記された幾人かの旅行者の話だけだった。

 

 

(写真)

そのまま持って帰った情報ノートのコピー

 

 

 

'98ヨーロッパ その2 ブダペスト

 

ミラノから夜行列車に乗りウィーンへ向かった。ヨーロッパで夜行はたいていクシェットを利用した。学生の頃は4日連続列車で夜を過ごしたこともある。この時の切符は下段、上段はブラジルから旅行に来た女の子だった。何か少し話して南駅で別れた記憶がある。航空券がウィーンアウトだったため、この日は立ち寄らずミッテ駅横にあるバスターミナルに直行してブダペスト行きのバスに乗った。たった3時間である。気が付けばバスは広いドナウ河を渡るところで、程なくして街のど真ん中にあるバスターミナルに着いた。現在のネプリゲットターミナルはまだなく、デアーク広場横に窮屈に混み合う長距離バスターミナルがあった。

 

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 1

 

民主化の始まった旧東欧諸国では、他所からの旅行者も以前より往き来が容易になりました。 しかし、西側諸国と違いそれまでがそれまでだったせいか、気軽に泊まることのできる安宿など観光地ですらあまり多くありません。
ただ自宅の空き部屋を手頃な金額で旅行者に貸すことは「プライベート・ルーム」と呼ばれ昔から行われており、 その後東欧を安く旅できるようになったバジェットトラベラーにも利用されています。 宿主自ら駅やバスターミナルに客引きに行ったり、または町の観光事務所に登録といった具合に地域によりそのあり方は様々です。

ブダペストに日本人の個人旅行者が集まり始めたのは、地理的条件が良く(中欧の真ん中、ウィーンから3時間)、 元々先進的な文化を持っていた都会のため一通りのモノがそろっており、そんなところにもかかわらず当初は物価が非常に安かったため、 そこそこ快適に過ごすことができる居心地の良い場所だったせいと思われます。

 

おっと、それ、違いましたね、すみません。


おそらく最大にして唯一の要因は、一人の女性が上記プライベート・ルームを開いていたことでしょう。 彼女の名前をとって ”テレザハウス” と呼ばれたこの宿に何時頃から日本人が泊まり始めたか等、昔のことは知りませんが、 かなり多くの旅行者がこのブダペスト版「民宿」 を利用してきました。 ネットの世界にも、かつてここに宿泊した元旅人が大勢いらっしゃるようです。

二室ある部屋にベットが10台くらい置かれ、そこでは合宿のような生活が各人好き勝手に行われていました。 いわゆる「ドミ」(ドミトリー)です。当初はヨーロッパ唯一の日本人宿として、バックパッカーから学生、短期旅行者、 放浪カメラマン、 怪しい職業の人等々さまざまな旅人(一応そういっておく)がここを通り過ぎていきました。

今のように何処にいてもPCやスマホで情報が得られる時代ではありません。 特にメディアに載ることもなく、旅行者間の口伝えや情報ノートだけでその所在が広まっていった訳です。 西から東からこの東欧の薄汚れた都会にやってきて恐る恐るたどりついた宿は、、、エキセントリックな女主人テレザのもとに、 ここだけエアーポケットの如く日本が時空を越えてふわっと現われたかのような、不思議な場所でした。
旅人にとっては孤独感なんて慣れたものですが、それでも実は心身共に堪えている時もあります。 しばらくの間日本語を話すこと無く旅を続けていた人もいます。この生暖いパラレルワールドに流れ着き、 意識的にも無意識のうちにも 「沈没」してしまうのでしょう。

 

 

f:id:pelmeni:20171025220338j:plain3階向かって右側に「民宿」の看板あり

f:id:pelmeni:20171026000224j:plainテレザとはこの人

 



宿泊者のほとんどを常に占めている日本人のことをテレザがどうみていたのか、僕にとってはいまだに謎です。 親愛の情を示す時も(稀に)あれば、 小馬鹿にしているような態度をとる時も(結構)あったと記憶しています。

・騒いでいるとよく「…ジャパニーズ … 、ピーピーピーピー …」なんて馬鹿にするような口ぶりで部屋に入って きましたが、 本当にたしなめられていたのか半ばからかわれていたのかは不明です。多分その両方でしょう。
・午後1時~5時頃までは掃除のため部屋から締め出されます。 結局外へは行かずに玄関ポーチのテーブルで話しの続きを始めたりするのですが「ブダペスト、ルックルック!」 なんて言葉とともに追い出されます。まあ、言わんとしていることは解るのですがねえ、 できないもんはできないんですよ。 
・たまにつくってくれるグヤーシュの味に何故あれほど喜んだりしたのかも謎です。 多分催眠術でもかけられていたのだろうと思いたい。
・そして散らかしたモノは「フィニーシュッ」と叫びながら勝手に捨てられてしまうことも度々ありました。 非常に迷惑と思いました。

