もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

’05旅回想 その25 ミャンマーは昔の日本の田舎に似ているそうです

ミャンマー3 シーポウ  Dec.2005 - Jan.2006

ピンウールウィン(メイミョー)→シーポウ→マンダレー

 

 

ピンウールウィンから次の目的地シーポウまでは鉄道で移動した。今回の旅程ではあまり鉄道に乗る機会がないのだが、ここは乗車したかった。何故なら途中にゴッテイ鉄橋 / Gohteik Viaduct があるからだ。イギリス統治時代に作られたこの鉄橋は世界第2位の高さを持つそうで(詳細不明)、眺めは壮観だ。これには昔に乗った山陰線の餘部鉄橋を少しだけ思い出した。まだ華奢な鉄骨橋だった頃で、風が強かったため緊張感に溢れた20分ほどを手前の駅で待機した。以前強風にあおられ車両ごと落下したという痛ましい事故が起きた場所だった。国内では有名だったがそれでもゴッテイとは規模が全く違う。

この日は天候の心配をする必要は無かった。高さがあるうえに距離も結構長く、徐行運転をする列車はスリルを含めてなかなかの楽しさだった。写真を撮ることができなかったが、これはYouTubeで多くの人がアップしている動画を見る方が良いでしょう。

 

f:id:pelmeni:20210404053450j:plainピンウールイン出発!

 

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f:id:pelmeni:20210404051820j:plain鉄橋手前の駅Gohteikで停車

f:id:pelmeni:20210404051226j:plain幾人もの乗客が線路から離れていくので後をついて行くと、鉄橋の一部が遠望できた。

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列車は1日上下各1本。停車時間は長く、乗客や町の人が車輌の前を行き交ったり適当にぶらぶらと過ごしていた。

 

 

 

シーポウは普通の小さな町だが、田舎のひなびた雰囲気を求めて外国人が集まる。町自体には特に何も無く静かなところ。この町も周囲の地域も観光地というほどではない。

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実は滞在中に所謂新年を迎えたのだが、地元シャン族の新年は西暦でいうと11月頃らしく、中国人の新年は春節、よってこの日この場所で新年を祝うのは外国人旅行者ばかりとなる。シーポウはミャンマーの他の町と同様に停電が多く、毎晩10時過ぎになると決まって電気が消え、その後はもう何もすることはなく眠るしかなかった。さすがに大晦日~新年にそれでは寂しいので外国人が集まる宿に泊まった。庭に焚火があって囲むように椅子が置いてある。電気が落ちた後は部屋にいてもしょうがないので、もう一人の日本人客、鹿児島の養護学校で教える松村さんに呼ばれて庭で話を始めた。ちょうど日付が変わる時にその場にいる外国人数人が小さな声で「ハッピーニューイヤー…」。気分は盛り上がらずに程なくして皆部屋に帰っていった。

松村さんは僕より一回り年齢が上で、既に何度もミャンマーを訪れていた。昔の日本の田舎に風景が似ているところを気に入っているそうだ。僕はそこまでの印象を持っていなかったが、どこもかしこもひなびた雰囲気があるところなど、そう言われたらそうかもしれないと思った。そもそも田舎に縁の無い生活をしていたので真意はよくわからなかったと思う。

宿でガイドを雇い、翌日3人で近くの村などを半日ほど巡ることにした。

 

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白いパゴダは緑に映える

居心地が良かったのでもう1日滞在を延ばした。といっても何か特別なことをしたわけではない。何もしなくても気持ち良く過ごすことができるのは何故なのだろう。ストレス無くのんびりできる東南アジアの田舎こそ行くべき所と思い始めたのはこの頃のことだった。自然と溶け合うように一体化した生活というものが東南アジアの田舎ではごく普通に営まれていることを実感したのは、まとまった時間をとることのできたここミャンマー旅行時のこと。東南アジアはまだ2か国目だった。それまではどちらかといえば興味の少ない地域でいずれ行けば良しとしていたが、滞在中に自分の中での優先順位が変わっていったことが日記を読み返すとわかる。乾いた中近東の後だけに、水と緑が常に傍らにある環境の優しさというものに、疲れの溜まった体と気持ちが癒された。(インドにも緑はあるが少し別な印象で何事にも剥き出しの厳しさがあると感じた。)これは、藤原新也の言うところによる「乾いた鉱物世界の西東洋」と「潤った植物世界の東東洋」の対比で、それを身を以て感じ取ったということなのだろう。そ、移動し続ける旅の楽しさはこのようなところにある。 

-----でも考えてみればその素晴らしい環境を最も享受できる所って、実は、、、最も身近な日本ではないか? -----それが昔の日本の田舎なのかはわからないけど。

-----ただ一番の気持ち良さはこの気候でしょう。何時訪れても夏休みのような暑さに精神が自然と緩んでゆく。休め休めと仏陀が語り掛けてくる気がする。その証拠に彼は何処でも寝そべっている。肘枕に大きな体を横たえている。

 

 

最後の夕暮れは、川向こうの丘の上にある寺院から町を眺めながら日没までまったりと過ごした。夕もやが流れるように増え始め、段々と日が暮れるなか徐々に余計なものが見えなくなってゆく。人工的な光の少ないこの町では、やがてすべてが夜の闇に同化してゆくのだろう…

 

一日の中で最も美しい時間を美しい風景の中で迎える。んー、旅って贅沢。

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刻々と変化する茜色の空のグラデーションが美しかった。名残惜しいが暗くなるまでに山を降りなければならない。

 

 

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シーポウの町中には妙な気持になる看板があった。わざわざ掲げてあるこの標記は、亜細亜的な優しさか、それとも形式的な下達なのだろうか。

 

 

マンダレーに戻り隣接するアマラプーラへ行く。大きな池の上を長く長く続く(1.2km!)木造歩道橋、ウーベイン橋が有名。渡りきるのに20分位かかった。昔はミャンマーの首都だったこともあったが現在はマンダレーの町の一部に組み込まれている。ここもパゴダや僧院が多かった。

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COSTA COFFEE

 

連休中にTVのCMを見てあれっと思った。

 

 

特徴あるロゴと臙脂色の色使いは間違いない。世界第2のコーヒーチェーン店”COSTA”?

