もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

’04南米 その2 試合開始早々…  

 

この旅はとある理由wにより帰国日が決まっていたので、出発前に往復航空券を購入しました。キトin、サンパウロout、往復共にヒューストン経由の今は亡きコンチネンタル航空のチケットです。日本を出発してちょうど24時間後にエクアドルのキトに着きました。夜遅かったため街中へはタクシーを利用しましたが、南米最初の夜ということで緊張しました。

南米、いろいろ言われているけど大きな街はそれほど心配することはないんじゃないの、というのが出発前の感覚でしたが、現地で生々しい情報を知るにつれ終いには笑い事なんかではなく、自分の身に起きた時の事を想像すればぞっとするほどでした。とはいえ、必要な注意を払い行動すれば特に問題無く旅行できるでしょう。ただし、運次第です!(爆) 運が悪いと大事になりますが、問題はその確率や程度が他の地域の10倍くらいは高く酷いのではないかということです(あくまで個人的印象です・爆)。ひったくりやかっぱらい、詐欺まがいの騙しに更には強盗やバスジャックまで、各地の日本人宿に置いてあった情報ノートには被害者が殊の外細かく時には可笑しく書き残してあり、まだ日の浅い旅行者はそれを読み皆憂鬱になってました。この時もペルーでは確かプーノで日本人カップルの旅行者が当時のトレンド「首絞め強盗」にあったばかりで、日本人が経営する宿には大使館からの注意喚起の書類コピーが貼紙してありましたな。

でも何故こんな話題を始めにするかといえば、そうですよ、僕も軽く一撃されたからです。

 

 

 キトin→グアヤキル→リマ→ナスカ→リマ→クスコ→

上記が旅の初めのルートです。何故リマに戻ったかというのが、実はこの旅の序盤のポイントです! そしてあまり写真が残っていません。そうです、またカメラ他盗まれちゃったんですねー(爆) もう笑わないでください。馬鹿といわれても仕方ないです。以前のカトマンズに続いて2回目ですからねえ。学習能力が無いというか緊張感が無いというか、何言われても言い返す言葉はありません。

でも言っておきましょう。この後数十か国を訪れることになりますが、盗難にあったことは一度もありません。これが最後でした。ただこの前には… なんかありましたな、首筋に冷たい金属片とか(爆、その話は何時の日か)。

 

事が起きたのはリマ→ナスカ間のバスの中です。これでも一応注意を払って手持ちの荷物は普段と変えてコンパクトにまとめ変えたんですよ。でもそれを膝の間というか下に置いて30分くらい眠ってしまったんですね、魔が差したのでしょう、残念ながら。お腹の上で抱えていれば眠っていても大丈夫だったのかもしれませんが、結局デジカメとトラベラーズチェック全額抜き取られてしまいました。狭い車内でどうやって盗られたのだろうと考えても戻ってくることはありません。善後策に気持ちを切り替えるしかありません。

リスク込みの旅、それが南米の旅。トラブルに遭遇した際は気持ちの切替が第一、やるべき事柄は手際よく漏れ無く済ます。後まで引きずると楽しい旅も楽しめません。

でも、ああもう限りなく SHOCK! SHOCK! SHOCK! この時はもう一人の日本人旅行者とクスコまで一緒に行く予定でしたが、翌日地上絵を見学した後に別れ、僕は夜行バスでリマに戻りました。まずしなければならないことはアメリカンエキスプレスのトラベラーズチェックの再発行です。南米からのせいか電話が途中で切れたり最初は面倒が続く。宿沖縄に再び戻りコレクトコール。2回目の電話で日本人の担当者と話すことができ、FAXのやりとりを済ませたら(確か・この辺記憶が曖昧、日記もれ)、2日後にミラフローレスのオフィスで全額再発行されたんですよ。貰ったその場で一枚一枚にサインを書き込みながら、本当に安堵の溜め息をつきましたね。カメラは2台持ちなので何とでもなりますが、金が無ければ旅行は続けられませんから。T/Cも今日ではその役割を終えアメックスも新規の発行を終了しましたが、これは忘れられない思い出です。

