もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードです。

'05旅 その18 ベツレヘム、アンマン、ペトラ 

アラブ7>イスラエルパレスチナ、ヨルダン Oct. 2005

エルサレム←→ベツレヘム→国境→アンマン→ワディ・ムサ/ペトラ遺跡アカバ出国

 

 

せっかくイスラエルまで来たのだから「パレスチナ自治区」へも足を伸ばしてみた。エルサレムの近くにはPLOアラファト議長が事実上軟禁されていたラマッラという街があるが、氏は既に前年亡くなっていたので、ベツレヘムへ行くことにした。パレスチナといってもベツレヘムはキリスト生誕の地、クリスマスシーズンには世界中から巡礼者が訪れる観光地でもある。エルサレムからはたった10kmしか離れていないのでミニバスが利用できた。ただ、これで街中まで行くことはできない。

 

 

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車の通行は手前のチェックポイントを通過し壁の目前のロータリーまで。ここがイスラエルパレスチナの境界(停戦ライン)なのだが、壁はパレスチナ側に侵食して建てられているところもある。イスラエルの入植地がパレスチナ領内に作られているからだ。

壁の通過自体に問題は無かった。記憶が定かではないがパスポートチェックはあったはずだ。大きなプレキャストコンクリート版がうねうねと連なる景観は異様である。無表情で威圧的、人が生活や活動する空間には相応しくないものだ。

20分位歩いて街に着いた。多くの観光客が訪れるだけあり普通にきれいな町。店先で売られている商品にヘブライ文字の表記は無くラテン文字ばかり。ヨーロッパからの輸入品なのだろうか。

 

f:id:pelmeni:20200706194626j:plainf:id:pelmeni:20200706195120j:plain聖誕教会

f:id:pelmeni:20200706195501j:plain地下にあるミルクグロット教会

 

 

エルサレムに帰り、同じ宿に泊まっていた日本人の女子2人とアンマンに戻ることになった。

 

f:id:pelmeni:20200707032424j:plainアンマンのダウンタウン、フセイニモスク前(これはラマダン以前)

f:id:pelmeni:20200707033652j:plainf:id:pelmeni:20200707033059j:plainアンマンは丘に囲まれた街で、一番低い所が上記ダウンタウンの中心となる。ローマ遺跡があり、円形劇場はきれいに整備されている。すぐ横にある小さな博物館は展示がわかりやすく楽しむことができた。民族衣装や、伝統的な生活様式の紹介、変遷の展示が主なものだった。

f:id:pelmeni:20200707034239j:plainチタデラからの眺望 この先に新市街が広がっている

 

アンマンではどうしようか迷ったが、再び安宿クリフホテルに泊まってしまった。この宿の従業員サーメルも当時の日本人旅行者の間で名高い人物の一人だったが、評判通りの好人物とはすぐに判った。客に対する対応が常に真面目で親切だ。喋り方や表情等ひとつひとつに偽りが感じられない。親切なだけでは必ずしも人格まで素晴らしいと決めつける理由にはならないのだが、彼の場合有無を言わせずポジティブな印象を抱かざるを得ない。多少過剰なところもあり逆に気遣いしてしまうこともあったが、それは日本人とアラブ人の考え方の違いに因るものかもしれない。個人で長旅をしていると不愛想な外国人と接しなければならないことも続き、たまに遇う暖かなもてなしには心を動かされるものだ。こんな僕でも。彼はパレスチナ難民の家族の生まれだった。宿のノートにはいろいろな事情が書かれていて -----言葉のわかる旅行者が聞き取ったようだ----- 生い立ちから現在の職場まで長いこと恵まれた環境に居ないことを知った。そんな訳で出発の際は他の旅行者同様に僕も、厳しいかもしれないが彼の今後の幸せを願わずにはいられなかった。

-----実は旅行後しばらくしてから彼の情報が幾らか入ってきた。あのブラックな環境のクリフホテルから解放されて雇われだが別の宿を任されているとか、何と日本人女性と結婚して来日したとか… みな断片的なもので今現在どうしているかはわからない。旅先で会った忘れ難い人物の一人ではある。

 

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彼がサーメル こう見えても案外若かった。夜になると宿泊客とUNOをするのが唯一の楽しみだったようで、仕事中とは人格が豹変することに驚いたが、皆笑って許せた。

 

出発前日に再び新市街へ行きインターコンチネンタルホテルなど尋ねてみる。食器のカチャカチャ触れ合う音やコーヒーの良い香りに足をすくわれ、1階のデリ・カフェでまた1時間以上もまったりと過ごしてしまった。まったく外国人のためのアジールですなここは。その後セーフウェイという大きなスーパーマーケットへ行ってみたが、通常のように身なりの良い客が多く来店していた。入口横にあるKFCはドアが開いていたので覗くと開店休業状態。途中まで歩いてぶらぶら帰ってきたが、飲食に関しては新市街でも全くやっていなかった。

 

 

アンマンからワディムサへはミニバスに乗る。地元の若者と話をしたが気がつけば眠気に襲われて意識が朦朧となり内容なんてどうでもよくなっていた。何故なら前の晩は夜中の3時まで宿でDVDを観ていたからだ。ジブリのBOXセットが置いてあり、紅の豚ラピュタを翌朝のことも考えずに夜中過ぎまで見続けるなんて、相変わらず気ままなものだ。でも何故そんなものがそこにあるのだ、まがい物だろうと思った人は正解で、中国製のコピー品だった。以前北京の街中でアニメやハリウッド映画のDVDが日本の1/10以下の値で売られているのをみたことがある。出自を問わず「安い」ということがそれだけで物事が拡まってゆく理由となる地域はかなり多い。需要があるから供給されるのも事実とはいえ間隙を衝くような姑息さを許していることは嘆かわしい。ただそんなものでも楽しんでしまう僕等は大きなことを言えない。

ワディ・ムサはペトラ遺跡隣の町。ほぼ観光客で成り立っているようなもので、すべてがツーリストプライス。何だかなあと思いながらも町中には選択肢はない。早々に遺跡へGO!

 

f:id:pelmeni:20200711041756j:plain遺跡は奥に長い

f:id:pelmeni:20200711042807j:plainシークを進むf:id:pelmeni:20200711043127j:plainアル・ハズネ/宝物殿 素晴らしいf:id:pelmeni:20200711043508j:plain凱旋門を望む

f:id:pelmeni:20200711043852j:plain赤い谷を延々と歩いてきた

f:id:pelmeni:20200711044200j:plain最奥にある修道院f:id:pelmeni:20200711051227j:plain岩山に刻まれた壺の墓

ペトラはそもそも古代の都市遺跡で、広大なエリアに遺構等が散在している。まあ古すぎるので大きな構築物以外に人々の生活の跡がしのばれるようなものは殆ど残っていない。ただ強烈な自然、燃えるように赤い大地の印象がとび抜けて強かった。あまりにすべてが赤かったので眼が一時的におかしくなり、遺跡から出ると周りの色が違って見えたほどだ。

 

 

我々は更に南下しエジプトを目指す。ヨルダンから陸路エジプトに入国する場合は、アカバ~ヌウェイバ間のフェリーを利用することになる。アンマン以南は他にルートが無く、フェリーも1日各1本なのでここで旅行者は合流することになる。この時も僕の他にはエルサレムで知り合った2ガール、アンマンで同室だった男性1人、ワディムサの食堂で会ったカップル、計6人もの日本人がフェリーを待つことになった。

