もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'99アジア その9 ウズベキスタン2

この国には工芸品に対するような愛おしさを随所に感じる

 

 

 

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f:id:pelmeni:20170729082505j:plainどこでも子供たちは皆無邪気に集ってくる

 

 

ヒヴァ

 

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中央アジアの秘宝。説明は必要無いと思う。今まで訪れた場所の中で五指に入る。

アルクの上部が展望台になっていて壁に囲われた旧市街の見晴らしが素晴らしかった。特に夕方は、傾いた日差しが砂色の町に本当に似つかわしい。

夜がまた魅力的で、暗い中所々ドームやミナレットが薄っすらと浮かび上がりマジカルな雰囲気。今だったら多分ライトアップなんてされているのだろうが、当時はそんな無粋な物など無かった。

 

宿はホテル・ヒヴァ(旧インツーリスト)が改装中だった為イチャンカラ(壁に囲まれた旧市街)内ではアルカンチ一択だった。当時はチャイハナ以外食事をする所など無かったため宿泊に三食含まれていた。何故か此処だけ実勢レートの米ドル払いだった。1泊3食付25米ドルを3泊50米ドルで交渉したら、すぐにOKが出て驚いたw。

 

 

f:id:pelmeni:20170729103638j:plainブハラのムビンジョン・ゲストハウス:元は古い民家、室内は伝統的な装飾で一杯、簡素だが雰囲気のある宿 一泊2000ソム(実勢5米ドル) 床に布団を敷いて寝る

 

当時の中央アジアはまだ個人旅行者が世界中から押し寄せる以前で、現在のように安くて居心地の良いホステル等は無かった。だからムビンジョンの様な宿は珍しかった。旧来の「ホテル」はクタビレていて共産主義時代の残り香をいたる所で感じ取ることができ、それはそれで興味深いものだったけど(笑)。

ビザサポートを頼んだ現地のエージェンシーB&Bの提携を始めたというので2軒利用した。タシケントのSam-Buhは当時はできたばかりのきれいな宿。ブハラでは個人住宅の広い居間を宛がわれ実質的にはプライベートルーム(ホームステイ)だった。食べ切れないほどの豪勢な朝食や、言葉はあまり通じなかったけど家族の人たちとのやりとりを楽しんだ記憶がある。でもその5ドルと比べると割高だなあなんて思ってしまう、そんな時代でした。

 

 

 

 

 

 

'99アジア その8 ウズベキスタン1

オズベキスタン

タシケントサマルカンド、ブハラ、ヒヴァ、国境(トルクメニスタン

 

 

飛行機がタシケント上空にさしかかり高度を下げると、街を流れる運河の川面が目に付いた。絵の具を垂らしたようなはっきりとした水色だった。砂漠地帯を流れる川の水は透明感が少なくきれいに濁るそうだ。アジア中央部にはこの様な色をした川が多い。白っぽく乾いた山の岩肌と点在する細い樹木、そして水色の川。この後幾度となく目にする事となる中央アジア共通の風景が僕は好きだ。

 

パキスタンからウズベキスタンに着いて最初の感想は、何もかも薄いなということだった。むせ返るような人いきれも、旅人に対する隠しきれない好奇心もここでは感じられない。ソビエト時代に造られた新市街はよそよそしく、古くからある旧市街は土壁で閉じている。町から出れば、青々と繁る山の樹木や麦の穂ではなく、荒々しく乾いた岩肌と少ない樹木が支配的な風景と変わった。すべてにおいて淡い色彩だなと感じさせる按配なのである。

(まあ最大の違いは、女性の多くが良い匂いをふりまきながらオシャレして街中を歩くことではないかな?)