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サンフランシスコ教会と広場

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安宿スクレの部屋より 教会の隣なので夜中に鐘の音で目覚める


キトでは旧市街の散策と赤道博物館に行きました。こじんまりとして奇麗な所ですが、印象に残っている事といえば、通りで若者が口論の末老人を殴り倒し財布を奪い去っていったことと、背が2m位あるエホバの証人の黒人宣教師がバスターミナルで勧誘をしていた事です。今となっては碌でもないことばかり憶えています。体調が優れずに昼寝ばかりしていたのは初め時差ボケを疑っていましたが、ふと軽い高山病ではないかと気付き低地のグアヤキルに降りた途端に全快しました。山道を熱帯低地まで一気に駆け下りるとバスの車内でも湿気が増えたことを実感しました。外は一面のバナナ畑と「Dole」の看板。

グアヤキルガラパゴス諸島へ行く人が経由する大きな街で、特に観光地というわけでもなく治安も良くなかったのですぐに抜けました。しばらく忘れていましたが数年前に日本人の新婚夫婦強盗殺人事件が発生した折に思い出しました。またそんな話題か… 有名なイグアナ公園だけは忘れずに訪れました。

 

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彼らはベジタリアンでしょうか
 

 

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ナスカの地上絵は文句無しにすばらしい。これは有史上の世界の七不思議の一つに確実に数えられますね。でも盗難翌日で気分的には60%くらいしか楽しめていなかったのかもしれない。パイロットはマイケル・ジャクソン似だったが腕は良かったです。「アミーゴ!、レフトサイド!、マンキー!!」 思ってたより小さくしか見えないので途中からそれ程乗り気で無くなった。写真の方が印象強いが、こういうものは実際にその場で見ることが大事なのだ、と自分にいいきかせる。

 

 

リマの警察署では盗難証明書を作成してもらいました。スペイン語でのやりとりなので苦労するかと思いましたが、とても手際良く(機械的に)対処してもらったので楽でした。多分、年がら年中このような申請者が多いせいでしょう、絶対。同じ時に来ていたスイス人旅行者はネットカフェで夢中になっている間に財布を盗られたそうで、いきなり「わたしはバカなおとこです」と日本語で話しかけてきました。以前日本に住んでいたそうですが、残念ながら話が弾みませんでした。仕方ない、会う場所が悪かったです。

NikonのFEを持ってはいたけど、やはり小型のデジカメは便利なので、リマのミニ・ヨドバシカメラともいえるようなHIRAOKAという電器店パナソニックコンデジを買い直しました。レンズにあるLAICAの5文字に魅かれたのですが、今思えば動画に音声が無い物を選んだのは失敗でした。当時は動画なんて重視してませんでした。此処は名前からして日系、店の歌も店内に流れています。接客も非常に丁寧でおまけにアルミ製名刺入れを貰いましたが、おまけは創業時からの習慣だそうです。日本らしいですね。程なくして知りましたがこの店の創業者、平岡千代照氏はペルー移民の成功者で日秘文化会館の入口には氏の胸像があったと記憶しています。

 

 

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南米の近代は征服者等の既存の文化に対する野蛮な上塗りの試みから始まったようなものですが、、、、 コロニアル様式の建物や街並みは何処でも美しいと感じることを禁じ得ません。それは正直な感想でした。

 

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’04南米 その1 パパブッシュ死去により旅立ちの記憶が呼び起こされる

www.bbc.com

 

ブッシュ元大統領が先日亡くなった。もちろん自分とは何も接点の無い人なのだが、心の中に感じる僅かな引っ掛かりが気になり記憶の深層を探ってみた。そしたらありましたね、時は2004年10月、3か月の南米旅行、アメリカ国内での中継地はテキサスのヒューストン、そう、ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル国際空港でした。忘れてた。

 