ああ、いろいろ思い出してきた!(笑)

僕は彼女に対して基本的にはドライな印象を持っています。直接話をする機会が多くなかったことは、 今となっては少々悔やまれます。 まあ話が通じたらのことですけどね。 この点は5年後にだらだら滞在することになる別のプライベート・ルーム※とは印象が少し違います。

 

※ヘレナハウスとかマリアハウスとか… わかる人にしかわからない名前ですね

 

 

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玄関ポーチ横より、昼なお薄暗い中庭を見下ろす。
新たな旅行者の姿を見掛けると手を振って招いたものです。

 

 



僕がテレザハウスに漂り着いたのは ’98年2月のことでした。 今思えばその後の人生に影響を与える滞在になったわけですが、当時はそんなこと知る由もありません。

ここで出会った人達といえば、番頭さんと呼ばれる長々々期滞在者とか、もう4年もの間日本に帰っていないとか、 この街に3週間のつもりが既に3ヶ月とか、ブダペストでつくった愛人を日本に連れて帰ろうと画策している貿易商氏とか、 ちょっと買い物に行くといい実は女を買っていた自称19歳大学生とか、床に寝袋で寝ている(その方が宿泊費が安い) 既に半年滞在の香港人とか…
いやはや、何が何だかわからないまま彼等とともにディープな時間を過ごしたわけです。そして受けた印象も強いものでした。僕が心を奪われた人たちは、日本での日常的な常識から外れたところに存在していましたが、 彼らと接していると、そのキャラクターはさておき、長きに渡り旅の空の下で眠るということが 目眩するほど魅力的に思えて仕方なかったのです。
同じ体験をすべく時期を改めて長期旅行に出かけることを直ぐに決めました。

ただ、海外旅行なんて長くて1~2ヶ月だと常識的に思っていた人間は、 こんな世界など知らない方が良かったのかもしれないと思うこともあります。
僕はそれほど堅実な人生を歩むことを指向していたわけでもないのですが、結果的にこの後自分の進んだ方向がそれまで 考えていたものとズレていったのは確かです。 というのも、しばらくの間、旅というものが自分の中で大きな割合を占め過ぎ、 色々なことを中途半端のまま無為に過ごしてしまった。 得られたものが多かった半面、得られなかったものもまた多かったというのが今となってはの実感です。 それで良いのか自問することも時々ありました。まあ人生なんてそんなものではありますが。

たまに思うのですが、彼の時点でテレザハウスに行くことがなければ…  それでも遅かれ早かれ何らかの形をとり旅の空の下に飛び出ることになったでしょう。仮定について今更考えてもしようがない。結局はこうなる運命にあったのだと思います。

あの薄暗い玄関ポーチや当時の汚れた裏通りの光景を思い出すたびに、 懐かしいんだか寂しいんだか重苦しいんだか等色々と綯い交ぜになった感情が呼び起こされ、 正直なところ、何ともいえない気持ちになります。

でも、今となってはやっぱり「懐かしい」以外に適切な言葉は思いつきません。僕自身歳をとりました。あれから更に幾らかの時間を生きて多くの出来事を経験し、おかげでもう遠い過去の一頁に過ぎないのですが、それでも自分としては忘れることのできない一頁です。

 

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夜はこんな感じで、適当な時間が来たら消灯だけどメンバー次第…
長野オリンピックのジャンプもこのベッドに寝転び眺めていた

f:id:pelmeni:20171025215540j:plain夕方のブラハルイザ広場

 

<以下、余談です>

翌年予定通り半年かけてアジア横断旅行をしましたが、 これは普通に有意義に楽しむことのできた旅でした。
その後は気持ちが旅から離れ、自分の生活を建て直すことに腐心していました。一時的に普通の日常に満足し、 ごく普通の人生を送ろうとしていたようです。 (でも普通の人生ってナンだろう。正直いまだにわかりません。)
ところで空手には「3年殺し」という技があるそうです。文字通り3年経った頃に技が効いて死に至るというものです。 僕の場合は5年経って間違いなく技が効いて来ていることを実感しました。当然の結果です。
急にいてもたってもいられなくなり、有り金かきあつめて旅立ちました。
まあ悩み多き年頃で(いつでもそうみたいだけど)理由は色々あったのですが、この時の冬のヨーロッパ、 特にブダペストに戻ってみたいという後ろ向きな気持ちを持っていた事は、否定しません。 日常生活とは何のしがらみもなく完全に自由で、 そして居心地の良い疑似共同体のような時間と空間がそこに在ったと記憶していました。
もちろん、今回は急ぐつもりはなく、また上記再訪だけが目的でもなく、 使うことのできる時間目一杯で種々雑多なものをひたすら見て廻ろうと野心に燃えた旅立ち (……かなり誇張)は、 2003年4月のことでした。