 

同じ人間という生物が地球上の様々な気候や地形の場所で、様々な社会や習慣の中で、多様なスタイルを持ちながら生活している。長い時間をかけて移動しながらそれらを自分の目で見る。ひとつひとつの違いや類似をみつけては一喜一憂する。

これこそが長旅の楽しさであると僕には思える。だから、一つの箇所に長く滞在するよりは、多くの場所を移動し続けるというのが僕が好む旅のスタイルである。

 

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至る所に青いタイルが散りばめられているタシケント

地下鉄駅構内の装飾が見物なのだが、見張の警官が必ずいて写真撮影を見逃してくれなかった

 

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外国人宿泊不可のホテルが多い中、泊ることのできたホテルロシヤ

外観も中身もソビエトスタイルの典型的なホテル。各階にジェジュールナヤ(フロアレディ)がいて鍵の管理をしている。フロントで両替を頼んだら地下階のボイラー室に連れて行かれ公定レートの3倍でくたびれた札の束をどっさりくれた(当時の闇レート)。真っ赤なミニスカのメイドが廊下ですれ違うなり話しかけてきた。「2000ソム(5米ドル)で今夜私とどう?」 部屋にフロアレディからいたずら電話?がよくかかってきた。言葉は理解できなかったが笑い声だけはわかった。僕の泊まっていた部屋は6階の道路側一番奥。一泊2500ソムは実勢で6米ドル前後。名前や見掛けから判るとおりそれなりのホテルでこの宿泊代… まあゴキブリ出たけどね… 建物自体はしっかりしているものの、内部は何処もとにかく古びている。いや~趣がありますな。以降僕が偏愛するようになった旧共産主義的ホテル、記念すべき最初の宿泊となった。

このホテルでも日本人旅行者U君に出会った。彼は「地球の歩き方 ロシア編」にあった中央アジアのページを切り取って携帯していたが、たった数頁しかなく内容もガイドというよりは単なる紹介。彼曰く、全く使えねーとのこと。中央アジアの日本語ガイドブックなんて、歩き方も旅行人ノートもまだ無かった。ロンプラだって 1st Edition だった。それでも後にもう一人日本人に会うことになる。(彼ともインドで二度会っていたw)オージー、ニュージー、ジャーマン、ジャポーネは何処にでも行くんだなと旅行者同士で話をした記憶がある。

 

タシケントは、そもそもソビエト時代は人口第4の都市なので、地域性というものはあまり感じられない。でも一部に残る旧市街は人工的な新市街とは対照的な中央アジアの町そのものである。町を歩いていると普通に話しかけられたことが何度かあった。ここではウズベク人やロシア人の他にも東アジア人の顔つきを持った人もちらほら見かける。彼等はスターリンの時代に沿海州から強制移住させられた朝鮮系の高麗人で、今でも旧ソ連中央アジア地域で広く生活をしている。市場ではキムチも手に入る。このエリアの地理や歴史を探っていくと、複雑な事実が次々と目の前に起ち現れ本当に興味は尽きない。

 

f:id:pelmeni:20170727205707j:plainシャシリクを焼く香ばしいにおいが市場に漂う

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イスラムのタイル装飾の美しさに嘆息する

碧い色が大好きだ。中央アジアに来て自分の好みを再認識するなんて…

f:id:pelmeni:20170727210342j:plainすごいもの見ちゃった 人間技とは思えない

 

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成り行きでサマルカンドのバスターミナル内にある床屋で散髪 写真の若い理容師2人と手伝いの子 裁ち鋏みたいに大きな鋏でジョキジョキ音をたてて切られた。腕ですか? まあ男性の髪型なんてファッションの範疇に含まれない国のものでしたな!

 

'99アジア その7 パキスタン

パキスタン

 

(インドから)ワガ国境→ラホール→ペシャワール→ラワルピンディ/タキシラ→ラホール→(ウズベキスタンへフライト)

 

 

思い起こせば信じられないほど多くの日本人旅行者がこの時期このルートの路上に溢れ返っていた。バンコクはともかく、インド、ネパールのある程度の有名所では必ず出会ったし、インドの先からは旅行者自体は減るものの経路が限られてくるので安宿には必ず滞在していた。