という訳で唐突ですが過去旅の掘起こしが再び始まります。備忘録になってしまうかも。

 期間;2004年10月~05年1月。

 訪問国;エクアドル、ペルー、ボリビア、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイウルグアイ

 ※この3か月という期間は失業保険の待期期間を丸々利用したものだったような…のは気のせいでしょう(爆) 

 

’98、’99年の旅を終え暫くの間まともに労働に勤しんだのち2003年に再び旅立った事は以前にちらっと言及しました。その旅は1年近くにも渡るもので、これは本当に面白い体験だったのですが、撮った写真はすべてリバーサルフィルムで約1,200枚(正確に数える気にならない)、デジタル化は今のところ全く手付かずです。こんな枚数どうしよう、というのが本心です。当時既にデジタルカメラは所有していたのですが、記録メディアの容量も小さく大量のデータの保存については術は無く、長期組はほとんど使用していませんでしたね。その後あまり時間を空けずに出掛けた’04、’05の旅行について先に挙げてみようかしらん。まあ気分次第ですけどね!

閑話休題。購入した航空券がコンチネンタル航空のチケットで、米国内の中継空港が上記ジョージブッシュ空港だったのです。南米日本間の直通便というものはありませんでしたので、どのエアでも米国内の何処かで乗継をする必要がありました。(今でも同じでしょう?)単なる乗り換えなのに米国の場合入国審査が行われるのが理解できませんでしたが、そういうシステムだったので従うしかありません。確か面倒な書類を提出した後、入国管理官は、僕が南米行くのにスペイン語ができないというと鼻で笑いやがったのは今でも憶えています。憶えているといえば建物に入った途端漂ってきたのはポップコーンのカラメルの甘い香り。アメリカだなあと感心したのか笑っちゃったのか今ではどうでもよいことなのですが、多くの国や地域を訪れたのにもかかわらず、アメリカに足を踏み入れたのは結局この旅行時のこの空港だけに終わってしまったのは、何かの因果に他ならないと思います。

 

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写真で見ると何かチョコレーットっぽい(涎)

 

テキサスが輩出した政治家の偉業を称えるコーナーが空港施設内の一角にありました。息子じゃありません、パパの方です。

 

'98ヨーロッパ その7 

Mar. 1998

ブルノ→テルチ→チェスケーブデヨビツェ→チェスキークルムロフ→ブルノ→ウィーン→帰国

 

f:id:pelmeni:20180102014134j:plainブルノ駅前通

 

 

本来ならばウィーンに着く頃のはずだが、せっかくビザ※をとったチェコを見ないわけにはいくまい。まあ、ウィーンは今後も大きく変わることは無いだろうし、また来る機会はきっとあるだろうと判断して今回はあきらめた。それでもプラハにすら行けそうも無いのには愕然とした。我ながら行き当たりばったりのドタバタには苦笑せざるを得なかった。でもそのおかげで予想外の経験もした。今だったら帰りの切符を当然のごとく捨てるだろう。いやいや、やっぱり旅なんてほどほどが良いのかも… とはもうとてもじゃないが思えない。

 ※まだチェコ入国もビザが必要な時代。とても美しいデザインのビザでした。

 

ブルノでの最初のお仕事は帰国便のリコンファームだった。鉄道駅隣にある第二郵便局でテレフォンカードを買い、駅構内の公衆電話から国際電話をオランダ(KLM)まで掛けた。窓側の座席もとれ、これで帰国の足が確定し一安心。

ブルノはチェコ第二の都市だがすいぶんとこぢんまりとした印象だった。到着したのが日曜日で夜が早いことにも驚いた。ここへはトゥーゲントハット邸という有名なモダニズム住宅を見学しに来たのだが、運悪く月火曜日が休館のため後回しとして、今後4日間をアクロバティックな行程で廻らなければならなくなった。

