もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードです。

'05旅 その16 砂漠の摩天楼 イエメン2

イエメン2 Sep. 2005

サナア→サユーン、シバーム→アルムカッラ→サナア←→ロックパレス

 

 

もうだいぶ昔の事になるがNHKの紀行番組で、アラビア半島奥地の砂漠の真ん中にぽつんと存在する町の、高層住宅がびっしりと建ち並ぶ姿を紹介していた。確か「砂漠の摩天楼」という表現が使われ番組のタイトルにもなっていたと思う。まったく変わった町だなあという印象が持ったが、それが忘れ去ること無くずっと記憶の奥底に残っていた。イエメンに行くことを決め訪問地を調べているうちに、その砂漠の摩天楼がシバームという町であることを知った時の興奮と言ったらない。自分がそのまさかあの場所に行くなんて当時は夢にも思ってはいなかった。実はこのような経験は幾つかあり、中国貴州の鐘楼を持つ侗族集落もNHK教育テレビだし、九塞溝もそもそもは深夜のBSハイビジョン試験放送の映像に息を呑んだ所だった。

 

f:id:pelmeni:20200412021727j:plain例の2日後の朝の便には間違いなく乗せてもらうことができた。大型の新しいバスは砂漠の一本道をひた走る。舗装は新しくバスの乗心地も快適だったが、この数年前までは石畳の道だったのでサユーンまでは4WDで23時間!も掛かったということを聞いた。今はそれでも10時間。


f:id:pelmeni:20200412021021j:plain宿から眺めるサユーンの町 ワジによる巨大な浸食谷の中にある 左は王宮

  

 

 

 

車がカーブを切り、パッとその姿を現した時はどきっとした。

-----ついに来ちゃったな

特異な町の構造と、地の果てのような(印象です)イエメンの辺鄙な砂漠の中というロケーションが印象的。それ故にTVでみた時以来忘れられないでいた。あのうろ憶えな映像が実際に目の前にある。まずは感慨深い対面となった。

シバームは古代(紀元前8世紀ー3世紀)にこの地域に存在したハドラマウト王国の首都として栄えた。町自体は以後2000年もの間続いているが、この泥煉瓦でできた高層住宅建築はほとんどが16世紀以降に建てられたもの。洪水と遊牧民の襲来から身を守るためこのような形態をとるに至った。この場所で洪水というのも俄には信じられないが、2008年の豪雨では被害が出るほどだったようだ。

 

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 上を見上げたままなので首が痛い 見上げないわけにもいかない

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ただ自分がそんな場所にいることがやはり不思議に感じたかといえば、そうでもなかった。歩き回っている間じゅう考えていた。事前の想像とは少し離れ、町の体裁をなしている。ここも普通の人々によって普通の生活が営まれている普通の町であることに違いはなかった。手を伸ばせば生活している人々の日常に触れ合うことができる。余程の場所でない限り、我々が行き着くことのできるような場所は、何も特別な場所ではない。旅を重ねると、人間のあらゆる差異なんて実際は大したことではなく恐れる必要もないことがわかる。雑多な体験を経た後にたどり着いたその事実の単純さには思わず苦笑いだが静かな重みも感じた。真理とはそういうものなのかもしれない。旅とは人間が普遍的な存在であることの確認作業でもあると思う。

 

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f:id:pelmeni:20200418003342j:plainf:id:pelmeni:20200418003745j:plain何か?

 

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枯れ川をはさんで反対側の町から眺める。これが全体像。砂漠の摩天楼とは言い得て妙だ。今だったら是非ドローンを使って上空から撮影したい光景。

 

帰路に同じ経路を使うと安くあがるが自分の主義に反するので別のルートを探す。本来ならムカッラからアデン方面に向かい南部を訪れたいのだが、その長距離のバスには乗車できないようだった。一度飛行機でサナアに戻ることにしたが、飛行時間自体は短いので、ムカッラまで移動した後午後遅い便で飛ぶことに決めた。

サユーンからムカッラまでは乗合で移動。しばらく巨大なワジの谷を進み、やがて賽の河原のような荒涼とした風景の中を走る。人が住むことのできない乾いた大地が続いた後、道路はつづら折りとなり視界の開けた崖を駆け下りる。ダイナミックな地形の変化に息を呑む。でも写真は無い。雰囲気は後年鉄道で通ったジブチの奥地に似ている。まあこの風景を見ることができただけでも、狭い車に詰め込まれ我慢したかいがあったというものだ。(当時の感想・今はもう憶えていない)

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途中の沿道の町。ワジには雨季に水が流れるため緑があり人が住むことはできる。地下水脈もあるのかもしれない。切り立った崖に挟まれた大きな谷のよう。

 

アルムカッラの町は普通の町。あまり時間に余裕が無かったので、ざっと歩いた後タクシーをひろって空港へ急いだ。イエメニア航空の国内便は自由席のせいか乗客は騒がしい。以前に乗ったアリタリア航空のイタリア人の子供ほどではないが、いい歳した若者が… 50分でサナアに到着。3日ぶりでは何かが変わっているわけでもなし。

 

 

サナアに戻り、これまた特徴的なロケーションで有名なダール・アルハジャール(ロックパレス)を訪れる。ワディダハールという町はサナアから14㎞しか離れていないので半日のデイトリップ。

 

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大きな岩の塊の上に鎮座するイエメン建築様式の宮殿。ここはイマームの建てた夏の離宮。元々は1786年頃に建てられ1930年代に現在のかたちに増築された。マッシブなボリュームの幾何学的構成とそのうえに施されたかわいらしくもある漆喰の装飾の対比。室内の装飾や色ガラスの使い方も独特で美しい。建物自体はこじんまりとしているが、5層で17室もあるとのことです。

 

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宮殿から眺めたワディダハルの町 切り立った岩山の表情が厳しいが意外と緑も多そう

 

 

 

 

 

'05旅 その15 気分は千夜一夜物語 イエメン1

イエメン1 Sep. 2005

アンマン→入国・サナア←→マナハ&アルハジャラ

 

 

この旅のルートを決めた時に、ぜひとも訪れたいと思った国の第1がイエメンだった。ただトルコやエジプトなどの国と違って、陸路で簡単に入ることのできる国ではないうえ、治安などの状況は安定していなかった。諸々の確認は近隣で情報を仕入れたうえで決める。このような国があった場合、僕は俄然行く気になる。大抵面倒な手続きや多少の苦労が付き物だが、それらのプロセスを含めて全部を旅として楽しむつもりで。

