もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'05旅 その1 出発/タシケント

Jul. 1-3, '05

 

出発

 

南米を旅したおかげで知見が拡がり、せめて地球半周くらいしなければ自分の旅人生を終えることはできないと考え始めたら妄想が止まらなくなりました。自分があちこちに飛び回り永遠に旅人であり続けることができたらどんなに素晴らしいことなのだろう…。でもさすがにそれは妄想で止めておかなければなりません。ひとまず次が最後の旅とすべくプランを考え始めました。

北米や中国オージーには当時興味があまり無かったので、残るはアフリカか中近東。そこで以前すっ飛ばしてあまり滞在できなかったトルコを回った後南下してエジプトまで。その先はその時の気分次第で。トルコの前に地続きのコーカサスを。頭の中でおおまかなルートが繋がりました。

そこでアゼルバイジャンのバクーまでのチケットを探しました。でもそんなマイナーな旧ソ連の国への航空券なんてアエロフロートのモスクワ乗継しかないかな、多分高いんだろうなと思っていたところ、ネット上でコーカサスへ就航しているウズベキスタン航空を扱っている旅行会社を見つけました。嬉しいことにタシケントでの72時間ストップオーバー可でした。料金も安かったのでビンゴ!な気分になり申し込み、上機嫌でウズベキスタン大使館へ観光ビザの申請です。99年に続いて二度目の滞在になります。ウズベキスタン航空の利用も2度目(前回はラホール→タシケント)ですが、日本就航便は止めたり復活したりで長続きしない印象があります。今は具合良いのかな。

当時は国内で正規料金以外の航空券を買おうとすれば、旅行会社扱いの往復航空券しかありませんでした(片道チケットは存在したが非常に割高)。長旅の場合帰国便は捨てる他なく、それはその後問題になりましたが、他にやり様は無かったです。

 

●旅行期間:2005年7月~2006年1月

●行程:出国 → タシケントS.O. → アゼルバイジャン → グルジアアルメニア、ナゴルノカラバフ → トルコ → シリア、レバノン → ヨルダン → イエメン → ヨルダン、イスラエル → エジプト → インド → (バングラデシュ) → ミャンマー → タイ、カンボジア → 帰国

 

 

 

タシケント再訪

 

成田から発った機内には多くの日本人乗客が乗っていて賑やかでしたが、殆どがどうやらイスタンブール行のツアー客だったようで、タシケントの空港でトランジット待合室でなく入国手続きに向かった日本人は数人でした。この空港の利用も2回目なので勝手知ったる何かです。前回はてこずった税関申告も問題無く済ませ無事入国。建物を出て右手のトロリーバス乗場へ。ホテルが集まっているところで下車し、あたりをつけていた宿に空き部屋があったのでチェックイン。無駄のない移動、最初くらいはこうありたいものです。

まずは前回の滞在の追想へ。

 

f:id:pelmeni:20170727093033j:plain前回99年に泊まった懐かしのホテル・ロシヤ すべてはここから始まった

f:id:pelmeni:20190707185853j:plainそれが何とこの様な建物に変わっていた。名前も垢抜けた「グランド・ミール・ホテル」へ変更。外資系でしょう。でもよく見ると建物の建っている場所も規模もほぼ同じ。ということは現地改装の可能性が大ですね。大きな交差点に面していてトラムやトロリーバスの行き違いが部屋から飽きずに眺められたのですが、写真向かって右手奥に向かう中心街へのトラムは既に廃止されていました。新しいホテルはデザインが見れば見るほど残念です。

 

タシケント旧ソ連第4の都市ですが、観光する場所はそれほど多いわけでなく、歩くことを厭わない人にとっては殊更広い街ではありません。前回の記憶を頼りに地図を見ながら歩いたりトラムに乗ったりしました。

 

しかし暑い。日本の様な湿気は無く、乾いた、ジリジリとくる暑さです。

 

 

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街中にある集合住宅の妻面に奇麗なタイルワーク


腹ごしらえに市場へ。中央アジアの常でしたが、街中にカフェと看板を掲げている店があってもほぼ単なる食堂です。メニューは大抵プローフ(昼のみ)、ラグマン、シャシリクのお決まり3点セットが中心。コーヒーを頼んでも不思議な顔されます。何とNESCAFEの看板が出てる店ですらコーヒーなど無かったです。何故だ? ここの飲み物はチャイ≒日本のほうじ茶。それもポット1杯もれなく付いてきます。

昼時なら市場内の食堂が安くて新鮮で美味いのだ。

f:id:pelmeni:20190710013027j:plain青いタイルのドームが印象的なチャルス市場

かつてのタシケントは、ここチャルス市場を中心とした旧市街とボズス運河東側にロシア人が作った新市街が隣接していたが、1966年に起きた大地震後の大規模な再開発で昔ながらの旧市街は大分小さくなってしまった。中央アジアらしく土壁で閉じた旧市街と道路や公園が整然と整備されたロシア的な新市街の対比は、やはりここでも興味深いものです。

 

f:id:pelmeni:20190710021344j:plainウズベクの英雄アミール・ティムール像

 

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ナヴォイ劇場。第二次大戦後に強制連行された旧日本軍の抑留者が建設に参加した旨が記された碑文が取り付けられている。敢えて捕虜という言葉を使わないのは当時の大統領の意だそうです。

 

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f:id:pelmeni:20190713015329j:plain国立応用美術館。古代からロシア支配以前までの伝統芸術品等がウズベク各地から集め展示されている。伝統的な装飾のある邸宅に増築改装したもので、個人的に好きな場所の一つ。

 

 

タシケントは個人的な思い入れのある場所でした。初めて訪れたのは1999年の事ですが、それまで訪れた西欧や東南、南アジアといったある意味既知の情報に担保された場所とは違い、中央アジアは当時はまだよく知られていない所。僅かな情報を頼りに好奇心のみで飛んで行ったようなものでした。その最初に降り立った場所です。旧ソ連地域の旅人に不愛想な諸々の話は当時から知られ、警戒心や猜疑心を持ちながら最初の数日間を過ごしたのも今となっては笑い話です。言葉とか風習とか未知の文化の場所に自らを投げ込み反応を確認するといったリアル版のゲーム感覚に自分の旅の時間を重ね始めたのは、その99年の中央アジアが最初だったと思います。

 

