もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

’05旅回想 その23 ヤンゴンに来ました

ミャンマー1 ヤンゴン Dec. 2005 

ヤンゴン→ニャウンウー

 

 

物心ついてから僕が初めて接した外国人は実はビルマ人だ。

僕の通っていた小学校の近くにビルマ大使館があった。近所の人はそう呼んでいたが正しくは大使館員の官舎だ。色の浅黒い子供達が敷地内や近くの道路で遊んでいるのを時々みかけ、当時の僕はビルマを黒人の国だと勘違いしていた。まったく馬鹿な小学生を許して欲しい。その彼らがある年以降普通の公立小学校に入学転校してきた。僕らの2つか3つ下の学年からだったので同じ教室で学んではいないが、計10人位はいたのかな、校内でも時々見かけるようになった。僕は中学の途中で引っ越したので、その後は知らない。彼らは国に帰ったのだろう。ビルマは政変でミャンマーとなり、安定しない状況が今でも続いている。-----2010年頃、ふと思い立ってその場所を訪れてみた。以前と変わらず樹木に囲まれた庇の深いコンクリートの建物があった。敷地には明らかに人の手が入っていて、静かにしていると女性が話すような声が僅かに聞こえた。ただ外に向かってミャンマーを示す表示や痕跡は何もなかったので、建物等の所有者が誰なのかはわからなかった。表札も何も無いことがかえって想像力をかきたてる。目の前の光景は長い時を一気に巻き戻された。

 

 

ヤンゴンに来ました。上記はミャンマーに行くことを決めた段階で、懐かしく思い出したこと。でも実際街の通りを歩いていても、当然だが大人になった当時の子供たちに会えるはずもない。顔も名前も憶えていない。ただ、もしかしたらどこかですれ違っているかもしれないとその可能性を想う度に、僅かに胸が騒ぐのだった。それはヤンゴンに限らず他の町でも、気が付けば人々の中に誰でもない誰かを探している様な気分になっている自分がいた。見ようとしているものと見えているものが違うような。ミャンマーの旅を通してそんなふわっとした気分になることが時々あった。

  

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カルカッタに続きこの街も元大英帝国領。それらしき特徴の有る建物が多く顔を上げ続けるので首が疲れる。おまけに暑い。必然的にコーラ中毒患者はコカ・コーラを探し求めるのだが、当時この国でコカ・コーラ社は製造販売をしていなかった。地元産で一段味の劣る瓶入りスターコーラやクエンチしか… まあ、それはそれで良いのだが。缶入りの「可口可乐」や「雪碧」を中国からの輸入品として扱っている店を一軒見つけた。瓶入より値段は高いが内容量も多いので自分を納得させる。

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f:id:pelmeni:20210223025024j:plainf:id:pelmeni:20210307041944j:plain大通りから入る細い横道は緑多くとても静かな場所

f:id:pelmeni:20210223015241j:plainf:id:pelmeni:20210223015258j:plain路上にも店がひろがる

 

旅行前はこの国にはインターネットが来ていないと聞いていたのである意味楽しみだったが、実際行ってみるとヤンゴンマンダレーではかろうじて触れることができた。まあ無いよりはマシといった程度のものだったが、 動かない画面をじっと待つのもそれはそれでミャンマーらしいとも思った。昔インドで激遅の回線に怒りをぶちまけた頃と比べれば自分も大人になったものだ。でも日本も黎明期は同じようなものだった。そんな新しいサービスがあるだけで夢中になっていたのも今は昔の話。

また、当時既に話題になっていたが、通りを走っているバスのほとんどが日本の中古車で驚いた。外観の塗装は基本的にそのままで文字のみ消されているのだが、何故か知っているものばかりだった。右側通行なので出入口が少し強引に増設されている。ここでも第2の人生はタフでハードなのだ。当時の日記によれば、一番多く見かけたのが断トツで神奈川中央交通、次いで(知らない緑のラインの車体)、阪急、千葉中央。ほかにも都バス、京都市、京王、京成、などなど。

f:id:pelmeni:20210225053408j:plain一番多かった神奈中バス

f:id:pelmeni:20210225053427j:plainこれは阪急バス

f:id:pelmeni:20210225053443j:plain珍しく文字が残っていた立川バス


 

カルカッタの空港で搭乗前にガイドブックを貸したスイス人&ドイツ人のカップルと同じ宿へ行くことになった。ホワイトハウスという思わせぶりな名前の宿は、安宿の中では外国人に人気だった。ここは面白い造りをしていた。普通の6階建くらいの建物の屋上に3層ほど軽量な構造で建て増しされ、外国人が泊まりたがる安いが簡素で暑い部屋があった。こんな安普請の部屋は東南アジアならではのものだ。ちなみにシングルで6米ドル。下階には普通の部屋があるのに何故かひと気がなかった。元々の屋上は半屋外の食堂と厨房になっていて、ビュッフェ形式の朝食は取り放題なので、朝から腹一杯、幸せな気分で毎日が始まった。ミャンマーでは他の町でも屋上に食堂がある宿に幾つか泊まったが、どこも気持ち良く、熱帯の明るく生暖かい空気の中では屋内で朝食をとる理由など考えられない。果物が食事やおやつの替わりなんて、以前の南米の旅を思い出した。

 

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よく見たらヤバイな 

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------ちょっと失礼、 -----ん、邪魔するにゃよ

地上数十mの食堂階に住み着く猫 東南アジアには顔の細い猫が多い

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上階テラスから このアングルが好き

 

ヤンゴンで一番大きなシュウェダゴンパゴダへ行く。観光客も見かけるが、地元の人と思しき人々に愛されている場所だと感じた。皆自由にリラックスしている。東南アジアではテンプルやパゴダは日常生活の一部に程良く溶け込んでいる。ミャンマーではパゴダは釈迦の家なので裸足になる。屋外なので多少汚れるが石張りの床がひんやりとして気持ちよかった。

f:id:pelmeni:20210225043610j:plainf:id:pelmeni:20210225044520j:plain大きな黄金のストゥーパを中心に無数の仏塔や廟、通路がぐるっと取り囲む平面配置

f:id:pelmeni:20210225045845j:plainf:id:pelmeni:20210225050207j:plainf:id:pelmeni:20210225044808j:plain通路幅一杯に横一列になって進みながら掃き清める f:id:pelmeni:20210225051148j:plainf:id:pelmeni:20210225051156j:plainf:id:pelmeni:20210225045910j:plainf:id:pelmeni:20210225045153j:plain

世界中の至る所で金ピカは求められ愛されている。それを横目に、わびやさびを理解する能力なんて特殊なものだとつくづく実感した。

 

 

次の目的地バガンへ行くために長距離バスターミナルに来た。チケットを買い乗る車を教えてもらったところで目を疑った。街中を走っているのと同じ神奈中の乗合バスが停まっていた。今日は夜行なんだよ、これで一晩過ごすのか… と心配になったが、車内の座席は古いがしっかりとした物に換装されていていた。それでも乗心地が良いとは思えない。先が思いやられる。

この日は体調が良くなく頭痛がしたので出発前にバファリンを飲んだのだが、これは逆に良かったようだ。というのもそのバファリンはエジプトのカイロで購入したもので、日本のものと違って飲むとかなり眠くなる代物。そのせいか思っていたよりもぐっすり長く眠れた。途中で眼が覚めてもあまり時間を空けずに再び眠りに陥ることができた。翌朝はごく普通の体調でニャウンウーに着いた。でも朝4時半は早過ぎる。