イエメンには、リゾートやショッピング、グルメといったモダンな娯楽が出現する以前の素朴だが少々荒っぽい世界を期待していた。それは確かにそこにあった。ヴァナキュラーで風変わりな外身の印象は強いが、昔から変わらずに続く文化や伝統、風習のかたちは頑固で優雅だ。アラブでありながら石油が無く産業や開発が遅れたおかげで、旅人にとっては天国のような場所がアラビアの端に残されたということなのだろう。

サナアにはどこかの街から飛行機を使って飛ぶことになるので、これまでダマスカスやベイルートの旅行代理店を幾つかあたってみた。良い便が無かったり値段が高すぎたりで結局アンマンから往復することになった。でもこのロイヤルヨルダン航空のフライト、出発が夜遅くなうえ、なんと11時過ぎにフルコースの機内食が出た(でもよくあることを後に知る)。深夜1時半到着、アライバルビザを取得後到着ロビーに出たのが3時。サナアの空港は70年代の日本の地方空港のように(…嘘、知りません)ひなびた雰囲気だった。空港で朝まで過ごすことも考えたが気付いたらタクシーをつかまえていた。当時の日記には「深夜だったので激しくは値切らなかった」なんて書いてある。こんな時でも値段交渉を気にするほど旅ズレしていた自分に苦笑だ。車を降りた大きな広場は無人で、まったく何をやってるんだろうと思いがら近くの安宿に転がり込んだ。

 

翌日、満を持してサナアの旧市街へ歩み入る。誰が初めに考え出したのかしらないが、楽しい意匠である。煉瓦と漆喰で固められた砂糖菓子のような建物が密集してたち並び、狭い通路が入組んだ地上は中世の迷宮のようである。ここは楽しいパラレルワールド、日本のテーマパークなんて比じゃない。作り物ではない現実の世界を彷徨うのである。我々の見知ったものとは少し違う、でも現在進行形で人々に生きられている確かな世界だ。そのリアルさがまた肝銘的で、これほど旅をすることの幸せを感じる場所はなかったと、今でも思う。

 

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イスラム旧市街の中心はスーク(バザール)。サナアでも此処に人も物も集まる。当然の様に足が向かう。大勢の人が、用が有るのか無いのかわからないが、とにかく歩いているという印象。ジャンビーヤ(湾曲した刀、今は装飾品)を腰に帯刀している人も多い。一緒に歩いているだけで気持ちが高揚する。気分はアラビアン・ナイト千夜一夜物語の世界。

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どんどん奥に入ってみる。

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昼下がりのカートタイムに突入したようで、皆さん微睡んでいました。もう仕事をする時間ではありません。カートとは弱い覚醒作用をもたらす成分を含む樹木の葉で、新芽の葉をくちゃくちゃ噛むのです。飲酒をしない人々の嗜好品として男性の間で絶賛大人気です。どんどん口の中に放り込み続けるのですぐに頬が膨らんできます。大抵ごろんと横になったり何かにもたれ掛かったり体をリラックスさせた状態です。頭の中も休憩中みたいでした。僕も彼等に分けてもらって噛み続けましたが効果はわかりませんでした。コカコーラ&カフェイン中毒者にとっては刺激が弱過ぎたようです。水パイプのほうが好きだなあ。ジブチエチオピアでも同じ様な習慣がありました。

 

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サラームアレイコム! かわいい男の子が出迎えてくれた… のかな?

 

別の宿にある眺めの良さそうな屋上カフェに行ってみる。マフラージ(伝統様式の休憩室)で寛ぎ、テラスに出て360度のパノラマを楽しんだ。

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次の目的地は内陸にあるシバームだった。滞在する町サユーンへは10時間掛かるので夜行バスを使い宿代を浮かそうと目論見んだところ、なんと出発直前にパスポートチェックのあと荷物と共に強制的に車から降ろされてしまった。すぐ近くのオフィスで代金を律義にも払い戻した後にバスは去って行った。説明が無かったのでぽかんとしていたところ、近くにいたサウジアラビア人の学生が窓口で話を聞き英語で教えてくれた。彼曰く、セキュリティの為外国人は夜行バスに乗せないとのこと。じゃあ何で売ったんだという話だが、、、。そういえばムカッラからアデンへ行くバスの切符を旅行者が買えなかったという情報が知られていたが、それも長距離バス。この頃はやはり夜行となる便には外国人旅行者を乗せない決め事だったのだろう。

当時イエメンは治安が必ずしも良くはなく、少し離れた所へ行く際は場所によりパーミッションが必要だった。該当する地域の行先が記入された許可証を10枚くらいゼロックスでコピーして携帯し、道路の検問の度に提出する必要があった。確か、9.11以降の悪者アルカイダに協力する部族が国内にいたため、政府と米軍が協力して掃討作戦が行われた後の頃だったはず。

 

翌朝のバスの席は取れなかったので再出発は翌々日の朝便となり、サナア滞在が二晩増えた。 翌日は気を取り直して後の予定の前倒しをすることにした。サナアからマナハとアルハジャラという町を日帰りで訪れる。マナハまでの山の風景は中東では珍しい山岳地帯。乾燥地帯の段々畑というのも珍しいが、何かさっぱりし過ぎていて少し寂しい。途中通過する沿道の集落はみなゴミに溢れてインドの様だ。乾燥しているので砂っぽくカサカサした印象だが、汚いことには変わりなく困ったものだ。

マナハの町は金曜でもないのにスークも店も開いていない。閑散として寂しかったが、地元の人は幾らか出歩いていたので簡単な立ち話をした。斜面に四角い建物が貼りついている光景が物珍しかった。イタリア山岳都市みたいでかっこいい。

ここからハジャラの町までは緩やかな坂道を約1時間かけて歩く。ピクニックのように長閑な気分。山の中で眺めも良い。

崖の上に建つこの町もピクチャレスクだ。内に入ると建物が綿密に寄添い道の狭さも相まってまるで迷路。時を超える不思議な空間だ。そしてウザいガキかわいい子供たちが集まってくる。しかし彼等は物か金を渡すまでは追い払っても追いて来ようとする。今まで観光に来た旅行者が気前良く物をあげ続けたものだから、当然の様に付きまとい要求するのだろう。子供に罪はないが一人でゆっくり観光できないので多少苛ついた。最後には小石の投げ合いになり(笑)続けても大人気無いので早々に退散した。

 

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マナハ

 

f:id:pelmeni:20200408171102j:plain山道を歩く マナハの町が遠ざかる

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アルハジャラ 城砦のような町!

