もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'98ヨーロッパ その7 

Mar. 1998

ブルノ→テルチ→チェスケーブデヨビツェ→チェスキークルムロフ→ブルノ→ウィーン→帰国

 

f:id:pelmeni:20180102014134j:plainブルノ駅前通

 

 

本来ならばウィーンに着く頃のはずだが、せっかくビザ※をとったチェコを見ないわけにはいくまい。まあ、ウィーンは今後も大きく変わることは無いだろうし、また来る機会はきっとあるだろうと判断して今回はあきらめた。それでもプラハにすら行けそうも無いのには愕然とした。我ながら行き当たりばったりのドタバタには苦笑せざるを得なかった。でもそのおかげで予想外の経験もした。今だったら帰りの切符を当然のごとく捨てるだろう。いやいや、やっぱり旅なんてほどほどが良いのかも… とはもうとてもじゃないが思えない。

 ※まだチェコ入国もビザが必要な時代。とても美しいデザインのビザでした。

 

ブルノでの最初のお仕事は帰国便のリコンファームだった。鉄道駅隣にある第二郵便局でテレフォンカードを買い、駅構内の公衆電話から国際電話をオランダ(KLM)まで掛けた。窓側の座席もとれ、これで帰国の足が確定し一安心。

ブルノはチェコ第二の都市だがすいぶんとこぢんまりとした印象だった。到着したのが日曜日で夜が早いことにも驚いた。ここへはトゥーゲントハット邸という有名なモダニズム住宅を見学しに来たのだが、運悪く月火曜日が休館のため後回しとして、今後4日間をアクロバティックな行程で廻らなければならなくなった。

宿は Hotel Avion に投宿。実はこのホテルはチェコ機能主義建築のひとつ。間口が狭く外観にあまり見所はないが内部は細かいところまで手が入っている佳作。ただメンテナンスは行き届いていなく、時は流れてこのまま朽ち果てるのかなあと思っていたが、先日調べたところ現在なんと修復中みたいです※。

※ Hotel Avion – Wikipedieチェコ語 

 

f:id:pelmeni:20180108182447j:plainホテル・アヴィオンのホテルカード、紙ナプキン、シャンプー、石鹸。今回撮影、我ながら物持ちが良いですなあ。

 

 

ブルノ → テルチ → チェスケー ブデヨヴィツェ(泊) → チェスキー クルムロフ(泊) → ブルノ →ウィーン(泊)→帰国か、   何とか廻れそう……

 

テルチはブデヨヴィツェへ行く途中にあるのでバスを途中下車して立ち寄った。細長い形をした広場にルネサンス様式の建物のファサードが書割のように並ぶ。見所は広場周辺に限られるが、とてもかわいらしい小さな町。夕方のバスが来るまでの滞在だった。 

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チェスキークルムロフ、これまた愛すべき町だ。S字状に蛇行した川の両岸に町が拡がる。そうそう、この様な地形に座する町で景観の美しくないところなど無い。旅慣れれば地図を見るだけで判るようになる。ランドマークは崖の上に建つ城の塔。旧市街は細い道が入り組み中世の雰囲気が色濃く残っている。歴史的建造物も多く観光地らしい良質な観光地だった、と思えたのは、意外と人が少なく何処ももの静かだったせいもある。それはそれでよかったが、できれば暖かい時期に来たかったなあ。旅の終わりも迫り、名残惜しさや一抹の寂しさとともに、ヨーロッパの冬の寒さが最後に身に凍みてきた。

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宿は旧市街の入口にある Hostel 99 という小さなホステル。できてまだ間もないのか手作り感色濃く素朴な雰囲気だった。(2003年再訪時にはかなり立派になっていて驚いた)

 

 

クルムロフから来た道を逆にたどりブルノに戻る。荷物を駅に預けトゥーゲントハット邸へ行く。当時はまだ世界遺産に認定されていなかった。自由見学はできず午後は3時に集合でガイドが付いた。英語ガイドの見学者は僕一人。チェコ語訛が強かったがそういう人の話す英語の方がネイティブより聞き取りやすいのは…、今でも変わらない。内部撮影は事前申請が必要で不可、外部撮影料金を別に支払いカメラを持ち込んだ。シンプルな空間構成や素材の効果的な使い方により創り出される空間の強度は特筆すべきものだった。 

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見学後は駅に急ぎ荷物を受取り裏手にあるバスターミナルへ走る。このバスターミナルも何度も利用したがこれで最後。軽食を立ち食いで済ませバスに乗り込む。外はもう暗くて車窓を楽しむことはできなかったが、ウィーンまではたった3時間。国境通過時もパスポートチェックのみで、あっという間にミッテ駅横のバスターミナルだった。ここを出発したのは3週間前のことだったが、ずいぶんと昔のことのような気がした(と当時の日記に記していた)。

ウィーンは宿の近くの街を夕食がてらに散歩しただけで終わってしまった。翌朝帰国。

 

あー、何たる消化不良。欲求不満。急いで旅をしても良いことはないなというのが当時の率直な感想だった。それ故に、ブダペストの宿で出会った人たちが楽しんでいた長期旅行というどこまでも自由な時間の使い方に、尋常ならぬ憧れを抱いた訳であった。

この後しばらくの間続くことになる「旅あっての人生」は、ここから始まった。その原点となる旅の日々だった。----------to be continued! といったところか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(おまけ)ウィーンの空港へは鉄道で向かったのだが、ぼうっとしていて乗り過ごしてしまった。今でも覚えているのだが、駅についても人が沢山降りるなーと思いながら、頭と体が離れているような感覚で窓の外を眺めていたのだ。終着駅ではなかったので列車はそのまま出発、自分が降り損ねた事を理解したのはその数分後。まずいなと思いながら更に乗り続け、国道沿いの無人駅で下車する。逆方向の列車が暫く来なかったら隣の道路でヒッチすればいいなんて思っていた。列車は20分後に来て飛行機にはなんとか間に合った。しかし、何やってたんだろう?