船は高速船と普通船の2種類があり所要時間はそれぞれ1時間、4時間程度、料金は45USD 、32USD、出発時間はそれぞれ3時と昼だった。我々は遅い方を選んだが通常だったらそれでもおかしくはないことだ。ところが当時はラマダンで遅い船の出発は夜間になるが時刻は決まっていないという。まずは待つしかないのでとりあえずトランプを始めた。大貧民とシットヘッドを延々と繰り返すのだが不思議と飽きなかった。エルサレムで会った韓国人も乗場に現れたが、彼らは高速船のチケットを買い早々と行ってしまった。ふと思ったのだが、このような選択肢がある場合、理由はわからないが日本人旅行者は大多数のローカルな人と行動を共にすることが多い。僕自身も経験的にそうだといえる。

現地の利用客は夕方になると外に出て集まり始め、日没と同時に少し賑やかな食事を始めた。僕らも彼等の輪に加わったりテントの屋台で何か買ったりした。出発時間が夜半になったのは、この時期大切な食事の時間を無事終えてからのためだったのだろう。出国手続きを済ませ船内で席についても我々は馬鹿みたいに大貧民を続けた。眠るには短い運航時間だったし、妙な高揚感にうなされていた感もあった。

 

 

 


 

'05旅 その17 ラマダンから逃れイスラエルへ

アラブ6>ヨルダン、イスラエル Oct. 2005

→アンマン←→サルト、ジェラシュ→国境→エルサレム→テルアビブ←→アッコ→エルサレム

  

 

昨年の9月にサウジアラビアが個人旅行者に対する観光ビザの発行を開始するというニュースを耳にした時の印象は正直なところ、俄には信じられないというのが半分、ついにその日が来たかというのが半分だった。というのも、何もない小国や情勢が不安定で旅に適さない国を除けば、ある程度名の知れた国で個人旅行の許されていない最後の砦がサウジアラビアだったからだ。世界全ヵ国制覇を目指す旅行者でもサウジだけはツアーで訪れなければならなかった(この旅行中グルジアで会った人も確かそう言っていた)。一応公式にはそのようになっていた。と、敢えて書いたのは抜け道は存在したから。違法手段を使わない文字通りの抜け道、トランジットビザの利用だった。滞在時間が限定されるので観光どころではなく一気に駆け抜けることになるのだが、それも一興と思える人間ならOKだろう。日本人はヨルダンにビザなしで入国できるので、サナアでトランジットビザをとりイエメン→サウジ→ヨルダンと抜けることは可能で、ジエッダあたりで一泊位はできたはず。帰りの航空券は捨てることのなるのだが、僕は可能ならそのつもりでいた。

でも結局はしなかった。ラマダンがもう間近だったからだ。ラマダンの一週間前からサウジは外国人入国禁止となるので、日程ギリギリで組んだとしても、イエメン2週間の滞在を半分に減らしてサウジに入国しなければならないことになるのだ。少し考えてイエメンの方を選んだ。サナアに滞在して2,3日目だったがこの国の魅力に心を奪われ始めた頃だった。滞在を半分に減らす気にはなれなかった。

予めラマダンの開始日を調べて行動すればよかったのだけれど、そんな難しいこと苦手なんですよねえ。長旅中に予定をたてて行動することがどれだけ大変なことかは、経験した人でなければ解らないでしょう(笑)。できるのは最初の頃だけです。というか、予定に捉われず自由に動くことにこそ長旅をする意味があるわけで、まあ、こればかりはしょうがない運の巡り合わせと考える。ただ、この流されるままに生きる楽しさを知ってしまうと、駄目人間に堕ちていく可能性は大だ(実感です…)。

 

それから既に15年経った。サウジアラビアは頑なに拒んでいた個人旅行者を受け入れ始め、最後の楽園などと呼ばれたイエメンは簡単に旅することのできない国となってしまった。当時の選択の際に現状を予測していたわけではないが、歴史とは得てして不思議なものである。

 

※トランジットビザ~通過査証 交通の乗換や移動で一時的に滞在する場合のビザ。大抵は短時間(数十時間~数日)。出国先の入国保証(ビザ等)が無ければ得られない。

 

 

ラマダンが迫っていた。イスラム太陰暦なので西暦での開始日は毎年異なる(早くなる)。イスラム聖職者の長老が新月の確認をもって正式な発表となるが、それは微妙なところでこの時も予定日よりは一日遅れての開始が発表された。

ラマダンとはイスラム歴の第9月の名前で、この月に断食が行われます。「ラマダン=断食」ではないのです。詳しい内容はWiki等を見てください。

ヨルダンには長く滞在したので他国を経由して来た旅行者から話を聞いた。トルコはかなり緩く断食していない人もいたり、バスの運転手の中には普段と変わらず運転中も煙草を吸っていた人もいた。シリアやレバノンもヨルダンに比べれば雰囲気は穏やかだったという。意外だったがこの近辺ではヨルダンが一番保守的で厳しく戒律を守っているということだった。

そのヨルダン、アンマンのダウンタウンの雰囲気というと、多くの店がシャッターを下ろし、必要最低限の店のみ開けている感じだった。街角によくあるジュース屋なんて、開けていたがその場で飲むことは許されず透明のビニール袋に入れて持ち帰り家で飲めということだった。パン屋も早朝のみ。この期間は帰宅時間が早くなり午後3時頃から道路が渋滞し始める。クラクションもうるさかった。そして日没を待って夜遅くまで飲み食いを始めるのだろう。夜間の人出はそれなりに多かった。

初めは物珍しかったが面倒になり、新市街にある外資系ホテルまで足を運んでみた。ここへ来れば空調の効いた快適なカフェでヘラルドトリビューン片手にコーヒーを飲みながら寛ぐことができる別世界だった。たまにはいいよねえと思いながらも、泊まっていた宿の下階にある地元の男性で賑わう喫茶店のカルダモン入珈琲が懐かしく思い返された。新市街の方が開いている商店などは多かった気がする。

ラマダンはこのあと1か月間、カイロ滞在の途中まで続く。

 

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アンマンから日帰りでサルト、ジェラシュの遺跡へ。サルトはかつて商業で栄えた町で、オスマン朝時代の大きな商家が残っているが全面修復中で見ることができなかった。近くの山から切り出した黄色っぽい石の住宅が丘の斜面に積み重なっていた。ジェラシュはあまり知られていないが広くて保存状態の良い都市遺跡。アゴラや屋外劇場、コリドール、神殿などが残っている。ラマダンが始まった日に訪れたせいか観光客はとても少なかった。暇そうな物売りがジュースを持って来たので断ったら「おまえもラマダンをするのか?」と訝しまれたので笑って済ませた。

 

サナアからアンマンに戻った後はイスラエルへ向かった。ここの国境(キングフセインブリッジ)は面倒で長時間にわたる入国審査で有名だったので覚悟をしていたが、何故か拍子抜けするほどすぐに終わった。普通なら多数のビザや出入国印で埋まったパスポートを片手に根掘り葉掘り尋ねられても不思議ではないのだろうが、形式的なことしか聞かれなかった。不思議に思ったが入国後その日と翌日がユダヤの新年の祝日だったことを知った。多分通常の休日のように業務は半ドンでイミグレの姉さんは仕事したくなかったのだろう。こういうツキはとても嬉しい。旅の間は些細な事でも良い方向に思考回路を動かす習慣がいつの間にかついている。