早速調べたところ、Petボトルのコーヒードリンクが発売されるよう。そして、迂闊にも去年夏に日本に上陸していたことを知らなかった。これではコスタファンを自称できない。ただ飲食店への供給が主で、海外で行われているような店舗の展開はまだのようだ。

 

コスタ、以前の旅行中には各地でよく利用した。ニューデリー、マスカット、ドバイ、マナマ、カイロ、ケープタウン… 他にも何処かの空港で見かけた。当時は何となくだが欧州外では旧英国領や関係国で展開しているような気がした。他の地域でもあったのだろうか。

店内はいずれも比較的シックなインテリア、地元カフェよりも値段設定が高いせいか客層も静かで落ち着いた印象を受けた。泡立てたミルクを載せたカプチーノスタイルが主流。コーヒーは地元の小さな店でも美味しく雰囲気の良いところは結構あったが、此処は此処で高い金を払う価値はあると思った。僕はコーヒーには糸目を付けないので見掛けるとよく利用したが、それはコーヒー自体だけではなく気持ち良く時間を過ごす事を含めての対価と考えている。だから、すぐに席を立つことはなく1-2時間くらいは平気で居させていただくよ(笑)。

懐かしく思ったので写真をいくつか探してみました。

 

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ニューデリーのコンノートサークル内 駅のブックストールで買ったインド国鉄時刻表がコーヒーのお供 インドではこの店内は別世界、流れる時間が違っていると感じた

 

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カイロ、メトロのドッキ駅近く エチオピアスーダンの大使館にビザの申請に行った時に数回寄った カイロともなれば選択肢は多くたまには違った空気に触れるのも良い

 

 

値段はどの辺りか、当時の小遣帳から拾ってみた。

 

・2012インド、カプチーノ 税込(以下省略)122ルピー(約180円)

   ちなみにマクドナルドのアルーティッキ(じゃが芋コロッケバーガー)セット75ルピー

・2013バーレーンカプチーノ1.6ディナール(約380円)

   ちなみにバーガーキングのジュニアワッパーセット1.8ディナール

・2013エジプト、コーヒー+アップルパイで34ポンド(約510円)

   ちなみにKFCのチキンバーガーLセット47.5エジポン、地元カフェでコーヒーとケーキを頼んでも20エジポンぐらい

’05旅回想 その24 ミャンマーの旅は続く

ミャンマー2 バガンマンダレー Dec. 2005

ニャウンウー・バガン遺跡→マンダレー→ピンウールウィン(メイミョー)

 

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雨はまったく予想していなかった。雨期ではないのに、ニャウンウー到着の午後から出発日まで計4日もの間雨にあたり続けるなんて、運が悪いのか日頃の行いが悪いせいかはしらないが、とにかくついていなかった。特に空を見上げながらパゴダ巡りを決行した日が結果的に一番雨脚が強かった。なんてこった。おまけに気温はそれほど高くなかったが湿度がものすごい。雨に濡れた服などを乾かそうとして一晩掛けておいても全く乾く気配がない。常に湿った物が体に纏わりついている感覚は正直嫌だった。地元の人が身に着ける簡素で風通しの良さそうな着物こそ、この土地に相応しい服装なのだ。

広い平原に数多くのパゴダや寺院が点在しているバガン遺跡を個人で見学するには何か足が必要なので、自転車をレンタルして巡ることにした。しかし雨だった。ここはミャンマー。幹線道路付近を除けばアスファルト舗装などという洒落た物は無い。未舗装の道に撒かれた砂には水が浮き自転車で進むには結構な障害になった。更に砂が無いところはただでさえ柔らかい土が水を含んでグニャグニャになり人が歩くことさえままならない。結局一部はあきらめ翌日に持ち越したが、その翌日も途中で雨が降ってきたのでもう面倒になって途中で引き返した。

平原に古いパゴタが点在するのんびりとした雰囲気が、雨のせいで一部しか楽しむことができなかったのが残念だった。天気が良ければ気持ちの良いサイクリング日和になっただろう。1か月の滞在なのでここだけに長居するわけにもいかなかった。気分は、次行こう、次!である。

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最後は雨脚が強くなって散々な目にあった

 

ニャウンウーからマンダレーまでの移動はマイクロバスに詰め込まれて8時間。到着間際に久し振りに太陽を見た。最初の日だけ良さ気なホテルに泊まったのは、湿った服等、特に靴を乾かしたかったからだった。くるぶしまである人工皮革のトレッキングシューズは内部が全く乾かず気持ち悪い。部屋のエアコンの前にぶら下げ強制乾燥しなければカビでも生えてきそうな感じだった。

 

f:id:pelmeni:20210308152300j:plain濃い朝霧に包まれる日が多かった

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マンダレーも久し振りの晴天らしく、多くの人がイラワジ川に洗濯をしに出ていた

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 マンダレーは古い王朝の都。日本でいえば京都に相当するのかな。マンダレーヒルと王宮。町中には僧院やパゴダが多い。中心を離れるとすぐに長閑な住宅地になる。

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以上3枚を頭の中で合成してください。パノラマ写真になります、多分。19世紀に造られた王宮。

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マンダレーヒルで沈む夕日を眺めていたら一人の僧侶に話しかけられた。先日までカメラマンとして働いていたそうで、流暢な日本語だった。日本語はここで教えてもらったというが、発音も語彙もこれまた教えてもらったというレベルではない。カルカッタに続き不思議な感覚で話をしていた。見掛けは… もしかしたら日本人だったのかな。

東南アジアの仏教は日本などとは違う種類のもので、「信じる者は救われる」ではなく、救われるためには自ら功徳を積まなければならない。ゆえに男性は一生のうち一度は出家するそうだ。ただ仏門に入るといっても一定期間のちに還俗する。彼ものちに社会に戻ったのだろうか。初めはわからなかったがそうと知ったのは町外れにある僧院を訪れた時のこと。そこで話をした若い僧侶たちは見掛け以外はごく普通の雰囲気で、サッカーなど詳しい。当時活躍していた日本人選手、中田英寿のことまで知っていた。一時出家の習慣の事も話の中に出てきた。日本とは違った形で仏教が生活に関わっているものだと納得した。

 

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シュウェインピン僧院にて

f:id:pelmeni:20210321035616j:plain普通の町中だが熱帯は樹木の育ち方が全く違う。

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ミャンマースタイルのストリートカフェ

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市場の周囲はどこでも人で溢れる

 

 

 

ピンウールウィンは大英帝国時代の避暑地で当時の建物が幾つか残っている。この町を訪れた理由はポール・セルーの『鉄道大バザール』という旅行記に載っていたからだった。マンダレーから近いので寄ってみた。

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旅行記に出てくるカンダクレイグ 現在はホテル

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町中にて。タコ焼きを期待したが甘いスイーツだった!