宿は Hotel Avion に投宿。実はこのホテルはチェコ機能主義建築のひとつ。間口が狭く外観にあまり見所はないが内部は細かいところまで手が入っている佳作。ただメンテナンスは行き届いていなく、時は流れてこのまま朽ち果てるのかなあと思っていたが、先日調べたところ現在なんと修復中みたいです※。

※ Hotel Avion – Wikipedieチェコ語 

 

f:id:pelmeni:20180108182447j:plainホテル・アヴィオンのホテルカード、紙ナプキン、シャンプー、石鹸。今回撮影、我ながら物持ちが良いですなあ。

 

 

ブルノ → テルチ → チェスケー ブデヨヴィツェ(泊) → チェスキー クルムロフ(泊) → ブルノ →ウィーン(泊)→帰国か、   何とか廻れそう……

 

テルチはブデヨヴィツェへ行く途中にあるのでバスを途中下車して立ち寄った。細長い形をした広場にルネサンス様式の建物のファサードが書割のように並ぶ。見所は広場周辺に限られるが、とてもかわいらしい小さな町。夕方のバスが来るまでの滞在だった。 

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チェスキークルムロフ、これまた愛すべき町だ。S字状に蛇行した川の両岸に町が拡がる。そうそう、この様な地形に座する町で景観の美しくないところなど無い。旅慣れれば地図を見るだけで判るようになる。ランドマークは崖の上に建つ城の塔。旧市街は細い道が入り組み中世の雰囲気が色濃く残っている。歴史的建造物も多く観光地らしい良質な観光地だった、と思えたのは、意外と人が少なく何処ももの静かだったせいもある。それはそれでよかったが、できれば暖かい時期に来たかったなあ。旅の終わりも迫り、名残惜しさや一抹の寂しさとともに、ヨーロッパの冬の寒さが最後に身に凍みてきた。

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宿は旧市街の入口にある Hostel 99 という小さなホステル。できてまだ間もないのか手作り感色濃く素朴な雰囲気だった。(2003年再訪時にはかなり立派になっていて驚いた)

 

 

クルムロフから来た道を逆にたどりブルノに戻る。荷物を駅に預けトゥーゲントハット邸へ行く。当時はまだ世界遺産に認定されていなかった。自由見学はできず午後は3時に集合でガイドが付いた。英語ガイドの見学者は僕一人。チェコ語訛が強かったがそういう人の話す英語の方がネイティブより聞き取りやすいのは…、今でも変わらない。内部撮影は事前申請が必要で不可、外部撮影料金を別に支払いカメラを持ち込んだ。シンプルな空間構成や素材の効果的な使い方により創り出される空間の強度は特筆すべきものだった。 

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見学後は駅に急ぎ荷物を受取り裏手にあるバスターミナルへ走る。このバスターミナルも何度も利用したがこれで最後。軽食を立ち食いで済ませバスに乗り込む。外はもう暗くて車窓を楽しむことはできなかったが、ウィーンまではたった3時間。国境通過時もパスポートチェックのみで、あっという間にミッテ駅横のバスターミナルだった。ここを出発したのは3週間前のことだったが、ずいぶんと昔のことのような気がした(と当時の日記に記していた)。

ウィーンは宿の近くの街を夕食がてらに散歩しただけで終わってしまった。翌朝帰国。

 

あー、何たる消化不良。欲求不満。急いで旅をしても良いことはないなというのが当時の率直な感想だった。それ故に、ブダペストの宿で出会った人たちが楽しんでいた長期旅行というどこまでも自由な時間の使い方に、尋常ならぬ憧れを抱いた訳であった。

この後しばらくの間続くことになる「旅あっての人生」は、ここから始まった。その原点となる旅の日々だった。----------to be continued! といったところか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おまけ)ウィーンの空港へは鉄道で向かったのだが、ぼうっとしていて乗り過ごしてしまった。今でも覚えているのだが、駅についても人が沢山降りるなーと思いながら、頭と体が離れているような感覚で窓の外を眺めていたのだ。終着駅ではなかったので列車はそのまま出発、自分が降り損ねた事を理解したのはその数分後。まずいなと思いながら更に乗り続け、国道沿いの無人駅で下車する。逆方向の列車が暫く来なかったら隣の道路でヒッチすればいいなんて思っていた。列車は20分後に来て飛行機にはなんとか間に合った。しかし、何やってたんだろう?

