Feb.1998 サラエボ
駅構内に留置されていた客車 当時は旅客運行がまだ再開されていなかった
かなり昔の事であるから忘れてしまったことも多い。でもこの時この場所を訪れたということは、僕の旅経歴の中では、もしかしたら最初にして最大のハイライトだったのかもしれない。今まで様々なものをみてきたが、此処での経験以上に心に刻み込まれたものはあったのだろうか。何ともいえない。今以ってそうとしか思えない。この時受けた重みのようなものを、その後も事有る毎に求めていた気がする。
長旅に出るには皆それなりの理由がある。もちろん飽くなき好奇心の追求といったものが根底にあるのだろうが、それだけではなく何か非常に個人的な衝動が人をより長い時間の旅に駆り立てるはずだ。98年のサラエボという硬くて確かなものが僕の内部の奥底深くに沈んでいた。以降の旅の時間は常にそれと共にあった。時々思い出したかのように掬い上げてその存在を確認してはそっと投げ戻すことの繰り返しだった。
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鉄道はまだ再開していなかったので、ザグレブから夜行バスに乗り込んだ。夜も開けきらぬ薄暗闇の中バスターミナルに着く。2月の終わりだからまだ寒かった。大きな交差点の黄色い街灯の下で機関銃を肩に下げた歩哨が警備をしている姿をバスの中から寝ぼけ眼で見て、いきなり緊張したことを昨日の事のように憶えている。
この時存在した安宿は二つ。一つは駅のヤードに放置されている客車のコンパートメントを利用した宿泊施設。もう一つは旧市街にある小さなホテル「ペンション・コナック」。ホリデーイン等の大きなホテルはこの際関係無し。後にサラエボ名物となるイヴァナが現れるのはもう少し後のことだ。
そのコナックという宿には滞在中に自分を含めて計7人もの日本人が出入りすることになり、これにはちょっとした驚きというかあきれてしまった。何処にでも行くんだな、日本人。他には親戚を含め一緒にドイツ迄行く新婚旅行中のイラン人のファミリー。仕事の機会が有るか早くも動き始めた近隣の国に在住の中国人にはさすがと思った。宿では時間による給水制限がまだ残っていた。
この地が気になり既に3回も訪れている日本人の学生君に3-4人で街を案内してもらった。中心部の繁華街は壊された建物の修復も進み地元の人で普通に賑わっているようにもみえた。しかし否が応でも内戦の傷跡は眼に入ってくる。高層の建物は標的にされ易かったのか損傷が大きかった。新市街は被害が激しく剥き出しのままの所が多かった。冬季オリンピックも開催され観光客で賑わうかつての姿は… 見掛ける外国人は皆軍服を纏った国連軍の兵士だ。
朝のバシュチャルシヤ(旧市街)
焼け落ちたゼトラ・オリンピックホールと周囲に拡がる墓地 奥のスタジアムには確かイタリア軍が駐留していた
街の外に拡がる墓地
街中で命を落とした多くの人の遺体は公園の土の下に埋められた。墓石代わりの石がたくさん散らばっていた。そのすぐ横を人々は通り過ぎる。
攻撃されたオスロボジェニェ新聞社屋がそのまま残されていた
足下にはグレネードの着弾跡
新市街へ歩いてゆく
こちらの方が戦闘は激しかったそうだ
おびただしい銃弾の跡
崩れ落ちた壁面
---何が起きたのか自分の眼にしっかりと焼き付けておこう
ただそれだけを思いながらサラエボの街を歩いていた気がする。でも考えることがあまりに多すぎた。初めのうちは興味深々といった感じだったが、気が付けば無言になっていた。一緒に歩いていた学生君がいろいろと教えてくれた内容について、何か感想を言いたかったのだが、言葉が出て来ない。自分の内部で渦巻く言葉にならない感情を整理するだけで精一杯だった。感情のキャパを超えていたのだろう。そんな経験は初めてのことだった※。
※その後戦場跡や民族浄化された町など酷いところを訪れたが、これが最初の体験でした。今でこそ大したことでは驚かないけど、最初は何事にもウブなんです。なんか重苦しい写真ばかりですが、それを見ていたということです。その場で感じた空気自体は残念ながらうまく写しとれていないと思います…多分。