入国後はまずはテルアビブへ。安息日シャバットの土曜日は何と市バス等公共交通までストップすることには驚いた。街中は静まり退屈だったのでビーチに寝転んで昼寝をした。ここには人が集まっていた。

f:id:pelmeni:20200628211638j:plain眩しい太陽の下、薄目で見慣れた光景を眺めながら、自分が本来所属している世界はこちらなんだということを思い出した。久しぶりに戻ってきたという感じだった。でも束の間の何とか、またすぐ出て行かなければならない。

テルアビブは普通の都会。街路樹が多くベンチも至る所にあり休憩に困ることはない。ロシアから移住してきたユダヤ人も多いようで、町中でロシア文字を目にすることもままあった。コミュニティがあるのかそうした商店や食堂が集まっている一角では、ロシアンポップスが流れていた。彼の地を訪れた人であれば耳に残っているかもしれない、あの、リズム感の無い甘く切なくそして妙に安っぽいメロディ。何だか懐かしく思ったのは、実は嫌いではないから(笑)。

テルアビブのような新しい街にも世界遺産があった。それは「テルアビブの白い都市」。第一次大戦後移民が急増し住宅不足に陥ったテルアビブに、当時ヨーロッパの最新鋭だったバウハウス様式で一気に建てまくった結果だ。本家バウハウスも閉校に追い込まれた時期で欧州でも建築家が仕事にあぶれていた。せっかくだからインフォメーションでガイドを買って巡ってみた。幾何学に基づく意匠は同様なのだがよくみれば暑い気候に合わせて開放的なつくりとなっている。南欧の住宅に似た雰囲気だ。ヨーロッパで創出された様式に対して新たな土地の気候的要件に合わせて取り込まれた変化は確かに興味深いものだが、世界遺産の認定が安売されている現在ならいざしらず、旅行当時は、それほどのものなのかというのが正直な印象だった。これより先に認定されるべきものが世界中に多々存在していたはずである。

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写真写りは良い 流線形は個人的に好みです

 

一通り歩き廻った後広場で休んでいると若いカップルから話しかけられた。彼女の方が日本に滞在したことがあるということで片言の日本語だった。尋ねると熊本など九州に1年半滞在しアクセサリーを売っていたとのこと。よく駅前で黒い布を拡げてシルバーの小物を売っているあれで、日本だけではなく他の国でも見かけるのはユダヤのネットワークが元締めである故と聞いていた。仕事内容はともかく難しい事無しで外国に滞在できるシステムがあるというのは少しだけ羨ましい。英米人やオージー達が世界中で英語教師という職に気軽にありつくことができるのと同様なことか。ちょっと違うか。

 

この旅初めて鉄道を利用してアッコ(アクレ)まで足を延ばす。車両もシステムも西欧並の快適さだった。音も無く流れて行く車窓の風景が妙に感じられるほどだった。硬いシートで尻や背中が痛くなったり急ブレーキで体ごとつんのめったり窓の隙間から砂が入ってくること等とは無縁の世界だ。

レバノンで訪れたスールやシドンと同じような形態の町。場所も近い。海に向かって幾らでも空間があるのに防御的に閉じて住まうのも同じ。

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海が見えると走り出したくなるのは何故だろう

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手を伸ばせば人々の生活に触れ合うことができる。でも彼等の日常には割り込まずにさっと横を抜けて行くこともある。結局旅人は一介の通過者でしかあり得ないのだから、それでいい、と思うこともある。

 

 

エルサレム。説明など必要ないほど有名で常に話題の尽きない都市。

新市街を一通り歩いたが普通の都市だった。ただしここでは皆横断歩道で車の通行が無い赤信号を律義に守っていた。そんな糞真面目な国は日本以外ドイツしか知らなかったがこの国も仲間入りか。街中に軍人が多いのは有名で、軍服に身を包みライフルを肩から下げた男女が普通に歩きバスに乗っている。若い人が多いのは高校卒業後に兵役に就くから。

旧市街のムスリム地区は典型的な中東の街。通路は狭く入組みスークが続く。キリスト教地区やアルメニア人地区は清潔でヨーロッパの町のよう。この時期でも当然ながら飲食に問題は無かった。まともなエスプレッソが美味しかった。

 

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早起きして朝一番で岩のドームへ 異教徒は中に入ることはできないので外から見るだけ

f:id:pelmeni:20200705012009j:plainf:id:pelmeni:20200705014641j:plainf:id:pelmeni:20200705012032j:plainディテールアップ 碧い陶器タイルや細やかな装飾が素晴らしい!

 

 

 

'05旅 その16 イエメン3

アラブ5>イエメン3 Sep.-Oct. 2005

サナア→タイズ→アデン→サナア←→シバーム&コーカバン

 

 

 

『アデンはおそろしい岩地です。草は一本もなく、良い水は一滴も出ません。蒸溜した海水を飲むのです。暑さは桁はずれで、・・・』 (家族宛の手紙)

詩を捨て当地で交易に従事していたランボーが一滴の水も無いといったアデン。諸々ずいぶんな言い様ではないか、これは是非とも行かなくてはならない、と当時考えたかどうかは今となっては定かではないが、妙な期待と共に訪れた実際のアデンは… 一言、

 -----蒸し暑かった

ゆるゆると漂う湿気の多い空気は他のイエメンとは異なるものだった。暑さの中のむせかえるような人いきれも此処の所無かったものだ。町中にわずかに漂う饐えた臭いは、熱帯の町特有のものだろう。熟れ過ぎた果物、捨てられた野菜、腐ってゆく生ものが露わに晒されている。暑い所ではどうしても隠すことのできない自然のプロセス。何となく雑然として投げ遣りな雰囲気も港町らしい。

 

※そこでもうひとつの感想

 -----まるでインドだな!

 

個人的には暑い所はあまり好きではない。大抵、たまっている疲労が表出し行動力が鈍ることになる。ここでも途中で歩き回るのが嫌になった。のんびり落ち着くことのできるカフェなどがあるわけでもなし。何処に行っても暑さから逃れることができないというのは、長く滞在すれば慣れるのだろうけど初めは気が萎える。如何ともし難い。

アデンという名前を聞けば、当時は二人の文学者のことが思い浮かんだ。両者ともフランスの詩人。ランボーの他、もう一人はそのタイトルずばり「アデン・アラビア」の作者ポール・ニザン。多分著者が記したのと同年代の頃読んだはずだが、性急で思い上がりの激しい文章についていくことはできなかった。すっかり忘れていたので改めて読み返してみた。今はそれほどでもないが、やはりあまり受け入れられるものでもないと思った。 

それとは別に、ランボー、海と来れば、連想されるものは有名な映画の一場面。ベルモンド&カリーナとゴダール気狂いピエロ。「地獄の季節」の一節が引用されたあまりにも有名なラストシーンの印象が強い。静かな海を見下ろす崖地だった故、アデンのイメージが勝手に結びついた。しかしここは地中海ではなくアラビア海。もちろん分かっていたがアデンはあんなにドラマチックな場所ではない。共通することは遮るもの無く降り注ぐ陽差しくらいかな。でもその場に立てば眼前の現実に嫌でも惹き寄せられる。

 

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f:id:pelmeni:20200517011015j:plainかつて大英帝国領だったので、教会も時計塔も一応ある


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タワヒ地区にはコロニアルっぽい古い建物も多いが、少し寂れて静かな雰囲気だった