 

ところで、後年タジキスタンで出会った日本人旅行者と話をしていてこの町の話になったことがある。彼女がミャンマー旅行時にピンウールウィンに寄ったのは、祖父が太平洋戦争従軍時にこの町に滞在したからだという(ここには日本軍の司令部があった)。そういえば以前ブダペストで会った旅行者がシベリア鉄道乗車中にバイカル湖畔の町で降りたのも、彼女の祖父が終戦時に抑留された場所を自分でも一目見たかったからだった。意外とそういう話はあるようだ。僕の場合で言えばニューギニアか。僕の祖父はニューギニアで交戦中に脚を撃たれ野戦病院で治療していたおかげでその後の激しい戦闘から逃れられたらしい。戦争のことはほとんど話さなかったので詳しいことはわからない。僕にはニューギニアを訪れるという発想は無かった。

ある時祖父は箱一杯の鉄道の硬券を僕にくれた。その多くは寝台券だった。昔はいちいち切符の回収をしなかったのでいつの間にか貯まったらしい。戦後は化粧品会社の経理や営業職にあり、北海道から九州まで各地の販売店へ頻繁に足を運んだ。見たことのない地名や記号が刻まれた硬券は何も知らない小学生の想像力をかき立てるには十分過ぎるおみやげだった。

でもそのおかげで孫が旅行好きになった… という簡単な話ではない。なにしろ僕は日本国内では寝台も夜行列車も乗ったことがない(正確には一度だけ)。北海道にも九州にも足を踏み入れたことがない。それだけからすれば単なる出不精な人間としかみられないだろう。ところが、初めて乗った夜行列車にそれも海外で魅了されてしまった。

薄暗い照明の下でうつらうつらしたり、冷たい窓に顔を近づけ真っ暗な夜景に眼を凝らしていると、ふと、何十年も前に場所は全く違えど祖父も同じ様な状況で同じような感覚を覚えていたのかもしれないと思うことがあり、異国の夜空の下でも寂しさや心細さからは一時的にも気持ちが離れた。特に旅を始めた頃は、そんな事が時々あったと記憶している。

祖父が必ずしも好き好んで夜汽車に乗っていたわけではない。その時代には他に手段が無かったからだ。でも僕は海外に行くたびに至るところで好き好んで乗っている。昔もらった切符のことを思い出すことは少なくなっていたが、その存在が無意識のうちに僕の個人的な好みに影響を与えたと考えることは、まず妥当なことだろう。見慣れない紙片を片手に子供ながらにあれこれ考えたことが結果的に、将来の僕の地に足の付かない生活に繋がったのであれば -----もちろんそれがすべてとは思わないが----- うちの爺さんも罪なことをしたもんだなあと、思い出す度に何だか妙な形のつながりを感じるのだった。

つながりといえば、祖父は軍隊では上官からは可愛がられたものの生意気だったのでよく殴られたらしい。僕も小学生の頃は口が達者で生意気だったので教師によくぶたれたが、実際のところは贔屓にされた方だ。そんな人間はうちの親族には他にいない。これは余談です。

 

 

’05旅回想 その23 ヤンゴンに来ました

ミャンマー1 ヤンゴン Dec. 2005 

ヤンゴン→ニャウンウー

 

 

物心ついてから僕が初めて接した外国人は実はビルマ人だ。

僕の通っていた小学校の近くにビルマ大使館があった。近所の人はそう呼んでいたが正しくは大使館員の官舎だ。色の浅黒い子供達が敷地内や近くの道路で遊んでいるのを時々みかけ、当時の僕はビルマを黒人の国だと勘違いしていた。まったく馬鹿な小学生を許して欲しい。その彼らがある年以降普通の公立小学校に入学転校してきた。僕らの2つか3つ下の学年からだったので同じ教室で学んではいないが、計10人位はいたのかな、校内でも時々見かけるようになった。僕は中学の途中で引っ越したので、その後は知らない。彼らは国に帰ったのだろう。ビルマは政変でミャンマーとなり、安定しない状況が今でも続いている。-----2010年頃、ふと思い立ってその場所を訪れてみた。以前と変わらず樹木に囲まれた庇の深いコンクリートの建物があった。敷地には明らかに人の手が入っていて、静かにしていると女性が話すような声が僅かに聞こえた。ただ外に向かってミャンマーを示す表示や痕跡は何もなかったので、建物等の所有者が誰なのかはわからなかった。表札も何も無いことがかえって想像力をかきたてる。僕の目の前の光景は長い時を一気に巻き戻された。

 

 

ヤンゴンに来ました。上記はミャンマーに行くことを決めた段階で、懐かしく思い出したこと。でも実際街の通りを歩いていても、当然だが大人になった当時の子供たちに会えるはずもない。顔も名前も憶えていない。ただ、もしかしたらどこかですれ違っているかもしれないとその可能性を想う度に、僅かに胸が騒ぐのだった。それはヤンゴンに限らず他の町でも、気が付けば人々の中に誰でもない誰かを探している様な気分になっている自分がいた。見ようとしているものと見えているものが違うような。ミャンマーの旅を通してそんなふわっとした気分になることが時々あった。

  

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カルカッタに続きこの街も元大英帝国領。それらしき特徴の有る建物が多く顔を上げ続けるので首が疲れる。おまけに暑い。必然的にコーラ中毒者はコカ・コーラを探し求めるのだが、当時この国でコカ・コーラ社は製造販売をしていなかった。地元産で一段味の劣る瓶入りスターコーラやクエンチしか… まあ、それはそれで良いのだが。缶入の可口可乐や雪碧を中国からの輸入品として扱っている店をようやく一軒見つけた。瓶入より値段は高いが内容量も多いので自分を納得させる。

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f:id:pelmeni:20210223025024j:plainf:id:pelmeni:20210307041944j:plain大通りから入る細い横道は緑多くとても静かな場所

f:id:pelmeni:20210223015241j:plainf:id:pelmeni:20210223015258j:plain路上にも店がひろがる

 

旅行前はこの国にはインターネットが来ていないと聞いていたのである意味楽しみだったが、実際行ってみるとヤンゴンマンダレーではかろうじて触れることができた。まあ無いよりはマシといった程度のものだったが、 動かない画面をじっと待つのもそれはそれでミャンマーらしいとも思った。昔インドで激遅の回線に怒りをぶちまけた頃と比べれば自分も大人になったものだ。でも日本も黎明期は同じようなものだった。そんな新しいサービスがあるだけで夢中になっていたのも今は昔の話。

また、当時既に話題になっていたが、通りを走っているバスのほとんどが日本の中古車で驚いた。外観の塗装は基本的にそのままで文字のみ消されているのだが、何故か知っているものばかりだった。右側通行なので出入口が少し強引に増設されている。ここでも第2の人生はタフでハードなのだ。当時の日記によれば、一番多く見かけたのが断トツで神奈川中央交通、次いで(知らない緑のラインの車体)、阪急、千葉中央。ほかにも都バス、京都市、京王、京成、などなど。

f:id:pelmeni:20210225053408j:plain一番多かった神奈中バス

f:id:pelmeni:20210225053427j:plainこれは阪急バス

f:id:pelmeni:20210225053443j:plain珍しく文字が残っていた立川バス


 

