もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'05旅 その13 すべては砂に還る シリア2&レバノン

アラブ2>シリア2、レバノン Sep. 2005

ハマ→パルミラ→ダマスカス→国境→ベイルート←→スール、シドン、バールベック→国境→ダマスカス→ボスラ→国境→アンマン

 

 

あまりエアコンの効いていないバスだった。トルコと違って小国シリア、それも地方都市ハマ出発の中型バスのせいか車体は古くて少しくたびれていた。日差しが強く黒いカーテンがどの窓にもひかれている。旅行者としては、たとえ周囲が変化のない砂漠地帯であってもそれはそれで眺めたいものだが、地元の人にとっては特に興味を持つ理由などない風景なのだろう。皆何かに耐え忍ぶかのようにじっと動かない。まあ気持ちはわからないでもない。暫くは我慢するしか他はないのだろう。時々動くカーテンの間から変わり映えの無い砂色の大地が地平の先まで続いていた。

やがてバスは止まった。ターミナルではないが乗客は降り始める。周囲には何もなくホテルのような建物一軒の前にミニバス、タクシーが泊まっている。ははん、そういうことかと事態はすぐに飲み込めた。タクシーとバスの運転手が結託したのだ。ここから町までは停まってるタクシー等を使ってください、と。ただ旅行者はごく少数しかいないようで、地元の人たちと一緒に僕も町まで歩いた。既に遠くに見えていたので10分くらいかな、これぐらいだったら問題は無いが、理不尽な話である。あまり裕福でない国では個人事業主であるタクシーの運転手って癖のある人間が多い。

今までずっと勘違いしていたのだが、パルミラ遺跡に隣接する町の名はパルミラではなくタドモルという。グーグルマップで検索しても聞いたことのない町にとんでしまうので不思議に思ったが、実は僕が知らなかっただけなのだ。今回記憶を掘り返さなければ死ぬまで知らないままだった可能性もある(笑)。

 

パルミラの遺跡は、がらんとしているせいか一見あっけない印象だ。起伏の無い平坦な土地に、1.3kmを一直線に伸びるコロネードと幾つかの神殿、アゴラ、劇場、他に何かの遺構と崩れた石の山。ただこれが素晴らしい通りだ。往時の繁栄を確かにしのぶことができる。でもそんなことを想像しながら当時の商人になりきって通りを闊歩するには、瓦礫が多くて歩きにくい。まあそれは仕方が無いかな。そのうえ暑くて陽射しが眩し過ぎる。乾いた風が時々砂塵を巻き上げるせいで眼が痛い。雲一つ無い空と砂色の風景。よくみればほぼ二色しかない。しかしこの二色は世界中至る所で美しい世界を作り出している。太古から不変のこの二色があれば人類の偉大な歴史を描き表すには十分なのかもしれない。そしてこの二色は人類が滅びても地球が存在する限り永遠に続く。

ここもローマ時代の遺跡のなかでは一級品である。間違いない。でも観光客は少なかった。

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夜のライトアップも美しい。星空を期待したがあまり見えなかったのは、光が強すぎるせいか、それとも空中を漂う砂塵のせいか。

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 ※残念なことに内戦中ISにより一部破壊された。詳しくは知らないが、では直しましょう、と簡単にいかないことは容易にわかる。

 


首都ダマスカスに向かう。パルミラからのバスは、途中エンジンのベルトが切れて交換する(意外とよくある故障)等により、1時間程度の遅れで小さなバスターミナルに到着した。しかしここはローカルバスとミクロ(ワゴン車)のみが集まるマイナーなターミナルのようで、英語表記も無くちょっと困った。でもそんな時は親切なシリア人が近くにいるのだ。車内で知り合った少年が街の中心まで行く車に案内してくれた。運転手も到着後に金を受取ることなく去って行った。シリアではこの種の小さな親切を受けることが多かった。大抵ごく自然でさりげないものだったと記憶している。旅が続くと他人の善意に対する感覚は鈍くなる。長旅を続けるということはこのような好意を食い物にし続けることでもある、ということは終ってみてわかるものだ。後になってしみじみと思う。

 

f:id:pelmeni:20050908211349j:plain大きなスークはアーケード

f:id:pelmeni:20050910163755j:plain何かの果物ジュース売りf:id:pelmeni:20200401184024j:plain静かな裏通り

 

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キリスト教のカテドラルを改築して接ぎ木するように造られたウマイヤドモスク。重厚で絢爛な建築。全体の構成はモスクの求心的な空間というよりは古い教会の雰囲気。この辺りは古くから人が住み始めただけあって、打ち捨てられ砂に埋もれる歴史もあれば、しぶとく生き延びる歴史もある。これは後者の典型例か。

そのあたりを少し知りたくなって国立博物館へ行く。大昔から人が住み続けてきた地域だけのものはあったが、その痕跡は今や崩れつつある遺跡という形でしか残っていない。それさえも運良く残ったごく一部であり、殆どのものは既に形を成していない。足下で踏みしめていた砂の粒が、かつて大いに繁栄した人々の生活の一部であったのかもしれないと思うと何だか無下にできない気分になった。目の前にある種々の存在も、もう何百年何千年経てば砂に同化して跡形もなくなってしまうのだろう。深い轍もいずれ消え、すべては砂に還ってゆく。そう考えると人間の存在なんて儚いものだ。

 