パリやローマを再訪するのとは違った感慨をこの時は持つことになりました。6年経ち、旅ずれした自分にとってはどの様にみえるのか。そんなこと考えていたので純粋な気持ちで歩き回っていたわけではありませんが、面白い経験でした。都会なので多かれ少なかれ変化はあるものだと思っていました。目新しい色鮮やかな看板が増えたことは一目瞭然です。数少なかった商店が小規模ながらも増え、店番の少年が片言の英語を喋るなんて思いもよらないことでした。雰囲気が貧相で寂しかったGUM(国営百貨店)やTsUM(中央百貨店)といった施設は衰退したりショッピングセンターに変わっていたりしていました。新たに作られたスーパーマーケットも短期間で閉鎖されていたり、古いホテルが軒並み改装されていたり、路面電車が部分廃止されていたり、相変わらず娯楽は少なそうで、、、その他にも、まあ細かく見れば新しい経済の荒波を確実に受けた痕跡は見受けられました。外資が入ってきたりこの頃は色々変わって行った時期でしたが、僕は街が変化することについては肯定も否定もしない派なので、そういうものなのだろうと平然を装っていた気がします。それでも相変わらず賑わう市場や旧市街など変化の少ない所に迷い込めば、やはり懐かしさを感じほっとするものです。タシケントの街そのものよりは、前回の未だ初心だった自分の行動やら心の揺らぎやらを思い出すことの方が支配的で、多少感傷的になった滞在でした。ま、最初なのでいいでしょう。

 

旧遊の地を再訪する際はアンビバレントな感情を必ず抱きます。良い面は、以前の楽しい思い出が蘇ること。以前と変わらぬ光景を目前に当時を追想しながら幸せな気持ちに浸ることができます。悪い面は、以前の楽しい思い出が永久に失われてしまったことを知ること。変わってしまった光景を目前にかつて過ごした時間はもう自分の記憶の中にしか存在しないことを知り嘆くのです。たいていはその相反する要素が混ざり合っているものです。どちらも当然といえば当然のことなのですが、非日常の心には受け入れる準備や余裕が無いこともあります。一介の旅行者としてはただ眺めたり受け入れるしかありません。それを楽しむも惜しむも本人の気持ちの持ち方次第なのですが、長く旅をすればするほどそのような機会は増え、次第にこだわりの気持ちは少なくなってゆきます。これは自分の実感です。たいていの場合、ヴォネガットではありませんが「そういうものだ」と心の中で呟くしかなくなります。実は旅の時間なんて程々にした方が良いのでしょう。

 

 

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 前回の旅日記(回想)です。

pelmeni.hatenablog.com

 

 

 

 

'04南米 その13 南米の旅は終わるが気分は上の空

 

 

さてブエノスアイレスを思うように動けなかったのは、時間が無くなってしまったことのせいだけではありません。

前回プエルトイグアスの川で泳いで問題が起きたと書きましたが、思いもよらぬ事に足をすくわれたのです。それは、、、「日焼け」!。僕は特段敏感肌ではありません。ただ、日焼けには弱い。普段から露出していた首筋や腕などは問題無いのだけれど、いきなりの南米の強烈な日差しには、背中や肩などの生っちろい肌はたった2時間ほどでも耐えられませんでした。BsAs到着の翌日くらいからヒリヒリは痛みへと変わり、街歩きをしようにもバッグは手で持たなければならず、Tシャツが肌と擦れるだけでもいちいち気になって仕方ありません。自由に動き回る気が起きなくなり、最低限決めたところ以外には足も運ばずカフェでぼうっとしてました。

それでも後が押しているので次の場所へ移動しなければなりません。ピークは過ぎたものの痛みはまだまだあり、普段どおりバックパック担いで移動など無理無理無理。でも背負う他はないので、手を後ろに回して下側から少し持ち上げながらヒョコヒョコ歩くしかありません。本当に痛くて涙が出そうになった。街中で近い距離なのに仕方なくタクシーを使ってフェリー乗場へ。ブエノスアイレスウルグアイモンテビデオは街同志がフェリーで直接繋がっているのでこれには助かりました。大きな荷物は搭乗時に預けるシステム。日本人は入国にビザが必要無いので面倒な手続きも必要なし。

入国後これまたタクシーで宿の近くまで。こちらも普段なら問題なく歩く距離なのですが、この日は切羽詰まっていて躊躇せず楽を取りました。宿に着きシャワーを浴びるため服を脱いだら、両肩とも物の見事に皮膚が赤く腫れ水膨れになっていて、片方は破れてました。自分の旅史上最低(最悪ではないw)の思い出の一つです。

でもウルグアイを諦めてブエノスでゆっくりとする考えは無かったです。ウルグアイにはとりあえず行きたかったので。

 

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そもそも何故ウルグアイなのか。

ウルグアイとの最初の出会いは、僕が学校出てすぐの仕事場でアルバイトのウルグアイ人留学生、モンテビデオ出身のセルヒオ君と知り合ったことです。実はこの男、まったく野菜を食べなかった。食事に誘ってもビザに入っているトマトやピーマン、玉ねぎ等ひとつひとつすべて取り除き食う様には驚き、尋ねればポテト以外の野菜は口にしないという。当地ではそれが普通なのか聞きそびれたが、おかげで「ウルグアイ」という名前は頭の片隅に残り続けることとなったのです。

……いや、実際のところは、サッカー選手のアルヴァロ・レコバの印象の方が強かったかな、そうだ、そっちの方だ。サッカーの世界ではウルグアイナショナルチームは古豪です。

 

実際のモンテビデオのレストランではやはり野菜が食べられることはない… なんてことはなく、ブエノスアイレスと同じように巨大な牛肉に大量の野菜サラダが付け合わされる。肉料理はシンプルなBBQが基本の様で、油分も良い具合に落ち意外と量を食べられる。塊が大きいのは筋や骨など食べられない部分もいちいち分けることなくサーブされるからであり、日本の過保護なおもてなしとは違う食文化だ。まあ「肉に食いつく」こと自体が食事のメインイベントなのだ。土曜の午後になると市場には焼いた肉(アサード)の香ばしいにおいが充満しもう堪らない気分になる。価格はブエノスより更に幾らか安いくらい! 肉好きにはここも天国としか言いようがないでしょう。

 

 

かつて羊毛と牛肉の輸出で裕福になったウルグアイは福祉の充実した「南米のスイス」と呼ばれるほどの国家となったものの、モノカルチャー経済の行詰まりかつ重工業化に遅れた後は経済が低迷し混乱しました。それでも現在は南米で2番目に安定した生活水準らしいです。旅行時はアルゼンチンの道連れで経済が底でしたが、かつての栄華の残り香もどことなく漂い人々の雰囲気にも余裕が感じられるのは、お国柄なのでしょう。

 