ダッカの空港で待ち時間にガイドブックを貸したスイス人&ドイツ人のカップルと同じ宿へ行くことになった。ホワイトハウスという思わせぶりな名前の宿は、安宿の中では外国人に人気だった。ここは面白い造りをしていた。普通の6階建くらいの建物の屋上に3層ほど軽量な構造で建て増しされ、外国人が泊まりたがる安いが簡素で暑い部屋があった。確かにこんな安普請の部屋は東南アジアならではのものだろう。ちなみにシングルで6米ドル。下階には普通の部屋があるのに何故かひと気がなかった。そもそもの屋上階は半屋外の食堂と厨房になっていて、ビュッフェ形式の朝食は取り放題なので、朝から腹一杯、幸せな気分で毎日が始まった。ミャンマーでは他の町でも屋上に食堂がある宿に幾つか泊まったが、どこも気持ち良く、熱帯の明るく生暖かい空気の中では屋内で朝食をとる理由など考えられない。果物が食事やおやつの替わりなんて、南米を思い出した。

 

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よく見たらヤバイな 

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------ちょっと失礼、 -----ん、邪魔するにゃよ

地上数十mの食堂階に住み着く猫 東南アジアには顔の細い猫が多い

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上階テラスから このアングルが好き

 

ヤンゴンで一番大きなシュウェダゴンパゴダへ行く。観光客も見かけるが、地元の人と思しき人々に愛されている場所だと感じた。皆自由にリラックスしている。東南アジアではテンプルやパゴダは日常生活の一部に程良く溶け込んでいる。ミャンマーではパゴダは釈迦の家なので裸足になる。屋外なので多少汚れるが石張りの床がひんやりとして気持ちがよかった。

f:id:pelmeni:20210225043610j:plainf:id:pelmeni:20210225044520j:plain大きな黄金のストゥーパを中心に無数の仏塔や廟、通路がぐるっと取り囲む平面配置

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世界中の至る所で金ピカは求められ愛されている。それを横目にわびやさびを理解する能力なんて特殊なものだとつくづく実感した。

 

 

次の目的地バガンへ行くために長距離バスターミナルに来た。チケットを買い乗る車を教えてもらったところで目を疑った。街中を走っているのと同じ神奈中の乗合バスが停まっていた。今日は夜行なんだよ、これで一晩過ごすのか… と心配になったが、車内の座席は古いがしっかりとした物に換装されていていた。でも乗心地が良いとは思えない。先が思いやられる。

この日は体調が良くなく頭痛がしたので出発前にバファリンを飲んだのだが、これは逆に良かったようだ。というのもそのバファリンはエジプトのカイロで購入したもので、日本のものと違って飲むとかなり眠くなる代物。そのせいか思っていたよりもぐっすり長く眠れた。途中で眼が覚めてもあまり時間を空けずに再び眠りに陥ることができた。翌朝はごく普通の体調でニャウンウーに着いた。でも朝4時半は早過ぎる。

 

 

 

’05旅回想 その22 インドその2、バングラデシュ少し

インド2、バングラデシュ Dec. 2005

カルカッタ(現コルカタ)←→ダージリン、→ダッカ

 

 

 

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ダージリン方面へはもう一つのターミナル、シアルダー駅より列車が出ている。機能的な駅だがハウラー駅のような趣きは無い。こちらには床に寝ている人が多数いた。今回も夜行列車、僕のインド旅では定番のスリーパークラス。長大な客車の編成を牽いているせいか出発後なかなかスピードが上がらないのはいつものことだ。街を抜けるまでは窓を開けない方が良いね・笑。

近くの席のバングラデシュ人の家族と知り合い、親父が最近手相に凝っているのでみてくれるという。嫌な予感がしたが、無下に断るわけにもいかない…、というか僕の場合今まで何を見ても大抵同じような事を言われる。この時もやはり予想通りになった。彼曰く、仕事は変わる、結婚は先になる。それらはもう何度いわれたことか。さらに、性格は難しい、が加わるが多分黙っていてくれたのだろう。そもそも日本とインドで手相占いの基準は同じなのか? でも笑うしかない、ホントそれ以外言われたことないですから!

 

翌朝の列車の到着は1時間半遅れた。それはまずい。なぜなら下車駅ニュージャルパイグリ・ジャンクション(NJP)からダージリン迄は楽しみにしていたトイトレインに乗り継ぐつもりでいたからだった。接続時間に元々余裕はなかった。まあカルカッタからの乗り換え客の利便などはそもそも考えていないのだろう。列車が遅れるかどうかは神のみぞ知ること。「ありがとう」同様に「便宜を図る」という言葉もヒンズー語には存在しないのかもしれない。

既に無人のプラットフォームを呆然と眺め、1日待つわけにもいかないので車で行くことにすぐに決める。ダージリン迄の乗合ジープ(4WD車)は近くのシリグリという町から出るので駅からオートリキシャーで移動。チャイで一休みしたのち出発。こちらは地元民の足なので客が集まり次第すぐ出発、山道を3時間半。断然速い。

 

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ダージリンは山の尾根を中心に広がる町。インドらしく小さな建物が無秩序にパラパラ散らばるので町の姿は遠目にはあまりきれいに見えない。 山の町というだけのことはあり眺めはとても良く、見下ろす斜面の紅茶畑の先に青い山々が遠くまで続く。

イギリス領時代の避暑地や紅茶など清々しいと迄はいかなくとも何かポジティブな印象が持たれがちなダージリンであるが、他のヒマラヤ地方の町と変わらずきわめてヒンドゥ的な町だった。美的な秩序はあまり見受けられず、ヒトもモノも過密な集積感がかなりのものだ。イギリス時代のコロニアルな建物は少しは点在しているが、土地のほとんどが斜面のため階段状に建物がびっしり埋め込まれた町の光景は、別の意味で印象的かもしれない。ただ外国人目当てのしつこい客引き等の姿は無く、人々の穏やかな雰囲気に多少は心休まる。

 

