もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'04南米 その9 ハンモック船でアマゾン河

ハンモック船でアマゾン河 ベレンマナウス

 

Yahoo!ジオシティーズのサービスが3月末で終わります。僕はそこに旅行日記や写真を載せた小さなサイトを持っていたのですが、この10年もの間は更新せず全くの放置状態でした。今更新しいところへ引っ越すつもりもなく消え去るのみでよしとしましたが、幾つかの文章はこのブログの過去旅回想記に既に転記しています。今回もそのひとつです。

 

  

1. 


南米の地理のスケールは桁違いだ。

地図を見てそんなことくらい解っているつもりでいたが、いや、これは実際に体感するのとではえらい違いだ。 目の当たりにすると、本当に、ため息が出てしまうのだ。
そのなかでもブラジルは、すごい。なんか旅行中ずっと気分が高揚しっぱなしだったのが、 後になってもはっきりと思い出すことができる。

マンゴー並木で有名なベレンには、サン・ルイからバスで14時間かけてやって来た。
サルバドール、レシフェ、サン・ルイ、ベレン。 これらの街は道路により結ばれてはいるものの、地図の上を追うだけでは想像できないような隔たりだ。 自然があまりに大き過ぎて、此処ら辺りの一本道は何とも心許ない。 バスは昼なら無人の原野か規則的なプランテーション、夜なら漆黒の闇の中を、速度を変えずに延々と走り続け、 沿道に点在する無数の集落を通過する。 僕は窓ガラス越しに人々の生活を垣間みようと息をこらすが、あっというまに幻のように過ぎ去ってゆく。
安いチケットのバスを選ぶと時間は掛かるものの、停車の度に陽気な地元の人が隣の席に座れば、 旅人はその間飽きることはない。
ただブラジル北部は次の訪問地までの距離が非常に長く、何でもいいから早く着いてくれと願うこともままあった。 退屈!という一言で済ませたくないために、あれこれ必死に「脱・日本スケール」へ自分の感覚を合わせようとしていた。
まあアンデス山中のように道が酷かったり事故ったりしないから気は楽だったが。

ブラジルまで行くのならぜひアマゾン河を船で遡行したいと思い、河口の街ベレンまでやってきたのだが、 出発は急なことだった。
でもそれは、いつものこと。旅の時間には自らの意のままにはならない流れのようなものがあって、 それにひょいと飛び乗らなければならない時がある。たいていは急に目の前に現れ瞬時の判断を迫られる。 長旅で培われていた勘のみで判断をする。必ずしも正しいとは限らないが、旅の空の下ならそれもOK。

 

 

 

2.


ベレンでは一休みするつもりだった。 ここしばらく長距離バスに揺られ続けたせいか、軽い坐骨神経痛を発症していたからだ。
だからバスターミナルを出てすぐに宿を探すつもりでいたのだが、乗った市バスが通りかかった船着場で降りてしまった。 まあ出発便を確かめてから事を始めればいいんじゃないかって。

そう、ここで。
チケット売場で尋ねたところ、出発日は本日夕方。次の出発は3日後。これを聞いて僕は迷わず金を払った。 当日のチケット代は割高のようだが、まあいい。勢いだ。ああ、その時は本当に何かに操られている感じがした。 体は疲れているが気持ちはたかぶる。船着場横の露店で一番安いハンモック(5ヘアイス)を買って、 船に乗り込み場所を確保。出発までまだ5時間あるが既にかなりの人がハンモックを吊るしていた。 街へ出てまずは腹ごしらえ。散策しながら、小振りだがべらぼうに安いマンゴーを買い込み、 時既に遅しでも薬局でマラリア予防の錠剤を入手してとりあえず口に放り込んだ。

夕方7時に船は埠頭を離れた。

 

f:id:pelmeni:20190216050359j:plainベレンは大きな街

f:id:pelmeni:20190216050534j:plainこの船に乗り込む

f:id:pelmeni:20190216050653j:plain天井に通してある鋼管に持参のハンモックを縛り付け、そこが自分の居場所となる

f:id:pelmeni:20190216050916j:plainさよならベレン

f:id:pelmeni:20190216051040j:plain窮屈に見えますが思う程居心地悪くないです

f:id:pelmeni:20190216051458j:plain人が生活しています

f:id:pelmeni:20190216051826j:plain毎日密林に沈む夕陽を拝みます

f:id:pelmeni:20190216052017j:plain朝靄にけむるアマゾン…

 

 

 

3.

こんな感じで5日間も延々と変わらぬ風景を見続ける。(川幅は場所により狭まります。初めは湖みたいな距離感でした) 何となくキツそうに思えたので、実はチケットは途中のサンタレン迄しか買わなかった。だったら別の日にも船便があったって? ええ、確かにその通りだと思うけど、細かいことは、もういい。

ここで前半最大のハイライト。
3日目頃、デッキで微睡みながらぼうっとしていると、船尾の方で声があがった。人が集まり始め、やがて船が停まった。 そこで何事かと僕も見に行った。
ひとが一人船の後方の水面に浮かんで流されているように見えた。普通なら客が誤って川に落ちたものとみるだろう。 だがよくよく眺めてみるとどうも違う様だ。彼は泳いでいるのだ! やがて岸にたどり着くと奥の森の方に走って行った。 彼を追って2人ほど船から川に飛び込み森の際まで行ったが追いつく事ができなかった。
いったい、彼は何故にこんな面倒なことをしたのだろうか? この先の森林の地理を知っていたのか?  ということはもしかして、 このようなことはよく起こることなのだろうか? 考えれば考える程、わからない。 この旅最大の謎どころか、僕の全旅歴をとおして最大級の謎かもしれない。(たぶん常習者とみた…笑)

 

f:id:pelmeni:20190216052149j:plain追っ手は結局追いつくことができなかった

 

 

 

4. 