さてさて街歩きを

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f:id:pelmeni:20190701091118j:plain街中には重厚な建物も多い

f:id:pelmeni:20190705151529j:plain市場の焼肉も結構本格的

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f:id:pelmeni:20190701092132j:plain海もあるある

f:id:pelmeni:20190701092151j:plain夕暮れの中心街

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↑この時は既に夜の12時でしたが、夜は遅くまだ多くの人々がブラブラしていました。モンテビデオの治安は安定していたようで夜もそこそこ安全、というか適度に緩い雰囲気です。ブラジルまでの都会ではこういう訳にはいきません。普通にリラックスできる街が僕は好きです。

夕食後夜遅くまで僕も街中で所在なくブラブラしていました。海に面しているせいか生暖かい風が常に吹いていて肌に心地良く感じました。モンテビデオは何時でものんびりとした時間が流れていたように思えます。コンパクトで特別な観光場所はありませんが、南米で一番リラックスできる首都でしょう。

セルヒオ君は元気かなあ。

 

 

背中の日焼けも落ち着いてきたので、近くの町まで日帰りで行ってきました。コロニア・デル・サクラメント。石畳のある古い町並みが奇麗なところです。

f:id:pelmeni:20190701093502j:plainf:id:pelmeni:20190701101234j:plainはぐはぐぺろぺろぺろ

 

 

帰国の飛行機はサンパウロアウトでしたが、ウルグアイから陸路で戻る時間はもう残されていなかったので、旅行代理店に飛び込み安いエアチケットを購入、帰国前日に慌ただしくも戻りました。今は亡きUairです。記念に機内食(昼食)を下にアップします。あっ、ペリメニ?がある(笑)

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サンパウロ滞在は1晩だけなのでペンション荒木は避け日系の池田ホテルに泊まりました(あすこに泊まったら帰国する気が萎えてしまう…)。こちらはコンパクトな普通のビジネス用ホテルといった風情でしたが、宿泊客は日本人や日系人ばかりで、小さなロビーで日本語で会話をした記憶があります。ゲストハウスとは違ったごくありふれた雰囲気で、通常の一人旅モードでいられました。残念ながら今はもう閉めたそうです。

最後の食事は日本食としたはずですが、何食べたかは憶えていません。帰国直前は何故か、日記をつける気が無くなりいつの旅行も空白のままなんです。

 

 

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3か月はあっという間でしたね。正直なところ南米でこれは短かかった。旅先には南米半年とか3回目で通算2年とかハマっている人も結構いました。南米が一番好きという人ならそれでも構わないでしょうが、僕はなるべく広く歩き回りたい派なので、このくらいの期間が妥当といえなくもない。キリが無いうえに、そもそも先立つものもありません。

もし更に1か月の旅の時間があったなら、多分アルゼンチンやチリを通り南端まで行ったでしょう。実はその2年くらい前に南米を旅した人から20万円で南極ツアーに行った話を聞いていました。旅行時にはもう開催されていませんでしたが、その話が今回の南米旅のそもそものきっかけです。結局端折りましたが元々はパタゴニアや最南端辺りのエリアへ行くイメージから始まりました。端とか先とか旅行者は割と好きなんですよ。

 

今回はあらゆる印象が強烈だったせいか、日本に帰国しても旅が終わったという気持ちの切替が上手くいかずに、半ばカルチャーショックを受けたような状態のまましばらく時間が過ぎました。

職に就いたらしばらく旅できないけどどうしようかと考えていたところ、図ったようなタイミングで、以前の仕事先から人が足りないから暇だったら手伝ってくれないかと連絡が来たのです。何故僕の周りには僕を堕落させる環境が整ってしまうのだろうw。一番は本人がオカシイのだけれど。

でもとりあえずはこれで迷う事はない。結局半年の間バイトという形で働き、自分にこれが最後だと言い聞かせ、再び機上の人となったわけです。

 

※今振り返ってみると、一時期流行った言葉「ダメ人間」に向かってまっしぐらでした笑。

 

 

 

'04南米 その12 イグアス→BsAs

イグアスの滝~~~ブエノスアイレス

 

 

僕は元々大自然なるものを求めて旅はしない人みたいです。まあその場に立てば感動もするし結果的には良い思い出として心に残るので否定的になるつもりはありませんが、神が創った世界よりは、人間がそれに抗い作りあげてきたモノの方に興味があり、まずは気持ちが向かうという事です。

日本には存在しないスケールという点では、ここイグアスの滝の迫力にはさすがに心を奪われました。広大な範囲にわたり滝が連続・散在しているので、ブラジル側とアルゼンチン側双方からアクセスでき、それぞれが特徴ある観光ルートとなっています。悪魔の喉笛と呼ばれる巨大な滝壺があるアルゼンチン側の方が人気があった気がしますが、どちらがということはなくそれぞれ楽しめました。

 

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f:id:pelmeni:20190426215343j:plain珍しい動物も多い

 

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でも、自分で言うのもなんですけど、写真で見ると滝ってあまり面白くないですね。腕が悪いのか、そもそも臨場感を写し取る事ができない種類のものなのか、多分その両方だと思いますがこればかりは仕方が無いなあ…
 

※「悪魔の喉笛」については上手く写真が撮れなかったので動画で記録しておいたが、はてなブログには動画(.MOVデータ)を直接アップできないようで… 残念 

 

 

この地域はブラジル、アルゼンチン、パラグアイの三国の国境が接していて、それぞれに近接して町があります。

フォス・ド・イグアス(ブラジル)は少し近代的で大きな街、

シウダー・デル・エステパラグアイ)はごちゃごちゃしてややくすんだ色合いの街、

プエルト・イグアス(アルゼンチン)は小規模で緑の多い静かな町。

観光客はたいていフォスかプエルトに泊まります。大きなホテルは街であるフォスにあり、町の雰囲気が良いのは静かなプエルトの方でした。国境の道路に入管は無いので、住民も観光客も乗合バスで自由に往き来できます。僕はプエルトの安宿に泊まり、ブラジルとアルゼンチン両方の滝に行きました。時間的にアスンシオンには行けそうもなくなったので、ここでパラグアイの街にちょっとだけ寄って散歩してきました。

プエルトの町外れに川が流れていて、あまりに気持ちが良かったので他の旅行者と泳ぎに行ったのですが、実はこれが後に問題を起こすことになるのです。

 

 

 

f:id:pelmeni:20190427023100j:plain前の座席の子供が東洋人に興味津々の模様だったので得意のおちゃらけで気を惹く

 

 