 

 

 

 

'05旅 その14 すべては砂に還る シリア2&レバノン

シリア・レバノン>シリア2、レバノン Sep. 2005

ハマ→パルミラ→ダマスカス→国境→ベイルート←→スール、シドン、バールベック→国境→ダマスカス→ボスラ→国境→アンマン

 

 

あまりエアコンの効いていないバスだった。トルコと違って小国シリア、それも地方都市ハマ出発の中型バスのせいか車体は古くて少しくたびれていた。日差しが強く黒いカーテンがどの窓にもひかれている。旅行者としては、たとえ周囲が変化のない砂漠地帯であってもそれはそれで眺めたいものだが、地元の人にとっては特に興味を持つ理由などない風景なのだろう。皆何かに耐え忍ぶかのようにじっと動かない。まあ気持ちはわからないでもない。暫くは我慢するしか他はないのだろう。時々動くカーテンの間から変わり映えの無い砂色の大地が地平の先まで続いていた。

やがてバスは止まった。ターミナルではないが乗客は降り始める。周囲には何もなくホテルのような建物一軒の前にミニバス、タクシーが泊まっている。ははん、そういうことかと事態はすぐに飲み込めた。タクシーとバスの運転手が結託したのだ。ここから町までは停まってるタクシー等を使ってください、と。ただ旅行者はごく少数しかいないようで、地元の人たちと一緒に僕も町まで歩いた。既に遠くに見えていたので10分くらいかな、これぐらいだったら問題は無いが、理不尽な話である。あまり裕福でない国では個人事業主であるタクシーの運転手って癖のある人間が多い。

今までずっと勘違いしていたのだが、パルミラ遺跡に隣接する町の名はパルミラではなくタドモルという。グーグルマップで検索しても聞いたことのない町にとんでしまうので不思議に思ったが、実は僕が知らなかっただけなのだ。今回記憶を掘り返さなければ死ぬまで知らないままだった可能性もある(笑)。

 

パルミラの遺跡は、がらんとしているせいか一見あっけない印象だ。起伏の無い平坦な土地に、1.3kmを一直線に伸びるコロネードと幾つかの神殿、アゴラ、劇場、他に何かの遺構と崩れた石の山。ただこれが素晴らしい通りだ。往時の繁栄を確かにしのぶことができる。でもそんなことを想像しながら当時の商人になりきって通りを闊歩するには、瓦礫が多くて歩きにくい。まあそれは仕方が無いかな。そのうえ暑くて陽射しが眩し過ぎる。乾いた風が時々砂塵を巻き上げるせいで眼が痛い。雲一つ無い空と砂色の風景。よくみればほぼ二色しかない。しかしこの二色は世界中至る所で美しい世界を作り出している。太古から不変のこの二色があれば人類の偉大な歴史を描き表すには十分なのかもしれない。そしてこの二色は人類が滅びても地球が存在する限り永遠に続く。

ここもローマ時代の遺跡のなかでは一級品である。間違いない。でも観光客は少なかった。

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夜のライトアップも美しい。星空を期待したがあまり見えなかったのは、光が強すぎるせいか、それとも空中を漂う砂塵のせいか。

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 ※残念なことに内戦中ISにより一部破壊された。詳しくは知らないが、では直しましょう、と簡単にいかないことは容易にわかる。

 


首都ダマスカスに向かう。パルミラからのバスは、途中エンジンのベルトが切れて交換する(意外とよくある故障)等により、1時間程度の遅れで小さなバスターミナルに到着した。しかしここはローカルバスとミクロ(ワゴン車)のみが集まるマイナーなターミナルのようで、英語表記も無くちょっと困った。でもそんな時は親切なシリア人が近くにいるのだ。車内で知り合った少年が街の中心まで行く車に案内してくれた。運転手も到着後に金を受取ることなく去って行った。シリアではこの種の小さな親切を受けることが多かった。大抵ごく自然でさりげないものだったと記憶している。旅が続くと他人の善意に対する感覚は鈍くなる。長旅を続けるということはこのような好意を食い物にし続けることでもある、ということは終ってみてわかるものだ。後になってしみじみと思う。

 

f:id:pelmeni:20050908211349j:plain大きなスークはアーケード

f:id:pelmeni:20050910163755j:plain何かの果物ジュース売りf:id:pelmeni:20200401184024j:plain静かな裏通り

 

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キリスト教のカテドラルを改築して接ぎ木するように造られたウマイヤドモスク。重厚で絢爛な建築。全体の構成はモスクの求心的な空間というよりは古い教会の雰囲気。この辺りは古くから人が住み始めただけあって、打ち捨てられ砂に埋もれる歴史もあれば、しぶとく生き延びる歴史もある。これは後者の典型例か。

そのあたりを少し知りたくなって国立博物館へ行く。大昔から人が住み続けてきた地域だけのものはあったが、その痕跡は今や崩れつつある遺跡という形でしか残っていない。それさえも運良く残ったごく一部であり、殆どのものは既に形を成していない。足下で踏みしめていた砂の粒が、かつて大いに繁栄した人々の生活の一部であったのかもしれないと思うと何だか無下にできない気分になった。目の前にある種々の存在も、もう何百年何千年経てば砂に同化して跡形もなくなってしまうのだろう。深い轍もいずれ消え、すべては砂に還ってゆく。そう考えると人間の存在なんて儚いものだ。

 