毎日の同じ眺めに飽き、多少は哲学ぶった思考が行われるのではないかと自分に期待をしたのだが、実のところ、 その流れ去る同じ眺めにひたすら見入ってしまった。哲学どころではない。ただし、ぼうっと見過ごしていたわけでもない。

ここでやりたいことがひとつあった。船上でレヴィ・ストロースの「悲しき南回帰線」を読むのだ。 オレンジ色のヤツは重くて持って来る気にはなれなかったので、中公クラシック版をバックパックに入れて来た。
卒業してから既にかなりの時間が経っているが、彼は僕の学生時代のアイドルだった。 彼のシンプルで明晰な文章により読み解かれる知の世界にひたすら没頭していた当時の記憶などを、 忘却の彼方から掘り起こした。思えば遠くまで来たもんだとしみじみ思う。 それは単に地理的な意味合いだけではなくって。

目の前に途切れること無く拡がる厚いジャングルのずっと先に、 彼が分け入り調査を行った部族が生活をしているのだと想像するだけで、いてもたってもいられなかった。 船からは遠くの森をひたすら眺めるしかないのだが、眺めていたのは風景だけではなく、当時の僕自身でもあった。 流れる風景の先で色々な思いが交錯していた。


~なんて格好いい事を書いてみたが、多くの時間は退屈していたと思う。
本は確かに読みました。

 

 

5.

1日3回の決まった食事時間になると大きなテーブルが用意され、 2、3回のローテーションで(一度に全員は着席できない)簡単な食事をとる。 たいていはパスタや米、豆類等を混ぜた料理。ちなみにこの国ではなんでも混ぜる料理が好きみたいだ。トイレやシャワーは川の水を使うので何時でも使用可能。飲み水はタンク式で食事と一緒に途中の町で載せる。 ビールやソフトドリンクはデッキの売店で缶が手に入り、これも時折補充。 売店ではノリの良いローカルミュージックがいつもかかっていた。

 

f:id:pelmeni:20190216052917j:plainデッキで皆適当にくつろぐ

f:id:pelmeni:20190216052722j:plain途中に停まった船着場

f:id:pelmeni:20190216053100j:plain嫌でも太陽は毎日沈みます

 

 

6.

サンタレンで船を降り一泊した。ベレンマナウス間では最大の町。実はここまでの間に1時間の時差。 町はごく普通の雰囲気で、 夕方出船が戻って来る頃に岸辺は少し賑やかになった。 川岸を皆散歩していたが、空が広く久しぶりに落ち着いた開放感に浸ることができ、良い気分転換になった。 ここからマナウスまでのチケットは2種類あり、それぞれ鉄製と木製の船だという。 木製の船で行ってみてもよかったのではと今となっては思う。今度の船は前の2/3位の大きさで、 バーではなく一定間隔のフックにハンモックを結び付けるので、ぎゅうぎゅう詰めという感じではない。 あまり記憶に無いが日記を見ると「食事が(前の船と比べて)一品多く少しレベルが高いが、 -5と-3を比べるようなものか」と書いてあった。(笑)

 


f:id:pelmeni:20190216111609j:plain夕暮れはどこもいい感じ

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意表をつく鮮やかさがブラジルらしい

f:id:pelmeni:20190216111950j:plain黒い水と白い水の会合は有名なマナウス近くだけではない

f:id:pelmeni:20190216112132j:plain支流と合流する箇所ではよく見られます

f:id:pelmeni:20190216112252j:plain新たに乗った船は一回り小振りで幾分空いていたけどやっぱりこんな感じ

f:id:pelmeni:20190216112421j:plain時に臭ってくることがあっても、それはトイレの故障ではなく岸辺で放牧されているから

f:id:pelmeni:20190216112633j:plainたまには陽の沈まない日があっても…そんなことあるわけないか

 

 

7.

あいかわらず退屈な時間が始まった。しかし、この延々と続く変化の無い熱帯雨林、 このスケール感は日本では絶対にお目にかかれない。
気温はもちろん高いのだが、水の上を進んでいるため船側に出れば常に微風にあたることができ不快なことはない。 また夜になれば温度が下がっていることがわかり、Tシャツ一枚では涼しいと感じられる時もあった。 電気は点けっぱなしなので本を読んだり日記を書いたり。 そして、オイルの煤けた甘いニオイのなかで、船のエンジン音と波音を聴きながらうとうと眠りにおちいるのが毎日の常だった。


f:id:pelmeni:20190216113238j:plain途中の町のひとつ

f:id:pelmeni:20190216113257j:plain人だけでなく物流も担っています。交通は川の上の船だけだから

 

 

8.