 

 

 

'98ヨーロッパ その6 

Feb.-Mar. 1998 ドゥブロヴニクブダペスト

 

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サラエボからドブロブニクへバスで移動した。途中の風景には内戦の傷跡も残りいたたまれないものがあったが、内陸部からクロアチアダルマチア海岸沿いの道路に出てからは、もう、広い空! 青い海! 美しい島影! 別世界のようだった。

まだ肌寒かったけど、溢れんばかりの陽の光の中、開放感で気分が一気に弾けた。特異な町の景観も素晴らしい。こう言っては悪いが、陰鬱だったサラエボとは何もかも対照的だった。レストランでワイン飲んだりスカンピを食べたり夜遅くまで海沿いを散歩したり。旧市街を取り囲む壁上の遊歩道は遮る物無く360°のパノラマだ。この町は大きく内戦の被害を受けたわけではなかったが※、旅行者が(恐らく)まだ少ない分、のんびりと時間を過ごすことができた。

 

やっぱり旅はこうでなくては。

いろいろあるから楽しいのだ。そもそも旅行者は好奇心が強い分、移り気だ。過ぎ去ったことはすぐに忘れ、目の前の楽しみに飛びつき、次の訪問地に想いを寄せる。

 

 -----ここは美しい場所だから新婚旅行にぴったりだ、なんて皆言うけど、来ちゃったねー。また来ればいいか-----

なんて話しながら同行者とザグレブ経由でブダペストまで帰った。

(実は2003年に再訪している。結局新婚旅行で来ることは無かったw)

 

※裏山へ登るケーブルカー休止中だったが、内戦の影響は限られたものだった。

 

* 

宿は例のテレザハウス。数日間居なかった間に建物の入口に扉が付いてオートロック仕様となっていたことには驚いた。住人?は2,3人を除いて皆入れ替っていた。こういう宿の場合偶々居合わせたメンバー次第で雰囲気は意外と変わるものである。当然ではあるが楽しかった記憶がいつまでも続くわけではない。先も押し詰まっていたので、名残惜しかったが2泊のみで発った。

 

ブダペスト・ケレティ駅からチェコ行きの列車に乗る。当日は少し早めに行ったはずだったのだが…、一つしかない国際列車の窓口は発券の処理が異常に遅く、長い列ができていた。そして、何と予定の列車を乗り損ねてしまった!! ここが西欧ではないことを忘れていたよ、まったく。でも運が良かった。チェコ方面の特急列車は複数本あり何とか4時間後の列車に乗ることができた。

一人旅が再開したが、残りの日数は僅かしか残っていなかった。急がなければ -----でもこの頃はまだゆっくりと旅をする術を知らなかった。今思えば何か常に急かされていたようにもみえるが、こういう気分で移動し続けること実はそれほど嫌いではない。

ブルノには夕方到着した。

 

 

 

 

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f:id:pelmeni:20171226214154j:plain最近洞窟ツアーに人気があるようだが、ブダペストでは当時既にケービングツアーがあった。

 

 

 

'98ヨーロッパ その5 サラエボ2

Feb. 1998 サラエボ

 

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サラエボは周囲を丘陵や山に囲まれ、ミリヤツカ川沿いに市街地は長く展びる。西洋と東洋が微妙に入り混じり、イスラム教、キリスト教ユダヤ教それぞれの特徴が街を形作りアクセントになっている。僕はそもそもがこういった異文化混在の場所が好きであるが、今思えばこの街がきっかけだったのかもしれない。町中にはモスクが点在し多くのミナレットが景観のアクセントになっている。高台に上がり眺めたらそれがよくわかった。美しい光景だと思った。でも騒音がしてきたので振り返るとなんと戦車が2台やってきてすれ違った。オイルの臭いが強い本物の国連軍SFORの戦車だった。夢現な気分でいてもそうやって現実に引き戻される。

