もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'05旅 その5 グルジア、アルメニア教会巡り #3

コーカサス4 > グルジア(現ジョージアアルメニア その3 ●Jul. 26-31, '05

 

ゴリス→ステパナケルト(ハンケンディ)→イェレヴァン→ギュムリ→国境→

 

 

 

久しぶりに一人旅の再開です。

次はナゴルノ・カラバフへ向かいました。ここはアルメニアアゼルバイジャンの係争地で現在アルメニアが殆どの地域を実効支配しています。独立宣言後の名称は アルツァフ共和国/ナゴルノ・カラバフ共和国。首都はハンケンディ/ステパナケルト、いたって普通の町です。見所は…

 

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これだけですね。訪れた人の旅行記をみても大抵この写真以外の見物はありません。「われらの山」という名の巨大なモニュメントです。高い方で6-7mくらいの背丈。独立宣言後の新生ナゴルノ・カラバフのシンボルとして国章にも使われているそうですが…

ここは未承認国家で入国?に際してはビザが必要です。イェレヴァン市内にある恒久代表部という事務所で25USD支払い当日発行されました。入国後はステパナケルトの外務省で登録しなければなりません。ここでホームステイも紹介してもらいましたが、行ったところ言葉が全く通じず微妙な雰囲気だったので、その場で断り普通のホテルを探しました。夕食に行ったレストランのTVでは何故かレアル・マドリ―VS.ジュビロ磐田のサッカーの試合が放映されていました。一体いつの試合なんだろう、知らないなあと思ってましたが、後日調べたところほぼリアルタイムの放映だったようです。ステパナケルトではこのくらいしか憶えていることがありません。

ちなみに同じような未承認状態の国(地域)は他にパレスチナコソボ北キプロスソマリランドへ行ったことがあります。いずれもトラブル等無く旅できました。いっぱしに独立国家を名乗っていながらよっぽどヤバイところが世界にはたくさんあります。

この街からはガンツァサール修道院とゴーストタウンとなったシューシへ日帰りで訪れました。

 

ガンツァサール修道院

タクシーをチャーターしてステパナケルトから往復。あまりに山や川の景色がきれいなので途中で車を止めてもらったりした。最後は道無き道を進み到着。

f:id:pelmeni:20190824185829j:plainこの村から先は悪路の山道でタクシーには酷だったかな 周囲はもう山だけです

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f:id:pelmeni:20190815215506j:plain堂々たる体躯の教会

 

f:id:pelmeni:20190816000426j:plainしかしタクシーの運転手ってえのはクセ者が多いね。特にボロい車が多く走ってる国。旅行者が来るとイチかバチかで成り振り構わず金をぼったくろうとする奴らだ。この時も事ある度に理由を付けてしつこく追加の金額を言ってくるので途中から無視する。二人しかいないのだから険悪な雰囲気にはなりたくないのだがコイツは少しうるさかった。だから気持ちの良い景色もドライバーの存在を忘れて一人で楽しむ。のどかな風景は車のエンジンを切ると鳥のさえずりしか聞こえない。街に戻って所定の金額を支払ったらドライバーは何も言わずに去っていった。

嫌ならタクシー使わなければよいのだけれど、行きたい所が公共の足の無い場所に結構あったりするものです。運転手がどうかなんて乗ってみなければ判らないことだし、まあ、もちろん良い人が大半です。狡い奴らは大抵相手が折れてくれれば儲けものって態度なので、こちらも強く出れば最終的にはかわすことができますが、疲労感や後味の悪さが残るのも嫌なものです(たまに喧嘩)。ただ体験する事すべて含めてがその地を旅するということであって、楽しむも苦労するも実のところ自分自身の旅する能力の反映なのだろうと僕は受け止めています。

 

■シューシ

もともとはカラバフの中心地でアゼルバイジャン人が多く住んでいた町。戦争中はアゼルバイジャン側の拠点となったため攻撃され陥落、旅行時は僅かに住人が居たようだが町として殆ど機能しておらずほぼ廃墟みたいなものだった。ミニバスがステパナケルトから日に数本通っていた。

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f:id:pelmeni:20190816004649j:plainモスク たたずんでいたら何処からともなく老婆がやってきて右手を突き出された

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f:id:pelmeni:20190816010111j:plainモスクやハマムなど相手側の文化の象徴は攻撃の標的にされる


ソビエト連邦に組み込まれる前から、ナゴルノカラバフはアルメニア人が多く住む地域で、アルメニアアゼルバイジャンの係争地となっていました。ソ連時代はアゼルバイジャンSSR内の自治州でした。ソ連末期に自由化政策が始まると再び衝突、戦争がはじまりソ連崩壊後にナゴルノカラバフは独立を宣言、停戦後は大部分をアルメニアが実効支配しています。いまだ膠着状態のまま解決には至ってません。この地域の問題は単に宗教とか民族とか多数派少数派など分かりやすい原因のみによるものではないことを後に知りました。ナショナリズムは根源にありますが、周囲の大国の思惑だったり歴史的な虐殺の応酬だったり文化、政治、諸々の認識の行違いが大きいようです。

史実の理解は現実の見え方に多分に影響します。何も知らずに行くことが必ずしも悪いとはいいませんが、ある程度頭の片隅に入れておかないと、見えるものも見えていなかったのではと後になって気付くことも、ま、いつものことです。

 

 

その後イェレヴァンに戻り、行き忘れていたパラジャーノフ博物館のみ訪れてからトビリシに向けて出発。学生時代に映画館に入り浸っていた記憶が当時はまだ残っていたため、ぜひとも訪れたかった。ただ館内は映画よりも個人の蒐集物やデッサン、コラージュといった絵画の展示が主でした。確か彼はグルジアの人ではなかったかな。昔に「火の馬」「ざくろの色」といった作品を観ていたはずですが、今はもう思い出せないです。気が付けばこの10年以上趣味的に映画を観る習慣は無くなっていました。授業出ずに安い名画座で月20本くらい平気で観ていた時もあったんですけどね。

 

 

列車でトビリシまで直行するつもりでしたが、バスで途中のギュムリ経由で刻むことに急遽変更。アルメニア第2の都市でありながらそんな雰囲気があまり感じられない町です。近くのトルコとの国境が開けば発展するのでしょう。1988年のアルメニア北部大地震で大きな被害を受け、未だ当時住居用に持ち込まれたコンテナがそのまま使われてました。荒れが目立ち少し寂しい町並みで、中央通りに集まる屋台の様な簡素な店舗の数がものすごいところでした。町外れに修道院があります。

 

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トビリシ行のバスはガイドブックに3.5時間とあったものの、実際はその倍の7時間以上掛かりました。小さなバスだったのでもうグッタリ。宿は今回は日本人旅行者の間で知られていたプライベートルームに行くつもりだったので、この旅で初めて日本語会話ができると思うと楽しみでした。

 

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沿道で桃を売る人たち 美味しそうだけど売れるのかな