そしていよいよマナウス到着。天候は雨。時折雷が鳴り風も強い。 こういう時には上部に結わいてあったシートが側面一杯に下ろされる。
時間はまだ5時前で、皆直ぐには下船しない。もう少し明るくなるまで待つ気のようだ。僕もゆっくり荷物をまとめ、 船着場からシャトルバスでターミナルに着いたのは6時過ぎだった。 そこから一歩外へ出れば、ごちゃごちゃして慌ただしく、予想通りの雰囲気。 毎日見続けたジャングルへの去り難き思いとようやくシャバに戻って来たかような懐かしい感じを同時に覚えたが、 そんな感傷はやがて街の中に消え去っていった。
ただ、正直いって疲れていた。ブラジル北部を休み無く一気に駆け上がってきたので思いの外体にガタがきていた。 滞在して判ったことだが、この街は適度に賑やかかつ穏やかで、リラックスして過ごすことができるところ。よい滞在になったと思う。

マナウスの街は思っていた以上の大きさで、ごく普通に近代的な装いがあるものの、 過去の栄華が忍ばれる痕跡が随所に見られるところなど気に入った。
到着が12月23日、翌日はクリスマスイブだが特に盛り上がることなく、25日の街は完全に祭日でほとんど無人だった。 まあこんな真夏にクリスマスもナンだが、 それでもサルバドールなどでは街中の至る所にサンタクロースが暑苦しい服着て大勢現れ(人形だけどね)、 陽気なブラジル人ならではの一面が垣間みられた。この街は違うようだ。これもブラジル…。


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こういう雰囲気大好き

f:id:pelmeni:20190216152135j:plainクラシカルな建物も多い

f:id:pelmeni:20190216152307j:plainここではクリスマスは正しく祭日です。商店は閉まり、人や車の通行はほとんど無い。

 

 

'04南米 その8 ブラジル北上中

  

ブラジリアはあっけらかんとしていて、言われるほど悪い所ではないと感じた。何といっても、空が広い。

それはもちろん、ここが何もない高原にポンと置かれた現代の計画都市だからだ。街を構成する一つ一つの要素に歴史の重みはまったく無い。人の生活の営みや築いてきた社会の積み重ねなど微塵にも感じさせず、そのさらりとした爽やかさは、図面上では同じく整然とした都市でありながらも実際はインカの町を根こそぎ破壊した上に碁盤目状に拡げられたアンデスの植民都市のもつ重さ、ある種血生臭い過去に因る逃れようのない重さとは、全く真反対の性質のように思える。まだ地に足がついていない様な浮遊感すら感じられるのは、歴史や風土に根付くことなく理性と幾何学のみに基づく出自からみても当然のことだろう。

でもこれはこれで20世紀の到達地点。我々の時代の英知が作り上げた都市は100年、200年後にどのような評価を下されるのだろうか。

 

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新たなる計画都市は地球上何処でも何故か往々にして不評なのだが、あまり厳格さを感じさせないブラジリアを作り上げたルシオ・コスタとオスカー・ニーマイヤーは、生粋のモダニストでありながら、やはりブラジル人なのだ。

モダニストは人間の生活が主題となる空間を新しい思想や技術によって作り上げた。過去やそれに付随する諸々~古いオーダー(秩序)や形式的なスタイル、装飾は不要だった。彼らの時代のデザインの拠所、つまり純粋な幾何学モータリゼーションに沿ってつくられた潔くも生真面目な都市。そこに微妙な曲線が加えられる。それもコンパスで一律的に引かれたものでなく、人間の感性を幾許か通して手を使い巧妙に置かれた曲線を。微妙なカーヴの持つ微妙な優しさは、この地に立てば確か実感できる。体に直に語りかけてくる。伸びやかな造形と鮮やかな色彩は人間の感性を開放する。えー、生真面目なゲルマン民族等には難しい芸当ではないかな。

 

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もちろん50年代の限界もある。何時の時代でも人間ができることは限られており、後世の評価が当初からすれば思いもよらぬ軸で定められることもある。スペインの植民都市は自動車の無い時代故にヒューマンスケールに近い心地良さが有るが、そもそもは単に地形やその他諸々を無視して線引きされた入植地だ。個人的興味の尽きない中央アジアソビエトタウンも、建設の基礎であった共産主義体制は既に無いが、住民は大きく育った街路樹の下を漫ろ歩き、無駄に広い公園で自由に寛ぐ。でも都市ってそういうものだろう。人々が街に集まり住み込んで生きてゆく。その生きられ方によって街は如何様にも姿を変え得るだろう。今目に映る街がそのまま変わらず続くこともなければ、この地に永存する保証もない。

一通り歩いたが、街の持つスケール感にブラジル人の生活習慣やリズムがあまりマッチしていないようにみえた。大きな骨格はともかく細部は自分たちで作り込んでいくしかない。多分変わってゆくのだろうけど、もしかしたら乖離したままかもしれないとも思う。この世に生まれ落ちまだ四十余年。時間の経過は必ずあるべき地点へと収束させてくれる。何処へ?それはブラジルの神のみぞ知ること。

ブラジリア、よくつくったな、というところが正直な感想だった。今以上に歩道の木陰が欲しいところだが、これは都市計画というよりは行政の問題だろう。日差しが強過ぎるんですよ、この街は。

 

 

 

さらに北上する。今日も夜行バス。

旧都サルバドールへ。 

 

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クリスマスが近いのだった。でもここでは真夏! 可哀そうに例の暑苦しい服装を纏わなければならないようだ、やっぱり。

 

レシフィ

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後に2014サッカーワールドカップ、日本×コートジボワール戦が行われた街。当時はあまり治安が良くないので気楽に歩きたい雰囲気ではなかった。しかしブラジルって人が多いなあという感想を持った。まるでアジアみたいに、どこもかしこもごちゃごちゃ混みあっている。

近郊のオリンダという町は美しかった。こちらは人影もまばら。

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f:id:pelmeni:20190211030212j:plain遠くにみえるのがレシフィの街