ただ残念なことに、テレザは既にがんで亡くなっていました。

'98ヨーロッパ その1 ミラノへ

これもまた昔の旅の記録のようなものです

 

■旅行期間:1998年2-3月

■旅行箇所:ミラノ、コモ、ブダペスト、ケチュケメート、サラエボドブロブニク、ブルノ、テルチチェスキークルムロフ、ウィーン、

 

■背景:ちょうど2年近く勤めていた建築設計事務所を辞めたところだった。この業界でよくあることだが、毎日定時が終電で家には寝に帰るだけ、時にはそれすらも面倒に思える程だった。最後には体調を崩し、仕事の切れ目でようやく逃げ出した(弾き出された)ようなものだった。でも仕事の内容は面白かった。体力的にはキツかったが知的好奇心は満たされていた。今振り返れば必ずしも悪い思い出ばかりではないが、さすがに若くなければ務まらない働き方だったと思う。

通勤を止めてしばらくの間は毎日寝ていた。体が動かない。自分で考えていた以上に体に負荷が掛かっていたのだ。そして2週間くらいたったある朝、ようやく気持ち良く目覚めることができた。そのときふと思った。

 -----どこか旅に出たい

無意識の内に体が要求したようだ。でもそれは漠然とした感情であって、具体的に行きたい場所はすぐには思い浮かばなかったが、とりあえず近くのHISへ行きヨーロッパ1ヶ月往復航空券を予約した。

そうなのだ。その頃はまだ長期旅行をするという概念が自分の中になかった。行き先を選び資料と持ち物を掻き集めて2週間も経たずに飛び立った。思えばこれがその後の人生に大きな影響を与える旅立ちだった。

 

■イタリア

ヨーロッパは3回目だがその何れもにちょこっと寄っている国がイタリアだった。やはり好きだったのだと思う。地中海沿いの国は食べ物が美味しいのがアドバンテージだ。何も高級なものに限らない。定食屋でも買い食いでも何食べても美味しいと思える。そのうえかなり割安に感じた物価など、一人当たりのGDPがほとんど変わらなくなってしまった現在とは金銭感覚は少し違っていた。

 

■コモ

まだどっぷりとデザインの世界に浸かっていた時分、イタリアはデザインの国であり、ジュゼッペ・テラーニという建築家に当時少し興味があった。ミラノを中心に活動していたので見学するにはちょうど良かった。モダニズムの中心はフランス、スペインといったところであり、その影響範囲の周縁にあったイタリア、ロシアという地域には純粋なイデオロギーの範疇のみに収まらない魅力ある建築家が作品を作っていた。

 

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ミラノと日帰りで行けるコモという街に残る彼の作品を見学に出かけた。

モダニズムの建築言語に、イタリアに連綿と続くクラシカルな規則と感覚、造形の幾何学的操作が絶妙に組み合わされ、多方面からの読み方が可能な奥深さが、まだ頭を使うことを厭わない若さを保っていた自分の嗜好に合っていた。当時はね。

 

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この時はあまりミラノの観光をしなかったのか、記憶が少ない。ドゥオモと路面電車と建築見学の間の街歩きくらいかな。そうだ思い出した。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会へ最後の晩餐を観に行ったら修復中で、見学不可の小さな貼紙にひどくがっかりしたのを憶えている。たまたま居合わせたアメリカ人が信じられないくらいFU*Kを連発していておかしかった。当時は見学に予約の必要は無かったと思う。

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今となっては懐かしい以外の何物でもありません。色々なことを、結構憶えているものです。

 

'99アジア その15 日記帳

 

長旅では必ず日記帳をつけている。いつの頃からか、旅先で起きたことは須らく忘れたくないと思う様になっていた。

 

この時は最初の長旅で、今みると本当に力が入っていたのが良くわかる。

ボールペンで、日常の細々とした記述と共に、可能な限りその日の収支も記入していた。これが後になって当時の事を思い出す際に結構役に立つのだ。一時期面倒になり止めた期間があったが、うまく思い出せない事があったりするのは面白くないので、次の旅から復活させた。

