もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

'05旅 その8 トルコ 1 

 

トルコ1>トルコ東部 Aug. 2005

国境ートラブゾン、スメラ修道院ーカルス、アニ遺跡ードウバヤズットーヴァンーディヤルバクル、ハザンケイフ、マルディンーシャンルウルファ、ハランーアマスヤーアンカラサフランボルーブルサーイズミール、エフェスーコンヤーアンタクヤー国境

 

(経路上の時間は参考にしないでください)

 

 

黒海沿いのサルプというポイントからトルコに入国しました。先を急ぐウッチーとはトラブゾンで別れ、気ままな一人旅の再開です。

実は、アルメニアで一緒だったフランソワが往きに使ったトルコのガイドブックを帰り際に僕に貸してくれたので、それを活用するためにもある程度まとまった時間を使ってトルコを一周することに決めました。ただ、前回旅行時に滞在したカッパドキアイスタンブールは除くことにしました。トルコ旅行の目玉、というかほとんどの人が集中するであろうこの場所を省いて1か月も旅するなんて物好きは、変人の多いバックパッカーでもあまりいないのかも。

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*  *  *

 

国境から乗るバスにして違います。大きさは小振りなものの、新しくて燃費が良さそうな車は、道路の舗装の良さも相まって気持ち良く進みます。車掌も甲斐甲斐しく働き、さらには陽気です。 何処にも問題は無く心に引っ掛かりの無い旅は本来ならば歓迎すべきなのでしょうが、僕は天邪鬼なのでその点に関しては物足りないです。でもまあ素直にみれば、日々の営みや生活が計画のもとに統制された共産主義から離れるも未だ混乱の残る地域から、自由な商業活動を背景に活気のある都市生活を文明として育んできたイスラムにようこそ!と迎え入れられたような気分になりました。 

町に出て、広場からとりあえずは人の出足の多い方へ歩いてみる。あらわれたのはモスクとその周りにひろがるバザール。人や物、情報にあふれた活気のあるエリアの中に、気づいた時には既に足を踏入れていました。静謐と喧噪、聖と俗が交じり合う独特の混濁空間。今までは無意識に押さえてきた感情が開放され、久しく感じて来なかった種類の高揚感を感じました。これ以前もこれ以降も、迷い込んではしばしの間時を忘れて彷徨を楽しむイスラムの町のつくりは何処も基本的に似ています。この旅でも以降数か月の間ひたすら続きます。

 

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ここトラブゾンも、バザールの細い道を行き交う買物客が途切れることはなく、彼らに混じって飽きずにずっと歩きました。時々顔を見せるモスクのドームやミナレットが良い感じのアクセントで視界に入ります。いやこういうところ大好き。

港町で近代的な港湾の眺めもありますし、ビザンチン様式の教会アヤソフィア、旧市街の城壁や城門も残っています。食べ物も美味しいし良い所です。

 

 

スメラ修道院 

断崖の中程に抱かれるように建ち、現在の名目は博物館として保存されています。キリスト教修道院は俗世との交流を絶ち人里を離れて修行を行う地を求めたので、後世の旅行者は一苦労です。聖書の物語がフレスコ画によって表現されています。ルーマニアモルダヴィア北部にある有名な修道院と似た感じで、鮮やかな色彩が印象的です。なかなか神秘的な場所です。トラブゾンから日帰りで。

 

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夜行バスで朝早くカルスに着きました。この街へは近くのアニ遺跡に行くために寄りました。まずツーリストオフィスに行くと遺跡の入場パーミッションは必要なくなったとのことで 、天気も良いことだし(ここでは重要)気が急いでしまいタクシーをひろって直行してしまいました。実はこれは失敗で、この街ではホテルに泊まると必ず安いツアーの勧誘があるのでした。何人かまとめて運ぶので一人で行くよりは車代がかなり安くなるということです。

 

 

アニ遺跡

10-11世紀に栄えたアルメニア王国の首都。何か強い感銘を受けたというわけでもないのですが、気がつけば独特な喪失感のような感情が心に響いていました。兵どもが夢のあと、です。アルメニアとは僕にとって旅行の間は微妙に感傷的な響きをもつ言葉になっていました。遺跡といっても敷地があまりに広くて2-3時間ではすべて歩き回る事ができないほどです。在りし日の古い都を想像するのもよいですが、残っている教会や建物の残骸が離れ離れになり過ぎていて、ほとんどの時間を草むらの中をひたすら歩き回ることに費やしてしまうかも? 寂寞さを感じられる場所は此処を最後にしばらくの間ありませんでした。

 

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この中で、トビリシでお会いした世界全ヵ国征服氏に再会しました。2度あることは本当に3度あるもので、この後に訪れた町の宿で氏とは隣室になりました。

 

 

お次はイラン国境近くの町ドウバヤズットへ。カルスからはウードゥルという町でミニバスを乗り継ぎ到着。トルコではミニバンやミニバスは「ドルムシュ」と呼ばれています。昼過ぎに宿決め、その後町を見下ろす山腹に建つイサクパシャサラユを見学。そして宿に帰れば世界征服氏。移動を含めて無駄のない完璧な1日。こういう日がたまにあると気分が良いです。

思えば前回(この5年前)、国境から到着後に直ぐにオトガル(バスターミナル)へバスの出発時間を確認に訪れたところ、ちょうど動き始めた車が乗りたかった行先だったので何も見ずに飛び乗ってしまった。以来気にはなっていましたがようやく再訪です。でもちょっと冷めた感じだった気がします。時間があき過ぎてしまった感は否めません。

 

 

イサクパシャ・サラユ

かつて同地を治めていた領主イサク=パシャの宮殿

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ヴァン

ヴァン湖に浮かぶアクダマル島のアルメニア教会が有名です。でも行ってみると、肝心の建物自体が修復中で囲いに覆われ中に入ることすらできなかったのです。Shock!  Shock!  Shock!  同じくがっかりしていたディヤルバクルから来た若者3人と適当に時間を潰してから帰りました。これなら有名なヴァン猫の研究センターにでも行った方が良かった(笑)と思いましたが、当日の夜行バスに乗る予定だったのでその後に行く時間も無かったです。

 

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現地で買った絵葉書の方が良い写真ですね

 

カルス → ウードゥル → ドウバヤズット → ヴァン とトルコの東の一番縁の部分を移動したことになります。さらに縁の部分を進みます。

 

 

 

'05旅 その7 グルジアの奥地、スヴァネティへ

コーカサス6 > グルジア(現ジョージア)スヴァネティ ●Aug. ’05 

 

 

 

 

グルジアの奥地へ

 

1  話が決まる~遠路はるばる~満点の星空

 