 

 

この頃の移動はすべて夜行バス。数日おきに夜をバスのシートで過ごす。基本的に快適なので無問題なのだが…、いや違う、思い出した。軽い坐骨神経痛を発症していた模様。早く行くところまで行かなくては。

f:id:pelmeni:20190211042258j:plain途中停車の町の混み合うバススタンド

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この辺りまでくると人口密度は低く、町と町はかなり離れている。いつ外を見ても同じような風景が続いていた。見慣れない植生も気になるのは最初だけで、そのうち関心が無くなった。南米旅ではいかにして延々と続く退屈な時間を凌ぐかというスキルも学ぶことができる。時々、急にあらわれる人の住む集落を目にして少しびっくりしてしまったりするが、逆に現地の人からは、そんな時のバスの中の東洋人の顔はどのように見えているのだろうか?

 

 

28時間!かけてサン・ルイへ。フランス風の名前だがポルトガルっぽい町。

ここまで上がるとさすがに暑い。赤道も真近だ。おかげで炭酸ばかり飲んでいる。アンタルチカかコーラのどちらか。屋台のガラナ(本物)ジュースも美味かった。

 

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タイルのきれいなサン・ルイの町並み。この町は見所が多く、その割には程よい広さ。溢れる陽の光と青い空と海。飽きがこない。連日の強い陽ざしのおかげで首筋が真っ黒に焼けて自分の首ではないみたいだ。どこかで鳴っている楽し気な音楽と陽気なブラジル人。リラックスできるところだ。ハードスケジュールの合間の小休止みたいな滞在。再び映画を観る。「エクソシスト・ビギニング」。これはまったくバスの中で暇つぶしに見るような代物だった。

 

そして、ブラジル旅のハイライトに向けて、ベレン行きのバスに乗る。もちろん夜行、というか14時間、腰がそろそろ…(泣)

 

 

 

 

 

'04南米 その7 ブラジル入国

やばい、やばい。当初はこの南米旅日記は昔のことだから1か国1,2回くらいでさっと終わらせるつもりだったのだけれど、写真をみながら当時の日記を読み返していたら、忘れていたことが次から次へと出てくる出てくる。皆書き出していたらきりが無い。とてもじゃないが簡単に終わらせることなどできそうもない。どうしよう???

 

 

  @  @  @

キハロの国境を渡りブラジルに入国する。ボリビア側には町が隣接していたがブラジル側は近くの町コルンバまで5キロ何もない。大抵の通過は自動車なので公共機関は無く、暇そうに待っているバイタク(オートバイの二人乗)の世話になる。

コルンバのバスターミナルではフェデラルポリスのチェックが厳しく列をなして待たなければならなかった。おかげで、ちょうど良い時間で乗れそうだったリオデジャネイロ行直通バスに乗り損ねてしまった。でもそのままリオに直行しても疲労困憊だったかもしれない。なんせ28時間だから、それも遅れなければ。仕方ない、近くの街まで刻む他はない。少し調べてカンポグランジという街までまずは行くことにした。それでも夜行バス、今はまだ昼下がりのため時間は使える。夜の出発までコルンバの街を散策しゆっくり食事を済ませ、両替したばかりのブラジルの通貨で買い物をする。

カンポグランジのバスターミナルには早朝着いた。まずしなければならないことは朝食をとり、次のバスを決める事だ。再び刻むのか、それともリオまで行くのか。少し悩むがリオ行に決定。しかしまたもや夜行バス。いったい何時になったらベッドでぐっすり眠れるのだろう。おかげでカンポグランジの街で一日過ごせるといっても、ここはそんなに観光地ではない普通の都市だった。眠かったので街中の広い公園の芝生で休んでいたら警備員に追い払われた。芝生って寝っ転がる所じゃないのか~?!

 

f:id:pelmeni:20190201114353j:plain70周年 奥地まで当時は大変な苦労だったことでしょう

 

この街では明らかに日系の顔立ちの女性を数人見かけたが、ショッキングピンクのTシャツにスカイブルーのショートパンツだったりとか、みんなセンスは明らかにブラジルの装いだった。そりゃ当然のことだけど、いざ目にする不思議な気分(最初だったから。以後何度も出会うことになる)。

 

 

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変化の少ない風景が延々と続くが、道路の状態もバスの乗心地も非常に良い。そういえばこのところずっと移動続きだ。何者かに運ばれている様で自ら旅しているという感覚がなかった。旅をしていると自分のバイオリズムにも波があって、気分が乗る時乗らない時が確かにある。この頃は停滞期だった。頭の中にサインカーブが浮かび上がる。そう下の方。体はともかく精神的にもちょっとお疲れ気味だったのだろう。外を眺めながらじっと音楽を聴いたり本を読んだり、果ては当ても無く妄想するくらいしかやることがない。バスは空いていて話し相手もいない。日記もつけたが、その妄想が激しいところは何度読み返しても笑ってしまう。

 

だからリオデジャネイロに着いても、大きな街だなあという以上の印象は持てなかった。一通りの場所は訪れたものの、今ではそれほど印象に残っていない。

 

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f:id:pelmeni:20190201120808j:plainこれぞブラジル

市場地帯には、やっぱり足をすくわれてしまう。

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さあさあ出発。次はオーロ・プレットへ。

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オーロ・プレットは古い鉱山の町。坂道が多く建物もピクチャレスクで絵になる街並み。とても雰囲気のある山間の町だった。ちなみに世界遺産

 

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教会も多い。こういうリッチなバロック教会はブラジルならでは。

 

f:id:pelmeni:20190201142941j:plain子供のうちからサンバのリズムでノリノリ!

f:id:pelmeni:20190201143005j:plainふふふっ

 

 

 

近くのサンジョアン・デル・ヘイという町もこじんまりとしていて感じが良かった。装飾的で可愛い教会が町のシンボル。

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ベロ・オリゾンチ経由でブラジリアへ向かう。この頃は地図を見ながらルートを決めてゆくのが楽しかった。でも地図上の都市間には思っている以上の距離があった。

ベロ・オリゾンチにはちょっと見たい建物があったので、バスターミナルで荷物を預けていそいそと向かったが、何と修復中!中に入れないなんてがっかり。なんて日だ!