購入物の名前と金額のみで、忘却の彼方に葬られていた記憶が呼び起こされる。不思議だが実際そんなことが起こるのだ。

 

絵の具でイラストを彩色したのなんて、この時だけ。その後絵の具は使わなくなった。デジカメを携帯するようになり、メモの為に絵を描くことも無くなった。日常生活でも手を動かして何かを描くことがなくなったせいもあるだろう。まあ仕事もすべてコンピュータに変わっちまったからねえ。

 

 

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表紙にはバスチケット等を貼り付けた わざわざ郵便局に赴いて切手も買ってたんだな〜 

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これはアーグラーの頁

 

各種チケット類、領収書、そうそうホテルカードなんてものも小まめに取っておいて良かったと思える類のものだ。

 

 

 

'99アジア その14 トルコ

トルコ

(イラン)ギュルブラック国境→ドウバヤジッド→ギョレメ/カッパドキアイスタンブル→(アムステルダム経由)帰国

 

 

予定では最後の訪問国、トルコ。終わりに近づくと急いでしまうのはこの頃からの癖だったようで、一気に横断してしまった感がある。イスタンブールカッパドキアには訪れたが、今思えば他にも行くところはたくさんあっただろう!ということだ。(結局2005年に再訪し1ヶ月かけて回ることになった)

 

トルコの最初の印象は長距離バスだった。

イランのラシュトから夜行バスに乗り早朝タブリーズに到着後、すぐに国境まで移動した。イランからの入国者が多かったため通過には少し時間がかかったが日本人なら問題なし。入国後ミニバンで近くの町ドウバヤジッドへ。小さな町だしとりあえずバスターミナルへ行き時刻表確認しようとしたら、ちょうどシヴァスを通るバスが出発するところで、吸い込まれるかの様にそのバスに飛び乗る。シヴァスには夜中の12時に到着。1時間の待ち時間でカイセリ行きのバスに乗り換える。朝の5時にカイセリに着き一休み後ギョレメ行きのバスに乗る。8時にギョレメに着き町中の食堂で朝食をとり、さあ宿探し。

ラシュトの出発が前々日の午後7時だから1日半まるまる移動しっぱなしだった。もちろんイランのバスも道路も快適だったのだが、それ以上だったのがトルコだ。本当に流れるようにスムーズに移動できた。国境近くの一部の地域を除いて道路の状態は非常に良い。バスもベンツの大型で新しいタイプ。乗客も適度の込み具合。車掌が甲斐甲斐しく働き飲み物やらお絞りやらサービスに余念は無い。休憩後等の出発時には必ずコロンヤが振舞われる。オトガルと呼ばれるバスターミナルはどこも広くて多くの会社が発着便を持っているのでチケット選びに困ることはない。夜中でも走らせているので建物内も人が往き来していて安心だった。学生だと一言添えれば学生証を見せなくても即座に割引された。つまりあらゆることがスムーズで楽チンなのだ。おまけにそこそこ安価。さらに、働いている人が皆親切。アジアでこんな国は他には無かったね。というかもうアジアのレベルでは無いと思った。ヨーロッパのeurolinesか、後に訪れるブラジルやアルゼンチン並みの快適さだ。

ボロいバスに揺られ移動するということは、それはそれで得難い体験なのだが、快適なバスの車窓から流れ行く風景をぼうっと眺めるというのも気持ちの良い時間だ。あらゆる物事がタフでハードで濃密な南、中央、西アジアの後ではトルコなんてすべてが薄味に感じる。でもそれが良かった。そう感じること自体に意味があると思った。

 

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一応最終地であるイスタンブールに着く。ここまで5ヶ月と少し。こんな旅の長さを出発前は想像なんてできなかった。でもあっという間。終わってしまえばあまりにあっけないものだった。多少欲求不満を感じたのは、やはり長さが足りなかったせいだろう。旅の生活に慣れ旅の体ができあがり、精神的にも肉体的にも好調だった。本当はもっと時間をかけても良かったのだろう。でも日本での用事があったので、しばらくの間滞在した後、帰国しなければならなかった。

 

久しぶりの大きな街で、気分はお上りさん状態だった。

 

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ここではインド以来の日本人大集合状態。泊まっていた宿には到着時には3人だったのが次から次へと集まってくる。多分同じガイドブックをみての事なのだろうが、それでも分散していたとはいえ多すぎる。僕の他に前述のS君、ピンディで同室だったSS君、バムで会ったT君、バイクでインドから横断してきたKK君、その他にも男性2人、女性1人、ついでに香港人のカップルがいた。