列車の終点はズグディディという不思議な名前の町だった。夜行列車に乗ると翌朝早く、頭が完全に回り始める前にプラットフォームにポンと投げ出された気がするのはいつもの事だ。今回は4人いる。自分以外の3人はトビリシのプライベートルームで知り合った日本人なのだが、彼らも長旅の途中でひとりひとり出会ってきたという。

目的地はスヴァネティ谷。周りの地域とは隔絶された谷間に点在する村々は、それ故に中世以来の様式が保たれているという。アクセスは難しく、一人で行くか迷う一方、他人を積極的に誘うのもどうかと思っていた。でも宿で話をしていたら、いつの間にか事が決まっていた。2人はアフガンの未踏の村々を強行突破してきた強者である。1人はイランの屈強な若者を向うにまわしファイティングした短気者らしい。僕の英文ガイドブックに、途中は治安が悪く盗賊が出ると記載されていたことなど、敢えて話すことも無いだろうと思い黙っていた。

 

ズグディディの駅で降りバスの溜り場まで歩いた。旧ソ連の国を今迄幾つか旅してきたが、地方だとバス乗場が適当なことが多い。以前営業していた公営バスが業務を縮小・廃止してバスターミナルはすさび、私営のミニバスや乗合タクシーが近所だったり別の広場から発着する、とか。運行は需要のある朝夕のみだったり、席が全部埋るまで出発しなかったり。かといって看板表示等が立っていることもなく、町の人に教えてもらった場所に悠長に構えて行っても途方に暮れることになる。

この町もそうだったかもしれない。人と車が群がっている中へ適当に入って尋ねると、目的の車は満席で出発間際。周りの人は皆ここで待っていろと言うが、次の車が何時出発なのかは誰も知らない。小雨も降ってきて、気持ちのやり場に困ったが、話し相手がいるので少し楽だった。

結局2時間後に出発できた。列車が早朝着で本当に良かった。この後に次の車があるとはちょっと思えなかった。

 

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とても美しい渓谷を見下ろしながら、ミニバスは山道を登って行く。手付かずの自然というものはどこの国でも美しいが、猥雑な街を抜けてきた後だけになおさら心を動かされる。

途中休憩が何度かあった。少し前に事故が起きた場所では、乗客は皆降りて花を投げ黙祷をしていた。我々は部外者なのでその間手持ち無沙汰にしていたが、喉渇いているんだろ?、と言いながら彼らが差し出したペットボトル、水と疑わずにごくりと飲んだ透明な液体は、そう、水で割ったウォトカだった…、いい国だ。今でも心からそう思う。

 

f:id:pelmeni:20190828014031j:plainちょっと休憩

 

山間なので日暮れは早い。終点のメスティアにたどりついた頃にはもう薄暗かった。予想外に大きいが何もない広場に、さて、はるばる日本人がやって来たものの、宿の情報等ほとんど無い。ここは地域で一番大きな町だが、ホテルと名の着く施設は確か無かった。人の行き来も少ない。さてどうするかね。こういう時は人数がいると余計なことを考えずにすむのが良い。すぐにバスの運転手に尋ね、そのまま彼の知っているプライベートルームに連れて行ってもらうことにした。

がらんとした大きな部屋にまとめて通され、荷物を置きベッドの上に横たわる。やっぱり皆疲れていたようで、しばらくの間まったりとしていた。外は既に暗く周囲の雰囲気がよくわからないせいか、小さな緊張感が続いている気がした。

簡単につくってもらった食事をとった後、中庭に出て夜空を見上げれば、本当にビックリした。何故なら視力0.4の裸眼でも天の川がよく判ったのだ。こんな夜空は初めてで、あわてて部屋に眼鏡をとりに戻った。

改めて見上げれば、満天にちりばめられた零れんばかりの星々。「星屑」とはこういうことだと言わんばかりの夜空を、もう首が上がらなくなるまで飽きずにずっと眺めていた。そのまま宇宙に吸い込まれそうな感覚だった。考えてみれば、この場所には地上に届く星の光を遮るものなど、何もない。

 

 

 

2  メスティアでのんびり~石積の塔に上る~歌唄いおばさん

 

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この地方に有名な石造りの塔の家は、ここメスティアにもまとまった数が点在する。つまりたくさんある。緑の中に塔が幾本も突き出ている集落の眺めは何だか微笑ましい。

ひとり旅の場合は、長い滞在となる場所でなければ結構こまめに動くのだが、僕は、連れがいるとだらけてしまう性格なのだ。この日も昼近く迄皆で部屋でうだうだしていたが、それはさすがにもったいないというものだ。何ていったって、グルジアの山の中まで来ているのだから。でもこういう時間も久しぶりで楽しい。やっぱり、田舎とはゆったりとした景色や雰囲気を味わう場所である。もっとも部屋のベランダに出ても、裏山の緑以外は何も見えないが。

 

f:id:pelmeni:20190828020705j:plainシンプル故に美味

 

昼食をいただき、さすがに外に出ることにした。広場を突き抜け、町外れまでやってくる。道なりに坂を少し上ってゆくと、子供たちが不思議そうに見つめている。それはそうだろう、普段見慣れぬ東洋人が4人もいるのだから。しかし子供というものは、それでも余計な事を考えずに興味津々で話しかけたり、あるいは黙ったままだったりでいながら、いつの間にか仲良くなってしまう。これを純真というのだろう。世界どこでも共通の純真である。

彼らについてゆくと、とある塔の上で女性が歌を歌っていた。

 

f:id:pelmeni:20190828023205j:plainf:id:pelmeni:20190828021714j:plain石造りの塔 内部f:id:pelmeni:20190828021325j:plain僕らの可愛いガイドです

 

世界遺産の対象になっているスヴァン人の伝統家屋の代表例として、石造りの、方形の塔のような多層家屋が有名であり、今まさにその一つに登らんとしている。高さは10m位で、内部は5〜6層になっている。木製の狭いはしごを子供たちについて昇り、屋根の上に出れば、ぱっと視界は360°の大パノラマとなるはずだ。やっとのことで顔を出すと、一人のおばちゃんが本を片手に歌を歌っていた。きれいな服装にハイヒール。どうやってのぼったのだろうか。

 -----こっちにいらっしゃい

おばちゃんは手招きをし、子供たちと僕らが皆上がると、今にも崩れそうな屋根の上は足の踏み場も無い。しかしそんな様子などお構いなしに歌は続いている。歌が終われば話を始める。ただし、僕らの誰も理解できないグルジア語?この地方の言葉? それだのに、まるで普段通りの自分のペースで話続けるこの人がとても不思議で、横顔をずっと眺めていた。その先にはきれいな谷間の村の景色が広がっていた。気が付けば再び歌い始め、透き通るきれいな歌声は村を囲う谷のずうっと先まで届いているような気がしていた。それにしても、気持ち良さそうに歌う人である。