今はもう誰も訪れることのなくなったパキスタンも当時は日本人旅行者で溢れていた。ラワルピンディの安宿ポピュラーインで同室だったK君はインドのアジャンタとアウランガーバードで一緒だったし、後にイスタンブールで再会するS君もいた。ジャンキーと呼ばれる彼とは最初スノウリ→ヴァラナシのバスで同乗し、当時はまだ旅始めで不慣れな様子だった。2ヶ月後にこの宿で再会したところ… インドは彼をすっかり変えてしまったようだ(笑)。

 

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後日K君から送られてきた写真

 

インドにもムスリムは多数住んでいてイスラムの文化に触れることは多かった。国境を越えても元々同一の地域だったし変わりはないだろうと思っていたが、やはり国が違うとそれなりに空気は異なる。酒も無いし女遊びもできないけど、出会った人々はみな親切で人懐っこい。旅行をする分にはイスラムはとても楽しいことを初めて実感したのは、ここパキスタンだった。

 

ウズベキスタンのビザをニューデリーでとったのだが、あまり情報の無い国だったので実際手にするまでは先のことは決め切れなかった。ビザの申請に必要なインビテーションを現地のエージェンシーに頼んだ際に入国日を決めなければならなかった。もし入手不可能だったらこの先フンザへ行った後でイランへ進めば良いと考えていた。首尾よくビザをゲットできたおかげでパキスタンは限られた日数の滞在となってしまった。ずっと気に掛けていたフンザを訪れたのは結局その16年後ということになる。

 

 

f:id:pelmeni:20170723070305j:plainラーホール旧市街 むさくるしい野郎達ばかり!

f:id:pelmeni:20170723070912j:plainリアル迷路

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f:id:pelmeni:20170723070701j:plainパキといえばこれ! かっこいい!

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f:id:pelmeni:20170724011043j:plain懐かしのペシャワール 街の雰囲気は今でも忘れられない

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郊外のガルハナマーケットはトライバルエリア(とその先のアフガニスタン)への入口 911後のアフガン攻撃の際TVの報道が入っていた ここは民間人が行くことのできる最前線

 

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f:id:pelmeni:20170725090557j:plainラワルピンディにて

 

f:id:pelmeni:20170725090607j:plainタキシラの少年

 

タキシラではなんと日本人の仏教遺跡巡りツアーに出会った。インドでもそうだったが、ツアー客と話をすると我々の旅の長さと予算の低さには必ず驚かれたものだ。 

ここで会ったおじさんと話をした。

 -----いやー、パキスタンはパンがおいしいねえ、小麦が違うのかねえ

そうそうパキスタンはパンが美味しかった。ナンではなくパンの方もである。インドのパンはことごとく残念だったが。パキのパンを美味しいと感じていたのは自分だけではなかったのが嬉しかった。特にクロワッサン生地のものを気に入りよく朝食に買った記憶がある。

 

 

'99アジア その6 インド3

インド3

 

ラジャスタンはそれぞれの街に独自の文化と特色が感じられ興味深く思えた

 

f:id:pelmeni:20170722022801j:plainピンクシティ ジャイプル  おばちゃんもピンク 

f:id:pelmeni:20170722022848j:plainブルーシティ ジョードプル  高所からの眺めに真っ青

f:id:pelmeni:20170722022911j:plain宿主にホーリーのお祭りへ駆出された人たち

f:id:pelmeni:20170722022945j:plainゴールデンシティ ジャイサルメル  格調の高さに心を奪われる

 

 

以下当時の日記より抜粋

 

デリ-に帰ってきた。何となくだが虚脱感のようなものを感じる。

知らない土地を訪れる度に覚える興奮の連続こそ長旅の醍醐味なのだが、そんな中少しでも知っている場所を再訪すると、言い様のない安堵感を覚える。そういえば「帰る」ということに久しく縁のない旅をしていた。初めての経験に対する感受性は鋭敏になっているのだが、それだけでは、たとえ楽しくても疲れが知らぬ間にたまってしまう。

…といってもたかだか20日ぶりのこと、デリ-は何も変わってはいないのだが、インドでの20日はこちらのモノの捉え方を確かに変化させている。何も大事が起きたわけではないが、極く平凡な一日本人にとっては何かを覚醒させるには十分な経験であった。それまで生きていた世界との微妙なズレといった程度のものから、柄でもなく内省的に考え込んでしまうことまで、あらゆることがあらゆる方位にグラデ-ションのように点在する。それは本当に多種多様で、美しい地図が描けるんじゃないかと想像してしまう。