街の中心にバックパッカーに人気の宿がすぐ近くに並んで2軒建っていた。アルハラメインとアルラビエ。両方とも泊まったが同じような造りの似た宿で、いつも外国人旅行者で溢れていた。ドミトリー(相部屋)は男女混合で、男1人に女3人なんて日もあった。常に雑然としたあのバックパッカー宿特有の雰囲気が今となってはとても懐かしい。僕は大きめのパッカー宿が嫌いではない。ざわざわしていて必ずしも落ち着く訳ではないのだが時々好んで泊まっていた。ここには色々な種類の旅人が入れ替わり立ち替わりやってくる。ただ共通しているのはみな荷物一つで旅をしているということ。この一点のみで何か連帯感のようなものを感じていたように思える。話をしても必ずしも親密な仲になるわけではなく、挨拶など無しに次の地に去って行くのが常なのだが、その関係の希薄さに旅を実感することもあった。好んで一人旅をしていたのだが、やはり人恋しくもなるのだろう。ローカルなその土地の人々はもちろんだが、各国からやってくる同じ境遇の旅人ともたまには会いたくなる(このルート上に限れば何処でもいたけど…)。

ただ、これらの宿が現在どうなっているのか想像することは、難しい。そんなこと諸々を思い返す時 -----僕は遠い眼をしているのだろう。多分。

 

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いつもだらけていた宿猫。滞在者が可愛がってくれるものだから警戒の素振りもみせない。数匹が中庭を我が物顔で闊歩し、よくソファを占領していた。でも何か薄汚いな、体をきれいに舐めてから寝ろよ(笑)。

 

 

 

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旧駅近くの映画館で何とインド映画「クチュクチュホタヘ」が上映しているではないか。この映画は僕が初めてインドを旅行した99年初頭に「タイタニック」と人気を二分していた。子供の間ではこちらの方が人気だったようで、彼等とは「クチュクチュ観た?」が挨拶代わりだった。懐かしい。夕方5時の回を観る。小屋は古くフィルムに傷も多い。酷いことに初めの10分位が切り取られ、いきなり話の途中から始めやがった。でも音や画質の悪さはそのうち気にならなくなった。インド映画の割には考えられているラブストーリーで、出演者にも魅力があるので見入ってしまうのだ。とはいえ例のボリウッド映画の範疇ではある。

※後年シンガポールのインド人街にあるムスタファセンターでDVDを買いました。原題/日本語タイトル「Kuch Kuch Hota Hai / なにかが起きてる」

 

 

 

ここからレバノンを往復する。ベイルート直行バスがダマスカス市内から出ていて、ビザは国境で簡単に取得できた。

現在は奇麗になっているのだろうが、ベイルートといえば当時はまだ内戦の跡が街中に多く残っていて、それを見に行く旅行者も多かった。状況は既に安定していたものの、受ける印象のギャップは大きいものだった。中心街は結構きれいになっていて、かつて中東のパリと呼ばれただけのことはある美しさだ。アラブでありながら地中海文化圏の一部でもあることも実感できる。エトワール広場付近は小綺麗なカフェの多いショッピングエリア、ハムラ地区には商業地区でメーベンピックやスターバックスもあった。

 

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この街にも安宿が近所に2軒建っていた。中東は何故かこのようなパターンが多かった気がする。僕が泊まった宿には一人旅をしている中年の日本人女性がいた。とりあえず何か食べようと彼女と近くに出たら、立ち食いのサンドイッチ屋でもう一つの宿に泊まっている日本人旅行者と会った。何でも旅は既に4年、ベイルートでは3週間籠って自分の旅行サイトを一から書き直しているとのことだった。いろんな旅行者がいるものだと思った。(彼はこの後のルートでも時々見かけた)

宿の近くによく通った食堂があったが、アラブ人顔のごっつい店員なのに「シャルル!」とか「ポール!」とか呼び合っていたのもレバノンならではの光景だ。今でも憶えている。

 

 

レバノンは小さな国なので、大抵のところへはベイルートから日帰りで行くことができた。

 

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海に突き出したロケーションが魅力的な古代都市遺跡ティルスは、スールの町すぐ裏に隣接している

 

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シドン(サイダー)の旧市街は閉じた迷宮のよう

どちらも海に面した小さな町。広い地中海の一番奥に位置している。学校で習っただけでよく知らないフェニキア人が活躍した地だ。小さなミクロバスに詰め込まれての移動だったが、俊敏で車窓が美しかったのであっという間だった。

 

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バールベックの遺跡もとても美しい。都市ではなく神殿単体。ローマ時代の遺跡はどこも見事で素晴らしい。

 

 

帰路も国境でシリアのビザがとれた。ダマスカスに戻ってすぐに発つつもりでいたので安価なトランジットビザ(8$)を買った。

次の国ヨルダンの首都アンマンへは、途中ボスラというこれまた遺跡に立ち寄るため、車の乗継ぎで向かった。朝出て午後遅くには宿に着いたので意外と近かった。日本人はビザ無しで入国できる。

f:id:pelmeni:20200401024123j:plainボスラの円形劇場

 

アンマンも丘に囲まれた古い街でローマ時代の遺跡も残っている。

この街での第一のミッションは、旅行代理店でイエメンの首都サナアまでの往復航空券を購入する事だった。

 

 

 

 

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第二のミッション~死海 はしゃぐ日本人御一行様
浅瀬に座って見えるのは死海の水の屈折率のせいで、皆浮いてます 

 

 

'05旅 その13 シリアに入国

シリア・レバノン>シリア北部 Sep.2005

アンタキア→国境→アレッポ→ハマ←→クラック・デ・シュバリエ

 

 

 

 

夜行バスは朝の7時半にアンタキアのオトガル(バスターミナル)に到着。トルコのバスは最後まで時間が正確でした。更に言えばこの時乗ったバス会社のサービスは良過ぎです。夜中の3時の休憩直後に飲物のサービスを行うんですよ。寝ぼけ眼でも、ここはやっぱりコーラを一杯!。

同じオトガルからシリアのアレッポへ直通バスが出ているので、その場で9時半発のチケットを購入。すぐ裏のロカンタでトルコ最後の食事、チョルバ(スープ)の軽い朝食をとりました。

アレッポとは英語読みで、アラビア語ではハラブ、トルコ語ではハレプと言うらしい。その ”HAREP” という行先表示を掲げたバスに乗り込みます。国境では特に時間を喰ったという印象は無く、順当に昼過ぎアレッポに到着。バスで一緒だった日本人学生、アメリカのおばちゃん、リトアニアカップル達と一緒に街中の宿へ向かいました。

 