プエルトイグアスからブエノスアイレスまでの移動はバスでした。それもその小さな町のターミナルからの出発には不釣り合いな程の快適なバスでの移動でした。

すぐに判りましたが、アルゼンチンのバスサービスはブラジル以上のもの。一晩掛けて翌朝巨大なレティーロ・バスターミナルに到着。途中ひと気の無い広大なパンパで見上げた天の川は最高の眺めでした。

 

 

この街はすぐに気に入りました。本来ならば長居したいところでしたが、この旅は帰国日が決まっていたので要所をかいつまんで足を運ぶのみとなってしまったことが少し残念といえば残念。

 

1)奇麗な街並み 美しい建物が整然と建ち並ぶ街並みの美しさとその規模の大きさは、さすが南米のパリと形容されるだけの事はあります。気分が落ち着きます。

2)カフェが多い 気取った若者やスノッブが集まる(だけの)場所ではありません。朝早くから夜遅くまで老若男女それぞれの人々が自分の時間を過ごす場所です。そのため店の雰囲気は多種多様です。街中に散在しているので探せば自分に合う店が見つかるはずです。これはブラジルと違ってヨーロッパっぽい。

3)タンゴ 聴くタンゴ音楽は好きなので期待していましたが、本場はいいですね。ストリートパフォーマンスからレストラン、バーはもちろんのこと劇場の舞台まで、いろいろな形で街の生活と結び付いています。

4)牛肉料理! ベジタリアンの人はこの辺りでは居場所は無いですね。本当にラッキーだったのは当時はアルゼンチンの経済が最悪な時期だったこと。誰も自国の通貨アルゼンチンペソなど信用しておらず、街では米ドルしか使えませんでした。すべての物価が激安価格のおかげで、テーブルクロスが敷いてあるクラスのレストランに行けば、『草鞋のように巨大な牛肉料理 + 日本では3人前位の量の生野菜サラダ + パンorライス + グラスワインor珈琲一杯』で、なんと5-6ドルなのでした。何たる天国! もうこれ以降胃が拒絶するまで毎晩肉食い続けましたね、当然でしょう! (でも最後に胃は本当に拒絶した・笑)

 

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そうそうこれを忘れてはいけない 東京の営団地下鉄丸ノ内線を走っていた車両が第2の人生を当時のBsAsで送っていたのだ  んー、昔よく乗った身としては感慨深い!

 

 

 

'04南米 その11 サンパウロで年越し

 

マナウスという街は、現在変わったかわからないが、当時はほとんど陸の孤島と呼んでもよい場所だった。広大なジャングルのど真ん中にあり、道路は北方のベネズエラ方面にしか通じておらず、国内の他の主要都市とは繋がっていなかった。そのため長距離バスの運行は限定的で、大抵の移動はアマゾン河の利用か飛行機しか術が無い。帰路に今までたどって来た経路を再び戻るなんて奇特な行為はいくらなんでも考えられないので、ここはサクッと飛行機で次の目的地まで飛ぶ。迷いは無かった。そもそも普通の旅行者ならマナウスへは往きも帰りも飛行機だろう。

延々と拡がるアマゾンの密林を眼下に眺めながら感慨に耽った。5日もかけてひたすらゆっくりと船でやって来たところを(更にそれ以前の移動も含めれば何日かかった?)たった数時間でブラジリア、サンパウロへとひとっ飛びなのである。苦行の様な移動からようやく開放される嬉しさや満足感の中に、若干の虚しさが紛れ込んでいた気がした。でもこれは典型的な「長旅あるある」でしょう(笑)。ブラジルの大きさがリアルに実感できたことも含めて。

 

 

 

f:id:pelmeni:20190226175743j:plainBoas Festas!  日本のどこかの街といってもまったく通じそうな風景

 

 

そうして着いたサンパウロ、リベルダージの日本人街はそこだけ時空を超えて日本がぽっと出現したような場所だった。当時は中国人や韓国人は少なく日本人の町。中華エリアは他にあった気がする。近くの中華料理店で食べきれない量の料理を出された記憶がある。

 

年末。日本とは時差がちょうど12時間ある。NHK衛星放送の紅白歌合戦が放映されるのが当地では12月31日の午前中。それを見終わって街に出る。リベルダージの広場では餅つきが行われており、その横には即席テント張りの「南米大神宮」なるものが設えられていた。宮司さんにお払いをしてもらい御守が配られ、つきたての紅白餅もふるまわれる。日系人を含む現地の人々や旅行者が列をつくり待つ姿は、なんとも日本的な光景にみえた。

 

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紅白餅はすぐに頂いたが御守は今でも大事に保管してあります

 

 

新年といえばカウントダウン。ここサンパウロでも盛大に行われる。普段の日なら夜間に地下鉄に乗って外出なんてする気にもなれないのだが、この日は大丈夫だろうと思いパウリスタ大通りまで出かけた。人通りも多く地下鉄も混雑していて、これだけの人出があれば逆に危険は少ないと思えた。

 

f:id:pelmeni:20190226235135j:plainFeliz Ano Novo!  花火が打ち上げられる

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路上ディスコ状態を期待したが彼等そこまで能天気じゃありませんでした。失礼!

 

 

日を改め正月らしく静かな「日本の」町を歩く。ここは見かけはともかく、町を成立させているシステムが日本のそれとほぼ同じで、一通りの商店が揃っている。多少怪しくても日本語が基本的に通じる店は多かった。マクドナルドハンバーガーの看板もカタカナ表記。スーパーでは普通に弁当や寿司、おにぎりが売られている。ロッテコアラのマーチぺんてるのボールペンも多少値は張るが入手可能だ。夕食に店構えも内装も日本のものと変わらないとんかつ屋の暖簾をくぐる。そこではカウンター越に店の人と馴染の客が「親がずぼらで私の日本人の申請をしなかったからパスポートが無くていろいろ大変なのよ、もういいけど」なんて会話が普通に日本語で行われている。目の前のとんかつはコロモもカリッと揚がっていてキャベツも山盛り。ここは何処なんだ。

日本人街というものは、実際その中に紛れてしまうととても不思議な感覚だ。

 

 

この時滞在した宿はペンション荒木。<世界3大日本人宿>なる括りがあるのならば確実にその一角を占めたであろう有名な宿(残りは何処?)。日本人移民の荒木さん夫婦が経営を始めた宿で、親父さんは既に亡くなっており、当時は確かお婆ちゃんと女性のお手伝いさんが切り盛りしていた。ほぼ住み込んでいる現地の日系人を除けば泊り客は皆日本人長期旅行者/バックパッカー