街の中心にバックパッカーに人気の宿がすぐ近くに並んで2軒建っていた。アルハラメインとアルラビエ。両方とも泊まったが同じような造りの似た宿で、いつも外国人旅行者で溢れていた。ドミトリー(相部屋)は男女混合で、男1人に女3人なんて日もあった。常に雑然としたあのバックパッカー宿特有の雰囲気が今となってはとても懐かしい。僕は大きめのパッカー宿が嫌いではない。ざわざわしていて必ずしも落ち着く訳ではないのだが時々好んで泊まっていた。ここには色々な種類の旅人が入れ替わり立ち替わりやってくる。ただ共通しているのはみな荷物一つで旅をしているということ。この一点のみで何か連帯感のようなものを感じていたように思える。話をしても必ずしも親密な仲になるわけではなく、挨拶など無しに次の地に去って行くのが常なのだが、その関係の希薄さに旅を実感することもあった。好んで一人旅をしていたのだが、やはり人恋しくもなるのだろう。ローカルなその土地の人々はもちろんだが、各国からやってくる同じ境遇の旅人ともたまには会いたくなる(このルート上に限れば何処でもいたけど…)。

ただ、これらの宿が現在どうなっているのか想像することは、難しい。そんなこと諸々を思い返す時 -----僕は遠い眼をしているのだろう。多分。

 

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いつもだらけていた宿猫。滞在者が可愛がってくれるものだから警戒の素振りもみせない。数匹が中庭を我が物顔で闊歩し、よくソファを占領していた。でも何か薄汚いな、体をきれいに舐めてから寝ろよ(笑)。

 

 

 

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旧駅近くの映画館で何とインド映画「クチュクチュホタヘ」が上映しているではないか。この映画は僕が初めてインドを旅行した99年初頭に「タイタニック」と人気を二分していた。子供の間ではこちらの方が人気だったようで、彼等とは「クチュクチュ観た?」が挨拶代わりだった。懐かしい。夕方5時の回を観る。小屋は古くフィルムに傷も多い。酷いことに初めの10分位が切り取られ、いきなり話の途中から始めやがった。でも音や画質の悪さはそのうち気にならなくなった。インド映画の割には考えられているラブストーリーで、出演者にも魅力があるので見入ってしまうのだ。とはいえ例のボリウッド映画の範疇ではある。

※後年シンガポールのインド人街にあるムスタファセンターでDVDを買いました。原題/日本語タイトル「Kuch Kuch Hota Hai / なにかが起きてる」

 

 

 

ここからレバノンを往復する。ベイルート直行バスがダマスカス市内から出ていて、ビザは国境で簡単に取得できた。

現在は奇麗になっているのだろうが、ベイルートといえば当時はまだ内戦の跡が街中に多く残っていて、それを見に行く旅行者も多かった。状況は既に安定していたものの、受ける印象のギャップは大きいものだった。中心街は結構きれいになっていて、かつて中東のパリと呼ばれただけのことはある美しさだ。アラブでありながら地中海文化圏の一部でもあることも実感できる。エトワール広場付近は小綺麗なカフェの多いショッピングエリア、ハムラ地区には商業地区でメーベンピックやスターバックスもあった。

 

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この街にも安宿が近所に2軒建っていた。中東は何故かこのようなパターンが多かった気がする。僕が泊まった宿には一人旅をしている中年の日本人女性がいた。とりあえず何か食べようと彼女と近くに出たら、立ち食いのサンドイッチ屋でもう一つの宿に泊まっている日本人旅行者と会った。何でも旅は既に4年、ベイルートでは3週間籠って自分の旅行サイトを一から書き直しているとのことだった。いろんな旅行者がいるものだと思った。(彼はこの後のルートでも時々見かけた)

宿の近くによく通った食堂があったが、アラブ人顔のごっつい店員なのに「シャルル!」とか「ポール!」とか呼び合っていたのもレバノンならではの光景だ。今でも憶えている。

 

 

レバノンは小さな国なので、大抵のところへはベイルートから日帰りで行くことができた。

 

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海に突き出したロケーションが魅力的な古代都市遺跡ティルスは、スールの町すぐ裏に隣接している

 

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シドン(サイダー)の旧市街は閉じた迷宮のよう

どちらも海に面した小さな町。広い地中海の一番奥に位置している。学校で習っただけでよく知らないフェニキア人が活躍した地だ。小さなミクロバスに詰め込まれての移動だったが、俊敏で車窓が美しかったのであっという間だった。

 

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バールベックの遺跡もとても美しい。都市ではなく神殿単体。ローマ時代の遺跡はどこも見事で素晴らしい。

 

 

帰路も国境でシリアのビザがとれた。ダマスカスに戻ってすぐに発つつもりでいたので安価なトランジットビザ(8$)を買った。

次の国ヨルダンの首都アンマンへは、途中ボスラというこれまた遺跡に立ち寄るため、車の乗継ぎで向かった。朝出て午後遅くには宿に着いたので意外と近かった。日本人はビザ無しで入国できる。

f:id:pelmeni:20200401024123j:plainボスラの円形劇場

 

アンマンも丘に囲まれた古い街でローマ時代の遺跡も残っている。

この街での第一のミッションは、旅行代理店でイエメンの首都サナアまでの往復航空券を購入する事だった。

 

 

 

 

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第二のミッション~死海 はしゃぐ日本人御一行様
浅瀬に座って見えるのは死海の水の屈折率のせいで、皆浮いてます