観光は各自していたが、食事にはよく一緒に出かけた。スルタンアフメットのロカンタ、ガラタ橋傍らのサバサンド、ベリーダンスショー、etc…、そうそうポルノ映画のハシゴなんか今でも憶えてる。結構最悪な体験だったから(笑)。映画の出来がどちらも酷かったうえに、映画館内の輩の行為も最低だった。イスタンブールだけはあらゆる意味で他のトルコとは明らかに異なる空気が流れていたが、それでもイスラムでのお楽しみって厳しいんだなってその時思った。

 

 

f:id:pelmeni:20171018033621j:plain薄暗いドミトリーに群がる野郎ども ムーンライト・ペンションにて

 

旅の最後に大きめの街を選び、少しゆっくりしてから帰国することを此処でおぼえたようで、以降大抵そうしている。時間はあったが、それまでを振り返るような気分ではなく、感傷的な気分にはならなかった。次の渡航地は日本、という感覚でイスタンブールをあとにした。でも日本は日本であって、関空に降り立った瞬間から、暫くの間忘れていた現実というものに引き戻される。

夢はいつかは覚めるものである、ということをこの時ほど実感したことは無かった。

 

 

 

'99アジア その13 イラン3

ギーラーンちょっとだけ旅行記  マースーレ当時の旅日記

 

イランといえば確かに砂漠や岩山ばっかりだけど、カスピ海沿いでは気候は違って雨が降ります。緑も多くその風景は日本にさえ似ていて最初は意外に思えました。イランでも米を食べますが、この地域の田んぼで獲れたものです。 

 

 

●5月6日


テヘラーン西バスターミナルからも雪を抱いた山並みはよく見えた。 まるで北陸、富山みたいだな、と思いながらターミナル内で時間をつぶしていると、S君とばったり再会した。 (彼とはイスファハーンのアミールカビール・ホステルで同室になり知り合った) 国境手前のマクーまで直行、即トルコ突入とのこと。
良い旅を、と別れの言葉を交わしたが、その後の縁は当時は知る由もなかった。

 

  *


カズヴィンまでの道路は相変わらず素晴らしいコンディションで快適だ。 いつの間にかハイウェイに乗り込みバスは速度を上げる。 料金所の様な野暮な物は無い。いつもながら少々妙な気分だが、世界にはそんなものがある所のほうが珍しいのだ。
カズヴィンを過ぎると、あたりはうっすらと草に被われた放牧地帯となる。 そして段々山がちになってきて、ルードバールまで来ると周りの山々は緑で覆われていた。
なんとまあ、久し振りのまとまった緑だこと! やっぱり緑に囲まれると、心が落ち着くのである。

ここギーラーン地方は降雨量があり緑も豊かなところ。砂漠と岩山の印象が強いイランのなかで、こういう地域も自分の目で見ておきたかった。
バスは川沿いの道を縫うように進む。気がつくと外は弱い雨が降っている。狭い平地と緩やかな斜面にはオリーブの樹々。オリーブはどこでも規則的に植えられるのだな、と思いながら、この町のあたりで撮られた映画を想い出していた。あの映画は当時の彼女と観に行った。僕は主人公のはっきりしない態度が気に入らず、観終わった後に悪態をつき彼女と口喧嘩をした記憶がある。 しばらくしてその彼女とは別れた。
そんな昔のことを思い出しても、バス旅のさなかでは車窓の風景とともに、アッという間に後に飛び去っていく。

 

 *


山合いなので日暮れは早く、気がつくと外は既に薄暗かった。雨脚も強くなり、ワイパーの動く音が規則的に聞こえていた。

ラシュト到着、ただこのバスはバンダレアンザリ行きなので、町中の交差点で降ろされた。 バスからの客をあてにするタクシーが数台たむろしている。値段を聞くが、高い。
大体イランのタクシーはせこい。乗車前に交渉しても降車時にそれ以上を要求してくる奴が多く、喧嘩ばかりしていた。これでも短気なのである。 バスや鉄道で働く人は皆親切なのだが、何故だろう。
しつこいので断る。別れ際に街の中心の広場の方向を尋ねてみたが、案の定違う方向を教えてくれた。こっちは旅続きで方向感覚だけは錆びついていないので、 そんな手に乗らない。 日本語でば~かと言って、正しい方向へと交差点を渡っていった。やっぱりこれだからイランのタクシーはせこい。