鉄道駅前で車を降りると空気がひんやりと冷たかった。高地なのでわかってはいたが寒さは予想以上で、そのせいか困ったことに鼻水とくしゃみの連発が止まらなくなってしまった。カルカッタでは半袖Tシャツ1枚でいられたので気温は多分30度弱くらいだった。そこを一晩で一気に20度位の気温差(降下)に体が対応できなかったのだろう。というか、考えてみたらこの半年もの間ずーっと夏だったようなものだ。体も驚くはずだ。発熱まではいかなかったが体はなんとなくだるかった。更に奥に位置するガントクやカリンポンまで足を延ばしたくてシッキムの入域許可証もとったのだが、迷った末行くのは諦めダージリンに少し留まることにした。もう出国日が近づいていたので無理をして体調を崩したくなかったこともある。結局のところ滞在中ずっと症状は良くならなかった。気温差だけでなく花粉だか煤煙だかに鼻の粘膜が反応したのかもしれない。その後山を降りたら何事も無かったかのように症状は消えた。澄んだダージリンよりも汚れたカルカッタの空気の方が僕の体には合っているということなのだろう。

ダージリンは特別目玉となるような観光場所があるわけでもなく、ゆっくり滞在して独特な山の町の雰囲気を味わう所のように思えてきた(ただのんびりするは寒いし人も多い)。1つの町を肌で感じるにはある程度のまとまった時間が要る。町自体は狭いのですぐに行き尽くしたが、同じことの繰り返しもたまには良いものだ。毎日適当にほっつき歩いた後3時過ぎには町中に戻り、グレナリーズという古くからある店でポット一杯のダージリンティーを飲み読書をするのだ。僕はコーヒー党だがここでは紅茶を飲み続けた。実は何を隠そう雰囲気に呑まれるタチである。食事はチベット料理のモモやトゥクパが美味しく、久々の脱マサラも悪くなかった。レストラン、食堂、屋台、申し分なし。そうそう、ここでは納豆が食べられている。日本の物ほど糸はひかないが大豆を発酵させている。とある日本人旅行者が料理の付け合わせに出てきたソレを豆の腐った奴かと思って味わわなかったらしい。いや、間違ってはいないんだけどな。

泊まっていた宿は日本人女性が嫁いだ宿だった。ダージリンが好きで何度も訪れるうちに知り合ったらしい。父親が経営しているホテルは表通りに面していて、息子(彼女の夫)が任されているのはすぐ裏に隣接した小さな分館のような宿。そのホテルの宿泊客の運転手が泊まるような宿よ、と教えてくれた。とはいっても若いインド人旅行者も普通に宿泊している安宿だった。話によればその一家の宗教はヒンズーではなくゾロアスター教で、よくあるインド人家庭とは少し違うらしい。彼女の服装も日本にいる日本人と変わりはなかったうえに、タマという名の子猫を飼っていた。その時もっと色々聞いておけば良かったと今では思う。町の夜は早く部屋に戻っても寒いだけで相変わらず鼻水とくしゃみが止まらないので、小さなロビーに下りストーブを囲んで他の旅行者と話をした。

 

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カンチェンジュンガ(世界第3位の標高)は町中から眺めることができる。町並みの猥雑さと峰々の神々しさが同居しているところなどインドらしい。

 

f:id:pelmeni:20210218034825j:plain町外れの動物園には猛獣が多く、見ているうちに気分が次第にエキサイトしてきた。レッサーパンダはここヒマラヤ辺りに多く生息している。地元でお馴染みの動物ってところ。


 

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ダージリンヒマラヤ鉄道は、NJPからダージリンまで通しの列車はディーゼル機関車が牽引しているが、部分運行にはこの蒸気機関車がまだ使われていたようだ。一つ手前の駅のある町グームまで1時間半の道のりを歩いてみた。途中バタシアループという眺めの良いヘアピンカーブで下から上がってくる列車にすれ違った。以前NHK教育テレビで見たテンジン・ノルゲイ(ヒラリー卿と共に初めてエベレスト登頂に成功したダージリン出身のシェルパ)の特集番組内ではこの場所は裸地だったが、公園としてきれいに整備され入園に5ルピーもとりやがった。通過する列車を動画に収めるためには入るしかないのだが…。

f:id:pelmeni:20210218040027j:plainカンチェンジュンガも見納め

 

カルカッタに戻りサトシに会いに行った。サトシとは安宿街の一角の路上に土産物の店を開いていて日本語を流暢に操るベンガル人だ。ダージリンに発つ前は会えなかった。「西宮のおっちゃんに教えてもろたんや」「日本人と話しているから忘れない」としか答えないが、どうみても日本の生活で覚えたレベルの会話を普通にする。実は英語が話せない(本人談)というのもそう思わせる理由だ。僕が初めて訪れた6年前、この界隈には日本人旅行者の姿が常にあり、彼の周りには誰かしら入れ代わり立ち代わり現れ話し相手になっていた。ところが今回彼が言うには、徐々に接し方が変わってきて、最近は日本語を話す変なインド人と見られることもあるらしく、敬遠され気味らしい。あまり物も買ってくれないとのこと。旅先で贅沢をしてこそ楽しい、という正論も彼は口にした。ただ正直に言えなかったが、土産物といってもそれほど欲しいと思わせるものが置いてないのだ。『深夜特急』や 『旅行人』に感化された多くの若者が訪れ、インドに来れば何でも目新しく面白かった時代は終わり、今ほどではないが既にインターネットで情報が入手できる時代になっていた。「商売あがったりや」と彼は言うので、別れ際に絵葉書を5枚だけ買った。買わされた、というべきか、商売上手なベンガル人に。

 

カルカッタの国際空港は以前は地名からダムダム空港と呼ばれていた。シャーロキアンならこの名前にピンとくるでしょう。「空き家の冒険」でモラン大佐が使用していた特殊な弾丸がダムダム弾。イギリス統治時代にインド人の反乱の制圧のためにコルカタ郊外のダムダム地区にあった工廠で作られた物だそうです。

地下鉄とタクシーを乗り継いでたどり着くと 、ロータリーがきちんと整備されていた。ああ、ここでも以前の記憶と重ね合わせてしまう。---入国手続きを終え建物から出て、およそ国際空港の正面とは思えない何もない荒地を横切り少し離れた所にある道路へ出る。言われなければバスとは認識できない4輪の付いた継ぎ接ぎの箱に乗り込む。西日に炙り出された道路沿いの光景を見続けた時の得も言われぬ感情。---それが僕のインドの本当にファーストなインプレッション。もう死ぬまで忘れられない印象といえば大袈裟かもしれないが、多くの旅の記憶がいずれ忘れゆく中これは残り続ける、多分。でも、もう無いんだよなあ、気になってしょうがなかったあれらの光景はすべて。6年も経てば当然といえども肯定し難い気分に少し落ち込む。過去を過去として認めぬうちには来るべきではなかったのかもしれない。あらゆることを較べてしまい余計なことばかりに気を取られて頭が変になりそうで、正直言ってこの時は楽しめなかった。でも時が経てばそれらはすべて含めて懐かしい思い出に収束するのだろう。感情の振れ幅が大きかった記憶ほど時間を掛けて確かなものとして自分の一部に取り込まれてゆくはずだ。