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f:id:pelmeni:20190201195113j:plain▲サン・フランシスコ・ジ・アシス教会

f:id:pelmeni:20190201195120j:plain▲カーサ・ド・バイリ

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f:id:pelmeni:20190201195133j:plain▲パンプーリャ美術館

(以上パンプーリャの近代建築群、ニーマイヤー)

 

 

仕方がない、次行こう、次!

少し疲労を感じたのでブラジリアまでの夜行バスは「Golden」クラスを選ぶ。快適。映画は珍しくアクションものでなかったためこれは退屈。菓子セット、枕と毛布付き。

ブラジルの長距離バスは、チケットの価格に車格やサービスのグレードがはっきりと反映される。金さえ出せれば大抵は快適だ。大きな街の間の場合は選択肢も増える。安いバスの場合は、夜中でも小さな町々に停まり客の乗り降りが絶えなかったりする。隣の席の客が数時間毎に代わり、その度に現地の陽気なブラジル人との会話が始まったりする。深夜だけど、これが楽しめれば多分旅の上級者ですね。

 

 

 

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ブラジルではコカ・コーラよりも人気の炭酸飲料、ガラナ・アンタルチカ

甘くて癖になる味。インカコーラとは大違い(笑)真面目に美味いのだ。旅のさなかはコーラ中毒の僕でも、当時はこちらを飲んでいた。実は日本でも販売されている。コーラよりも選びたくなる炭酸なんて、他には昔のドクターペッパーくらいかな……

 

 

 

 

 

 

 

'04南米 その6 山から下りる

 

 

サンタクルス(正確には Santa Cruz de la Sierra)にやってきた。久しぶりに山から下りた気がした。それも極端なことに乾燥して肌寒い高地から蒸れた熱帯の低地へ。空気が濃い。生暖かい風が常にゆるゆると吹いている。陽差しも明るく気分が開放的になれる。此処で感じる気持ち良さは、タイあたりでだらだらと過ごす時の雰囲気に似ている。こういうところではのんびりと寛ぐにかぎる。

居心地の良い中庭のある安宿に滞在できたことも良い思い出だ。ブラジルスタイルの朝食がついているのも嬉しかった。後に知るのだがブラジルでは安宿でもいっぱしの朝食がついてくる。たいていは果物が食べ放題だったりする。ここでも生ジュースやトロピカルフルーツで毎朝腹いっぱいになるので、食後すぐに急いで街歩きなどする気になれなかった。

 

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街歩きが楽しいところだった。ポルティコ?がずーっと張り巡らされている。まあイタリア(特にボローニャ)の様に美しいものではないが、充分に旅人の目を惹くものだ。これには理由があるのだ。何故かというと、熱帯特有の…

 

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気が付くと天気が急転してこんな状態になってしまうのだ。美的な理由でなく必然の産物。まあスコールだけでなく日除けの為でもあるだろう。特に中心の古い町には張り巡らされているおかげで、そんな時でも自由に往来ができる。便利だ。僕も雨の中10分くらい、結局傘を拡げることなく宿から映画館までたどり着くことができた。その時上映していた映画はこれ。

 

youtu.be

 

『モーターサイクル・ダイアリー』 若きチェ・ゲバラが友人と南米を旅した日記が原作だが、政治的な色は薄く爽やかな青春映画になっていた。おかげで当初結構論議が起きた記憶があるが、劇場で観ている限りではこれはこれで面白かった。というか、このタイミングでこの場所でこの映画を観ることができた幸運に何か強いものを感じてしまったね、当時は。たった2ドルで。  

帰国後にDVDを購入し今でも時々見ます。自然の美しさには息を呑みます。そういう観方もできる映画です。南米は美しいですよ、まったく。やっぱり半年くらいはかけて回りたかったな。特に南の方。

 

 

今迄のアンデス高地とは大分違う雰囲気ですが、これからこういう所が続くのだろうなと思うとまた期待が持てるというものです。気候が良い。住人に白人の割合が増えていた。さらに食事! 山の上の町々では食事を安く済ませたければたいてい「1/4チキン(UNO CUATRO POLLO、店先でクルクルまわっている奴)」に収束していたが、此処では探せば牛肉という選択肢もある。市場は相変わらず混沌としているが、屋台で焼いている香ばしいニオイの中には明らかに鶏ではないものがあった。さらに、ジュース屋も多く、アイスクリームの美味しい店もある!治安も良い方で、街の中央にある公園では夜遅くまで人の姿が途切れない。気温も高いので人々が屋外で過ごす時間が長くなるのも頷ける。彼等に混じって僕も夜11時までベンチで本を読んでいたと当時の日記に書いてあり、そういえばそうだったなと懐かしく思い起こされた。