旧市街は石畳に瓦屋根の木造建築が並び、こんなに遠く離れた所で、妙に安らぎや懐かしさが感じられる不思議な町並みだと思った※。京都の町家にみられるばったり床机と同じような作りの仕掛けもみられる。趣があってよろしい。

 

※トルコの影響を多分に受けているものだが、バルカン半島では結構共通のようだ。

 

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この街の住人は心底明るい性格のようだ。生活もまだ色々大変なはずなのだが、そのような素振りはあまり感じられなかった。

町中ではふとしたことから始まる会話も多かった。総じて人懐っこく話好きな人が多い印象をもった。例えばカメラを構えて写真を撮ろうとすると、こちらが何も言ってないのに皆ポーズをとりたがる。勝手に笑顔でフレームに入ってくるのだ。

 ---ヘイヘイ!写真取ってよ!

 ---こっち、こっち!

銀行へ行けば話が始まる

 ---ようこそ、ここは現在のサラエボでは唯一の外貨両替のできる銀行なんですよ!ところで……

 

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冬の寒空に耐え切れず幾度となくカフェに飛び込みトルココーヒーやエスプレッソで暖をとる。その日に眼にした光景だったり人々の温かな笑顔などを思い返しながら暗い気持ちに落込んだり気分が緩んだりと悲喜交々な時間を過ごす。

正直おっかなびっくりでやってきたサラエボで、予想以上の重苦しい現実に混乱したのは事実だ。日常から遠く離れたこの地でこんなに感情を揺さぶられる経験をするなんて、まったく思いもよらぬことだった。 

これが旅をするということなのか。

 

隣り合わせになったオッチャンやオバチャンと他愛無い会話が始まる。 

---元の生活に戻るのが一番。以前の様に多くの観光客で賑わうサラエボに早く戻ってほしい。だから今来てくれて嬉しいよ…

そう言ってくれる人もいた。 

復興を願う彼らにとって少しでも役にたったということなのだろうか。それはわからない。僕にはそういった自負も無ければ単なる物見遊山以上のことをしたという認識も無かった。

以前の様な状態に戻ることはそう簡単なことではない。かつてのマルチカルチャーな豊かさが本当に脆い基盤の上に成り立っていたものであることを、帰国後に色々調べた過程で知った。時間の流れを巻き戻すことはできない。彼ら自身が築き始めた新しい社会を僕らは遠くから見守ることしかできない。でもずっと気にかけていたい、とその時思った。

 

 

'98ヨーロッパ その4 サラエボ1

Feb.1998 サラエボ

 

f:id:pelmeni:20171113111059j:plain駅構内に留置されていた客車 当時は旅客運行がまだ再開されていなかった

 

 

かなり昔の事であるから忘れてしまったことも多い。でもこの時この場所を訪れたということは、僕の旅経歴の中では、もしかしたら最初にして最大のハイライトだったのかもしれない。今まで様々なものをみてきたが、此処での経験以上に心に刻み込まれたものはあったのだろうか。何ともいえない。今以ってそうとしか思えない。この時受けた重みのようなものを、その後も事有る毎に求めていた気がする。

長旅に出るには皆それなりの理由がある。もちろん飽くなき好奇心の追求といったものが根底にあるのだろうが、それだけではなく何か非常に個人的な衝動が人をより長い時間の旅に駆り立てるはずだ。98年のサラエボという硬くて確かなものが僕の内部の奥底深くに沈んでいた。以降の旅の時間は常にそれと共にあった。時々思い出したかのように掬い上げてその存在を確認してはそっと投げ戻すことの繰り返しだった。

 

 *

 