 

 

ダッカの空港では乗継便が翌日となるので指定のホテルで一泊することを言い渡された。パスポートを職員に預け宿泊ホテルへ行く小さなバスに誘導される。空港建物から出ると鉄柵にしがみ付く人々の群れ。なんじゃこりゃ、近年流行のゾンビフィルムみたい。

 

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バスの中から眺める通りはサイクルリキシャーで溢れチャリチャリ騒がしい。風鈴のようだと無理に思い込めば風流の欠片くらいは感じられたかもしれない。その数は車より確実に多い。噂の「日本っぽい文字」の描かれた車を発見。当時は日本の中古車がステイタスだった模様。

 

ダッカの街中のどこかにあるホテルで降ろされ翌日の集合時間を言い渡された。結局昼食にありつけたのは午後4時半。部屋を宛てがわれ食事も出されるので後はもう何もすることはないのだが、じっとしていても手持ち無沙汰だ。陽は傾いているがまだ暗くはなっていない。僕の部屋は表通りに面していたので外を眺めていると、同じ便に乗っていたドイツ人が建物の入口を出たり入ったり様子を伺っているのがわかった。すぐに行動に移す決心がつかないのだろう。僕も下に降りたくなってきたところだったので、考えていることは皆同じなんだなと思った。入国手続きをしていないうえにパスポートも預けて手元には無いので、我々は正式にはホテルから外に出ることはできないのだが、多くの人で賑わう街を目前にしてじっと留まるなんて無理な話。ちょっとだけなら出歩いても構わないだろう、なんて考えてしまうのは旅行者の性だ。ロビーには外国人旅行者が何人かウロウロしていた。ホテルの受付も何も言わないのだからいい加減なものである。

素知らぬ顔でふらっと建物から出る。にやけるのはその後だ。印となる商店等を目にとめながら、わかりやすい大通りを高架下の魚市場まで歩くと、珍しい人間がやってきたと歓迎される。以前に訪れた人から聞いた話だが、ダッカでは外国人の周りには直ぐに人が集まってきて放っておいてくれないとのこと、こんな短時間でもその片鱗をうかがわせるものだった。陽が落ちて暗くなったので戻ったが、その間1時間強と少しだけ。今の時代GPSスマホがあれば幾らでも歩けるが、その代わり、道を迷うわけにはいかないというあのちょっとしたスリルを感じることはないだろう。

ホテルに戻り簡素なフィッシュカレーの夕食を済ませ、若い従業員と話をして激甘スイーツ(イスラムの常)を貰った。その後彼は部屋までやってきて僕に職を紹介してほしいと言う。どういう形でもよいから日本に行って働きたいので連絡口になってくれとせがむのだ。おそらくこれまで話し相手の外国人旅行者みんなに同じようなことを言っているのだろう。当時の日記帳に彼の名前や連絡先が残っている。顔は忘れてしまったが元気にしているだろうか。

 

f:id:pelmeni:20210214161410j:plainf:id:pelmeni:20210214161011j:plainスイーツショップf:id:pelmeni:20210214193646j:plainf:id:pelmeni:20210214193811j:plain

 ギョッ

 


***My Secret Walking in Dakka***

 

 

 

’05旅回想 その21 インド再び

インド1 Nov.-Dec. 2005

カイロ→アブダビ空港→ニューデリー→カジュラホー→カルカッタ(現コルカタ

 

この旅はエジプトへ行くことまでは決めていたが、その先は成り行き任せとしていた。金が尽きれば帰ってくればよい。幸いもう少しだけ続けられそうなので、次の行先をエジプト滞在中考えていた。アフリカを南下するつもりはないからアジアかな…、そうだ、ミャンマーがある。この2年前の夏ブダペストの宿で1か月以上もだらだらと過ごした仲のイシイ君がミャンマーに前年行ったことを思い出しメールを送ってみた。すると彼はなんと引き続き旅行中で南米にいるという。ミャンマービザはカルカッタの領事館で簡単に取れることを教えてもらい、次の行先はインドに決まった。インド大使館のビザセクションは宿の近くタラアトハルブ通りのビルにあったので速攻でゲット。カルカッタ行きのフライトは良いものがなかったので、ニューデリー迄のチケットを安い旅行代理店探し回った。

 

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ガルフエアの機内食こんな写真を載せるなんて、まるで旅行ブログみたい!(笑)

実はこのフライトは食事攻めだった。まずカイロの空港で出発が遅れたのでリフレッシュメントの軽食、次がこの機内食、夜中にアブダビで乗り換え、新機搭乗早々の食事、オマーンのマスカット(近所)に立ち寄った後また食事…、みんな食べ終わっていないのにCAが片付けに来て少し混乱していた。僕も最後は食べきれなかった。そんなこんなで眠ることなくニューデリーへ。

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途中乗り換えのアブダビ国際空港ターミナル。イースターエッグみたいというか不思議なインテリアが楽しい。カイロの出発が遅れたため乗り換え時間が数十分しか残ってなく、さっと歩く程度しかできなかった。ぜひとももう一度利用してみたい空港の一つ。

 

リシュケシュへ行く旅行者とニューデリーまで来て、二日ほど滞在しここで別れた。メインバザールやコンノートサークルには一通り訪れたが、必要物資の買出につきあったり、ニューデリー駅上階の外国人用列車予約窓口で時間を喰ったりで、あっという間だった。僕は一度訪れているので、以前と比べてもあまり変わっていないなというのが感想だった。パリカバザール、マクドナルド・ファミリーレストラン、本屋、etc…、かつて好きで通ったシェイク屋が同じ場所で営業していたのも嬉しかった(2012年も健在!)。何の変哲もない普通の定食でも、到着して日が浅いと何でも美味しく感じられる。インドでマサラを毎日口にしていると、体が次第に浄化されて健康になっていくような気分になる。何度もインドを訪れているが実際のところいつも体調はすこぶる良い。 

 

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f:id:pelmeni:20210203183850j:plainf:id:pelmeni:20210203184051j:plainチャパティ焼きおじさん。美味しかったです。f:id:pelmeni:20210203183317j:plainインドに来たら何はともあれコレが無ければ始まらない! ♪ レモンライムの青い風~はキリンレモンではなくリムカ !!