 

 

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腹が減ったので、帰りに食堂でビールとハチャプリを食した。ハチャプリとはグルジア版ファストフード、どこでも食べられる。パイやナンのような(場所により異なる)平べったいパンの中にチーズが入っている。あたためて食べるのでチーズはとけていて、少しくせのある味だがこれは好きな人ははまると思う。アチャルリと呼んでいたところもあった。ビールは「カズベギビール」という銘柄で、確か普通より度数が高かったと思う。しかし、ビールといいウォッカといいワインといい、この国は酒飲みばっかりだな。今思い返しても「グルジア人=酒飲み」の感は拭えない…

ここで不思議な親父に出会った。JUDOのコーチで、あの大相撲の黒海関を小さい頃教えたという。黒海といえばグルジア出身! でも本当だろうか、こんな山の中で? まあ確かに彼はここから比較的近いスフミ出身であるがねえ。まあ、そんなことはどうでもいい。酒飲んで良い気分になり、歓迎してもらえて、楽しいひとときを過ごし、そして明日塔の家がまとまって残っているウシュグリ村へ車で連れて行ってもらう約束をしたから…。

 

 

 

 

 

3  中世の町~グルジア式宴会~別れはあっけなく

 


柔道親父は時間通り待ち合わせ場所に待っていたが、何故か中々出発しない。車が目の前にあるので我々も大袈裟に文句は言わなかったが、少し苛立った。ようやく出発したが久々の悪路を3時間近く。道は整備されておらず、途中水浸しになっているところもあった。アルメニアでもさんざん乗せられたが、旧ソ連製の4WDはたて付けが悪く、悪路で弾んでいるうちにどこかでネジが飛び、果ては車が崩壊してしまうのではないかという悪夢が今回も頭の片隅をよぎる。ただし車窓の風景はとても美しく気が紛れるというものだ。そうこうしているうちに、静かな谷の中に幾つもの塔が見え始め、期待が高まってきた。

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ウシュグリ村にたどりついた。山を背景に塔が立ち並ぶ不思議な集落の光景は、映像や雑誌で記憶していたとおりだった。これら石造りの塔は、アッパー・スヴァネティ地方各所の集落に数百が残っており、地域の中心地メスティア近くのウシュグリ村に多くが残っていることが知られている。写真好きでこだわる一人を村の手前で降ろし、とりあえず道の行き着くところまで行った。橋のたもとで車を降り、一番遠くに見える教会まで緩やかな坂をのぼって行った。とても穏やかな風景だった。

 

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実際に使われているのか怪しい教会だったが、そこからの眺めはすばらしものだった。正面には雪を抱いた力強い山々が連なる雄大な景色。振り返れば谷に点在する集落が一望のもとにあった。あの山の向こうはロシアなのだろうか?

そして、多くの人が集まっていた。人が集まり始まるものといえば、ここではそう、宴会。場所が場所だけに、おそらく地元の人の何か集まりなのだろう。英語のできる人が誘ってくれた。せっかくなので末席に参加させていただくことにした。「タマダ」という音頭とりの様な人が前口上らしきことを述べ、もちろんウォトカの乾杯。あれ、ワインもあったかな? そしてそのタマダが順々に入れ替わり次から次へと乾杯が続いて行くのだった。これが大事。そう、このグルジア式宴会は酒が強い人間でないときつい(笑)。その他には捌いたばかりという茹でた羊肉、パン、チーズが振る舞われた。さっきまで知らない者同士がお互いつたない英語で精一杯のコミュニケート。こういう時間は楽しいんだよね。だから、旅は止められない。

ただし男2人は酒に強くなかった。酔い冷ましに、一人場を離れ、もう一人、、、。集落入口の橋で待っていた帰りの車と写真君に落ち合ったが、残して来た姉さんはすぐには戻って来そうもないので、僕は近くの集落の中へ散策に行った。

 

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時間が止まっているような場所だった。黒ずんだ石積みの壁には本当に長い時間を経てきたことが感じられた。人間の営みを長きにわたり見届けて来た石の壁というものを見るたびに、僕はいつも言い知れぬ安堵感を覚える。日本の木造文化も清潔で気持ちの良いものだが、強固な石の表面に時間というものだけが作用できる微妙で柔らかな風化には、格別な味わいを感じる。寡黙さや、力強さ、安定感、大地との一体感。

デジカメで写真を撮っても水平になっていない。宴会の酔いがまわってきて歩くのが面倒になってきた。道端に蛇口を見つけたので顔を洗おうとして、出て来た水の冷たさに驚いた。グルジアの山の雪解け水なのかしらん。ははは、小さな笑いがこみ上げてきた。

その後ひと気の無い集落の中を時間がたつのも忘れてしばらく歩き回った。塔の根元は意外と太い。何故か犬に後を尾けられたが、距離を空けずに黙って居るだけだった。ただ単に他所者とかそういう観念がないのだろう、か。

 

f:id:pelmeni:20190829205505j:plainコーカサスの子供たち


集落の入口で僕を呼ぶ声が聞こえた。帰りの時間だという。小走りで車に戻ると後ろの座席で姉さんが酔いつぶれて何かぶつぶつつぶやいている。親父がアクセルを踏んだ。

まあ楽しかったなと思いながらの帰路の途中で、またもや宴会に遭遇! おまけに親父の知り合いがいるらしく、ちょっとだけと言って彼は車から降りてしまった。上での宴会に加わらなかった写真君がどんなものか知りたいと親父について行き、そして見事に撃沈、ふらふらになって戻って来た。今日は祝日なのかそれともこれが平常なのだろうか? 

酒の国、グルジア。人々は皆陽気で人当たりが良く親切、そして酒飲みの国。本当に彼らの人生に欠かせない一部分なのだろうと思う。

 

夕食後、今日も無心で星空を眺める。相変わらず見事という他はない。何だか吸い込まれそうな気分になり、一瞬、星空と自分の距離が無くなったかのように感じられる時があった。原初的な宗教的体験かもしれませんね、これは。

 

 

 

僕はもう一日くらいここでだらだらと過ごすのだろうと思っていたが、何となく成り行きで翌朝出ることになった。でも十分楽しんだ感はある。

 

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帰り道はほぼ下り坂だったので5時間でズグディディに着いた。楽しかったことを思い出しながら窓の外を眺めていたら全然長くは感じなかった。でも正に下界に降りてきたという感だ。気温も高い。

 

乗ってきたミニバスはトビリシ行きだったので途中下車のかたち。駅前で客待ちでもして少し時間をとるかと思ったが、ここで降りる僕とウッチーの荷物を下ろすとすぐに動きだした。 えっ。 別れの言葉を交わす間も無く、これには皆驚き、タカシ君もヤマさんも窓から身をのりだし思いっきり手を降ることしかできなかった。

 -----えー、行っちゃうのーっ!?