でもそのことを「ナンでもありだ」なんて浅い言葉で書きあらわしたくはない。

 

疲れているのだと思う。実際、あまりに気ままに自分の興味のみで動いていくことに懐疑的になっている。まあ無理はない。暑さ(体力的)とインド人(精神的)に、ボディブロウを打たれ続け、じわじわと消耗してきたのだろう。思い返してみれば、リラックスのできるコミュニケ-ションにも欠けていた。金銭を介さない人々との普通のやりとりがしたかった。元々少なかったそういう機会を自分で更に狭めていたきらいもある。インド人の思考方法、行動様式、社会のシステムとの付き合いは一筋縄ではいかない。ある程度慣れ始めた今もっても、まだそれらと程良い距離をとることができていないと感じる。

 

でも僕はこの場所が嫌いではない。むせ返るように過剰な人間臭さにむしろ好感を感じている。これだけの日本とかけ離れた文化、社会、土地柄をもっている国に興味は尽きない。

ただ、少し駆け足だったかなと思う。2カ月という時間は本当に中途半端である。これが2週間であれば、「印度、去りがたし」という感想と共に大方気持ち良く去ることができるだろう。でも2カ月ともなると多くのことに半ば混乱している自分に気付くのだ。このまま去ってよいのだろうか。足を踏み込んでいる多くのものを、もう少し掘り起こさずに立ち去ってよいのだろうか。そもそも、その人に合った旅の適切な時間とはどうやったら決めることができるのだろうか?

僕はインドを求めた。しかし彼の懐は大きく、もがいているうちに外へ放り投げられてしまった。そんな感じだ。
これは、もう一度来なければならない。

結局2度目の滞在では精力的に動き回ることは少なかった。体力的にも精神的にもすこしばてており、輝かしいものにもその光を認め得ることが難しかったように思える。

携帯していたガイドブックに次のような一文が載っている。言い得て妙とはこのことだ。
You'll love and hate it. India has absolutely everything; You'll get sensual and cultural overload.

 

 

 ※ まあウブだったということですな〜 居たけりゃビザが切れるまで居りゃいいんだけどねえ でもこの後に行く中央アジアの入国日がビザで決められているから どうしようもなかったんだよね(笑) 長旅あるある、です

 

 

f:id:pelmeni:20170722024223j:plain今も昔もコンノートに変わりはない 15年後もほとんど変わらぬ佇まいだった

'99アジア その5 インド2

インド2

 

(ネパール)→ヴァラナシ→デリー→アーグラー→ボーパル/サーンチー→インドール→アジャンタ→アウランガーバード/エローラ→ムンバイ→アフマダバード→ジョドプール→ジャイサルメル→デリー→ジャイプル→チャンディガル→アムリトサル→(パキスタン)

 

疾風怒濤のインド旅再開

ヴァラナシを経由してデリーに着く。先は長いのでカメラを何とかしなければならない。まずはコンノートサークル中央の公園地下に広がるパリカバザールへ。日用雑貨や衣料、宝飾品等を扱う小さな店舗が無数に犇きあっている。ぐるっと廻って幾つかの候補から中古のオリンパスOM-2n+50mm/f1.8に決めた。現金払いだったので近くにあるCITIBANKのATMから引き出した100ルピー札62枚!で支払った。ついでに別の店でトキナーの135mmも購入。(余談だが帰国後盗難保険でおりた金額より結果的には安く済んだ)

やはり一眼レフをここで入手して良かった。フジフイルムTiaraZoomはそのクラスのコンパクトカメラとしては画質が良かったが、少し暗いと露出が不安定になる。また広角端での周辺光量の低下もある。比べてしまえば仕方がないことだ。ただOM-2nも日本製とはいえインドで使われた中古品なのですぐには信用できなかった。ネガフィルム1本撮って現像が上がってきてようやく安心できた。