 

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日本のODAによる新しいゴミ収集車 運転手はカートを噛みながら何それっ?て感じ

 

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『Rimbaud Tourist Hotel』 実際のところ、アデンでの最大の目的はこの宿に泊まることでした。ここはランボーが当時雇われていたバルデー商会の建物です。かつては近くまで海が迫っていたそうですが現在は大分先。このつい先年までフランス政府がフランスアラブ文化協会として所有していたそうで、返却後にホテルとなりました。共用部に昔の雰囲気が残っていたものの、泊まった客室は広い部屋を雑然と区切っただけで、前時代的な音をたてるエアコンを動かさなければ暑くて休むこともできないところでした。話のネタに泊まるような所でしたが、そのよう謂れの場所ですから見逃すわけにもいきません。多少は昔に思いを馳せることができました。(その後少し綺麗に改装され営業が続き、現在はもう無いみたいですが情報が入ってこない地域なのでよくわかりません。)

 

 

  *

アデンにはサナアからタイズ経由で向かった。タイズには一泊して一通り歩いたが街自体は普通でそれほど特徴はないと当時の日記に書いてある。夕食に食べた白身魚の炭火焼が美味しかったことしか書き留めてない。何となく記憶にあるがもう忘却の彼方に去りつつある場所だ。途中のサナア~タイズ間の風景は素晴らしかった。イエメンの山岳地帯はどこも力強い印象を受けるが、乾燥しているので緑で深く包み込まれるような感じはない。ただ薄くてもやはり緑、ここがアラブであることを忘れさせてくれるような安らぎは少しだが感じられた。

帰路では乗っていたバスが道路を歩いていたロバの群れを撥ねてしまった。倒れた3匹は可哀そうに助かりそうもなかった。やがて村の人に続き長老らしき人物が現れ運転手等と交渉を始め、1匹あたり20,000イエメンリヤル(約100米ドル)の補償で話がついたらしい。1時間かかった。以上は英語を話す近くの席の客が教えてくれた。時々起きる事だという。

食事休憩で停まった町では何と自警団に遭遇した。カラシニコフという機関銃を持った民間人が町中で警備をしているのだ。昼食をとった食堂の前にも銃を肩から下げた2人が立っていたので、話をした後にカラシニコフを持たせてもらった(もちろんそれが目的!)。銃口を上げるわけにもいかず鈍い重さに腕が引き下げられる感覚だった。写真を撮ってもらえばよかったが、そこまで気が回らなかった。残念。本物の銃なんて手にしたのは今まで生きてきてこれっきりだ。

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 * 

三たび戻ったサナアからのデイトリップはシバーム&コウカバンへ。この二つの町は崖の上と下に分かれた兄弟の町の様にみえる。上の町は想像した通り敵の襲来から逃れて籠る砦のような存在でもあると教えてもらった。

f:id:pelmeni:20200419162330j:plain下の町シバーム(砂漠の摩天楼とは同名だが別)は普通の田舎町。スークに多くの人が集まり賑わっていた。コウカバンへは背後の崖を1時間近くかけて登らなければならなかった。乾燥しているが陽射しが強く、犬も猫も日陰でお休み。

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 * 

アラブでは日中は非常に暑いため、たいていの場所では陽が落ちるあたりから街に人が出始める。サナアは標高が高いせいでそれほど暑くはないのだが、暗くなった後もスークは賑わっている。おかげで夜の散策も楽しかった。総じてイスラムの大きな街は夜でも家族連れが多く安全なところだ。

 

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気に入ったチャイハナがあって宿への帰りがけによく立ち寄った。サナアには他のイスラムの街同様に野良猫が多く、その店にも何匹か常に出入りしていた。この子は最高にかわいかったが、そういう猫に限って人馴れしているわけではなく、不用意に手を出すと猫パンチがとんできた。簡単に気を許さないところがまた猫らしくて良い。隣にある鉄の棒で組まれた物は、チャイグラスを丸穴に上から差して出前に持ち出す器具。T型の部分を上からつかむ。実際に使っているのを見て、なるほどと思った。

 

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一日歩き回り疲れた足を引きずり旧市街の宿に帰る。静かな夜の街をゆっくり歩いていると、高ぶった気分が徐々に落ち着いてゆくのがわかる。この時間が好きだ。乏しい灯は余計な物まで照らすことなく光と影による意匠のみを描き出す。オレンジ色の光の下ではあらゆる物が情緒的に見える。饒舌な昼間の顔とは異なり、夜の街は陰影に富み静かで落ち着いた世界を垣間見せてくれる。魅力的だ。

 

 

 

 

'05旅 その15 砂漠の摩天楼 イエメン2

アラブ4>イエメン2 Sep. 2005

サナア→サユーン、シバーム→アルムカッラ→サナア←→ロックパレス

 

 

もうだいぶ昔の事になるがNHKの紀行番組で、アラビア半島奥地の砂漠の真ん中にぽつんと存在する町の、高層住宅がびっしりと建ち並ぶ姿を紹介していた。確か「砂漠の摩天楼」という表現が使われ番組のタイトルにもなっていたと思う。まったく変わった町だなあという印象が持ったが、それが忘れ去ること無くずっと記憶の奥底に残っていた。イエメンに行くことを決め訪問地を調べているうちに、その砂漠の摩天楼がシバームという町であることを知った時の興奮と言ったらない。自分がそのまさかあの場所に行くなんて当時は夢にも思ってはいなかった。実はこのような経験は幾つかあり、中国貴州の鐘楼を持つ侗族集落もNHK教育テレビだし、九塞溝もそもそもは深夜のBSハイビジョン試験放送の映像に息を呑んだ所だった。

 

f:id:pelmeni:20200412021727j:plain例の2日後の朝の便には間違いなく乗せてもらうことができた。大型の新しいバスは砂漠の一本道をひた走る。舗装は新しくバスの乗心地も快適だったが、この数年前までは石畳の道だったのでサユーンまでは4WDで23時間!も掛かったということを聞いた。今はそれでも10時間。


f:id:pelmeni:20200412021021j:plain宿から眺めるサユーンの町 ワジによる巨大な浸食谷の中にある 左は王宮

  

 

 

 

車がカーブを切り、パッとその姿を現した時はどきっとした。

-----ついに来ちゃったな

特異な町の構造と、地の果てのような(印象です)イエメンの辺鄙な砂漠の中というロケーションが印象的。それ故にTVでみた時以来忘れられないでいた。あのうろ憶えな映像が実際に目の前にある。まずは感慨深い対面となった。

シバームは古代(紀元前8世紀ー3世紀)にこの地域に存在したハドラマウト王国の首都として栄えた。町自体は以後2000年もの間続いているが、この泥煉瓦でできた高層住宅建築はほとんどが16世紀以降に建てられたもの。洪水と遊牧民の襲来から身を守るためこのような形態をとるに至った。この場所で洪水というのも俄には信じられないが、2008年の豪雨では被害が出るほどだったようだ。

 

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 上を見上げたままなので首が痛い 見上げないわけにもいかない

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ただ自分がそんな場所にいることがやはり不思議に感じたかといえば、そうでもなかった。歩き回っている間じゅう考えていた。事前の想像とは少し離れ、町の体裁をなしている。ここも普通の人々によって普通の生活が営まれている普通の町であることに違いはなかった。手を伸ばせば生活している人々の日常に触れ合うことができる。余程の場所でない限り、我々が行き着くことのできるような場所は、何も特別な場所ではない。旅を重ねると、人間のあらゆる差異なんて実際は大したことではなく恐れる必要もないことがわかる。雑多な体験を経た後にたどり着いたその事実の単純さには思わず苦笑いだが静かな重みも感じた。真理とはそういうものなのかもしれない。旅とは人間が普遍的な存在であることの確認作業でもあると思う。

 

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f:id:pelmeni:20200418003342j:plainf:id:pelmeni:20200418003745j:plain何か?