今となっては昔の話ですが、この国境は常に外国人旅行者で溢れていました。トルコ~シリア~レバノン~ヨルダン~イスラエル~エジプトというルートは中東旅行の定番中のド定番で、見所も多く、誰もが楽しむことのできるルートでした。世界中から人々が集まり、長期短期を問わず、多くの旅行者が砂漠の中の暑く乾いた道をバスやタクシーに詰め込まれ、砂煙を立ち上げながら駆け抜けていったものです。

以前の旅先で出会ったとあるオーストラリア人の言葉を思い出すことがあります。彼によれば旅行に良い国の条件は、1)人々が親切 2)社会が安定している 3)物価が安い、だそうです。まあ頷ける内容です。シリアなんてその全てを満たしているうえに観光場所も多く、大抵の人にとっては悪い印象を受けることの少ない国でした。それは僕の実感であり、出会った旅行者にとってもほぼ共通の感想でした。

でもその ”2)社会が安定している” と見えたものは、表面的な様相でした。実際の社会の状況や人々の生活が外から一撫したくらいでは分かり難いものであったことは、後年の時局が全てを語っています。彼らの日常と僕の非日常は同じ時間と空間を共有していたものと記憶していましたが、それは必ずしも交わっていたわけではなかったということです。旅なんてしていても理解できることは限定的なのだと今ではつくづく思います。目に映る物事がリアルな現実のすべてであるとは限らないことも今では知っています。これら皆含めて迄が旅というものでしょう。ただ、知らないで済ますことができればよかったかもしれない現実を思う度に、寂しくも悲しくもなります。

以前にシリアを旅行して良い思い出を持っていながら、現在の状況に堪らない思いを抱いている人も多いのではないでしょうか。だからといって何ができるわけでもなく、暫く膠着状態が続きそうで、気を煩わす日々が延々と続くのでしょう。

 

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アレッポ城 城門は力強いが内部はほぼ遺跡状態 

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小高い丘の上に鎮座する城(所謂チタデラ)から街を眺める。雨が降らなければ勾配屋根を架ける必要はない。いよいよ中東、乾いた大地と砂色の町がこれから続きます。

中央に伸びるスーク 右がモスク

 

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薄暗くも妖しく賑わうスーク(バザール) 時折天窓から斜めに射し込む陽の光が幻想的

不思議な空間に半ば酔いながら彷徨い歩く。視覚、聴覚、時に嗅覚の感度を上げる必要がある。日本の明るくクリーンで均質な商空間とは対極な場所。だからこそ魅かれる。

 

写真を撮っていると片言の日本語を話す店員に呼び止められ、チャイと水煙草を頂く。チャイと水煙草の組合せは、これがまた病みつきになるんですよ。その後はもちろん彼等のビジネスタイム。とりあえずは付き合ってみることにしたが、僕は話が合わなかったら何時でも止める用意はできている。奥から持ってきたカシミア(多分違うだろうが色柄は良かった)が8400→4200シリアポンド(80$)の値下げで「トモダチプライス!」から始まった。これは前口上みたいなものだろうから頭から除外する。25$くらいにしようか話し始めたら簡単に下がる。でもよく見るとそこまでの品質には見えなかったので止めようとしたら、横から彼の叔父という人が出てきて20$という。出方をみながら更にあれこれネゴると15、10$まで下がる。結局550シリポン(10$)で手を打つ。千円程度なら色や柄は気に入ったので悪くはない買物でした。おそらく元値420SPの10倍の4200SPからスタートだったのかもしれないと推測。交渉中は雑談を交えて悠長に構えていましたが、インド人とのタフな交渉と比べれば穏やかに終わりましたね。

旅行中はこんな感じでよく暇つぶしをします。言葉数を多くしたり表情や話し方を変えたり等いろいろ考えて自分のペースは崩しません。まあゲームみたいな気分です。お互い情は無用です。そのせいか話がつかなくても大抵後腐れはありません。日本ではできない遊びみたいなものです。

アレッポといえば石鹸も有名です。地中海沿岸で作られるオリーブ石鹸はアレッポあたりが発祥だそうです。どの店で売られている石鹸も幾つかのグレードに分かれているので、何が違うのか尋ねたところ、成分のローレルオイルの割合に因るとのことでした。割合の大きい方が香りが強く値段も高いのです。と言われてもよくわからなかったので、上から2番目のクラスの物を2kg買って中央郵便局から日本の実家に送りました。この石鹸使ってみましたが、女性が何故あんなに喜ぶのか今でもよくわかりません。嫌いじゃないですけど。

 

 

砂漠の一本道を南下しハマに向かいました。この町は楽しい。

 

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町中を緩く流れる川に大きな水車が幾つも掛かっています。町の中心部にある物は周りが公園になっていて、人々が傍らで楽しそうに見上げています。夕方あたりから人が集まり始め暗くなると多くの人出で賑わいます。単純な物でも動く物には大人子供を問わず心惹かれるということですかね。実際本当に飽きません。そして音をたてて回る水車の横で行き交う人を眺めながらアイスクリームを舐めるというのが、この町での一番の楽しみでした。大きくはない町ですが水車の存在だけで人を呼べるほどです。

かたかたかたかた…

 

f:id:pelmeni:20191216022001j:plainf:id:pelmeni:20191216022530j:plain時々虹もf:id:pelmeni:20191216022557j:plainf:id:pelmeni:20191216022618j:plain

 

 

 

中世十字軍時代の城塞 クラック・デ・シュバリエ

途中ホムス乗換でハマから日帰りで行くことができます。マッシブで力強くいかにも城塞といった形態で有名です。よく目にする全景写真を撮るためには少し離れた高い所を探さなければなりません。帰り際にまとめてそんな写真を撮ろうと考えましたが、何だか面倒になって停まっているバスにさっさと乗り込んで帰ってしまいました。よって此処は部分的な写真だけです。

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城塞自体は話題にのぼるほど面白い物とは正直思えませんでした。半ば遺跡に近く、もう少し細かいディティールがあれば良かったのに、というのが個人的な感想です。暑い所では想像力を要求されるものに対してはなかなか気が乗りません。ただ西洋人にとっては歴史的に意味のある場所なので多くが行きたがります。日本人がインド辺りで仏教や釈迦ゆかりの地に特別な感情を持つのと似たものでしょうか?。立地は最高で眺めは良いので、気分は晴々としますが… 

 