ウッチーはほとんど半泣き状態だった。こいつらに負けられるかとウシュグリの宴会で地元民と一緒に酔いつぶれるまで飲んだ彼女も、やはり女性。

予想もできなかったあっという間の別れ。でも、これも、旅。

 

  -----また、どこかで!

 

 

 

 

<追記>

僕が今まで訪れた中では五指に入る場所。唯一無二の光景、手付かずの自然と人々の素朴な営み、平和な雰囲気での寛いだ滞在は何物にも変え難い体験となりました個人的には「風の谷」のイメージがパキスタン北部のフンザとともに重なります

当初はまずカズベギの方に足を伸ばしてからスヴァネティへ行くかは考えるつもりでした。再びトビリシまで同じルート往復するのは嫌だったので、カズベギはあきらめトルコに向かいました。この後はみんなバラバラで旅行したようですが、イスタンブールやカイロで再会したりしていたらしい。時々メールがきました。でも僕だけが結局誰にも会えなかったのは、移動のスピードが遅く寄り道も多かったから。カイロまで多分2か月分近く遅かった。

 

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ちなみに当方所有の書籍に掲載されているウシュグリの写真「スヴァネティアの要塞化村落」 撮影時期はわからないがおそらく60年代前半より前と思われる 山々の形や手前の道、建物など変わっていない 塔は少し減り新しい住宅は増えている

それから更に14年、現状はさて…

 

●終了したジオシティーズの自身のサイトに載せてあった旅日記。多少加筆修正しましたが、基本的には旅行直後の文章です。写真は追加しました。 

 

 

 

'05旅 その6 トビリシ散景

コーカサス5 > グルジア(現ジョージアトビリシ ●Jul. Aug. 2005

 

 

 

スマホやデジカメの進化が写真撮影の在り方を変えたということは、自身の体験としてはっきりと実感できるものです。スマホの画質やデジカメ記録媒体の容量の小ささに苦心していた頃は、枚数なんか気にせずメモ代わりに使う現在の撮り方なんて夢みたいなものでした。僕は特に写真を趣味にする程ではありませんでしたが関心は持っていました。それでも今思えばリミッターが掛かったような気分で撮影していたような気がします。

昔の旅の写真を何度か整理して分かったことですが、滞在の長さや印象の強さのわりには撮影枚数が非常に少ない場所があるのです。何度も通った大通りや公園、広場、記憶に未だ新しい町並みなど当然撮ってあるのだろうと調べてみると、すっかり抜け落ちているのがわかってがっかりです。それは大抵だらだらと滞在している場所です。観光気分を忘れ去り、リラックスしていたのか気が抜けてしまったのか… そのうち撮ればよいと思いながら結局忘れてしまうのでしょう。ただ、ひとつ確かなことは、そこは本人とても気に入った場所なんですよ。制限が無ければ長く滞在してみたいと思わせるような魅力的な場所。ポルトもそう、ブダペスト然り、バンコクですら、そしてトビリシもそれほど長く居たわけはありませんが、僕にとってはその種の場所でした。鉄道駅付近も市場もルスタヴェリ大通りも共和国広場も何度も往復しました。川沿いの風景も気に入っていたと思いますが、写真には何故か残っていません。

 

 

さっそく散策に出かけます。川沿いに長く続く市街地はまわりを小高い丘に囲まれています。こういう地形の街は良い所が多いこと経験上知っていますが、やはりその通りの場所でした。

周囲の列強が次々にこの地を制覇しては去っていった土地です。そのたびに文化が積み重ねられ、それが地層のように表出している様が興味深く、このような都市は街歩きが楽しいものです。気が付けばいつのまにか旧市街に足が向かっていたなんてことが幾度もありました。

 

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ソビエトの贈り物~旧共産圏の首都によくみられる典型的な建築物 たいてい「科学アカデミー」を名乗っているがここも同じなのだ プロポーションは良い

 

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壁面は語る

f:id:pelmeni:20190827192314j:plainやっぱり此処もスイカの季節です

f:id:pelmeni:20190825185509j:plain旧ソ連地域独特、奈落の底へ落ちていくような地下鉄の高速エスカレーター

f:id:pelmeni:20190825185527j:plain皆さん荷物が多いようで

f:id:pelmeni:20190827200247j:plainこれは何様式?

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f:id:pelmeni:20190827191506j:plain丸っこいバスの見掛けはかわいいが内部はたいてい…

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郊外の丘陵地に屋外博物館がありました。これは北欧、東欧でよくみかける公園施設で、国内各地から移設された住宅や展示をとおしてそれぞれの地域の文化風習に親しんでもらおうというもの。 好きなのでアクセスが良ければたいていの街で訪れます。

f:id:pelmeni:20190825210929j:plain新市街をのぞむ丘の中腹にある

 

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f:id:pelmeni:20190825211247j:plainf:id:pelmeni:20190825211313j:plain家屋の一つに”Cat Heaven"なる看板が掛けてあり猫がたくさん飼われていた 何故ここに? 

 

 

トビリシ鉄道駅からほど近い町中の一角、鉄柵の大きな扉を開いて中庭に入るとすぐ左手にある鉄の階段を上った二階にその宿があります。プライベートルーム、通称「ネリ・ダリの家」。姑のネリと息子一家とが住む住居内の数室にベットが置かれ旅行者を泊めています。この時は夏休みで嫁のダリは子供を連れて里帰り中、ネリ婆さんと彼女の息子の親父二人だけでした。宛がわれた部屋は蔵書で一杯だったので尋ねたところ、亡くなった爺さんは教師で物腰の柔らかい息子(もう親父)はエンジニアだが失業中とのこと(この辺記憶が少し曖昧です)。英語を知りたいらしく旅行者から教わっていましたが、相手は日本人ですけどねえ。当地ではインテリのようですが仕事は無く、日々得られる宿泊費を家計の足しにしているということでしょうか。グルジアもなかなか経済が立ち行かない国です。

旧東欧では昔から行われていたプライベートルームは、家の鍵も渡され出入り自由に使わせてもらえるところからベッドが無造作に置かれドミトリー(相部屋)状態まで様々です。ただ一般の民家にお邪魔するわけで、家の人とは常に顔を合わせることになるのはどこでも同じです。そういう習慣の無い日本人にとっては慣れるまでは不思議な感覚なのですが、安く泊まることに対して背に腹は代えられない旅をしている人にとっては非常にありがたいシステムでした。居心地の良い家主の評判はすぐに広まり、情報として共有されることになります。