■T君と会うのはここで3回目、その後ギョレメで会い、イスタンブールでまたもや1週間同室となる。 その後彼は中南米からアフリカへ渡った。額が小堺一機に似ていた。
■「オリーブの樹をぬけて」アッバロ・キアロスタミ監督。当時リアルタイムでイラン映画が紹介され少し話題になったが、正面から社会問題を捉える映画が無かったので、 あまり興味は持てなかった。でも「桜桃の味」は不思議な映画だったと記憶している。もはや映画全般を観なくなったので現状はわかりません。

 

 

●5月7日


昨晩は宿を幾つかあたったが、思っていたほどの安宿は探せなかった。小雨の中食堂を探し回るのも面倒で、宿近くのところで済ませてさっさと寝た。

一晩たって雨こそ降ってはいないものの、空は曇り。 思いがけず宿の斜め向かいにお気に入りのバス会社No.15のオフィスを発見。タブリーズまでの夜行バスのチケットを予約し、 日中は荷物を預かってもらう。そう、今日は昼間にマースーレへ行くのだ。
町外れのミニバス乗り場まで歩いて30分位、少し遠いが一直線の道なので迷うことはない。ここからフーマーンという町まで行き、そこで車を乗り換える。
フーマーンはとりたてていうほどのこともない小さな町。月餅に似たくるみあん入りの饅頭が売られている。いつの間にか雨脚が強まり、傘を買うことにした。 日本から持ってきた折畳み傘はタシケントトルクメニスタン大使館に置き忘れてしまった。折畳みにしては少し大柄なその傘には、 何とMade in Japanと記されていた。本当だろうか? その傘もイスタンブールを発つ際に前述のT君にあげてしまい、今では確かめられない。

 

  *


道端に標識が規則的に現れ、そこに記された目的地までの距離は確実に減っていた。
外は雨と霧に静かにつつまれている。 生活が自然の中に優しくとけこんでいる様な風景の懐かしさに思わずほろっとしてしまい、少し気恥ずかしくなった。 山は樹木に覆われ、点在する農家の屋根は日本の茅葺きに似ている。ちょうど今が季節なのか、田んぼでは女性が田植えをしている。 空き地には雑草が茂っている。気候が似ていると、風景とはこうも似てくるものなのだなあ。

坂道を上り詰めたところで車は突然止まる。
しかしここがマースーレと言われても、全然実感がわかなかった。霧が低いところまでたちこめ視界なんて全然無かったから、そこに町が存在するであろう斜面を見上げても何も見えない。 霧雨というよりかは空気中を漂う水蒸気の粒に包まれている感じだった。なかなかよろしい演出をしてくれるではないか。
とりあえず坂道を登ることにした。途中で分かれる道があったので、勘でそちらへ行く。 暫く歩き、ようやく民家が現れ始めたな、と思った矢先に目の前に開けた光景は、紛れもなくマースーレだった。

 

f:id:pelmeni:20170812202707j:plain霧が深すぎて全貌が判らない!

 

霧と小雨に煙るマースーレ。斜面に階段状に積み重なった陸屋根の家々、下の家の屋根が上の家の前の通路になっていて(写真参照) そこではそれぞれの人が思い思いに歩き語り合い、子供はサッカーボールを蹴っている。僕はぐるっと回り裏(横)から町に入ってしまったので、 このように一望できる場所にいきなり来てしまったということだ。

しかし霧が濃くて辺りの風景が全くわからない。おかげでこの町がぽっかり霧の中に浮かんでいるように思えてくる。

 

f:id:pelmeni:20170812204657j:plainこの日は霧がひどかったけどおかげで幻想的だった

 

f:id:pelmeni:20170812203041j:plainマースーレは山の斜面に住宅が階段状に積み重なってできた町

 

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楽しい2時間を過ごした。まるで模型の町の中をさまよっている気分だった。上を歩いているひとの体がすぐ頭上にある。 自分の足下には下を歩く別のひとの頭がある。 なんだかスケール感が狂っていておかしい。
夢中になって全部の道を歩いた。といっても小さな町なのですぐに終わってしまうのだが、 全然飽きなくて同じ場所を何度も歩いた。
話ながら歩いている男性が多いのだが、よく見ると彼等は狭い範囲を往ったり来たりしている。そんな人達があちらこちらで往復運動をしている様子は、とてもユーモラスだった。

 

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見晴らしのよい場所で、霧の向こうに見えるであろう風景を想像していると、少年が話しかけてきた。