 

一つだけ違っていたことといえば、メインバザール界隈で一番安く泊まることができる故に世界中から多彩なバジェットトラベラーが集まっていた(またそれ故に環境は悪い)ホテル・ナヴランが、ほぼアジア人宿?っぽくなっていたことだ。僕は前回泊まってみたが、あまりに暗くて湿った独房のような部屋のせいで3泊で逃げ出した(それでも3泊笑)。1階の食堂に和食メニューが並んでいるのをみて同行者とこれは何だと話しながら先客とチャイを飲んでいたら、後からやってきた日本人カップルと目が合い、微妙な空気がその時流れた。

 ……何処かで会っているはずだけど思い出せない…… 

お互い大方そんな処だったのだろう。でも先に思い出したのは彼等の方だった。

 -----死海、行きましたよね
 -----あ、あの時の!

ヨルダンのアンマンに滞在中5人で車をチャーターして死海に行ったのだが、その時のメンバーだ。二人はその後北上しシリア、トルコ、イラン、パキと経由しニューデリーまで陸路でやってきた。僕はイエメン、イスラエル、エジプトとうろつきニューデリー迄飛んできたばかり。その間2か月半。全く違うルートをたどってもこんなにピンポイントで再会するなんて、旅の偶然には時にそら恐ろしさを感じる。まるで何かに操られているかのような。

 

ニューデリーからカルカッタへ直接行くには距離があり過ぎるし何かもったいない気がしたので、途中に寄る場所を地図で探したところ、カジュラホがちょうど良さそうなので行くことに決めた。バラナシは以前訪れているので今回はパス。あすこは精神的にも色々疲れる場所という記憶がまだざっくり残っていた。10年位経ったら再訪してみたいと思った。

カジュラホへはニューデリーからジャーンシーまで鉄道で行きそこでバスに乗り換える経路をとった。早朝発の特急は以前アーグラーへ行った時にも利用した列車で、車両はそれほどキレイではなかったが上級クラスのせいか客は上品だった。朝食付きで座席毎にミネラルウォーター1本も当然付いていた。僕はいつもの習慣で大きな水のボトルをわざわざ買って持ち込んだがそんな客はいない。重くてかさばる荷物になっただけだ。こういう旅を続けていると貧乏性が染み付いて困ったものだ。

 

f:id:pelmeni:20210204151247j:plainインドではバスに乗車するだけでも何かしら混乱が起きるようにみえる @ジャンシ

f:id:pelmeni:20210205213515j:plainたぶん途中の町のバスターミナル

 

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カジュラホのジャイナ寺院群は美しく整備された庭園の中にある。とても平和な気分。

さてさて細部に寄りましょうか。

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これは現実の世界の描写か、それとも理想の極楽の夢想なのだろうか。

 

出発日朝にバススタンドへ行くとここにバスは来ないと言われた。いや別に禅問答をしに僕はインドに来た訳じゃない。時刻表が掲げてあっても経験上その時刻にバスが来ないことの方が多いことは承知していた。実際のところインド旅ではこの程度のことを気にしてはきりがない。何であれ代替案があれば問題とは言えないと僕は認識している。この地にはインド人にしか理解できない何か別のロジックが流れていると初めて来た頃は思った。よくインドは人を哲学者にすると言われるが、インドの市井に哲学者がいるわけではない。一見では把握できない事象を理解しようとすると、普段しない頭の使い方を要求される。それは面倒だし労力を要することだが、異文化との遭遇そのものであり旅をする本質的な目的でもあると僕は思う。ただここはちょっとハードコアな度合いが過ぎるのだ。まあ無理をしなくても旅はできる。係わり方は人それぞれに。

結局、インドの好き嫌いは、誰もが対応できるわけではないそのような世界から選ばれるか選ばれないかなのだと考えるようになった。多分選ばれている僕でも旅行中は常に愛憎相半ばする感情に苛まされる。突き放すことはしたくないが深入りするには躊躇する。程よい距離を保ち付き合うことが難しい場所だとつくづく思う。ただそれが一部の旅人にとってはインドを旅することの引力にもなっている。

 

その場にいた旅行者3人でバスが出る近くの町までオートリキシャーに相乗りすることにした。そこからパンナ乗換でサトナまで行き、鉄道に乗ることになる。他の二人は韓国人とフィンランド人。そのフィンランド人は日本人と韓国人を見分けることができるというので、試しに訊ねたところ確かに正解した。理由を聞いたが憶えていない。互いになまった英語で会話をしているところを聞けば判るのかもしれない。僕はフィン人とスウェディッシュが話していても絶対に見分けることなんてできないだろう。

駅に着き当日のハウラー行きの列車を予約しようとしたら、出発まで4時間をきっているのでもう予約はできないという。列車内で車掌から買うことになる。インドでは技術がそこそこ進んでいるのに賢く活用されていない事が多いように思えて仕方がなかった。例えば駅の窓口でもコンピュータで発券システムが組まれているのに午後6時きっかりに終了するとか訳がわからない。午後6時ジャストでコンピュータがストップしたにもかかわらずまだ窓口に並び続ける多くのインド人も訳わからない。(昔の話。今は変わった?)

 

一晩車内で過ごし定刻より30分遅れでカルカッタのハウラー駅に到着。目を疑った。なぜなら以前の記憶通りなら床に寝っ転がっていたはずの沢山の人々の姿が全く無かったからだ。これでは普通の大きな駅と違いがない。ほの暗くもいかがわしい雰囲気に満ちたハウラー駅はどこへいったのだろうか。6年前に初めてインドの鉄道駅を利用した時に受けたあのショック-----夜の駅の薄暗いホールや構内に伺い知れない理由により滞在している無数の人々の姿を目にした時の強烈な印象、自分の思考を纏めることのできない不安定な感情はまだ覚えていた。

実はこの時は何かの大掛かりな催し物が行われていて、ステージなど設けられ伝統音楽も演奏されていた。そのために何百もの人々(大袈裟かな?)は何処かに追い払われてしまったのか。おそらくは別の場所に移動していたのだろうが、行方も含め彼らの存在が気になってしまうのだった。僕のインドの印象は前の旅のカルカッタから始まっている。

国土の広さ故インドの鉄道は夜行の長距離列車も多く、大きな街の鉄道駅は夜遅くでも利用者で賑わっているのだが、床にずっと寝ている人が昼でも夜でも数多く存在していた。この人たちのすべてが列車を待っているとは思えなかった。常識的な(と自分で思っている)理解の範疇を超えた存在を受け入れるためには、自分の感性を服従させる他ない。現実は理解よりも優先する。インドではこういった感覚で旅をしていることが多かった。

 

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散歩しましょう 昼も夜も 明るい陽の中暗い灯の下

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2度目の訪問だが、再び訪れたくなるような観光場所は特に無かったので、やることをまずやってしまう。お仕事の合間の街歩きでも十分楽しい。