帰りのバスで、アレッポで同じ宿に泊まっていたイタリア人男性二人連れに再会し、一緒にハマまで帰ることになりました。腹が減ったと言うのでホムスのバスターミナル近くで軽食に付き合いました。

此処ではバスの乗換をしただけなのでこれが唯一の記憶であって、その後は長い間忘れていました。後年再びその名を耳にしたのは内戦のためです。この街が反体制派の拠点だったために戦闘が起こり、市街戦により荒れ果てたホムスの状況を報道により知ることになりました。もう憶えていませんでしたが車窓から眺めたであろう街並みが破壊され、何処かですれ違ったかもしれない人々の身に降りかかった大きな不幸が、揺れる映像の向こうに確かにありました。こんな状況は当時の記憶とは全く結び付きません。現実の世界で起きている事であっても他人事の様にみえてしまうのが嫌でしたが、現在の自分とは隔たりが大き過ぎてどうしようもありません。 

おかげで本来であれば忘却の彼方へと去っていたはずの記憶が幾つか呼び起こされたのは事実です。でもそれは残念ながらあまり嬉しいことではありません。できれば別の種類の話、懐かしく思い返すことのできる話であって欲しかった。

 

 

 

'05旅 その12 トルコ4

トルコ4>トルコ西部~ Aug.-Sep. 2005

→ブルサ→イズミール、エフェス→コンヤ→

 

(経路内の時間は参考にしないでください)

 

サフランボルからはブルサに行こうとしたところ、珍しく直行バスの便が悪く1日1本それも夜の中途半端な時間しかありません。バスターミナルで尋ねると、イスタンブール行きに乗り手前のイズミットで乗り換えればよいと教えてくれました。それなら本数は多い。イズミットはイスタンブールより少し内陸側にあり、交通の結節点として位置しているようです。ターミナルも大きく乗換もスムーズでした。

 

ブルサはオスマン帝国かつての首都。モスクや廟が残る古都で緑も多く観光も楽しいですが、イシュケンデルケバブというヨーグルトと一緒に食べるケバブ発祥の地なので、もちろんいただきました。ただこの頃は普段食べつけない羊料理に飽きていたせいか、、、味の感想は憶えていません。トルコで肉料理といえば、簡単な料理なら羊か鶏を選べるのですが、きちんとした店では大抵羊だったような気がします。いやそうでもないかな。ただトルコに行ってまで鶏はないだろうという気概で無理にでも羊を食べ続けていました。ちなみに日本でも少しは名を知られるようになったパンにはさむ軽食としてのドネルケバブは、ベルリンのトルコ人が始めたという説もあるようです。僕はベルリンでわざわざトルコ人街まで食べに行きましたが、実は最初にパリで食べた牛肉ドネルケバブの方が好きだと今でも思っている不届者です(笑)。

 

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やっぱりモスクは居心地の良いところです。トルコでは大抵誰でも自由に入ることができ、静かにしている限りは各人が思いのままに過ごすことができます。端の方では寝ている人も時々見かけます。人が多くても基本的には静謐な場なので、旅行者にとっては心身ともに休まります。ただし祈りの場では男女の区別は厳守、不問なのは猫だけ、、、多分。

 

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モスクにもいろいろあります。

 

 

 

イズミルはトルコ第3の都市。港町で見所はいろいろあったはずですが、気が向かずにあまり歩き回りませんでした。ここはエフェスの遺跡へ行くための立寄りと割り切っていました。僕の場合、長く旅をしていると気分の乗らない時期が必ずやってきます。国が変わると気持ちは大体リセットされますが、広い国を時間掛けて移動し続ける場合バイオリズムのように自分の「ヤル気」が波の様に上下することが何だかわかります。

まあ、そうでなくても僕は大きな街ではただ単に雑踏に紛れて時間を過ごすことが好きです。外国に行ってまでとは思うのですが、習慣というか日常生活に戻ってみたいという気が時々頭をもたげてくるのです。

ということで、大通りを暫く歩きまわり、市場へ向かいお決まりのように猫と時間を潰し、バスマネ駅前のだだっ広い床屋で散髪をしてもらいました。適当に頼んだところ、当時多くの若者にみられたソフトモヒカンっぽい感じに仕上げてくれました。まあ、頂部がちょっと長めのスポーツ刈りみたいなもので、自分ではトルコカットと勝手に呼んでいました。よく見ると似合ってない(笑)。時間を掛けずに値段も安い。多くの客が頻繁に来店してはサッと刈ってもらいすぐに出てゆくのも気軽でいいなと思いました。でもそれをおしゃれだと思っているのか、髪型なんてあまり気にしていないのか、どっちだったのだろう。

 

 

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エフェスの遺跡  

程良い広さの敷地内に建物や遺構が散在しています。古代都市の遺跡の場合、大通りを中心に歩けば大抵は効率的に廻ることがことができます。ピクチャレスクな屋外劇場跡や神殿は規模も大きく状態も良いので、前に立つと心が弾み、想像力が飛躍します。遺跡としては一級品です。

 

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地図でみるとわかりますがトルコは東西に結構長い国で、西のエーゲ海沿いから南のシリア国境まで行こうとすると国土の半分を横切らなければなりません。日本でいうと東京~福岡くらい。今にしてみれば地中海沿いを移動した方が良かった様にも思えますが、旅行時は何か魅力を感じなかったのでしょう、多分。国境近くのアンタキヤに急ぐ途中コンヤで逗留しました。

 

コンヤといえばセルジュク朝の古都ですが、イスラム神秘主義スーフィズム)、メヴレヴィー教団の中心地です。

「スカートをはいた信者が音楽にあわせて、くるくると回転をし踊るという宗教行為(セマー)で知られる。これは祈りの手段であり、回転は宇宙の運行を表し、回転することで、神との一体を図るというものである。(Wikipediaより)」

教団はトルコ革命時に解散させられましたが、今はその舞踏も始祖ルーミーの命日に披露されており、コンヤを象徴する祭礼となっているようです。なかなか興味深かったのですが旅行時には時期が合わず見ることができませんでした。ただイスタンブールやカイロなどでは観光客相手の舞踏ショーとして続けられており、そのような形ではうかがい知ることはできます。後年訪れたパキスタンのラホールではスーフィーナイトと称する音楽儀礼として、深夜に聖者廟で音楽に合わせながら熱狂的に踊り陶酔状態に陥ったり、まったりしたり(もちろんアレで)していました。(日本でいうクラブみたいな意味合いの場所かも?)