鉄道はまだ再開していなかったので、ザグレブから夜行バスに乗り込んだ。夜も開けきらぬ薄暗闇の中バスターミナルに着く。2月の終わりだからまだ寒かった。大きな交差点の黄色い街灯の下で機関銃を肩に下げた歩哨が警備をしている姿をバスの中から寝ぼけ眼で見て、いきなり緊張したことを昨日の事のように憶えている。

この時存在した安宿は二つ。一つは駅のヤードに放置されている客車のコンパートメントを利用した宿泊施設。もう一つは旧市街にある小さなホテル「ペンション・コナック」。ホリデーイン等の大きなホテルはこの際関係無し。後にサラエボ名物となるイヴァナが現れるのはもう少し後のことだ。

そのコナックという宿には滞在中に自分を含めて計7人もの日本人が出入りすることになり、これにはちょっとした驚きというかあきれてしまった。何処にでも行くんだな、日本人。他には親戚を含め一緒にドイツ迄行く新婚旅行中のイラン人のファミリー。仕事の機会が有るか早くも動き始めた近隣の国に在住の中国人にはさすがと思った。宿では時間による給水制限がまだ残っていた。

 

この地が気になり既に3回も訪れている日本人の学生君に3-4人で街を案内してもらった。中心部の繁華街は壊された建物の修復も進み地元の人で普通に賑わっているようにもみえた。しかし否が応でも内戦の傷跡は眼に入ってくる。高層の建物は標的にされ易かったのか損傷が大きかった。新市街は被害が激しく剥き出しのままの所が多かった。冬季オリンピックも開催され観光客で賑わうかつての姿は… 見掛ける外国人は皆軍服を纏った国連軍の兵士だ。

 

f:id:pelmeni:20171128190404j:plain朝のバシュチャルシヤ(旧市街)

f:id:pelmeni:20171129024622j:plain焼け落ちたゼトラ・オリンピックホールと周囲に拡がる墓地 奥のスタジアムには確かイタリア軍が駐留していた

f:id:pelmeni:20171129024636j:plain街の外に拡がる墓地

f:id:pelmeni:20171129024702j:plain街中で命を落とした多くの人の遺体は公園の土の下に埋められた。墓石代わりの石がたくさん散らばっていた。そのすぐ横を人々は通り過ぎる。

 

f:id:pelmeni:20171129024717j:plain攻撃されたオスロボジェニェ新聞社屋がそのまま残されていた

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f:id:pelmeni:20171129040419j:plain足下にはグレネードの着弾跡

 

新市街へ歩いてゆく 

こちらの方が戦闘は激しかったそうだ

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f:id:pelmeni:20171205065516j:plainおびただしい銃弾の跡

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崩れ落ちた壁面

 

---何が起きたのか自分の眼にしっかりと焼き付けておこう

ただそれだけを思いながらサラエボの街を歩いていた気がする。でも考えることがあまりに多すぎた。初めのうちは興味深々といった感じだったが、気が付けば無言になっていた。一緒に歩いていた学生君がいろいろと教えてくれた内容について、何か感想を言いたかったのだが、言葉が出て来ない。自分の内部で渦巻く言葉にならない感情を整理するだけで精一杯だった。感情のキャパを超えていたのだろう。そんな経験は初めてのことだった※。

 

 

※その後戦場跡や民族浄化された町など酷いところを訪れたが、これが最初の体験でした。今でこそ大したことでは驚かないけど、最初は何事にもウブなんです。なんか重苦しい写真ばかりですが、それを見ていたということです。その場で感じた空気自体は残念ながらうまく写しとれていないと思います…多分。

 

 

 

'98ヨーロッパ その3

Feb. 1998 ブダペスト

 

f:id:pelmeni:20171110190932j:plain建物の中庭に設けられた小さな市場

 

 

とか何とかいろいろ書いたが、そもそもこの街、宿にやってきた理由は以下の2つだった。

 1)国際学生証

ヨーロッパでは学生は優遇されていて、あらゆる場所で料金の割引が受けられる。外国人がその恩恵を受けるための唯一そして絶大なるものが国際学生証だ。大げさな言い方ではなく、小額の割引きも積もり積もれば長旅においてはかなりの金額になるはずである。