 

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枯れ川をはさんで反対側の町から眺める。これが全体像。砂漠の摩天楼とは言い得て妙だ。今だったら是非ドローンを使って上空から撮影したい光景。

 

帰路に同じ経路を使うと安くあがるが自分の主義に反するので別のルートを探す。本来ならムカッラからアデン方面に向かい南部を訪れたいのだが、その長距離のバスには乗車できないようだった。一度飛行機でサナアに戻ることにしたが、飛行時間自体は短いので、ムカッラまで移動した後午後遅い便で飛ぶことに決めた。

サユーンからムカッラまでは乗合で移動。しばらく巨大なワジの谷を進み、やがて賽の河原のような荒涼とした風景の中を走る。人が住むことのできない乾いた大地が続いた後、道路はつづら折りとなり視界の開けた崖を駆け下りる。ダイナミックな地形の変化に息を呑む。でも写真は無い。雰囲気は後年鉄道で通ったジブチの奥地に似ている。まあこの風景を見ることができただけでも、狭い車に詰め込まれ我慢したかいがあったというものだ。(当時の感想・今はもう憶えていない)

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途中の沿道の町。ワジには雨季に水が流れるため緑があり人が住むことはできる。地下水脈もあるのかもしれない。切り立った崖に挟まれた大きな谷のよう。

 

アルムカッラの町は普通の町。あまり時間に余裕が無かったので、ざっと歩いた後タクシーをひろって空港へ急いだ。イエメニア航空の国内便は自由席のせいか乗客は騒がしい。以前に乗ったアリタリア航空のイタリア人の子供ほどではないが、いい歳した若者が… 50分でサナアに到着。3日ぶりでは何かが変わっているわけでもなし。

 

 

サナアに戻り、これまた特徴的なロケーションで有名なダール・アルハジャール(ロックパレス)を訪れる。ワディダハールという町はサナアから14㎞しか離れていないので半日のデイトリップ。

 

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大きな岩の塊の上に鎮座するイエメン建築様式の宮殿。ここはイマームの建てた夏の離宮。元々は1786年頃に建てられ1930年代に現在のかたちに増築された。マッシブなボリュームの幾何学的構成とそのうえに施されたかわいらしくもある漆喰の装飾の対比。室内の装飾や色ガラスの使い方も独特で美しい。建物自体はこじんまりとしているが、5層で17室もあるとのことです。

 

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宮殿から眺めたワディダハルの町 切り立った岩山の表情が厳しいが意外と緑も多そう

 

 

 

 

 

'05旅 その14 気分は千夜一夜物語 イエメン1

アラブ3>イエメン1 Sep. 2005

アンマン→入国・サナア←→マナハ&アルハジャラ

 

 

この旅のルートを決めた時に、ぜひとも訪れたいと思った国の第1がイエメンだった。ただトルコやエジプトなどの国と違って、陸路で簡単に入ることのできる国ではないうえ、治安などの状況は安定していなかった。諸々の確認は近隣で情報を仕入れたうえで決める。このような国があった場合、僕は俄然行く気になる。大抵面倒な手続きや多少の苦労が付き物だが、それらのプロセスを含めて全部を旅として楽しむつもりで。

イエメンには、リゾートやショッピング、グルメといったモダンな娯楽が出現する以前の素朴だが少々荒っぽい世界を期待していた。それは確かにそこにあった。ヴァナキュラーで風変わりな外身の印象は強いが、昔から変わらずに続く文化や伝統、風習のかたちは頑固で優雅だ。アラブでありながら石油が無く産業や開発が遅れたおかげで、旅人にとっては天国のような場所がアラビアの端に残されたということなのだろう。

サナアにはどこかの街から飛行機を使って飛ぶことになるので、これまでダマスカスやベイルートの旅行代理店を幾つかあたってみた。良い便が無かったり値段が高すぎたりで結局アンマンから往復することになった。でもこのロイヤルヨルダン航空のフライト、出発が夜遅くなうえ、なんと11時過ぎにフルコースの機内食が出た(でもよくあることを後に知る)。深夜1時半到着、アライバルビザを取得後到着ロビーに出たのが3時。サナアの空港は70年代の日本の地方空港のように(…嘘、知りません)ひなびた雰囲気だった。空港で朝まで過ごすことも考えたが気付いたらタクシーをつかまえていた。当時の日記には「深夜だったので激しくは値切らなかった」なんて書いてある。こんな時でも値段交渉を気にするほど旅ズレしていた自分に苦笑だ。車を降りた大きな広場は無人で、まったく何をやってるんだろうと思いがら近くの安宿に転がり込んだ。

 

翌日、満を持してサナアの旧市街へ歩み入る。誰が初めに考え出したのかしらないが、楽しい意匠である。煉瓦と漆喰で固められた砂糖菓子のような建物が密集してたち並び、狭い通路が入組んだ地上は中世の迷宮のようである。ここは楽しいパラレルワールド、日本のテーマパークなんて比じゃない。作り物ではない現実の世界を彷徨うのである。我々の見知ったものとは少し違う、でも現在進行形で人々に生きられている確かな世界だ。そのリアルさがまた肝銘的で、これほど旅をすることの幸せを感じる場所はなかったと、今でも思う。

 

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イスラム旧市街の中心はスーク(バザール)。サナアでも此処に人も物も集まる。当然の様に足が向かう。大勢の人が、用が有るのか無いのかわからないが、とにかく歩いているという印象。ジャンビーヤ(湾曲した刀、今は装飾品)を腰に帯刀している人も多い。一緒に歩いているだけで気持ちが高揚する。気分はアラビアン・ナイト千夜一夜物語の世界。

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どんどん奥に入ってみる。

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昼下がりのカートタイムに突入したようで、皆さん微睡んでいました。もう仕事をする時間ではありません。カートとは弱い覚醒作用をもたらす成分を含む樹木の葉で、新芽の葉をくちゃくちゃ噛むのです。飲酒をしない人々の嗜好品として男性の間で絶賛大人気です。どんどん口の中に放り込み続けるのですぐに頬が膨らんできます。大抵ごろんと横になったり何かにもたれ掛かったり体をリラックスさせた状態です。頭の中も休憩中みたいでした。僕も彼等に分けてもらって噛み続けましたが効果はわかりませんでした。コカコーラ&カフェイン中毒者にとっては刺激が弱過ぎたようです。水パイプのほうが好きだなあ。ジブチエチオピアでも同じ様な習慣がありました。

 

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サラームアレイコム! かわいい男の子が出迎えてくれた… のかな?