ここでのミッションは前述したとおりミャンマービザを取得することだ。領事館の場所は移転していたが申請は無事に済み取得は8日後、よって計画通りにその間はダージリン方面に滞在することができそうだ。丁寧な対応に一時だが心休まったのは彼らがインド人ではなかったからだろう。帰りがけにビーマンバングラデシュ航空のオフィスに立ち寄り、ミャンマー行の航空券をその場で購入した。ルートは「カルカッタダッカ乗継 → ヤンゴン・ストップオーバー30日! → バンコク」というものである。特にダッカ乗継は翌日出発となるのでホテルで一泊、これも含めて不安と期待に溢れたフライトになりそうだ。

 

 

 

’05旅回想 その20 エジプト2

エジプト2 Nov. 2005

カイロ→スエズアレキサンドリア→カイロ、砂漠ツアー

 

さて、とりあえず言えることは砂色の乾いた光景には食傷気味ということだ。ナイル河デルタでは農業が盛んだと学校で習ったことを思い出し、そちら方面に向かうことにした。アレクサンドリアと、その前にスエズ運河を見てみたかった。スエズとポートサイードが両端の町であることを地図を見て確認し、バスでスエズへ向かった。

スエズは紅海側の端に位置する町。とりたてて何があるわけでもなく、運河がスエズ湾に繋がる港近くに公園があり、町の人と一緒に規則的に通り過ぎる貨物船をひたすら見続けた。僕がいたその日の午後遅くは、地中海からインド洋方面に抜ける船が通る時間帯だった。きっちり計ったかの様に等時間で大型船が目の前をゆっくりと通り過ぎるのが不思議でずっと見ていた。町の人も大勢眺めていたけど、飽きないのかね。んー、意外と飽きなさそう。夕陽が差すなか静かでリラックスした雰囲気が心地よかった。

 

f:id:pelmeni:20210116191451j:plainf:id:pelmeni:20210118181329j:plain何を運んでいるのだろう

f:id:pelmeni:20210118181513j:plainスエズ町中で。これは広告?大漁旗? アラビア文字は全く読めないのでわからない。

 

 

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アレックスの街はゆるやかに湾曲する湾に沿ってひろがる。垢抜けた印象があるのは、非常に長く豊かな歴史を持つからだろうか。南欧に似た雰囲気も感じられる。とは言っても残念だが使うのはエジプト人なので、よくみるとあちこちが汚く綻びがある。

ここでまずはビザの延長をする必要があった。気が付けばあっという間の1か月、長旅を続けるにはペースダウンの期間はどうしても必要となる。広くて観光地が多く物価の安いエジプト、それにはうってつけの場所である。手続きは本来なら特に難しいことは無いはずだったのだが、実はここで大ポカをした。スエズで気付いたのだが、有効日の計算を一日間違えていたのだ。最終日の前日に移動としていたので繰り上がるのはまずい!。ガイドブックにはスエズからバスで3-4時間と載っていたので着いたその足で窓口に向かえばぎりぎり間に合うとふんだが、乗ったバスは予想外に6時間も掛かった。おかげでその日は既に時間外、窓口へは翌日に行く他はなかった。平然を装い恐る恐る申請をしたが、15分後には何の問題もなく延長のスタンプが押されたパスポートが返却された。新たなビザを見ると延長の開始は前日からとなっていた。ああ、ここがエジプトで本当に良かった。ついている、心からそう思った。しかしそこまで緩くてよいのかね?、罰金くらいは覚悟したけど…。窓口のおばちゃんありがとう。これでまだ1か月もエジプトに滞在できるのかと思うと自然と頬が緩んだ。

結果オーライだが胸のつっかえが取れたので気分は晴々、まずは海辺に向かった。広い空は明るく緩やかに流れる海風が心地良い。確かこの湾の中に古代の遺構が眠っているはずなのだが、静かな海を眺めても何も見えてはこない。そこでグレコ・ローマン博物館を訪れたが、改装のため暫くの間休館との貼紙があり、残念な事このうえなし。路面電車で街中を一日廻った後に前夜に続き魚料理を食べ、カイロに戻ることにした。

 

 

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ゴッサムシティ に無事帰還。たった数日の不在なのに、この人いきれがもう懐かしい。

早速人の波に紛れ込み、相変わらず構ったり構われたり… 気が付くと時間だけが経っている。でも、悪くない、悪くはない。

 

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とあるモスクにて、トルコのコンヤ発祥のイスラム神秘主義スーフィズム)、メヴレヴィー教の舞踏を見る。これは観光客向けのショー(スーフィーダンス)なのだが、それでもひたすら回転運動を続ける踊りは見事。以下Wikipediaより再掲。

「スカートをはいた信者が音楽にあわせて、くるくると回転をし踊るという宗教行為(セマー)で知られる。これは祈りの手段であり、回転は宇宙の運行を表し、回転することで、神との一体を図るというものである。

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 次から次へと踊り手が現れ、音楽に合わせてひたすら踊り続ける。

 

 

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夜の散歩もまた楽しい。余計なものは夜の闇に隠れ、陰影がくっきりと浮かび上がる。大英帝国統治時代に作られた建物は見応えがある。これに気づいたのはここカイロが最初だったかもしれない。世界どこでもお見事。 

 

 

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カイロにはキリスト教コプト正教)の信者も数多く住んでいて、大きな教会も存在する。隣のコプト美術館はまたここも改装中。覗いたら仕事してる気配が無いが?。

 

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ご存じスフィンクス正面の KFC 店内より。街中と比べて1.5倍の価格。ピザハットも併設。

 

この時は別の宿に滞在していたのだが、前にいた宿に顔を出すと数人が砂漠ツアーに行く話ができていたので仲間に入れてもらうことにした。カイロからまとまって出発というわけでなく、砂漠近くのバフレイヤオアシスまでは自分で行き現地の代理店に申し込むということだったので、他の日本人や外国人も集まった。

フレイヤオアシスから白砂漠、黒砂漠、ベドウィンの住む集落等を巡って帰ってくる一泊二日のお手軽ツアーにした。黒砂漠はゴツゴツした黒い岩の塊や丘のある砂漠。白砂漠はたぶん石灰岩が凸状に砂地から飛び出す異景。また鉱物の結晶が露出している所ではちょっとだけ砕いて頂いてきた。

宿泊は白砂漠で野営。赤く染まる夕暮れは言葉を失うほど美しく、気が付けば皆フラフラと歩きまわっていた。日が落ちれば音の無い世界。無数の煌めく星との無言の会話の時間。ツアー仲間はいるのだが口数は多くない。朝は嫌でも早起き。眠気も忘れる美しい夜明けだった。幻想的な光景の中では人は夢遊病者のように歩き回ることを知る。

 

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