宿泊者に教えてもらったとおり近くの鉄道駅(東駅/ケレティ・プー)構内にある旅行会社へ行き、簡単な手続きで入手した。これ以降も数回国際学生証を入手したが、カード自体はバンコクのカオサンで冗談半分で購入したもの以外は本物だ。既に学生は卒業していたため入手方法が違法だっただけである(笑、学生時代は正規につくりました)。

 2)情報ノート

この頃既に『地球の歩き方』はバックパッカーに限らず自分でいろいろ決めて旅行するスタイルには必ずしも合致しない内容のガイドブックだった※。ロンプラやラフガイドといった英語のガイドブックを携帯する人も多かったが、何だかんだいって現地では生の情報というものが一番役に立つのだ。律儀な日本人は情報をノート記して共有する習慣がいつの間にかできたようだ。異国での小さな助け合いといった感覚だろうか。

内容はあまり知られていない有益な情報や予め知っておいたほうが良い事項、旅のTipがメインなのだが、もちろんそれだけではなく、暇つぶしにちょうど良い話や、どうしようもなくくだらない内容、単なる伝言、旅に関係有ること無いこと何でも有りのごった煮状態。それがまた良いのだ。日本を離れながらも現在何処に居るとも判らない多くの旅行者と幾許か繋がっているという感覚は、個人的には心強く思えた。

 

 

ブダペストはヨーロッパのほぼ中心にあるからして、北から南から西から東から、あらゆる方向から集まり、あらゆる方角へと旅立っていく。人だけでなく情報も集まりやすい場所なのだ。僕が滞在したこの時もシベリア鉄道経由で東欧まで来た人や英国の語学留学帰り、ヨーロッパぐるぐるとか様々な人が集まっていた。ここで同行を募ってルーマニアやバルカン方面へ出発する人も多かった。

当時の最大のトピックは、サラエボだったかな。ノートにある情報のページはよく持ち出されてコピーされていたし、サラエボ経由で辿り着いた学生君には皆いろいろと尋ねていた。日本にいる限りではサラエボの現状を知ることは殆どない。しかし中欧まで来ればもう眼と鼻の先。行ってみようという気分になる人は多かったと思う※。欧米人は日常的に内戦の情報に接していたであろうから、そう簡単に行く気にはなれないのは想像に難くない。日本人はよく知らないおかげで純粋に好奇心のみで動いていた。

そんなこと予定に入ってない。主だった場所の観光を終えた後はチャイナマーケット辺りでだらだら過ごし、既に予定をオーバーしている。でも結局、サラエボには行こう、この先のチェコ方面は大幅に変更するしかないという気になっていた。

 -----ぜひ行くべきです。危険じゃありませんから。今見るべきですよ!

当事者の話ほどリアルで説得力のあるものはない。

 

当初の予定通り終えていたら、単なる普通の旅行だったと思う。この時の移り気が、結果的には、予定も期限も無きに等しい長旅という世界に飛び込む引鉄になった。ちょっとした偶然で、旅の素晴らしさも知ることなく違った人生を送ることになった可能性もある。

 

 

 

※ 観光地の紹介は詳しいが、アクセスや移動、宿の情報といった実用的な内容に乏しかった。そういうことを重要視しない編集方針に変わりつつあったのは、創刊当初の個人旅行者からツアーを含めた幅広い旅行者へと購買者の対象範囲を拡げたからだろう。雑誌旅行人がバックパッカー御用達の情報源と代わっていたが、ガイドブックである旅行人ノートが発売されるのはこの少し後のこと。

※当時のボスニアヘルツェゴビナには95年の内戦終結後SFORが展開していた。でも実際何がどうなっているかを尋ねても誰もあまりよく知らなかった。ノートに記された幾人かの旅行者の話だけだった。

 

 

(写真)

そのまま持って帰った情報ノートのコピー