たまたま新年だったこともあり、元日に皆で集まりお手製の菓子や巻寿司を頂いたりと日本人らしく和気あいあいとした時間だった。時期が時期だけにこのような雰囲気を求めて来たわけで、楽しい思い出として今でも憶えている。

宿泊環境については今となってはあまり言うことはないな(笑)。当時から、何を好んでこのような宿で皆長居するのか不思議でならないという気持ちが半分、それでもやっぱり集まってしまうのだなという気持ちが半分だった。もっと安くて快適な宿はあったはずなんだけど、長々と居続けてしまう多くの人のことを、僕は理解できるんですよ。なんせこの前年にブダペストという薄汚れた街に気がつけば計3か月近くも滞在していたので……。

旅自体は楽しくても、言葉は通じない・食事もいつも口に合うとは限らない・移動も常に大掛かりとなれば、どんな変わり者の旅行者でも、目の前に慣れ親しんだ「日本」が現れれば飛びつきたくなるだろう。日本での日常のシガラミとは隔絶された時間を本当に自由に生きていることを自覚しているのかいないのかはともかく、そうして何もすることが無くても幾らでもずるずると目的無く滞在するなんてこと、できる人はできるのです。エアーポケットに嵌った様な感覚、一時的な現実逃避なのかもしれない。まあ長旅ならそれも吉かな。

 

空きが出たので途中で移った部屋は普通だったがその分料金が少し高かった。こちらには旅行者ではない人も幾人か泊まっていた。ベットの周りを私物で囲み、平日はサンパウロで働いているため泊まり込み週末自宅に帰るという日系人。同じ部屋なので会話をするのだが、普通に日本語で話すことが最初は妙に思えたが、考えてみれば何も不思議なことではない。

小学生の頃僕は、短波付のラジカセで海外放送の他にNHKの国際放送も時々聞いていた。「かぞえうた」のインターバルシグナルから始まる日本語放送を一体誰に向けて放送しているのだろうかとその頃は漠然と思っていた。乏しい知識しか持ち合わせていない子供には知る由も無かったが、今ではわかる。遠く離れた場所で生活していても、日本人の社会で生きている限り本国との繋がりが途切れることはないのだろう。海外在住の日系人や日本人にとって、衛星放送もない時代にはリアルタイムでの本国との繋がりはラジオ放送が唯一のものだった。今はTVをつければ、その日の出来事も料理番組も少し遅れるが朝の連続テレビ小説も届けられ多くの人々が共有できる。至極当然のことの様に皆視聴していた。ネット時代は既に到来しており、情報の享受は更に幅がひろがり容易になることを当時既に感じていた。

日本の文化会館の類の施設では、来訪者にも分かりやすい説明で移住の歴史等知ることができる。そのような場所で幾らかの時間を過ごし多少なりとも理解が深まった頭で、かつて日本から海を渡った多くの人々のことを思い巡らした。彼らは今後もいろいろな形をとりながら世代を越えて各地に根を張り続けるだろう。

地球の裏側に日本の方を向いている人たちは常にいる。今も昔も、これからも。

 

 

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ブラジル国内最後の移動はサンパウロからフォス・ド・イグアスまで。終いくらい奮発して最高級クラスのバスを選んだら、座席はゆったりと大きく隣の無い1×3列、まるで歯医者の診察みたいであまり落ち着けなかった。椅子の背はほぼ水平まで倒すことができ快適だ。でも、何だかなあ、と思いながら、これもこれで思い入れの多かったブラジルのバス旅最後の思い出。帰国時にまた戻る予定だが一応これで見納め。

 

 

'04南米 その10 ジャングルツアーとマナウス

 

f:id:pelmeni:20190219205432j:plainマナウスの有名な黒い水と白い水の合流だけど、既にいろんな所で見てきたので… アマゾン河では特に珍しいものではないようです

 

 

マナウスに来る観光客の多くがジャングルツアー目当てです。街中に看板を掲げている旅行代理店は多く、ホテルに併設されていることもあります。僕も泊まった宿の1階にあった事務所で2泊3日のツアーを申し込みました。

朝、車で出発。近郊の船着場まで行き、船でアマゾンの支流に入っていきます。細い流れに入っていくため途中で小さなボートに乗り換えた記憶があります。宿泊は木造のコテージ。ジャングルの中なので高級なホテルなど作りようがありませんし、簡素な造りの方が否応なしにジャングルという環境をダイレクトに体験できる場所でした。良くも悪くも(笑)。昼食後に急に雨が降り出し、初日は結局何もできませんでした。勝手に外出したくても宿の周りは何がどうなっているのか全くわからないジャングル。まずは途切れることのない雨音と湿気で熱帯雨林を感じながらぼうっと過ごしたというわけです。大きな荷物は宿に残し、特に遊ぶものを持ってきたわけではないので、嫌でもそんな時間と静かに対峙する他はありません。さすがに終いには飽きたので一緒にいたフランス人等と話し始めましたが。

 

翌日は朝から予定通りの行動。 

 

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やることといえば密林探検とボートでの移動。ジャングルは何から何まで桁違いの規模でした。当然ですがひと気は全く無く、聴こえる音や流れる空気まですべてが微妙な感触を持った手付かずの自然そのもの。見たこともないような植物や昆虫(時々グロ)。樹上の鮮やかな色彩の鳥や猿たち。ガイドが丁寧に教えてくれます。ブラジル人らしく陽気で楽しい人でした。

地形が平坦なので樹木が途切れる水辺は空が広く流れは穏やかです。意外にも静謐で時間の流れがとても緩やかに感じました。

 

f:id:pelmeni:20190219205734j:plain何か同じような夕日や朝日をこのところ見続けています。

 

f:id:pelmeni:20190219205621j:plainガイドの手に掛かればこの程度のワニなら簡単に生け捕られる

彼曰く -----日本人の名前は何だか難しいな。んーナカムラでいいだろ? おい、ナカームラ、こっちこっち…  当時中村はまだレッジーナにいたはず。さすがブラジル人!