それほど裕福でない庶民的な家庭の場合が多く、個人的にはそういう普通の人とお話したり生活を垣間見ることに興味がありました。ここのネリ婆さんも言葉は全く通じず、お互いに話し始めても会話になっていないのですが、気が付けばコミュニケーションが成立しているという本当に不思議な人でした。文句を言ってるのだか話があるのだかよくわからないまま何か喋りながら僕らの前を通り過ぎたりすることもありました。簡単な食事を作ってくれたこともあったので満更嫌われていたわけではないと思いたいです。親父共々元気だろうか。

旧東欧辺りでは90年代後半頃でも気の利いたホステル(YHではない)などというものは限られた存在で、僕の知っている限りでは2002,3年頃から増え始めた感があります。プライベートルームがバックパッカー達によく利用されたのもコマーシャルなツーリズムの波が押し寄せる前の言わば安宿空白時代。今は安くて居心地の良い宿はどこにでもあるので以前ほど話題にはならなず、敢えて泊まろうとする外国人旅行者もいないことでしょう。商売気のあるところはゲストハウスに転換した話も聞きます。当時もネット予約サイト等は既にありましたが、あくまで有名な街や観光地に限られたものでした。片田舎ではまず現地に行かなければ始まらなかった。今からみればすべてが昔話です。

 

f:id:pelmeni:20190826034827j:plainネリとはこの人

f:id:pelmeni:20190826035218j:plain猫が子供を産んだばかりで育てていた 仔猫の色や柄が全部違う! 

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初日に泊まっていた日本人旅行者は世界全ヵ国制覇を目指している人で、あと数か国ということでした。すごい人もいるものですが本人はいたって普通の人。1日だけでしたが久しぶりの日本語で夜遅くまで話しました。その後トルコで再会しました。

翌日発った彼と入れ違いにやって来たのは3人の日本人旅行者です。少し恐れていたことですが、やはりだらだらした時間が始まりました。2人程度であればそうでもないのですが、4-5人が集まると一気に日本の緩い空気がその場に立ち現れるのは、いつものことです。

僕の案内でまた旧市街へ街歩きに行きました。この街は本当に楽しいです。目にとめるものが多くいつでも飽きません。地元の人も皆さんノリが良いので時々巻き込んでは楽しい時間を過ごしました。



f:id:pelmeni:20190825214558j:plain陽気な街の人とすぐに打ち解ける東洋人

f:id:pelmeni:20190827034712j:plain夕食にポピュラーなヒンカリ 大味な豚まん モモやボーズに近いかも 皆起源は一緒です… 

 

僕は酒をあまり飲みませんが、ビールやワイン飲むんだったらウォッカやラキアをちびちびの方が好きという変な人間です。多分この頃の旅行体験が嗜好に多大なる影響を与えているのだと思います(笑)。スターリンが愛したといわれるワイン、フヴァンチカラも美味かったです。

見所はあるし、食べ物も酒も美味しい。物価は安く、人々も陽気。グルジアいろいろヤバイ(今風に)ところだな、何であまり知られないのだろうというのが当時の印象です。
 

'05旅 その5 グルジア、アルメニア教会巡り #3

コーカサス4 > グルジア(現ジョージアアルメニア その3 ●Jul. 26-31, '05

 

ゴリス→ステパナケルト(ハンケンディ)→イェレヴァン→ギュムリ→国境→

 

 

 

久しぶりに一人旅の再開です。

次はナゴルノ・カラバフへ向かいました。ここはアルメニアアゼルバイジャンの係争地で現在アルメニアが殆どの地域を実効支配しています。独立宣言後の名称は アルツァフ共和国/ナゴルノ・カラバフ共和国。首都はハンケンディ/ステパナケルト、いたって普通の町です。見所は…

 

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これだけですね。訪れた人の旅行記をみても大抵この写真以外の見物はありません。「われらの山」という名の巨大なモニュメントです。高い方で6-7mくらいの背丈。独立宣言後の新生ナゴルノ・カラバフのシンボルとして国章にも使われているそうですが…

ここは未承認国家で入国?に際してはビザが必要です。イェレヴァン市内にある恒久代表部という事務所で25USD支払い当日発行されました。入国後はステパナケルトの外務省で登録しなければなりません。ここでホームステイも紹介してもらいましたが、行ったところ言葉が全く通じず微妙な雰囲気だったので、その場で断り普通のホテルを探しました。夕食に行ったレストランのTVでは何故かレアル・マドリ―VS.ジュビロ磐田のサッカーの試合が放映されていました。一体いつの試合なんだろう、知らないなあと思ってましたが、後日調べたところほぼリアルタイムの放映だったようです。ステパナケルトではこのくらいしか憶えていることがありません。

ちなみに同じような未承認状態の国(地域)は他にパレスチナコソボ北キプロスソマリランドへ行ったことがあります。いずれもトラブル等無く旅できました。いっぱしに独立国家を名乗っていながらよっぽどヤバイところが世界にはたくさんあります。

この街からはガンツァサール修道院とゴーストタウンとなったシューシへ日帰りで訪れました。

 

ガンツァサール修道院

タクシーをチャーターしてステパナケルトから往復。あまりに山や川の景色がきれいなので途中で車を止めてもらったりした。最後は道無き道を進み到着。

f:id:pelmeni:20190824185829j:plainこの村から先は悪路の山道でタクシーには酷だったかな 周囲はもう山だけです

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f:id:pelmeni:20190815215506j:plain堂々たる体躯の教会

 

f:id:pelmeni:20190816000426j:plainしかしタクシーの運転手ってえのはクセ者が多いね。特にボロい車が多く走ってる国。旅行者が来るとイチかバチかで成り振り構わず金をぼったくろうとする奴らだ。この時も事ある度に理由を付けてしつこく追加の金額を言ってくるので途中から無視する。二人しかいないのだから険悪な雰囲気にはなりたくないのだがコイツは少しうるさかった。だから気持ちの良い景色もドライバーの存在を忘れて一人で楽しむ。のどかな風景は車のエンジンを切ると鳥のさえずりしか聞こえない。街に戻って所定の金額を支払ったらドライバーは何も言わずに去っていった。

嫌ならタクシー使わなければよいのだけれど、行きたい所が公共の足の無い場所に結構あったりするものです。運転手がどうかなんて乗ってみなければ判らないことだし、まあ、もちろん良い人が大半です。狡い奴らは大抵相手が折れてくれれば儲けものって態度なので、こちらも強く出れば最終的にはかわすことができますが、疲労感や後味の悪さが残るのも嫌なものです(たまに喧嘩)。ただ体験する事すべて含めてがその地を旅するということであって、楽しむも苦労するも実のところ自分自身の旅する能力の反映なのだろうと僕は受け止めています。

 

■シューシ

もともとはカラバフの中心地でアゼルバイジャン人が多く住んでいた町。戦争中はアゼルバイジャン側の拠点となったため攻撃され陥落、旅行時は僅かに住人が居たようだが町として殆ど機能しておらずほぼ廃墟みたいなものだった。ミニバスがステパナケルトから日に数本通っていた。