それはともかく、この街も古い歴史を持つのでモスクや博物館が多く、意外と楽しむことのできる場所です。人間や動物を示す具象的なものは何も無く、一切が植物の文様や幾何学、カリグラフィー等による抽象の世界に浸るにも審美的な感覚が必要ですが、毎日接していれば自然と感覚は慣れました。イスラムの世界はこの後も長く続きます。

 

以下、最後の町なので写真多めです。

 

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▽メヴラーナ博物館(ルーミー廟)

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▽アラエッディン・モスク

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▽カラタイ・マドラサ 保存され現在は博物館

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▽インジェ・ミナーレ・マドラサ こちらも現在は博物館

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▽Aziziye Masjid モダンで明るく美しいモスク  ここは気に入って長居をした

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f:id:pelmeni:20191026150055j:plainアンタキヤ行のバスを探す

 

散々乗りまくった夜行バスも最後です。今回のトルコのバス旅の感想は前回と同じです。あらゆることがスムーズで楽なのです。大抵は流れるように移動できました。それが普通にできない国を旅してきた後だけに、初めの頃は有難みさえ感じました。ボロいバスに揺られ移動するということは、それはそれで得難い体験なのですが、快適なバスの車窓から流れ行く風景をぼうっと眺めるというのも気持ちの良い時間です。あらゆる物事が一筋縄では行かなかった中央アジアコーカサスの後では、トルコは正直すべてが薄味に感じました。それでも良かった。そう感じること自体に意味があると思ったわけです。ただ心に残る印象としては多少浅くなることは否めません。

 

 

あーっ!!!

バスが街から外れて明かりが少なくなってゆく窓の外を眺めながら、突然思い出しました。

 -----パムッカレに行き忘れた!

以前タシケントのロシヤホテルで偶然知り合ったU君がその後絵葉書を送ってくれたパムッカレ。水量が減り石灰棚には立入禁止になってしまったが、せっかくだから行ってみようと楽しみにしていた。近くに来ているのに何故だかすっかり忘れていました。う~と呻いてみても後のまつり。せめて町の中で思い出すことができれば、、、戻ったかな?。

ただ、こういうことは長旅の最中では時々あるものです。そんな時は縁が無かったと諦めるしかありません。明日の昼にはアレッポに着くのだから、来たるべき新たな時間に期待をしよう、そう自分に言い聞かせて眠りに入りました。毎日が思いもよらぬ体験の連続なので、次を楽しめばよいのです。過ぎた事、無理な事に拘ることは無くなり、その種のことには無頓着になっていった気がします。あ~、元々の性格に因るのかもしれないですけど。

 

 

 

 

 

 

'05旅 その11 トルコ3

トルコ3>トルコ中部 Aug. 2005

→アマスヤーアンカラサフランボル

 

 

(経路上の時間は参考にしないでください) 

 

ほとんどアラブのような乾燥した南東部を脱してアマスヤまで移動しました。アナトリアを一気に縦断したかたちです。夜行バスで一晩を過ごし、目を覚ましたら昨日までとはうって変わっての別世界です。山と川のある風景には心が癒されました。この町にはオスマン帝国時代の住宅や町並みがきれいに保存されています。なかには内部も見学できるよう修復された住宅もあります。

 

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ディヤルバクルでもそうだったのですが、保存住宅では人々の生活がわかるよう室内に人形や雑貨が設置されています。はじめ見た時は妙にリアルでぎょっとしましたが… 実はトルコだけでなくアラブ諸国などでもこのような展示はみられます。おもしろいですね。

 

 

首都アンカラの人口は、トルコ第2ですがイスタンブールの1/3でしかありません。中心地は近代的で首都なんだなあと思いましたが、規模が規模だけにトルコという国の割にはこじんまりとした印象を拭えません。旧市街とよばれるエリアは確かにトルコ的であはあります。かつての滞在を思い返すと、イスタンブールだけが他のトルコの町とは違った空気が流れているような気がしてきました。 歴史も文化も他とは大分違うのですからある意味当然かもしれません。そんなことを確かめてみたくもあり実はイスタンブールに寄ってみようかという気持ちも少なからずはあったと記憶しています。(結局行きませんでしたが)

この街では首都ならではの重要な仕事がありました。それは次に訪れるシリアのビザとり。まずは日本大使館へ行きサポーティングレターを発行してもらい、それをもってシリア大使館でビザの申請。翌日発行。スタンプ状のビザが押されたパスポートを眺めていると小さな喜びがこみあげてきます。長期旅行者にとっては次の国へ進むことができるということは単純だけれども重要なことです。動き続ける旅行者にとってはプラクティカルな面での旅を続ける原動力のようなものです。

 

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アンカラ地下鉄の車両のマーク

 

 

サフランボルもトルコでは有名な場所です。斜面に並ぶ住宅の景観、モスクやハマムなどの古い建築で知られています。寄棟の屋根をもつ独立住宅は、日本では普通にみられますが、世界ではあまりないようです。ヨーロッパなどでも切妻の木造建築はありますが、寄棟が様式としてまとまった数が存在する地域は珍しいのではと思います。この光景には親近感が湧きます。

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チャイハナ、といってもそこは野郎だけの世界 ただその足元には彼らに不釣合いな…

 

 

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昨今の猫ブームでトルコ人の猫好きも日本で知れ渡ることとなったようです。僕が訪れたことのある国の中では親猫度はモロッコがおそらく一番で、あすこは何処へ行っても至る所に生息していました。もちろんトルコもなかなかのもので彼の国には引けを取りません。トルコ人は寝そべって動かない猫の上を平気でまたいで歩きます(笑)。人に気を許している野良猫が多いことからも両者の良好な関係が窺い知れます。イスラムでは犬と猫の扱いが他とは違いますからね。彼らの付き合い方も今に始まったことではないのでしょう。

 

サフランボルにも伝統的な住宅が修復保存されており、内部を見学することができます。ここでも多くの人形たちが出迎えてくれます。今日は宴会ですか?

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そして中庭に… 仔猫団子! 3匹いる!