 

ラニア釣りとかワニ捕りとか、アマゾンならではのアトラクションもあります。食事で香草とピラニアのホイル焼きが出ましたが、淡白な味の白身魚なので醤油にあうのではないかな。(サンパウロの日本人街の料理屋ではピラニアのメニューがありました)

 

ピンクイルカの見学もありました。呼ぶと本当に水面に上がってきてジャンプしてくれましたが、少し場所が離れていたのが残念。農家を見学し栽培している野菜や香辛料を教えてもらいましたが、この手の見学にありがちな、小規模で庭でちょぼちょぼしかやってないような民家でした。

 

2泊3日はあっという間です。

 

f:id:pelmeni:20190219205820j:plain途中で寄った水上の万屋

f:id:pelmeni:20190219205804j:plainそこの息子 

 

 

 @ @ @ 

 

マナウスで気に入った場所は、中央市場とオペラハウスです。

アドウフ・ヒシボア(アドルフォ・リシュボア?)公設市場。結構古びているがピクチャレスクで雰囲気はあるので没落した貴婦人って感じ。デザインは当時のヨーロッパの先端。随所にみられるアイアンワークの装飾が未だ美しい。食堂ではアマゾンで捕れた魚を焼いて食べられます。

 

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ガラナジュースを飲もうとしたら、「原住民のバイアグラ」???

 

 

 

アマゾナス劇場。写真でみるよりかは小柄なオペラハウス。ツアーで内部を見学できます。こんな奥地に建築材をすべてヨーロッパ各地から運び込んで造り上げた執念。未開の地に豪華なヨーロッパを力づくで再現する執念。建物は美しいのにその存在に妙な捻じれを感じて何やらもどかしい。

 

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f:id:pelmeni:20190219211048j:plain柱はグラスゴーから運んだ鋳物

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アマゾンといえばこれ。悪い意味ではなく狂ってるとしか言い様がない。本編、冒頭のオペラの場面でそのアマゾナス劇場が映ります。暫く時間が空くとどうしてもDVDを観返したくなる映画。可能であれば劇場で

 

youtu.be









 

 

'04南米 その9 ハンモック船でアマゾン河

ハンモック船でアマゾン河 ベレンマナウス

 

Yahoo!ジオシティーズのサービスが3月末で終わります。僕はそこに旅行日記や写真を載せた小さなサイトを持っていたのですが、この10年もの間は更新せず全くの放置状態でした。今更新しいところへ引っ越すつもりもなく消え去るのみでよしとしましたが、幾つかの文章はこのブログの過去旅回想記に既に転記しています。今回もそのひとつです。

 

  

1. 


南米の地理のスケールは桁違いだ。

地図を見てそんなことくらい解っているつもりでいたが、いや、これは実際に体感するのとではえらい違いだ。 目の当たりにすると、本当に、ため息が出てしまうのだ。
そのなかでもブラジルは、すごい。なんか旅行中ずっと気分が高揚しっぱなしだったのが、 後になってもはっきりと思い出すことができる。

マンゴー並木で有名なベレンには、サン・ルイからバスで14時間かけてやって来た。
サルバドール、レシフェ、サン・ルイ、ベレン。 これらの街は道路により結ばれてはいるものの、地図の上を追うだけでは想像できないような隔たりだ。 自然があまりに大き過ぎて、此処ら辺りの一本道は何とも心許ない。 バスは昼なら無人の原野か規則的なプランテーション、夜なら漆黒の闇の中を、速度を変えずに延々と走り続け、 沿道に点在する無数の集落を通過する。 僕は窓ガラス越しに人々の生活を垣間みようと息をこらすが、あっというまに幻のように過ぎ去ってゆく。
安いチケットのバスを選ぶと時間は掛かるものの、停車の度に陽気な地元の人が隣の席に座れば、 旅人はその間飽きることはない。
ただブラジル北部は次の訪問地までの距離が非常に長く、何でもいいから早く着いてくれと願うこともままあった。 退屈!という一言で済ませたくないために、あれこれ必死に「脱・日本スケール」へ自分の感覚を合わせようとしていた。
まあアンデス山中のように道が酷かったり事故ったりしないから気は楽だったが。

ブラジルまで行くのならぜひアマゾン河を船で遡行したいと思い、河口の街ベレンまでやってきたのだが、 出発は急なことだった。
でもそれは、いつものこと。旅の時間には自らの意のままにはならない流れのようなものがあって、 それにひょいと飛び乗らなければならない時がある。たいていは急に目の前に現れ瞬時の判断を迫られる。 長旅で培われていた勘のみで判断をする。必ずしも正しいとは限らないが、旅の空の下ならそれもOK。

 

 

 

2.


ベレンでは一休みするつもりだった。 ここしばらく長距離バスに揺られ続けたせいか、軽い坐骨神経痛を発症していたからだ。
だからバスターミナルを出てすぐに宿を探すつもりでいたのだが、乗った市バスが通りかかった船着場で降りてしまった。 まあ出発便を確かめてから事を始めればいいんじゃないかって。

そう、ここで。
チケット売場で尋ねたところ、出発日は本日夕方。次の出発は3日後。これを聞いて僕は迷わず金を払った。 当日のチケット代は割高のようだが、まあいい。勢いだ。ああ、その時は本当に何かに操られている感じがした。 体は疲れているが気持ちはたかぶる。船着場横の露店で一番安いハンモック(5ヘアイス)を買って、 船に乗り込み場所を確保。出発までまだ5時間あるが既にかなりの人がハンモックを吊るしていた。 街へ出てまずは腹ごしらえ。散策しながら、小振りだがべらぼうに安いマンゴーを買い込み、 時既に遅しでも薬局でマラリア予防の錠剤を入手してとりあえず口に放り込んだ。

夕方7時に船は埠頭を離れた。

 

f:id:pelmeni:20190216050359j:plainベレンは大きな街

f:id:pelmeni:20190216050534j:plainこの船に乗り込む

f:id:pelmeni:20190216050653j:plain天井に通してある鋼管に持参のハンモックを縛り付け、そこが自分の居場所となる

f:id:pelmeni:20190216050916j:plainさよならベレン

f:id:pelmeni:20190216051040j:plain窮屈に見えますが思う程居心地悪くないです

f:id:pelmeni:20190216051458j:plain人が生活しています

f:id:pelmeni:20190216051826j:plain毎日密林に沈む夕陽を拝みます

f:id:pelmeni:20190216052017j:plain朝靄にけむるアマゾン…

 

 

 

3.