 

別の宿にある眺めの良さそうな屋上カフェに行ってみる。マフラージ(伝統様式の休憩室)で寛ぎ、テラスに出て360度のパノラマを楽しんだ。

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次の目的地は内陸にあるシバームだった。滞在する町サユーンへは10時間掛かるので夜行バスを使い宿代を浮かそうと目論んだところ、なんと出発直前にパスポートをチェックされたあと荷物と共に強制的に車から降ろされてしまった。すぐ近くのオフィスで代金を律義にも払い戻した後にバスは去って行った。説明が無かったのでぽかんとしていたところ、近くにいたサウジアラビア人の学生が窓口で話を聞き英語で教えてくれた。彼曰く、セキュリティの為外国人は夜行バスに乗せないとのこと。じゃあ何で売ったんだという話だが、、、。そういえばムカッラからアデンへ行くバスの切符を旅行者が買えなかったという情報が知られていたが、それも長距離バス。この頃はやはり夜行となる便には外国人旅行者を乗せない決め事だったのだろう。

当時イエメンは治安が必ずしも良くはなく、少し離れた所へ行く際は場所によりパーミッションが必要だった。該当する地域の行先が記入された許可証を10枚くらいゼロックスでコピーして携帯し、道路の検問の度に提出する必要があった。確か、9.11以降の悪者アルカイダに協力する部族が国内にいたため、政府と米軍が協力して掃討作戦が行われた後の頃だったはず。

 

翌朝のバスの席は取れなかったので再出発は翌々日の朝便となり、サナア滞在が二晩増えた。 翌日は気を取り直して後の予定の前倒しをすることにした。サナアからマナハとアルハジャラという町を日帰りで訪れる。マナハまでの山の風景は中東では珍しい山岳地帯。乾燥地帯の段々畑というのも珍しいが、何かさっぱりし過ぎていて少し寂しい。途中通過する沿道の集落はみなゴミに溢れてインドの様だ。乾燥しているので砂っぽくカサカサした印象だが、汚いことには変わりなく困ったものだ。

マナハの町は金曜でもないのにスークも店も開いていない。閑散として寂しかったが、地元の人は幾らか出歩いていたので簡単な立ち話をした。斜面に四角い建物が貼りついている光景が物珍しかった。イタリア山岳都市みたいでかっこいい。

ここからハジャラの町までは緩やかな坂道を約1時間かけて歩く。ピクニックのように長閑な気分。山の中で眺めも良い。

崖の上に建つこの町もピクチャレスクだ。内に入ると建物が綿密に寄添い道の狭さも相まってまるで迷路。時を超える不思議な空間だ。そしてウザいガキかわいい子供たちが集まってくる。しかし彼等は物か金を渡すまでは追い払っても追いて来ようとする。今まで観光に来た旅行者が気前良く物をあげ続けたものだから、当然の様に付きまとい要求するのだろう。子供に罪はないが一人でゆっくり観光できないので多少苛ついた。最後には小石の投げ合いになり(笑)続けても大人気無いので早々に退散した。

 

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マナハ

 

f:id:pelmeni:20200408171102j:plain山道を歩く マナハの町が遠ざかる

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アルハジャラ 城砦のような町!

 

 

 

 

'05旅 その13 すべては砂に還る シリア2&レバノン

アラブ2>シリア2、レバノン Sep. 2005

ハマ→パルミラ→ダマスカス→国境→ベイルート←→スール、シドン、バールベック→国境→ダマスカス→ボスラ→国境→アンマン

 

 

あまりエアコンの効いていないバスだった。トルコと違って小国シリア、それも地方都市ハマ出発の中型バスのせいか車体は古くて少しくたびれていた。日差しが強く黒いカーテンがどの窓にもひかれている。旅行者としては、たとえ周囲が変化のない砂漠地帯であってもそれはそれで眺めたいものだが、地元の人にとっては特に興味を持つ理由などない風景なのだろう。皆何かに耐え忍ぶかのようにじっと動かない。まあ気持ちはわからないでもない。暫くは我慢するしか他はないのだろう。時々動くカーテンの間から変わり映えの無い砂色の大地が地平の先まで続いていた。

やがてバスは止まった。ターミナルではないが乗客は降り始める。周囲には何もなくホテルのような建物一軒の前にミニバス、タクシーが泊まっている。ははん、そういうことかと事態はすぐに飲み込めた。タクシーとバスの運転手が結託したのだ。ここから町までは停まってるタクシー等を使ってください、と。ただ旅行者はごく少数しかいないようで、地元の人たちと一緒に僕も町まで歩いた。既に遠くに見えていたので10分くらいかな、これぐらいだったら問題は無いが、理不尽な話である。あまり裕福でない国では個人事業主であるタクシーの運転手って癖のある人間が多い。

今までずっと勘違いしていたのだが、パルミラ遺跡に隣接する町の名はパルミラではなくタドモルという。グーグルマップで検索しても聞いたことのない町にとんでしまうので不思議に思ったが、実は僕が知らなかっただけなのだ。今回記憶を掘り返さなければ死ぬまで知らないままだった可能性もある(笑)。

 

パルミラの遺跡は、がらんとしているせいか一見あっけない印象だ。起伏の無い平坦な土地に、1.3kmを一直線に伸びるコロネードと幾つかの神殿、アゴラ、劇場、他に何かの遺構と崩れた石の山。ただこれが素晴らしい通りだ。往時の繁栄を確かにしのぶことができる。でもそんなことを想像しながら当時の商人になりきって通りを闊歩するには、瓦礫が多くて歩きにくい。まあそれは仕方が無いかな。そのうえ暑くて陽射しが眩し過ぎる。乾いた風が時々砂塵を巻き上げるせいで眼が痛い。雲一つ無い空と砂色の風景。よくみればほぼ二色しかない。しかしこの二色は世界中至る所で美しい世界を作り出している。太古から不変のこの二色があれば人類の偉大な歴史を描き表すには十分なのかもしれない。そしてこの二色は人類が滅びても地球が存在する限り永遠に続く。

ここもローマ時代の遺跡のなかでは一級品である。間違いない。でも観光客は少なかった。

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夜のライトアップも美しい。星空を期待したがあまり見えなかったのは、光が強すぎるせいか、それとも空中を漂う砂塵のせいか。

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 ※残念なことに内戦中ISにより一部破壊された。詳しくは知らないが、では直しましょう、と簡単にいかないことは容易にわかる。

 


首都ダマスカスに向かう。パルミラからのバスは、途中エンジンのベルトが切れて交換する(意外とよくある故障)等により、1時間程度の遅れで小さなバスターミナルに到着した。しかしここはローカルバスとミクロ(ワゴン車)のみが集まるマイナーなターミナルのようで、英語表記も無くちょっと困った。でもそんな時は親切なシリア人が近くにいるのだ。車内で知り合った少年が街の中心まで行く車に案内してくれた。運転手も到着後に金を受取ることなく去って行った。シリアではこの種の小さな親切を受けることが多かった。大抵ごく自然でさりげないものだったと記憶している。旅が続くと他人の善意に対する感覚は鈍くなる。長旅を続けるということはこのような好意を食い物にし続けることでもある、ということは終ってみてわかるものだ。後になってしみじみと思う。

 

f:id:pelmeni:20050908211349j:plain大きなスークはアーケード

f:id:pelmeni:20050910163755j:plain何かの果物ジュース売りf:id:pelmeni:20200401184024j:plain静かな裏通り

 

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キリスト教のカテドラルを改築して接ぎ木するように造られたウマイヤドモスク。重厚で絢爛な建築。全体の構成はモスクの求心的な空間というよりは古い教会の雰囲気。この辺りは古くから人が住み始めただけあって、打ち捨てられ砂に埋もれる歴史もあれば、しぶとく生き延びる歴史もある。これは後者の典型例か。