 

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こんな奇麗な鳥トゥーカンがフラッと宿の中庭にやってくるのも熱帯ならでは

 

暖かい気候で気分が良くなり次はブラジルへ行くことに決めた。国境近くの町プエルトスアレスに領事館がありビザを発給しているので、まずはその町を目指すことになる。

今回の移動は夜行列車。買った切符は「スーパープルマン」クラスなのでどんな車両か期待したが、なんのことはないリクライニングシートのあるオープンタイプの車両。車内はくたびれているうえに多くの座席のリクライニングは壊れているときた。最初は何だかなあと思ったがヘタったシートの角度が実はちょうど良くて苦笑い。

しかし異常に揺れる列車だった。バスみたいに上下するのだ。慣れるまでは脱線するのではないかとヒヤヒヤしていたが誰も気にしていないのでそんなものなのだろう。その分スピードは遅かったが。(その後エチオピアジブチ間の酷い列車を体験するまではこの区間が自分旅史上最下位だった。)おまけに夜遅くまで子供の売り子がひっきりなしにやってくるので中々眠れない。”リモネー、フリアー、リモネー!” 虫もガンガン入ってくるが幸運にも蚊はいなかった。でも、まあそんなものだとの諦念を持つことができたのは、旅に関してはそこそこベテランの域に達していたからかな?

 

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一見きれいに見えるが中はきたない。やっぱりボリビアだもん…

 

 

プエルトスアレスには朝早くに着いたが、列車の乗客はほとんどがここで下車し駅前に停まっていたバスに乗り込み去っていった。近くにある湖は行楽地らしいが町自体は小さく静かだ。そんなところにある領事館で対応してくれた陽気な副領事は、退屈していたとみえてビザ発給の手続の間僕を珍客扱いし質問攻めにした(笑)。何でも職員としてアジアすべての国に赴任したらしい。日本も印象深かったらしく片言の日本語で話しかける。今でも憶えていることといえば、どうやらコタツにご執心のようで、日本に帰ったらコタツのあるインターネットカフェを経営しろ、外国人が集まるから儲かるぞとしつこく勧めること。半分冗談だろうが退屈しなくて助かった。無事ビザの貼られたパスポートを手渡されこの後どうするのかと尋ねられたので、宿を探そうかなと言いかけたところ、この町には何もないから早くブラジルに行け!、Have a fun! と僕の答を待たずにその場で電話を掛け国境までのタクシーを呼んでしまった。本当は列車であまり眠れなかったから一眠りしたかったんだけどな、まあいいか。流れに逆らうことなかれ。行方も知らぬ根無し草の旅はそうやって続きます。

 

 

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プエルトキハロの国境を歩いて渡る ついにブラジ~ル♪

 

 

 

 

'04南米 その5 アンデス息切中

 

ボリビアの首都ラパスはそこそこ近代的な街でビルも多いですが、その足元に拡がるのはアジアの様に込み入った市場と屋台群です。この対比が何ともいえないですねえ。すり鉢状の地形でその真ん中が町の中心ですが、周囲を囲む斜面に住宅が拡がっているのはちょっと見慣れない光景です。

 

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f:id:pelmeni:20190103194037j:plain街は縦に長く坂も多いので車で移動~

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マチュピチュチチカカ湖に続きアンデス観光のハイライト、ウユニ塩湖を目指します。ラパスからウユニへはオルーロという街でバスの乗継になります。オルーロからは夜行です。この頃は長時間や夜間の移動を全く厭わずにガンガン突き進んでいました --- なんて格好の良いことではありません、他に移動手段が無いだけです。

ボリビアのバスはこの旅で乗った車体ほとんどがブラジルのお古でした。この辺りにお国の力が表れます。おまけに山岳地帯は道路がくねくね曲がっているので乗っているだけで疲れます。ひたすら我慢する他ありませんが体力勝負の感もあります。

 

f:id:pelmeni:20190103194904j:plain道中事故で立往生となっても、そんなものかと平然としていられました。南米旅には精神力が鍛えられます。

 

 

ウユニへはまだ暗い明け方に到着。近くの旅行代理店に転がり込んで当日の一日ツアーを申し込み、出発の10時までその場で仮眠させてもらった。

ボリビアの雨季は11月から4月頃までです。この旅行時は11月下旬、既に雨季に入っていたのですが雨はまだ少なく、残念ながら有名な鏡張りの光景は見られませんでした。ただそれでも不思議な光景には変わりなく、水鳥のいる湿地やサボテンが多く生えている「魚の島」など巡りましたが、やはり一面の白い世界が印象強く記憶に残っています。この辺りで食べる料理にはこの塩湖で切り出された塩が使われているのだろうか?と考えるだけで、暫くの間は簡素な料理もちょっとは美味しく思えました。

湖の中にある有名な塩のホテルは、排水が環境を汚すということで既に宿泊はできず、保存するということでした。陸の方に新しい建物を建設中でした。

 

f:id:pelmeni:20190103234058j:plain暑くはないけどサングラスは必須!