こんな感じで5日間も延々と変わらぬ風景を見続ける。(川幅は場所により狭まります。初めは湖みたいな距離感でした) 何となくキツそうに思えたので、実はチケットは途中のサンタレン迄しか買わなかった。だったら別の日にも船便があったって? ええ、確かにその通りだと思うけど、細かいことは、もういい。

ここで前半最大のハイライト。
3日目頃、デッキで微睡みながらぼうっとしていると、船尾の方で声があがった。人が集まり始め、やがて船が停まった。 そこで何事かと僕も見に行った。
ひとが一人船の後方の水面に浮かんで流されているように見えた。普通なら客が誤って川に落ちたものとみるだろう。 だがよくよく眺めてみるとどうも違う様だ。彼は泳いでいるのだ! やがて岸にたどり着くと奥の森の方に走って行った。 彼を追って2人ほど船から川に飛び込み森の際まで行ったが追いつく事ができなかった。
いったい、彼は何故にこんな面倒なことをしたのだろうか? この先の森林の地理を知っていたのか?  ということはもしかして、 このようなことはよく起こることなのだろうか? 考えれば考える程、わからない。 この旅最大の謎どころか、僕の全旅歴をとおして最大級の謎かもしれない。(たぶん常習者とみた…笑)

 

f:id:pelmeni:20190216052149j:plain追っ手は結局追いつくことができなかった

 

 

 

4. 


毎日の同じ眺めに飽き、多少は哲学ぶった思考が行われるのではないかと自分に期待をしたのだが、実のところ、 その流れ去る同じ眺めにひたすら見入ってしまった。哲学どころではない。ただし、ぼうっと見過ごしていたわけでもない。

ここでやりたいことがひとつあった。船上でレヴィ・ストロースの「悲しき南回帰線」を読むのだ。 オレンジ色のヤツは重くて持って来る気にはなれなかったので、中公クラシック版をバックパックに入れて来た。
卒業してから既にかなりの時間が経っているが、彼は僕の学生時代のアイドルだった。 彼のシンプルで明晰な文章により読み解かれる知の世界にひたすら没頭していた当時の記憶などを、 忘却の彼方から掘り起こした。思えば遠くまで来たもんだとしみじみ思う。 それは単に地理的な意味合いだけではなくって。

目の前に途切れること無く拡がる厚いジャングルのずっと先に、 彼が分け入り調査を行った部族が生活をしているのだと想像するだけで、いてもたってもいられなかった。 船からは遠くの森をひたすら眺めるしかないのだが、眺めていたのは風景だけではなく、当時の僕自身でもあった。 流れる風景の先で色々な思いが交錯していた。


~なんて格好いい事を書いてみたが、多くの時間は退屈していたと思う。
本は確かに読みました。

 

 

5.

1日3回の決まった食事時間になると大きなテーブルが用意され、 2、3回のローテーションで(一度に全員は着席できない)簡単な食事をとる。 たいていはパスタや米、豆類等を混ぜた料理。ちなみにこの国ではなんでも混ぜる料理が好きみたいだ。トイレやシャワーは川の水を使うので何時でも使用可能。飲み水はタンク式で食事と一緒に途中の町で載せる。 ビールやソフトドリンクはデッキの売店で缶が手に入り、これも時折補充。 売店ではノリの良いローカルミュージックがいつもかかっていた。

 

f:id:pelmeni:20190216052917j:plainデッキで皆適当にくつろぐ

f:id:pelmeni:20190216052722j:plain途中に停まった船着場

f:id:pelmeni:20190216053100j:plain嫌でも太陽は毎日沈みます

 

 

6.

サンタレンで船を降り一泊した。ベレンマナウス間では最大の町。実はここまでの間に1時間の時差。 町はごく普通の雰囲気で、 夕方出船が戻って来る頃に岸辺は少し賑やかになった。 川岸を皆散歩していたが、空が広く久しぶりに落ち着いた開放感に浸ることができ、良い気分転換になった。 ここからマナウスまでのチケットは2種類あり、それぞれ鉄製と木製の船だという。 木製の船で行ってみてもよかったのではと今となっては思う。今度の船は前の2/3位の大きさで、 バーではなく一定間隔のフックにハンモックを結び付けるので、ぎゅうぎゅう詰めという感じではない。 あまり記憶に無いが日記を見ると「食事が(前の船と比べて)一品多く少しレベルが高いが、 -5と-3を比べるようなものか」と書いてあった。(笑)

 


f:id:pelmeni:20190216111609j:plain夕暮れはどこもいい感じ

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意表をつく鮮やかさがブラジルらしい

f:id:pelmeni:20190216111950j:plain黒い水と白い水の会合は有名なマナウス近くだけではない

f:id:pelmeni:20190216112132j:plain支流と合流する箇所ではよく見られます

f:id:pelmeni:20190216112252j:plain新たに乗った船は一回り小振りで幾分空いていたけどやっぱりこんな感じ

f:id:pelmeni:20190216112421j:plain時に臭ってくることがあっても、それはトイレの故障ではなく岸辺で放牧されているから

f:id:pelmeni:20190216112633j:plainたまには陽の沈まない日があっても…そんなことあるわけないか

 

 

7.

あいかわらず退屈な時間が始まった。しかし、この延々と続く変化の無い熱帯雨林、 このスケール感は日本では絶対にお目にかかれない。
気温はもちろん高いのだが、水の上を進んでいるため船側に出れば常に微風にあたることができ不快なことはない。 また夜になれば温度が下がっていることがわかり、Tシャツ一枚では涼しいと感じられる時もあった。 電気は点けっぱなしなので本を読んだり日記を書いたり。 そして、オイルの煤けた甘いニオイのなかで、船のエンジン音と波音を聴きながらうとうと眠りにおちいるのが毎日の常だった。


f:id:pelmeni:20190216113238j:plain途中の町のひとつ

f:id:pelmeni:20190216113257j:plain人だけでなく物流も担っています。交通は川の上の船だけだから

 

 

8.

そしていよいよマナウス到着。天候は雨。時折雷が鳴り風も強い。 こういう時には上部に結わいてあったシートが側面一杯に下ろされる。
時間はまだ5時前で、皆直ぐには下船しない。もう少し明るくなるまで待つ気のようだ。僕もゆっくり荷物をまとめ、 船着場からシャトルバスでターミナルに着いたのは6時過ぎだった。 そこから一歩外へ出れば、ごちゃごちゃして慌ただしく、予想通りの雰囲気。 毎日見続けたジャングルへの去り難き思いとようやくシャバに戻って来たかような懐かしい感じを同時に覚えたが、 そんな感傷はやがて街の中に消え去っていった。
ただ、正直いって疲れていた。ブラジル北部を休み無く一気に駆け上がってきたので思いの外体にガタがきていた。 滞在して判ったことだが、この街は適度に賑やかかつ穏やかで、リラックスして過ごすことができるところ。よい滞在になったと思う。

マナウスの街は思っていた以上の大きさで、ごく普通に近代的な装いがあるものの、 過去の栄華が忍ばれる痕跡が随所に見られるところなど気に入った。
到着が12月23日、翌日はクリスマスイブだが特に盛り上がることなく、25日の街は完全に祭日でほとんど無人だった。 まあこんな真夏にクリスマスもナンだが、 それでもサルバドールなどでは街中の至る所にサンタクロースが暑苦しい服着て大勢現れ(人形だけどね)、 陽気なブラジル人ならではの一面が垣間みられた。この街は違うようだ。これもブラジル…。