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ここまできたら今回は最後まで猫でいきます。↓彼は宿猫。共有スペースで朝食とか何か食べてると気が付けば傍らで静かにしているのです。黙ってこんな顔して待たれると、何かあげたくなるというものです。猫ほど、実利的にはあまり人間の役に立っていないにもかかわらず、一方的に寵愛を受ける動物はいませんね。

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'05旅 その10 トルコ2

トルコ2>トルコ南東部 Aug. 2005

→ディヤルバクル、ハザンケイフ、マルディン→シャンルウルファ、ハラン→

 

(経路上の時間は参考にしないでください)

 

ヴァンから夜行バスに揺られ、ディヤルバクルのバスターミナルにはほぼ遅れなく朝着きました。この辺りはクルド人が多く住んでいる地域です。クルドといえば僕が最初に思いつくのがクルディスタン労働者党、略してPKK。その昔IRAアイルランド)とかETAバスク)とかPKKクルド)など独立運動がゲリラやテロ等に過激化していったのは、皆アルファベットの頭文字3文字で呼ばれる組織だった。現在トルコでの停戦の合意はなされています。この旅行時は平穏化していて非常事態宣言は解除されていましたが、何か起きれば外国人は入域禁止になるエリアでした。そのせいもあるかもしれませんが他と比べて人が来ないところでした。ディヤルバクルの街自体は起源が非常に古く、様々な出来事を乗り越え現在まで連綿と続く歴史があります。

宿泊にはエアコン付きの中級宿を選びましたがそれは理由のあること。何故ならこの時期は非常に暑い! 夜に部屋でTVを観ていたらディヤルバクルの最高気温は41℃と表示されていました。それならハサンケイフは多分45℃くらいだっただろう。

 

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古代の城壁に囲まれた旧市街はごちゃごちゃしていて楽しかった記憶があるにもかかわらず、なぜか写真を撮り残していません。上の写真はきれいに修復保存、公開さている当地の建築様式をもつ邸宅です。


 

 

ハサンケイフ

途中バトマンという町でバスを乗換え日帰りで訪問。ここは非常に古くからの歴史がある町で、チグリス川を望む高台には新石器時代の洞穴住居跡とビザンチン帝国時代の要塞の遺構があります。古代ローマ時代の痕跡がある集落や、シルクロードに沿って架けられた橋など、中世のイスラム建築も残されているところです。

f:id:pelmeni:20190909004639j:plain対岸から眺める

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ところが、歴史的に大変重要なハサンケイフがトルコ最新の一大ダムプロジェクトでほとんどが水底に沈む危機に見舞われているのです。当時から計画があることは知られていました。今回少し調べようと思ってググったところ最初に目に入ったトピックがこれでした。救出発掘調査、修復、搬出のプロジェクトも話題になったようです。更に今年の10月から立入禁止となることも発表されていて、本当に水没が始まるのかもしれません。これにはどうやら、単に治水のみならず、水を資源として掌握し下流の国シリア、イラクに対する政治的牽制の意味合いもあるということです。でも犠牲は非常に大きい。信じたくないです。

 

 

マルディン

この町へも日帰りで。斜面に展開する町の雰囲気はトルコというより中東です。乾燥地帯で建物は陸屋根。階段状の通路も多くバザールが活発な町です。砂色の町並みは夕陽に映えてとても美しい。

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南方のシリアから続く平原の終端に在る 視界の中のこの先の何処かに国境が引かれている

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細い道が入組み坂や階段も多いせいかロバが使役されているf:id:pelmeni:20190910194659j:plainf:id:pelmeni:20190910195223j:plainf:id:pelmeni:20190910195346j:plainf:id:pelmeni:20190910200236j:plain気がつけば日没の時刻 さらばマルディン

 


シャンルウルファ 

ここも暑い。ムシャクシャするほど暑い。それでも既に旅の体となっているので、そんな場所でもひたすら足が動いてしまうのだ… さまよえるバザール、光と影が織りなす迷宮。砂色のサンドストーンの家で固められた細く曲がりくねる路地。夕陽の中ですべてが美しい。こんな面白い町を彷徨わずにして何のために旅をしているのか、ということだ。<もちろん個人の趣味です>

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f:id:pelmeni:20190911141903j:plainf:id:pelmeni:20190911142257j:plainf:id:pelmeni:20190911142007j:plainアブラハムの聖地 モスクが面する長方形の長いプールは爽やかな水辺の空間f:id:pelmeni:20190911141927j:plainバザールの中庭は野外のチャイハネ 娯楽と交流の場 木陰が心地良い

ここでウロウロしている時に何故か若い女性に来訪を祝福されて(と勝手に推測)、頬にぶちゅっとキスをされたのがこの街一番の思い出? 遠い東アジアからはるばるウルファにようこそ、アッラーの祝福を!といったところだろうか。テシェキュレール。

 

大通りから細い道に入ってみる。砂岩でできた住宅は閉鎖的なつくりなので、何だか迷路に迷い込んでしまったような気分になります。生活空間は中庭を中心に展開されているのだろうが道路からはなかなか窺い知れないことが少し残念。とはいえ鍵状に続く小道を当て所なく歩いていると、時を忘れてしばらくの間、意識は異国の空の下を半ば夢見ながらさまよいます。気が付けば陽は落ちて周囲は既に薄暗くなっていました。通りに戻れば店には照明が点き、肉を焼く香ばしいにおいが漂い始めています。さて、現実も悪くないですね。

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ハラン

何もない一本道を進む。その先にあらわれたのは、紀元前に歴史をさかのぼる古い町。かつては城壁に囲われていたらしいが当時の都市は滅ぼされた。現在、目を惹くものは薄い石材による円錐状のドームです。遠目には日干し煉瓦の積み上げに見えました。石材なのでイタリアの有名なアルベロベッロの住宅に似ていますね。原始的で誰もが何処でも考え付くものといえば、そういうものかもしれない。多分石の他に使える材料が無いのでしょう。一部の住宅は修復保存されていて内部に入ることができます。しかしー、ここはー、更に暑かった。じりじり焼かれるような感じで、もう暑さも限界でした。ウルファに帰ってアイスクリーム屋のはしごをしたと当時の日記に書いてあります。

 

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f:id:pelmeni:20190912015548j:plain民家は少なく、現在では居住スペースは陸屋根の増築部分だそうです