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f:id:pelmeni:20190816004649j:plainモスク たたずんでいたら何処からともなく老婆がやってきて右手を突き出された

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f:id:pelmeni:20190816010111j:plainモスクやハマムなど相手側の文化の象徴は攻撃の標的にされる


ソビエト連邦に組み込まれる前から、ナゴルノカラバフはアルメニア人が多く住む地域で、アルメニアアゼルバイジャンの係争地となっていました。ソ連時代はアゼルバイジャンSSR内の自治州でした。ソ連末期に自由化政策が始まると再び衝突、戦争がはじまりソ連崩壊後にナゴルノカラバフは独立を宣言、停戦後は大部分をアルメニアが実効支配しています。いまだ膠着状態のまま解決には至ってません。この地域の問題は単に宗教とか民族とか多数派少数派など分かりやすい原因のみによるものではないことを後に知りました。ナショナリズムは根源にありますが、周囲の大国の思惑だったり歴史的な虐殺の応酬だったり文化、政治、諸々の認識の行違いが大きいようです。

史実の理解は現実の見え方に多分に影響します。何も知らずに行くことが必ずしも悪いとはいいませんが、ある程度頭の片隅に入れておかないと、見えるものも見えていなかったのではと後になって気付くことも、ま、いつものことです。

 

 

その後イェレヴァンに戻り、行き忘れていたパラジャーノフ博物館のみ訪れてからトビリシに向けて出発。学生時代に映画館に入り浸っていた記憶が当時はまだ残っていたため、ぜひとも訪れたかった。ただ館内は映画よりも個人の蒐集物やデッサン、コラージュといった絵画の展示が主でした。確か彼はグルジアの人ではなかったかな。昔に「火の馬」「ざくろの色」といった作品を観ていたはずですが、今はもう思い出せないです。気が付けばこの10年以上趣味的に映画を観る習慣は無くなっていました。授業出ずに安い名画座で月20本くらい平気で観ていた時もあったんですけどね。

 

 

列車でトビリシまで直行するつもりでしたが、バスで途中のギュムリ経由で刻むことに急遽変更。アルメニア第2の都市でありながらそんな雰囲気があまり感じられない町です。近くのトルコとの国境が開けば発展するのでしょう。1988年のアルメニア北部大地震で大きな被害を受け、未だ当時住居用に持ち込まれたコンテナがそのまま使われてました。荒れが目立ち少し寂しい町並みで、中央通りに集まる屋台の様な簡素な店舗の数がものすごいところでした。町外れに修道院があります。

 

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トビリシ行のバスはガイドブックに3.5時間とあったものの、実際はその倍の7時間以上掛かりました。小さなバスだったのでもうグッタリ。宿は今回は日本人旅行者の間で知られていたプライベートルームに行くつもりだったので、この旅で初めて日本語会話ができると思うと楽しみでした。

 

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沿道で桃を売る人たち 美味しそうだけど売れるのかな

 

 

 

 

'05旅 その4 グルジア、アルメニア教会巡り #2

コーカサス3 > グルジア(現ジョージアアルメニア その2 ●Jul. 21-26, '05

 

→イェレヴァン→ゴリス→

 

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古代のアルメニア王国キリスト教を国教とした初めての国として有名ですが、その後は東ローマ、ペルシア、トルコ、ロシア等の列強に支配され、現在の共和国として独立したのはソ連崩壊後のことです。首都イェレヴァンの起源は古くからのもので、第一次大戦後の混乱期に人口が増大し、その後の都市計画に基づき現在の街が形成されました。地図をみる限りではこの街の形態にはそそられますね…、でも地上歩いている分にはわかりません。広場や公園が広く街路樹も育ち、ぶらぶら歩く際の気持ち良さは安定のソビエトタウンです。まあ単なる僕の好みですが。中心部には赤っぽい色の石を使った建物がまとまって建ち目を惹きます。

街自体というよりは近郊に見所があるので、それぞれ日帰りで訪れました。

 

ホルヴィラップ修道院

旧約聖書ノアの箱舟が流れ着いたアララト山を背景に、絵になる光景

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f:id:pelmeni:20190810142821j:plainアララト山と小アララト山 でもどちらもアルメニアでなくトルコ領

 

■ガルニ神殿

ヘレニズム時代の建築 大規模に改修されているため少々奇麗すぎるが見事な造形 突き出すように切り立った崖の上に建つのは、元々が太陽神ミトラのための神殿であるためか

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■ゲガルド修道院

こちらは岩肌に囲まれた崖の中腹にある

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f:id:pelmeni:20190810153002j:plain結婚式が行われていた

 

この日はバスやタクシーを乗り継ぎ、ホルヴィラップ→ガルニ→ゲガルトと一日で回り切りました。こんなに効率良く動くことのできる一日はそれほどありません。スイス人と日本人の組み合わせでなければ無理だったでしょう。多分。

 

f:id:pelmeni:20190811123641j:plain蒸し暑さ100倍の乗合バス

 

 

 

 

エチミアジン

アルメニア正教の総本山。一緒に訪れたフランソワは、入口から中を覗いた途端に眉をひそめて一言、

 ------- 中には入らない。外で待ってるよ。
 -------??
 ------- 人が多すぎて嫌だ。こういうバチカンみたいなところは好きじゃない。

彼はプロテスタントのスイス人だった。プロテスタントは皆宗教に関わる華美を忌み嫌うのだろうか。そんな彼でもグルジアのとある教会では膝までのショートパンツを履いていたため入場禁止をくらっていた。よくわからないが日本でいう宗教的基準とは異なるものがあるのだろう。はるばる東の果てからやって来た非キリスト者は、バチカンエチミアジンもリッチで華やかな部分は好きである。宗教的な精神世界から離れて純粋に即物的な興味を持てる。彼らの文脈の外で生きる余所者はある意味自由だが、本質的な理解をできるかはまた別の話。

ちなみに、訪れたなかで一番良かった教会は二人ともサナヒンで一致しました。

 

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宗教の中心地や総本山が、多くの人が集まるせいかあまりストイックでない雰囲気なのは、意外だが世界中多くのところで同様です。ここも大勢の訪問者でごった返していました。

 

 

宿近くにライブバーを見つけたので夕食後に二人で入ってみる。しかし演奏が始まると思わず目を見合わせてしまった。特にボーカルものはカラオケ以上ではなく、まったく金をとって良いレベルではなかった。フランソワはギター弾きで音楽にはそこそこうるさい。彼のギターの先生は昔スイスへコンサートに来たジミ・ヘンドリックスの生演奏をみたという。僕もそのあたりは好きなので話が合った。ここも娯楽が少なさそうだというところで二人の意見は一致。