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こういう雰囲気大好き

f:id:pelmeni:20190216152135j:plainクラシカルな建物も多い

f:id:pelmeni:20190216152307j:plainここではクリスマスは正しく祭日です。商店は閉まり、人や車の通行はほとんど無い。

 

 

'04南米 その8 ブラジル北上中

  

ブラジリアはあっけらかんとしていて、言われるほど悪い所ではないと感じた。何といっても、空が広い。

それはもちろん、ここが何もない高原にポンと置かれた現代の計画都市だからだ。街を構成する一つ一つの要素に歴史の重みはまったく無い。人の生活の営みや築いてきた社会の積み重ねなど微塵にも感じさせず、そのさらりとした爽やかさは、図面上では同じく整然とした都市でありながらも実際はインカの町を根こそぎ破壊した上に碁盤目状に拡げられたアンデスの植民都市のもつ重さ、ある種血生臭い過去に因る逃れようのない重さとは、全く真反対の性質のように思える。まだ地に足がついていない様な浮遊感すら感じられるのは、歴史や風土に根付くことなく理性と幾何学のみに基づく出自からみても当然のことだろう。

でもこれはこれで20世紀の到達地点。我々の時代の英知が作り上げた都市は100年、200年後にどのような評価を下されるのだろうか。

 

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新たなる計画都市は地球上何処でも何故か往々にして不評なのだが、あまり厳格さを感じさせないブラジリアを作り上げたルシオ・コスタとオスカー・ニーマイヤーは、生粋のモダニストでありながら、やはりブラジル人なのだ。

モダニストは人間の生活が主題となる空間を新しい思想や技術によって作り上げた。過去やそれに付随する諸々~古いオーダー(秩序)や形式的なスタイル、装飾は不要だった。彼らの時代のデザインの拠所、つまり純粋な幾何学モータリゼーションに沿ってつくられた潔くも生真面目な都市。そこに微妙な曲線が加えられる。それもコンパスで一律的に引かれたものでなく、人間の感性を幾許か通して手を使い巧妙に置かれた曲線を。微妙なカーヴの持つ微妙な優しさは、この地に立てば確か実感できる。体に直に語りかけてくる。伸びやかな造形と鮮やかな色彩は人間の感性を開放する。えー、生真面目なゲルマン民族等には難しい芸当ではないかな。

 

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もちろん50年代の限界もある。何時の時代でも人間ができることは限られており、後世の評価が当初からすれば思いもよらぬ軸で定められることもある。スペインの植民都市は自動車の無い時代故にヒューマンスケールに近い心地良さが有るが、そもそもは単に地形やその他諸々を無視して線引きされた入植地だ。個人的興味の尽きない中央アジアソビエトタウンも、建設の基礎であった共産主義体制は既に無いが、住民は大きく育った街路樹の下を漫ろ歩き、無駄に広い公園で自由に寛ぐ。でも都市ってそういうものだろう。人々が街に集まり住み込んで生きてゆく。その生きられ方によって街は如何様にも姿を変え得るだろう。今目に映る街がそのまま変わらず続くこともなければ、この地に永存する保証もない。

一通り歩いたが、街の持つスケール感にブラジル人の生活習慣やリズムがあまりマッチしていないようにみえた。大きな骨格はともかく細部は自分たちで作り込んでいくしかない。多分変わってゆくのだろうけど、もしかしたら乖離したままかもしれないとも思う。この世に生まれ落ちまだ四十余年。時間の経過は必ずあるべき地点へと収束させてくれる。何処へ?それはブラジルの神のみぞ知ること。

ブラジリア、よくつくったな、というところが正直な感想だった。今以上に歩道の木陰が欲しいところだが、これは都市計画というよりは行政の問題だろう。日差しが強過ぎるんですよ、この街は。

 

 

 

さらに北上する。今日も夜行バス。

旧都サルバドールへ。 

 

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クリスマスが近いのだった。でもここでは真夏! 可哀そうに例の暑苦しい服装を纏わなければならないようだ、やっぱり。

 

レシフィ

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後に2014サッカーワールドカップ、日本×コートジボワール戦が行われた街。当時はあまり治安が良くないので気楽に歩きたい雰囲気ではなかった。しかしブラジルって人が多いなあという感想を持った。まるでアジアみたいに、どこもかしこもごちゃごちゃ混みあっている。

近郊のオリンダという町は美しかった。こちらは人影もまばら。

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f:id:pelmeni:20190211030212j:plain遠くにみえるのがレシフィの街

 

 

この頃の移動はすべて夜行バス。数日おきに夜をバスのシートで過ごす。基本的に快適なので無問題なのだが…、いや違う、思い出した。軽い坐骨神経痛を発症していた模様。早く行くところまで行かなくては。

f:id:pelmeni:20190211042258j:plain途中停車の町の混み合うバススタンド

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この辺りまでくると人口密度は低く、町と町はかなり離れている。いつ外を見ても同じような風景が続いていた。見慣れない植生も気になるのは最初だけで、そのうち関心が無くなった。南米旅ではいかにして延々と続く退屈な時間を凌ぐかというスキルも学ぶことができる。時々、急にあらわれる人の住む集落を目にして少しびっくりしてしまったりするが、逆に現地の人からは、そんな時のバスの中の東洋人の顔はどのように見えているのだろうか?

 

 

28時間!かけてサン・ルイへ。フランス風の名前だがポルトガルっぽい町。

ここまで上がるとさすがに暑い。赤道も真近だ。おかげで炭酸ばかり飲んでいる。アンタルチカかコーラのどちらか。屋台のガラナ(本物)ジュースも美味かった。

 

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タイルのきれいなサン・ルイの町並み。この町は見所が多く、その割には程よい広さ。溢れる陽の光と青い空と海。飽きがこない。連日の強い陽ざしのおかげで首筋が真っ黒に焼けて自分の首ではないみたいだ。どこかで鳴っている楽し気な音楽と陽気なブラジル人。リラックスできるところだ。ハードスケジュールの合間の小休止みたいな滞在。再び映画を観る。「エクソシスト・ビギニング」。これはまったくバスの中で暇つぶしに見るような代物だった。

 

そして、ブラジル旅のハイライトに向けて、ベレン行きのバスに乗る。もちろん夜行、というか14時間、腰がそろそろ…(泣)