 ---名前は? どこからきた?  日本から 俺も日本に働きに行きたいよ ああ、そう---

イランでお決まりの会話だ。これに、

 ---イランはよくない、日本はいい国だ。 どうして? 云々…---

がたいてい加わる。ここでもやはりそういった会話となってしまう。 まあ、わざわざ外国人に話しかけてくるような人との会話ではあるが、本当に自分の国が嫌なのか、単なる社交辞令と受けとってよいものか。
いずれにせよ飽きてきた会話だし先が続かないのでサッカーに話を振る。彼の眼が輝く。身振り手振りで楽しいが簡単な英語しか通じないので、それ以上の深い会話はできない。でも考えてみればこちらだってペルシャ語は挨拶と決まり文句程度しかできない。
そんなこんなでまた面倒な気持ちになる。 旅をしていく限り、何かしらのかたちで人々とコミュニケートせざるを得ないのだが、この国では何だか欲求不満になることが多かった気もする。
ただ、こちらが相手を呼び寄せないのだ、と言われればそれまでのハナシなのだ。
急に湿っぽいところへ来ると、思考回路も湿ってしまう。

 

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  *


ラシュトへ帰り、少し歩き回った。思いのほか小奇麗な街にみえたのは、雨に濡れていたせいだろう。


街外れのがらんとしたターミナルからバスは夜7時出発。カスピ海沿いの道を走る。カスピ海は右手にちらっと見えたような気がしたが、 すぐに暗くなってしまった。

 

  *


途中の食事休憩は同じバスに乗車している西洋人の二人連れと同席した。男性はニュージーランドから来た。女性はフランスから。 旅の途中で一緒になったらしい。そういえばマースーレでも短い時間だが見かけた。僕はスカーフを被っている彼女をからかってみた。

 -----そのスカーフ、かわいいね。

 -----冗談じゃないわよ! こんなもの国境を一歩でも越えたら、このライターで燃やして足で踏みにじってやるんだから! こうして、こうして…

 -----はっはっはっ(男2人で笑う)

彼女は血相を変えて怒り始め、決して冗談で応えていなかったのがおかしかったが、まあフレンチギャルには無理もないことだろう。服装の自由を制限されるなんて理解の範囲外の事に違いない。

二人は途中のアスタラからアゼルバイジャンに入りたいと言っていたが、そこは外国人には開放されていないのではなかったか。 でも変わりやすい情報だし、そういうことは実際に行ってみなければわからない。幸運を祈る。(夜中に下車したようだ)

 

 

●5月8日


朝の5時前にタブリーズのバスターミナルに着いたが、ものすごく寒い。建物の中に入ってチャイをポット一杯たのむが、体の芯までは温まらない。
待合室はたくさんの人ですでに一杯だった。本当はビザを延長してこの街で数泊するつもりだったが、 急にイランを去りたくなってマクーまでのチケットを買ってしまった。 いつのまにか気持ちは既にこの先のトルコに飛んでいた。

ターミナルは高台にあるので街を見下ろすことができる。まだ日の出前なのにたくさんの明かりが灯っていた。この街の人は早起きのようだ。

(おわり)


マースーレは、この地を旅した知人から写真を見せてもらい、ぜひ訪れたくなったところ。当時は宿泊施設は無かったのでラシュトから日帰り。

 

'99アジア その12 イラン2

モジガンと一緒   テヘラン当時の旅日記

 

かつて日本に出稼ぎに来ていた親切なイラン人にお世話になった、というお話

イラン人といえば偽造テレホンカードの不法販売で一躍有名になりましたが、それ以前は建設業等で結構真面目に働いていた印象があります。バブル崩壊後暫くして、景気の悪化やビザ制度の変更により多くのひとは国に帰りました。まだ日本の記憶が懐かしい彼等に、当時、日本人旅行者はイラン旅行中よく片言の日本語で話しかけられました。そういえばパキスタンにも同じような人がいました。

 

 

 

マシュハドからテヘラーンに向かう夜行列車のコンパートメントの中で、僕が例によって身振り手振りを交えて会話していると、廊下から片言の日本語で話しかけてきた男性がいた。
彼がジャヴァ・タへリさん。日本で2年間働いていたことなど簡単な日本語で話してくれた後、半ば無理やり僕を食堂車へ連れて行き、夕食にチェロモルグをおごってくれた。
翌朝彼は再び僕のコンパ-トメントへやってきて、家に来い、という。これがよく言われる「親切なイラン人」なのだなと思い、ここは彼についていくことにした。 いい加減そうな人には見えなかったが判断は難しいところ、その場の直感としか言い様がない。