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f:id:pelmeni:20170721155843j:plain試し撮り;メインバザールの朝と夕

 

 

f:id:pelmeni:20170720013215j:plain朝もやに霞むタージマハル 日の出直前のまだ静かな時に訪れるべし

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f:id:pelmeni:20170720014606j:plainアジャンター、エローラはインド観光のホットスポットのなかでも白眉だ

 

 

インドを旅して楽しいことも多く急速にこの国に魅かれていったのだが、そこはやはりインド様、気を緩め隙を見せると強烈なカウンターパンチを喰らう。

 

 

最悪な夜

ボーパルはサーンチ遺跡へ行くために立ち寄った町だ。でも列車で駅に着いた端からおかしかった。出口を間違えたことに気付かず、中心から外れた方向へ延々と歩いてしまって疲れた。何で気がつかなかったのだろう。ぐったりだ。

そういえば日本を出て1ヵ月半、休み無く動き続け疲労もたまってきた。とにかくこの数日は暑いので判断力が失われ、この日みたいにつまらない間違いをすることが多くなってきた。

初日に泊まった宿は蚊が多く、これは嫌だったので翌日宿替えをした。今度は4階の部屋だったので大丈夫だろうと安心したのも束の間、日暮れとともに目に見えて部屋の中を飛ぶ蚊が増えてきた。どうやら敷地裏の空き地が発生源のようだ。

インドの建物は一見きれいに見えても近くに寄ればことごとくボロいということは、旅行した人であれば誰もが知っていることだろう。この部屋も壁に嵌っているエアコンの隙間や窓ガラスが抜けている浴室の窓など本当に安普請を通り越している。怒りが込上げてくるほどだ。日本の常識で海外を旅していけないことは多分にインドで強烈に叩き込まれた。

隙間に紙で詰め物をして浴室のドアをきっちりと閉める。でもそれでも安心というわけにはいかず、一匹ずつ潰していくしかないと思い手を叩き始めた。

しかしまったくといっていいほど効果が無い。何なのだこれは? 途中から数を数え始めすぐに100にたどりついた。そのあたりから戦慄を覚え始め狂ったように蚊を殺し続ける。その数200に達したところでこれは逃げるしかないという結論に達し、屋上に上がった。

そこは8階に相当するので大丈夫だろうとみた自分は甘かった。持ってきた寝袋に頭まで潜ろうが奴等は耳元に忍び込みブンブンうなるのだ。もう駄目だ、腕でも足でも差し上げますからどうか耳元でだけは騒がないでください! 眠ることなどまったくできないので諦めてフロントへ降り、夜番の兄ちゃんに駄々をこねて迷惑がられる。でもかわいそうと思われたのか、部屋近くのエレベーターホール(多少はマシだった)で横になっていたら、蚊取り線香を持ってきてくれた。でも部屋に戻れなんて言わないでくれ、あそこは蚊の巣窟なんだよ!

そう、不思議なことに、外も白み始めてきた朝の6時頃になると、今日のお勤めはこれで終わりですといった感じで彼等はすっと姿を消したのだ。

あれは一体なんだったのだ? 夜が明けすっかり蚊の痕跡が消え去った部屋で僕は文字通り呆然と昨夜の惨状を思い返すのだった。こんな忌々しい所に長居は不要だ。ゆっくりすることなく寝不足のまま朝のバスに乗り込み次の町へ急いだが、コレまた忌々しいほど乗り心地の悪いTATA製バスだった

 

蚊はイヤだね、どこの国でも。

 

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サーンチの遺跡は良かった 求心的な形態には神秘性を感じる

 

 

 

 

'99アジア その4 ネパール2

カトマンズ

 

虫の知らせとはよく言ったものだ。漠然とした感情がふっと湧き上がってきて確認をすると恐れていたことが確かに起きていた。カメラが無い。

 