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アンデスから下界に降りる前にポトシに寄りました。ここはかつて鉱山で栄えた街で、コロニアル様式の建物や街並が見所です。ただ、どことなく薄暗い雰囲気も多少感じられるところなど個人的なツボにはまりました。感覚的に一筋縄ではいかぬモノが好きなのです。さらに、標高が高い。4,000m以上ある! 息苦しい! なのに坂道が多く難儀しましたが、それでもウロツキ廻ってしまうほどの不思議な雰囲気のある街。

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この頃になるとさすがに空気の薄さには飽き飽きし始めていた、というか、もうたくさんって気分でした。この先のルートはパラグアイアスンシオンへ行くか、それとも東進してブラジル方面か。まだ決めかねていましたが、とりあえずは低地のサンタクルスに降りることが、そんな訳で楽しみでした。

スクレで乗継のバスの旅。毎度おなじみの長時間移動ですが、もう多少のぼろいバスでも体が馴染むように(笑)なっていました。でもこの道は酷かった。舗装、非舗装のガタガタ道が交互に続いたかと思えば渋滞でストップ。事故ではなく休憩しているトラックが道の半分を塞いでいるというなんともいい加減な世界。

でも、標高が下がるにつれ蒸し暑さが感じられ確実に空気が濃くなっていくのが感じられた。車窓に樹木の緑が増えていった。雄大な山岳地帯や河川の傍らを走り、質素な佇まいの集落を通過する。夜中に初めて見た南十字星の美しさ。

 

必ずしも居心地は良くないけれど、事ある毎に長時間バスにひたすら揺られ続けることで、何か自身の感覚が強制的に南米のリズムのようなものに同化させられていくような気がしていました。気が付けば、何事においても日本の日常とはかけ離れた桁違いのスケールを持つ南米というものに、自分の感性が取り込まれていることがわかりました。

新しい世界を知るということは、何時でも何とも心地良いものです。

 

 

'04南米 その4 アンデス観光中

 

 

個人でクスコからマチュピチュへ行くための当時のルートは主に2つ

1)ツーリストトレインでクスコから麓の町へ

2)普通列車でオリャンタイタンボという町から麓の町へ

お金が掛からないのはもちろん後者(それでも12USD)。またオリャンタイタンボには結構立派な遺跡もあるので、町歩きや遺跡見学後に午後遅く出発するその列車に乗れば数時間後に麓のアグアスカリエンテスという町に着きます。翌朝のバスでマチュピチュへ。バジェットトラベラーのためにあるような行程です。当時の日記によれば僕も朝クスコを出発、ローカルバスをウルバンバで乗継ぎオリャンタイタンボへ。遺跡で同じ宿にいた人等と再会してそのまま前述のルートでマチュピチュへ行きました。

 

 

f:id:pelmeni:20190102190739j:plain背後にそびえる高い峰がワイナピチュ


アグアスカリエンテスからは小さなシャトルバスが朝7時から運行されていたので、早起きして遺跡を目指します。エントランスもまあまあ空いていました。でも、先ずは高名な遺跡を横目に奥へ急ぎます。理由はただ一つ、裏にそびえるワイナピチュの峰に上るためです。この山頂は狭いので人数による入山規制があるのです。昼間は待たされるけど朝早くなら大丈夫、ということです。

しかーし!45分かけて上ったその頂に既にいた人たちは…、なんと8割方日本人でした!それも皆同じような年代の男女、ほぼ初老の人達のグループでした。その年齢でワイナピチュに上れた健脚の持主ということは、多分トレッキングや軽登山愛好会のツアーかな。入口近くにある高級ホテルに泊まってきたのでしょう。よくいわれますが日本人って何処にでもいるんですね。彼等は早めに去り静かになった後に残った旅行者は、日本人の個人旅行者とドイツ人ばかりでした。これもやはりというかなんというか。

上から眺めるマチュピチュはカッコイイ。町で買い持ってきたインカコーラ※を一気に飲み干す。うーん、やっぱり不味い!(涙)。

 

※黄色くて甘苦くて何かの薬のような味の清涼飲料水 日本でも買えますがペルー製ではないので味が微妙に違う

 

f:id:pelmeni:20190102190814j:plainワイナピチュから俯瞰したマチュピチュ

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此処はロケーションが最高ですね。山の稜線に展開する眺めは爽快です。遺跡自体には素晴らしいというより不思議な感想を持ちました。町の型を保持しながら人の生活感がみられない遺跡です。建造の目的も完全には解っていません。

 

 

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アグアスカリエンテスは、熱い湯という名のとおり温泉のある町で、川沿いにあることは確認しましたが行きませんでした。ここはほぼマチュピチュへの観光客のための町です。帰りの列車は朝出発なのでもう1泊することになります。夕食にはアルパカの肉のソテーを食しました。確かパサついた牛肉のような味の感想を持ちました。特に美味しくはないということですね。この後クスコに帰りクイという動物も食べました。体を1/2に割って油で揚げてありましたが、小さな手などが残っていて人によってはグロと感じるかもしれません。クイとは地元の貴重なタンパク源である食用ネズミでモルモットの仲間のようです。写真を撮っておかなかったのは残念です(笑)。

 

f:id:pelmeni:20190102193608j:plain帰りに寄ったピサックのカラフルな市場 

 

 

 

マチュピチュの次はチチカカ湖です。プーノにある旅行代理店のツアーに申し込みました。日帰りなのでたった9ドルです。湖はどこでも空が広く風光明媚で爽快な気分になれるので僕の好きな場所です。ここも標高が高く空は深く澄んだ青。いい色です。トトラという葦を積んで作った浮島に渡ったり、先住民族の住む島等を巡ります。景色はとても良かった。でも、まあ観光地ですね、ツアーだから…。

 

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次に目指すはボリビア。当日朝プーノのターミナルへ行ったところラパスへの直通バスは既に満席ということで、ローカルバスターミナルからの乗継ぎとなった。細かく刻んで国境は自分で越えることに。途中1か所、バスの車体ごといかだのようなボートに乗せて湖を渡るのが面白かったです。