 

泊まっていた宿は街中の集合住宅の一住戸を利用したゲストハウス。従業員のお姉さんは英語も上手いし性格も楽しいので僕らはファニーガールと呼んでいた。でも管理人のおばちゃんによれば、彼女は大学で外国語を学んで卒業したが就職できずにとりあえずはこの宿に身を寄せているようなものだという。カラバフ戦争は終わったもののアゼルバイジャンやトルコから経済封鎖されロシアも当時はそれほど他国に構っていられない状態、アルメニア社会も不況が続いていた時期でした。確かアルメニア人の60%が国外に離散したディアスポラで、当時から彼らによる援助も含めて国が成り立っていると聞いていました。多分今でも同じでしょうが、少し不思議な、でも興味深い国ではあります。

最後に挨拶をしたかったけど、時間が朝早くてまだ眠っていたので起こさずに宿を発ちました。しばらくの間何だか気になっていた女性でした。

 

 

次の目的地はゴリス。町自体は小さく見所は無いが、直線状に行き交う道路の街路樹が青々と繁って気持ち良いところでした。この町も近くのタテヴ修道院へ行くために立ち寄ったようなものです。バス停でやはりタテヴに行こうと車を探していたポーランド人旅行者のピョートルと知り合い、近くに停っていたタクシーを3人でシェアして大きな荷物を持ったまま乗り込みました。

 

■タテヴ修道院

人里を離れ高い崖の上に建つ孤高の存在。周りは深く切り立った渓谷と山地 教会は当時修復中

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f:id:pelmeni:20190812202844j:plain周囲を見下ろす高地を車は進む

 

さてフランソワのバカンスもタイムアップとなり、彼とはここでお別れ。帰りは飛行機を使って帰るということでした。僕の好みは基本的に一人旅ですが、たまには連れがいるのも悪くはありません。時にはコミュニケーションがままならないこともありましたが、まあまあ気は合ったのでしょう。共通の話題もあり、派手好みでもなく金銭感覚も同じくらいだったので、行先や宿探し、飯屋も特に問題無く決められました。そもそも何をするにも選択肢の少ない地域でしたが…。面倒に感じることも互いに(多分)少なく、旅を楽しめたと思います。ただね、彼は背が高いんですよ。歩幅が大きくて歩くの早いんでそれだけは大変でしてね………。

 

”Keep your mind open ! ”

泊まっていた居心地の良いホステル・ゴリスの前で彼を見送りました。手を振り彼が口にしたのは、今も昔も繰り返し交わされるこの言葉。旅の別れにこれ以上合う言葉は無いでしょう。

 

Keep mind open していなければ旅する意味ないですね。

Keep mind open でも普段から常にそうありたいものです。

当時のことを思い出すたびに、忘れていないか自問します。

 

 

 

 


 

'05旅 その3 グルジア、アルメニア教会巡り #1

コーカサス2 > グルジア(現ジョージアアルメニア その1 ●Jul. 10-21, '05

 

陸路入国→テラヴィ→トビリシ→国境→アラヴェルディ→デリジャン→

 

 

 

国境では自分で手続きを終え無事入国。テラヴィまで行く同じバスに再び乗り込みました。でもなかなか出発しない。他の乗客に聞いたところ、国境少し手前から乗り込んで来た大勢の買出しのオバちゃんたちが持ち込んだ物を税関でチェックするのに時間がかかり、またそれに対して支払う十分な金を持ち合わせていないので揉めているらしい。話が済むまでは静かな山の中で何もすることなくただ待つしかありません。

結局バスは薄暗くなってから出発、テラヴィに着いたのは夜の9時過ぎでした。

 

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テラヴィはこの地方の中心地だがあまり大きくはない町。周囲にはワインをつくるための葡萄畑が広がっている地域です。夏だからか夕方になると目抜き通りや広場に人が集まって来て、夜遅くまで楽しそうにしていました。アラヴェルディ、グレミ、イカルト等近くにある教会巡りの拠点の町です。それぞれミニバンの利用で訪れることができます。

 

ここからしばらくの間は教会巡りに徹する旅になりました。グルジアアルメニアとも好ましい意匠の古い修道院や聖堂が数多く残っています。保存状態は様々でしたが、概して手入れが行き届いている程ではないが放置されているわけでもないといった状態で、こじんまりとした規模も相まってどこも素朴な印象を受けました。興味の無い人には皆同じに見えるのでしょうが、僕は好きです。質素な造りの教会の薄暗い身廊をゆっくり歩くと静かな反響に包まれ心が落ち着きます。派手で何事にも過剰な南米の教会とは真反対の印象でした。

 

■アラヴェルディ大聖堂

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イカルト修道院 

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■グレミ教会

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f:id:pelmeni:20190727024121j:plainゲストハウスは食事付 サラダを一口食べたところで撮影

 

泊まっていた宿でスイス人旅行者のフランソワと知り合い、その後しばらくの間一緒に移動することになりました。彼は時計会社で働くエンジニア。一か月の休暇で、スイスからバスを乗り継ぎ陸路はるばる此処までやってきたという。毎年バカンスをとることのできるヨーロッパ人は本当にうらやましい限りで、彼に限らず旅先で会ったそういった人たちを思い出すと今でも涙が出そうになります。

 

トビリシにはフランソワは既に滞在しているうえ、僕も再び戻ってくる予定なので、この時は長居せずにすぐアルメニアへ向かいました。その前に彼の希望でダヴィトガレジという自然の洞窟や岩をくり抜いてつくられた修道院に日帰りで行ってみました。 

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こちらがフランソワ

 

 

 

 

f:id:pelmeni:20190727114127j:plainサダフロの国境  

意外にも多くの人々が行き来する国境でした。周囲に市場が広がっているせいでしょうか。国境を越えて隣国へ買物に行く人って世界には意外といます。ビザを国境の事務所で取得しアルメニアに入国。

 

 

国境からもバスを乗り継ぎ、まずはアラヴェルディへ。この町は近くに散在するアルメニア教会訪問の拠点です。道路はデベド渓谷の谷底を伝い走ります。かなり山深いこともあるのでしょうが、結構寂しい雰囲気です。単にひなびた雰囲気なら旅情も多少は感じますが、さびれた光景が続けば言葉も自然と少なくなります。乗合バスの傷み具合、沿道の色褪せた家並、野菜や果物を売る女性、西日の差した情景、多分誰もが同じような印象を感じ取ったことでしょう。

泊まったホテル・デベドも管理人のおばちゃんはとても親切なのですが、いかんせん建物は荒び断水時間は長く各部のメンテナンスもままならない状態でした。ベッドに自分の寝袋を敷いていましたから。暖房も無いようで、夏で良かった。