ボダナートを訪れた時のことだった。帰りのバスがぎゅうぎゅう詰めでまあ大変な混雑だった。デイパックは体の前に降ろしていたがショルダーを一応手で掴んではいた。こんな中で子供が床に座っているのは何でだろうと思ったが深くは理由を考えなかった。後になってみれば気にするべきだったのだが、車内の込み具合に完全に気をとられていたのだ。街の中心に戻り下車した時にふと虫が知らせた。なんか軽い。

デイパックの口が半開きになっていて、確か一番上に入れた一眼レフがなくなっていた。あんなかさばる物は簡単に失くすはずはないので盗まれたと判るまでには時間はかからなかった。とりあえず警察に行くしかあるまい。

 

外国人の担当部署は「インターポール・セクション」だと受付で言われた。この表記を目にした時には思わず声を出して笑ってしまった。まるで子供の頃にTVでみたGメン75ではないか。まさか本物の支部があるわけないだろう。盗難は頻繁に起こるようで、何人か既に並んでいた。僕の前のウェールズから来た女の子もカメラを盗まれたらしくかなり感情的になっていた。ネパール訛の酷い英語の聴き取りに苦労しながら盗難届を作成し提出。2日後の午前10時に再び来るよう言い渡された。

冷静を装ったが内心はかなり動揺していたのを憶えている。初めての盗難だったからねえ。ダルバール広場のパゴダに登って色々思い返していたが、そんなところにも自称ガイドの若者がやってきてあれこれ話しかけてくるのがウザかった。ほっといてくれ、というのがその時の正直な気持ちだった。釈然としない気分で街を歩いているとハッパ売りに声を掛けられた。気が付くと道端に座って話し込んでいた。 何だか自分を抑制できなくて、相手が拒否した値段までキューッと値切っていた。でもすぐに向こうがおれた。

 

2日後に再びインターポールセクションに行き警察官が現れるのを待ったがなかなかやって来ない。そのうちとある老人がどこからともなく現れ一冊のノートを差し出した。そこには、「この人に頼んでお金を幾許か払えば盗まれた物が返ってきました。ありがとう!…云々」といった類の言葉が各国語で無数に散りばめられていた。

非常に怪しい。頼めばもしかしたら盗まれたものは帰ってくるかもしれない。でもそれはその人が探すわけではなく、これは推測だが、恐らく裏ですべて繋がっているのだろう。元締めがいて、旅行客の貴重品を盗む手下がいる。被害者はたいていは警察に盗難届を出しに来るのでそこで待ち構えこういった話を持ちかける。盗品はネパール人には高価すぎて売ることができないので盗まれた本人に買い取ってもらうのだ。数日しか滞在しない旅行客は多少金が掛かっても盗品が戻ってくる方を選んでも不思議ではない。感謝の言葉をノートにしるし、そのノートを読んだ新たな被害者が依頼を重ねる。

うまく考えたなと思った。恐らく警察でもそのことは知っている。僕が彼を頼ればこの後の仕事は無くなる。だから時間を過ぎても老人がいる間はやって来ない。

結局僕は彼に依頼をせず、その後現れた刑事と共に宿泊している部屋で荷物を確認した後、夕方盗難証明書は発行された。疑うことは警察の仕事だし、こちらも嘘ついているわけではないのだから、たんたんと事を済ませた。確認中の雑談でその刑事はのたまった。

 -----俺も若くて金の無い頃インドを旅行した時、物を盗まれたと偽ろうとしたことがあったよ

 

誰もオマエのことなんか聞いてないんだよ、知ったことか!

 

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カトマンズの観光自体は楽しみました。バクタプールも美しい町でした。散策にはとても良いところです。

 

さて帰りのこと。当時の日記には

 -----東(ダージリンカルカッタ)へ戻るのは流れに逆らっているような気がしたので、ヴァラナシからデリーに向かうこと にした。-----

などと書いてあった。当初バンコクからカトマンズインの予定だったので、ネパールからそちら方面へ行くことがまだ頭の中に残っていたのだろう。この時既にネパールはついていないらしいと感じていたので、それは正解である。止むを得ない状況を除き同じ道を往復することに、その後の旅を通してあまり良い思い出はない。

 