彼の家はテヘラン駅の南側にあり、日本でいうコートハウス。2階には弟夫婦が住んでいて、日本で働いたお金でこの家が持てたという。
日本でのことを思い出す時、彼は本当に楽しそうな表情をした。アルバムの写真を見せてもらったが、そこには今より少し若いジャヴァさんが、色々な所で仲間と一緒に写っている。 本人としては良い条件で働くことができたということがすぐに判った。再び日本へ働きに行くことを熱望しており、次はぜひ家族そろって行きたい、 今年中に60万かけてビザをとると言っていたが、その単位が何だか聞き忘れた。まさかドルじゃないだろう。 いろいろ難しいとは思うけど、願いがかなえられたらいいなと思う。

 

さて、彼は3人家族で、奥さんと小さな娘さんと住んでいる。奥さんのソへイラさんはふっくらしていて、やはり室内でもスカ-フをかぶっている。そして小さなモジガンちゃん。はじめ5、6歳かとみえた彼女は10歳。 可愛い顔して妙に大人っぽい仕草したり、大人っぽい表情しながら子供っぽいところみせたり、あー、何とも言えない…
学校で使っている教科書をみせてもらい言葉を色々教えてもらった。(余談だがこの本の最初のペ-ジには、子供と一緒にに微笑むホメイニの写真が載っている!) そのお礼に折り紙で鶴を折ってあげたら非常に喜んでくれて、けなげにも自分の写っている写真やら、サッカ-選手のカ-ドのセットをくれた。
うーん、うれしいよ。あまりに愛くるしい。その間僕は何を思っていたかというと、彼女をさらって日本に連れて帰ったらどうなるかということだった(笑)。目に入れても痛くないとはこういう気持ちなのだろう。多分自分に女の子ができてもこうは思わないんじゃあないかな、よくわからないけど。

 

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彼等はハマダーン出身で、家ではトルコ語を話すという。
その日は祝日で、午後から親戚や友人たちが集まり男性はチャイと煙草と阿片、女性はこの怪しい東洋人が気になるらしく、そわそわしていた。 ただ男性と女性は分かれて座っていた。
ごく簡単な英語で他愛のない会話した。彼女達は一応皆人妻なのだが、若いこはまだ10代後半!なので男としては当然のことながらそちらの輪の方に入りたかったが、そんなこと許されそうになかったので男性陣の方で我慢した。こちらでは浮かれた気分にはならないものの、チャイと煙草で何とか間がもつ。片手で角砂糖をかじりながら飲むイラン式のチャイだが、それ程甘くないのでつがれるがままに飲み続け、途中からトイレにばかり立っていた。 煙草もガンガン勧められ喉はガラガラ。 阿片は自家製水パイプで自家精製したブツを吸引する。ハシシに似ていたので尋ねたら強く否定(!)された。そいつは体に悪い、と。 でも…阿片なら良いのか? だいいちそれはどういう理論なのだ? そもそも彼の言うとおりオピウムなのかは怪しいところだった。

昼食はコルマサブジ、夕食はキャシキバデムジャンをご馳走になった。コルマサブジパキスタンでも同じ名前の料理を食べたが、野菜カレーのようなもの。 ちょっとクリーミーで野菜はかたまりでは入っていない。バデムジャンとはナス、キャシキとはヨ-グルトをと水を混ぜ、それを一晩袋に入れて吊るして自然に漉したもの、と教えてもらった。 それを一緒に炒める(煮る?混ぜる?)。不思議な味。悪くはない。
ナンは3種類あるという。サンギャギは一番薄っぺらくて機械でつくる。バルバレは日本で極く普通にナンと考えられているものに近い。 ラボシュは肉厚で少し甘みのあるもの、だったかな。
やっぱりここでも、食事は、床に敷いたビニルの真ん中に置かれた大皿を、囲んで座って食べる。

もっと長居しろといわれたのだが、所用(ビザ延長をテヘランより容易なイスファハンで行う)のため一泊だけさせてもらった。
いろいろな親切や気遣いが忘れられない。

 

テレビもビデオレコーダーもミニコンポもある。壁にはきれいな絵が掛けられている。 ごく普通のテヘラン市民の生活はのんびりと快適そうであったが、これらはみな日本での出稼ぎのおかげなのだ。この生活を長く続けるためには、また何処かで働かなければならないという。国内でそれが可能ならば、来日をあんなに熱望したりはしないだろう。
彼は言った。昔はハマダーンでも多くの日本人が働いていた。ホメイニが来てから皆いなくなり、テレビや車の価格が上がり簡単に買えなくなった。
その後に言葉は続けなかったけれど。

 

その時思った。イランには、一体どれだけのジャヴァさんがいるのだろう。

でも家族連れて日本に来たら、いいことできないよ。

 

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