そのあたりを少し知りたくなって国立博物館へ行く。大昔から人が住み続けてきた地域だけのものはあったが、その痕跡は今や崩れつつある遺跡という形でしか残っていない。それさえも運良く残ったごく一部であり、殆どのものは既に形を成していない。足下で踏みしめていた砂の粒が、かつて大いに繁栄した人々の生活の一部であったのかもしれないと思うと何だか無下にできない気分になった。目の前にある種々の存在も、もう何百年何千年経てば砂に同化して跡形もなくなってしまうのだろう。深い轍もいずれ消え、すべては砂に還ってゆく。そう考えると人間の存在なんて儚いものだ。

 

街の中心にバックパッカーに人気の宿がすぐ近くに並んで2軒建っていた。アルハラメインとアルラビエ。両方とも泊まったが同じような造りの似た宿で、いつも外国人旅行者で溢れていた。ドミトリー(相部屋)は男女混合で、男1人に女3人なんて日もあった。常に雑然としたあのバックパッカー宿特有の雰囲気が今となってはとても懐かしい。僕は大きめのパッカー宿が嫌いではない。ざわざわしていて必ずしも落ち着く訳ではないのだが時々好んで泊まっていた。ここには色々な種類の旅人が入れ替わり立ち替わりやってくる。ただ共通しているのはみな荷物一つで旅をしているということ。この一点のみで何か連帯感のようなものを感じていたように思える。話をしても必ずしも親密な仲になるわけではなく、挨拶など無しに次の地に去って行くのが常なのだが、その関係の希薄さに旅を実感することもあった。好んで一人旅をしていたのだが、やはり人恋しくもなるのだろう。ローカルなその土地の人々はもちろんだが、各国からやってくる同じ境遇の旅人ともたまには会いたくなる(このルート上に限れば何処でもいたけど…)。

ただ、これらの宿が現在どうなっているのか想像することは、難しい。そんなこと諸々を思い返す時 -----僕は遠い眼をしているのだろう。多分。

 

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いつもだらけていた宿猫。滞在者が可愛がってくれるものだから警戒の素振りもみせない。数匹が中庭を我が物顔で闊歩し、よくソファを占領していた。でも何か薄汚いな、体をきれいに舐めてから寝ろよ(笑)。

 

 

 

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旧駅近くの映画館で何とインド映画「クチュクチュホタヘ」が上映しているではないか。この映画は僕が初めてインドを旅行した99年初頭に「タイタニック」と人気を二分していた。子供の間ではこちらの方が人気だったようで、彼等とは「クチュクチュ観た?」が挨拶代わりだった。懐かしい。夕方5時の回を観る。小屋は古くフィルムに傷も多い。酷いことに初めの10分位が切り取られ、いきなり話の途中から始めやがった。でも音や画質の悪さはそのうち気にならなくなった。インド映画の割には考えられているラブストーリーで、出演者にも魅力があるので見入ってしまうのだ。とはいえ例のボリウッド映画の範疇ではある。

※後年シンガポールのインド人街にあるムスタファセンターでDVDを買いました。原題/日本語タイトル「Kuch Kuch Hota Hai / なにかが起きてる」

 

 

 

ここからレバノンを往復する。ベイルート直行バスがダマスカス市内から出ていて、ビザは国境で簡単に取得できた。

現在は奇麗になっているのだろうが、ベイルートといえば当時はまだ内戦の跡が街中に多く残っていて、それを見に行く旅行者も多かった。状況は既に安定していたものの、受ける印象のギャップは大きいものだった。中心街は結構きれいになっていて、かつて中東のパリと呼ばれただけのことはある美しさだ。アラブでありながら地中海文化圏の一部でもあることも実感できる。エトワール広場付近は小綺麗なカフェの多いショッピングエリア、ハムラ地区には商業地区でメーベンピックやスターバックスもあった。

 

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この街にも安宿が近所に2軒建っていた。中東は何故かこのようなパターンが多かった気がする。僕が泊まった宿には一人旅をしている中年の日本人女性がいた。とりあえず何か食べようと彼女と近くに出たら、立ち食いのサンドイッチ屋でもう一つの宿に泊まっている日本人旅行者と会った。何でも旅は既に4年、ベイルートでは3週間籠って自分の旅行サイトを一から書き直しているとのことだった。いろんな旅行者がいるものだと思った。(彼はこの後のルートでも時々見かけた)

宿の近くによく通った食堂があったが、アラブ人顔のごっつい店員なのに「シャルル!」とか「ポール!」とか呼び合っていたのもレバノンならではの光景だ。今でも憶えている。

 

 

レバノンは小さな国なので、大抵のところへはベイルートから日帰りで行くことができた。

 

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海に突き出したロケーションが魅力的な古代都市遺跡ティルスは、スールの町すぐ裏に隣接している

 

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シドン(サイダー)の旧市街は閉じた迷宮のよう

どちらも海に面した小さな町。広い地中海の一番奥に位置している。学校で習っただけでよく知らないフェニキア人が活躍した地だ。小さなミクロバスに詰め込まれての移動だったが、俊敏で車窓が美しかったのであっという間だった。

 

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バールベックの遺跡もとても美しい。都市ではなく神殿単体。ローマ時代の遺跡はどこも見事で素晴らしい。

 

 

帰路も国境でシリアのビザがとれた。ダマスカスに戻ってすぐに発つつもりでいたので安価なトランジットビザ(8$)を買った。

次の国ヨルダンの首都アンマンへは、途中ボスラというこれまた遺跡に立ち寄るため、車の乗継ぎで向かった。朝出て午後遅くには宿に着いたので意外と近かった。日本人はビザ無しで入国できる。

f:id:pelmeni:20200401024123j:plainボスラの円形劇場

 

アンマンも丘に囲まれた古い街でローマ時代の遺跡も残っている。

この街での第一のミッションは、旅行代理店でイエメンの首都サナアまでの往復航空券を購入する事だった。

 

 

 

 

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第二のミッション~死海 はしゃぐ日本人御一行様
浅瀬に座って見えるのは死海の水の屈折率のせいで、皆浮いてます 

 

 

'05旅 その12 シリアに入国

アラブ1>シリア・レバノン>シリア北部 Sep.2005

アンタキア→国境→アレッポ→ハマ←→クラック・デ・シュバリエ

 

 

 

 

夜行バスは朝の7時半にアンタキアのオトガル(バスターミナル)に到着。トルコのバスは最後まで時間が正確でした。更に言えばこの時乗ったバス会社のサービスは良過ぎです。夜中の3時の休憩直後に飲物のサービスを行うんですよ。寝ぼけ眼でも、ここはやっぱりコーラを一杯!。

同じオトガルからシリアのアレッポへ直通バスが出ているので、その場で9時半発のチケットを購入。すぐ裏のロカンタでトルコ最後の食事、チョルバ(スープ)の軽い朝食をとりました。

アレッポとは英語読みで、アラビア語ではハラブ、トルコ語ではハレプと言うらしい。その ”HAREP” という行先表示を掲げたバスに乗り込みます。国境では特に時間を喰ったという印象は無く、順当に昼過ぎアレッポに到着。バスで一緒だった日本人学生、アメリカのおばちゃん、リトアニアカップル達と一緒に街中の宿へ向かいました。

 