ヴァラナシへ戻るバスは夜7時発である。ネパールは国土が狭いのに道という道がすべからく山道で曲がりくねっているので移動に時間がかかり、多くは夜行バスとなる。この日もそうだった。窓口でチケットの番号と車体に書かれたバス番号を確認しろ言われて、その通りのバスに乗り込んだ。

そう、そのつもりだった。乗り込んだバスは間違いだったことを走り出してから車掌に教えられた。いや、行き先は間違っていないのです。バス番号が違うという。
同じ場所から同じ時刻出発で同じ行き先、それで車体に小さく描かれた番号が 12311213 なんてまぎらわしいことを許す国がどこにあるのだ、ええ?

途中の休憩で両バスは出合い、強制的に乗り換えさせられた。 もう、そのままでも問題ないだろう!と暴れたくなったがぐっとこらえた。 往きに寄った食堂にも立ち寄ったが、何も食べたいと思わなかったので水だけ買って星を眺める。01:00 a.m.。

 

早朝のスノウリは濃い霧の下で眠っていた。その中、国境を越える。やっとインドへ帰ってこれて何だかほっとした気分だった。でも待っていたのはやはり3+2席のボロバス、これでまた9時間も運ばれるのかと思うとガクゼンとする。
途中悪名高い北インドのポリスがバスを止め車内に入ってきた。 僕にはどこから来たのかと尋ねるので日本と答えるとそのまま過ぎていった。 やがて旅行者ではないモンゴル系の顔つきの客の一人を外へ連れ出して、やはりというか金をカツアゲしていた。 戻ってきた客は泣きそうな顔をしていた。

 

やれやれ、またインドか。前言撤回!

 

 

'99アジア その3 ネパール1

旅も長期に渡れば常に良い時間を過ごすことができるわけではない。特に人々の考え方や習慣を知らない外国にいるのだから、流れに無闇に抗ったり逆らったりすることは必ずしも得策とは限らない。ここは運が無いなと感じたら、 まずは何とかうまくやり過ごすことを考えよう。色々な感情を秤にかけて、結局予定を切り上げ逃げ出した場所は幾つかある。旅は長いのだから、他所で楽しい思いをすればよいのだ。

 

 

ネパール

(スノウリ)→タンセン→カトマンズ→(スノウリ)

 

ヴァラナシ駅のインフォメーションで予約したネパール行きツーリストバスはツーリストバンガロー前から朝8時半に出発、国境の町スノウリに夕方遅くたどり着く。各自が手続きをして国境を越えネパール側の町で宿泊、翌朝それぞれの行き先のバスに再び乗り込むという行程だった。初め外国人旅行者に前方から席があてがわれ、余った後部の席にネパール人と大量の荷物が送り込まれたそのバスは居住性などという言葉が存在しない世界の代物だった。狭い3+2列の座席に詰め込まれ、西洋人旅行者はみな途中から苦行僧のような表情になっていた。ただフランス人だけは相変わらず喋る事を止めない。どこでも喋るんだなこいつらとその時思ったことは今でも憶えている。

 

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最初の町はタンセンだった。山の中腹にある古い町で趣の有る町並みはとても気に入った。でも今憶えていることといえば強烈な下痢で苦しんだということだけだ。旅の最中にお腹の具合が悪くなることは度々あるのだが、疲労→風邪や発熱→下痢というパターンは意外と多く、この時がおそらく最初だった。夜になり1時間毎に強烈な差込みが繰返され、その度に便器にしがみつき、結局朝が来るまで落ち着くことはなかった。妹尾河童氏のヴァラナシでの体験と同じようなものだ※。その後もしばらくの間お腹がぐずつくおかげでまともな食事もする気になれず、体調を考えれば大きい町の方が良いのでポカラではなくカトマンズに向かった。

※ 河童が覗いたインド / 妹尾河童著 / 新潮文庫

 

f:id:pelmeni:20170713145357j:plain町から外れて散策をする。南側の山々の風景が自分の目線よりすべて低かった。

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f:id:pelmeni:20170713145557j:plain地元の若者とだらだらと話ばかりしていたが内容は憶えていない