息苦しい中でひたすら移動ですが、こういう日も嫌いではありません。たいてい、自分の意志ではなく何かに後押しされているかのような感覚、足が地についておらずにただただ運ばれている感覚に陥りながら、ぼうっと何も考えずに外を眺めています。昼間の移動なら車窓は楽しめますから飽きません。

 

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’04南米 その3 クスコ

f:id:pelmeni:20181224191437j:plainこの石をいったいどうやって積んだのだろう ------- 12角の石、クスコ旧市街

 

 

 

例えば二、三人で道を歩きながら話をしていたとする。その道がいつの間にか上り坂に変っていたり、階段になったりする。気が付くと会話が終わっている。そこで話を始めようとするが、何か、く、苦しい、会話が文章にならない…

これが高度3,400mの世界。僕にとっての最初の感想です。クスコの標高はおよそ富士山の山頂に近い高さ、日本での生活圏には存在しない高度です。もちろん人間はそんな環境でも順応できます。人々は普通に生活します。でも一時の旅行者にとってははなかなか厳しい環境ですね。高山病の症状は多かれ少なかれたいていの人に現れます。長期の旅行者なら徐々に高度を上げてきたり、昇ったり降りたりしながら体を慣らしてゆけば何とかなります。僕も最初のキトでは体が反応しましたがその後は旅の体に成ったようです。でもアンデス山中ではどの街でも、空気の薄さにだけは慣れることは難しかったですね。時々深呼吸をして思いっきり空気を吸い込んでも、肺が酸素で充満した気が全くしないのです。

 

 

 

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街の中心アルマス広場 適度なスケール感、取り囲む建物の美しさ、整備された公園、これ程居心地の良い広場って世界を見回してもあまり無いんじゃないかと思う 旧市街の狭い道を歩き回った後にこの広場に出るといつも晴々とした気分になった

 

13-16世紀にわたりクスコは繁栄したインカ帝国の首都でした。その後やってきたスペイン人にインカ帝国は滅ぼされ街は破壊されます。しかしインカの石積は非常に強固だったため残り、征服者が新たな街を築く際はその壁や土台を利用して建物を造りました。旧市街を歩けばその有様がはっきりとわかります。一見スペイン風だけどある意味折衷の様式は、それはそれで興味深いものです。

人類の歴史は弱肉強食の歴史ともいえるので、強いスぺイン人による征服も結局は必然だったのかもしれません。しかし優れた技術や文化は絶やされることなくしぶとく生き延びるものです。形式的な断絶は必ずしも根絶やしを意味しません。異文化の融合はどの地域でも独特の強さを持ち存在し続けます。表面的な審美性だけでなく文化の重層や対立、歴史的な深読みなど多方面から我々の好奇心を刺激してくるということでしょうか。その貴重な例証が目の前にあるわけです。世界的にみれば信仰や文化の併存や混合が少ない日本の日常にどっぷりと浸っている身にとっては新鮮な経験に相違ありませんでした。

 

 

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広場を離れて細い道を入る ふと見上げると2階の窓から可愛いニャンコが!

 

クスコでは、日本人バックパッカーの間で当時の人気を二分していた花田氏と八幡氏の宿のうち、ペンション八幡の方に泊まりました。僕はアジアでもヨーロッパでも(ブダペスト除く)日本人宿に積極的に泊まるということはしませんでしたが、南米では幾つか泊まってみました。まあ玉石混淆な具合はやはり南米なのですが、敢えてそうした理由は主に2つ。一つには情報が欲しかった。その場その時に流される旅をする人間にとって南米では生の情報が重要、他の旅行者との交流や情報ノート目当て。二つ目には南米在住の日本人に対するささやかな興味です。

南米で宿を経営している日本人はたいてい旅行経験者か日系移民家族です。後者について、中南米への移民は確かに日本の近代史の一部であって、資料を探せば史実として幾らでも知ることはできます。ただ古から続く日本人という流れから枝分かれた支流でありながら、そのような認識はあまり共有されることがないように思えます。たいていの人は逆に出稼ぎにやって来る日系の人々くらいしか思い浮かばないのではないでしょうか。ここでは旅を続けて行くと、多くの場所で様々な形を以って地域に溶け込む日系人の姿を目にします。本当にいろいろです。代を重ねるうちに現地に同化し日本らしさが減るようにみえることが多いのも、それは仕方のないことでしょう。ただそんな彼らのうちにも、日本本国の方を常にみている人々が確実にいます。はるばる地球の裏側まで赴き、日本語を話し日本の生活習慣を保ち続ける人々に接すれば、誰でも多少なりとも思うところが生ずることでしょう。

 

ただ今となってみれば、その個人的な興味を満たすためは実際のところ、南米を半年くらい掛けて回ってみないと、判ることも判らなかったのだろうと思います。その点、旅が長期でなかったことには心残りがありますが、当時はそんなことまだ知る由も無く、その興味も小さく漠然としたものに過ぎませんでした。夜更けに中庭にある洗濯機で汚れものを洗いながら、見慣れた位置とは全く違い天頂から更に首をのけ反る様に傾けながら半ば逆さまに引っ掛かったようにみえるオリオン座やカノープスを眺め、確かに南半球の地に立っていることを実感するくらいで満足していたのです。当時の僕は。

 

 

 

 

 

https://youtu.be/tvU6FAj70zk