今となっては昔の話ですが、この国境は常に外国人旅行者で溢れていました。トルコ~シリア~レバノン~ヨルダン~イスラエル~エジプトというルートは中東旅行の定番中のド定番で、見所も多く、誰もが楽しむことのできるルートでした。世界中から人々が集まり、長期短期を問わず、多くの旅行者が砂漠の中の暑く乾いた道をバスやタクシーに詰め込まれ、砂煙を立ち上げながら駆け抜けていったものです。

以前の旅先で出会ったとあるオーストラリア人の言葉を思い出すことがあります。彼によれば旅行に良い国の条件は、1)人々が親切 2)社会が安定している 3)物価が安い、だそうです。まあ頷ける内容です。シリアなんてその全てを満たしているうえに観光場所も多く、大抵の人にとっては悪い印象を受けることの少ない国でした。それは僕の実感であり、出会った旅行者にとってもほぼ共通の感想でした。

でもその ”2)社会が安定している” と見えたものは、表面的な様相でした。実際の社会の状況や人々の生活が外から一撫したくらいでは分かり難いものであったことは、後年の時局が全てを語っています。彼らの日常と僕の非日常は同じ時間と空間を共有していたものと記憶していましたが、それは必ずしも交わっていたわけではなかったということです。旅なんてしていても理解できることは限定的なのだと今ではつくづく思います。目に映る物事がリアルな現実のすべてであるとは限らないことも今では知っています。これら皆含めて迄が旅というものでしょう。ただ、知らないで済ますことができればよかったかもしれない現実を思う度に、寂しくも悲しくもなります。

以前にシリアを旅行して良い思い出を持っていながら、現在の状況に堪らない思いを抱いている人も多いのではないでしょうか。だからといって何ができるわけでもなく、暫く膠着状態が続きそうで、気を煩わす日々が延々と続くのでしょう。

 

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アレッポ城 城門は力強いが内部はほぼ遺跡状態 

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小高い丘の上に鎮座する城(所謂チタデラ)から街を眺める。雨が降らなければ勾配屋根を架ける必要はない。いよいよ中東、乾いた大地と砂色の町がこれから続きます。

中央に伸びるスーク 右がモスク

 

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薄暗くも妖しく賑わうスーク(バザール) 時折天窓から斜めに射し込む陽の光が幻想的

不思議な空間に半ば酔いながら彷徨い歩く。視覚、聴覚、時に嗅覚の感度を上げる必要がある。日本の明るくクリーンで均質な商空間とは対極な場所。だからこそ魅かれる。

 

写真を撮っていると片言の日本語を話す店員に呼び止められ、チャイと水煙草を頂く。チャイと水煙草の組合せは、これがまた病みつきになるんですよ。その後はもちろん彼等のビジネスタイム。とりあえずは付き合ってみることにしたが、僕は話が合わなかったら何時でも止める用意はできている。奥から持ってきたカシミア(多分違うだろうが色柄は良かった)が8400→4200シリアポンド(80$)の値下げで「トモダチプライス!」から始まった。これは前口上みたいなものだろうから頭から除外する。25$くらいにしようか話し始めたら簡単に下がる。でもよく見るとそこまでの品質には見えなかったので止めようとしたら、横から彼の叔父という人が出てきて20$という。出方をみながら更にあれこれネゴると15、10$まで下がる。結局550シリポン(10$)で手を打つ。千円程度なら色や柄は気に入ったので悪くはない買物でした。おそらく元値420SPの10倍の4200SPからスタートだったのかもしれないと推測。交渉中は雑談を交えて悠長に構えていましたが、インド人とのタフな交渉と比べれば穏やかに終わりましたね。

旅行中はこんな感じでよく暇つぶしをします。言葉数を多くしたり表情や話し方を変えたり等いろいろ考えて自分のペースは崩しません。まあゲームみたいな気分です。お互い情は無用です。そのせいか話がつかなくても大抵後腐れはありません。日本ではできない遊びみたいなものです。

アレッポといえば石鹸も有名です。地中海沿岸で作られるオリーブ石鹸はアレッポあたりが発祥だそうです。どの店で売られている石鹸も幾つかのグレードに分かれているので、何が違うのか尋ねたところ、成分のローレルオイルの割合に因るとのことでした。割合の大きい方が香りが強く値段も高いのです。と言われてもよくわからなかったので、上から2番目のクラスの物を2kg買って中央郵便局から日本の実家に送りました。この石鹸使ってみましたが、女性が何故あんなに喜ぶのか今でもよくわかりません。嫌いじゃないですけど。

 

 

砂漠の一本道を南下しハマに向かいました。この町は楽しい。

 

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町中を緩く流れる川に大きな水車が幾つも掛かっています。町の中心部にある物は周りが公園になっていて、人々が傍らで楽しそうに見上げています。夕方あたりから人が集まり始め暗くなると多くの人出で賑わいます。単純な物でも動く物には大人子供を問わず心惹かれるということですかね。実際本当に飽きません。そして音をたてて回る水車の横で行き交う人を眺めながらアイスクリームを舐めるというのが、この町での一番の楽しみでした。大きくはない町ですが水車の存在だけで人を呼べるほどです。

かたかたかたかた…

 

f:id:pelmeni:20191216022001j:plainf:id:pelmeni:20191216022530j:plain時々虹もf:id:pelmeni:20191216022557j:plainf:id:pelmeni:20191216022618j:plain

 

 

 

中世十字軍時代の城塞 クラック・デ・シュバリエ

途中ホムス乗換でハマから日帰りで行くことができます。マッシブで力強くいかにも城塞といった形態で有名です。よく目にする全景写真を撮るためには少し離れた高い所を探さなければなりません。帰り際にまとめてそんな写真を撮ろうと考えましたが、何だか面倒になって停まっているバスにさっさと乗り込んで帰ってしまいました。よって此処は部分的な写真だけです。

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城塞自体は話題にのぼるほど面白い物とは正直思えませんでした。半ば遺跡に近く、もう少し細かいディティールがあれば良かったのに、というのが個人的な感想です。暑い所では想像力を要求されるものに対してはなかなか気が乗りません。ただ西洋人にとっては歴史的に意味のある場所なので多くが行きたがります。日本人がインド辺りで仏教や釈迦ゆかりの地に特別な感情を持つのと似たものでしょうか?。立地は最高で眺めは良いので、気分は晴々としますが… 

 

帰りのバスで、アレッポで同じ宿に泊まっていたイタリア人男性二人連れに再会し、一緒にハマまで帰ることになりました。腹が減ったと言うのでホムスのバスターミナル近くで軽食に付き合いました。

此処ではバスの乗換をしただけなのでこれが唯一の記憶であって、その後は長い間忘れていました。後年再びその名を耳にしたのは内戦のためです。この街が反体制派の拠点だったために戦闘が起こり、市街戦により荒れ果てたホムスの状況を報道により知ることになりました。もう憶えていませんでしたが車窓から眺めたであろう街並みが破壊され、何処かですれ違ったかもしれない人々の身に降りかかった大きな不幸が、揺れる映像の向こうに確かにありました。こんな状況は当時の記憶とは全く結び付きません。現実の世界で起きている事であっても他人事の様にみえてしまうのが嫌でしたが、現在の自分とは隔たりが大き過ぎてどうしようもありません。 

おかげで本来であれば忘却の彼方へと去っていたはずの記憶が幾つか呼び起こされたのは事実です。でもそれは残念ながらあまり嬉しいことではありません。できれば別の種類の話、懐かしく思い返すことのできる話であって欲しかった。