アルメニアに限らずコーカサスの田舎には今ほど旅行者が訪れる時代ではありませんでした。ゲストハウスがある所は良い方で、プライベートルームをみつけられないと、運が悪ければソビエト連邦時代からの古びた「廃墟のような」ホテルに収監される(笑)ことになります。何処へ行くにも道路の舗装状態は悪く、これまたソビエト時代に作られた自動車の乗心地なんて一周廻ってスゴイって言いたくなるものでした。ただ、その不便さ故に今でも忘れられず印象に残っていることも事実です。

旅なんて楽に越したことはないのですが、想定外の事態に驚くなんて避けることのできない長旅の一頁です。大抵は面倒なことです。ただ日常から遠く離れてわざわざ知らない町や山間や水辺をほっつき歩くのですから、非日常上等!ってなノリで何でも受け入れていました。精神的な疲労はあまり嬉しくはないのですが、まあ、それも旅。

今GoogleMapでこのエリアを見ると、ホステルやB&B、食事処のマークがいくつもみられます。ということは、とりあえず行ってみても宿や食事の心配は無いということです。それだけに因るわけでもありませんが、当時の旅行者が此処で感じていたであろう日常からの距離感のようなものはあまり感じられないでしょう。いつの時でもその場に行けばその場の楽しみがあるわけで、余計な事に気をとられず観光を楽しめるのは良いことです。ただ僕がアルメニアの北部を旅していた際に微かに感じていた哀愁のような色合いは、もう残っていないかもしれません。あのそこはかとなく感じられる物悲しさこそ常に通奏低音の様に心の中で響いているものでした。楽しい出来事と対になるその感覚が存在したからこそ、旅の時間に奥行きが生まれ愛おしさといった感情も生じたのだと思います。

 

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f:id:pelmeni:20190727132110j:plainデベド川越しにアラヴェルディの町と大きな銅の精錬工場を見下ろす ホテルのある対岸の町は高い崖の上にあり下の町とはロープウェイで結ばれている

 

 

■サナヒン修道院 

素朴な外観と力強い柱廊、樹木に囲まれた静かな佇まい。アルメニアにいる間はひたすら教会巡りをしていたが、結局最初に訪れたここが一番印象深い。

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■ ハグパット修道院

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ヴァナゾルという町でマルシュルートゥカ(乗合ミニバン)を乗り換えデリジャンまで来ました。ここは旧ソ連時代はリゾートでいろいろな芸術家も集まった山の中の町です。日本で言えば軽井沢みたいな所かな? 町自体は小さく人もあまり見掛けませんが、近くのアルメニア教会を訪れるための拠点になります。宿の紹介で車をチャーターしました。

 

■ゴシャヴァンク

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■ハガルツィン修道院 

ロケーションは最高に良い山間の小さな教会 

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いよいよ首都のイェレヴァンに向かいます。途中のセヴァン湖にも教会があるので立ち寄りました。空が広く気持ちの良い休憩になりました。

■セヴァナバンク

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'05旅 その2 アゼルバイジャン

コーカサス1 > アゼルバイジャン   ●Jul. 3-10, '05

 

→ バクー → シェキ → カフ → グルジアへ陸路出国

 

 

 

 

 

f:id:pelmeni:20190721175438j:plainタシケント→バクー・ウズベキスタン航空機内食(昼食) 当時はインスタなんて無かったので食事をいちいち写真に撮る人は少なかったと思います。僕もそうでしたが、機内食だけはスケッチしたりデジカメを使い始めてからは撮ることが多くなりました。今思えばもっと撮っておくべきでしたが、当時はまだ食意地が張っていなかった。料理はその国の文化と密接に繋がっている、などという重要なことを理解するのはたいてい旅行後です。

 

この頃はバクーの空港でアライバルビザを入手可能だったので、40USドルで購入しました。僕が最初に会ったアゼルバイジャン人はビザの申込用紙記入時に話しかけてきた職員でした。彼が言うには「おまえはここで50ドルを払わなければならない」らしい。この手の輩はよくお目にかかるので指を振って一言「向こうへ行け」。

 

アゼルバイジャンについて思い浮かべることといえば、石油とナゴルノカラバフ紛争でした。

バクーの石油は大昔から知られていました。ペルシア湾で油田の掘削が始まるまでは世界の産出量の大半を占めていましたが、世紀の変わる頃には既に地上の油田は枯渇が始まっていました。ソ連崩壊~独立後の経済低迷期を経て、カスピ海中に新油田が発見され、この旅行時は新たな発展がちょうど始まった時期だったでしょうか。現在は第2のドバイとか言われているようです。さすがにモノカルチャー経済に頼る政策は脱却して多角化に進む方針も先達と同じ様です。有名なフレイムタワーは一度見てみたいですね。当時からバクーの繁華街は他のCIS諸国の首都よりも垢抜けた雰囲気でしたが、富が集まる場所は経済だけでなく文化も発展します。それはバクーの成り立ちや歴史をみれば明らかです。新市街に建つ帝政ロシア時代の今となっては趣のある建物も「元祖」オイルマネーの産物です。

紛争については、まあ宗教と領土が絡んで諍いが起こると奇麗に解決することはまず無理ですね。食堂で地元の若者たちに声を掛けられ少し話をしたのですが、僕がこの後アルメニアに行くことを知ると、急に態度を変え語気を荒げ去ってゆきました。多分、おめえアルメニアなんて行くんじゃねえよ馬鹿野郎っ、てところでしょう。こちらは余計な事を言ってないので、単にアルメニアに対しての憎しみを抑えられなかったのでしょうが、実は当時このようなことは頻繁に起きるとの情報は流布していたので、やはりそうなんだなと納得した記憶があります。気分は良くなかったですけど。

 

さて気を取り直して街歩き。まずはイチェリ・シャハルへ。壁に囲まれた旧市街はいつもの如く狭い道が迷路のように入り組んではいますが、隣接する新市街と特別かけ離れた世界を持っているわけではありませんでした。周囲を囲む帝政ロシア時代の街もよく見ればアゼリー色に染まった街区そのもので、時代が少し古いせいかタシケントの様なあからさまな分断は感じられません。新しい街区の建物にも様々な意匠がみられます。半屋外で道路にオーバーハングしているベランダやバルコニー、壁面の控えめな装飾、植物が無造作に絡み朽ち、雑然とした雰囲気を作っているのも不思議といえば不思議です。帝政時代の建物には控えめな気品が感じられ、ソビエト的不愛想な集合住宅もネオクラシシズムな威圧感たっぷりの公共建築、その他よくわからない物も含め、はっきり言えば何でもありの無国籍ワールドっぽい感じは見ていて飽きなかったです。

 

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f:id:pelmeni:20190724021349j:plainこの建物が何だったか思い出せない… ※わかりました ニザーミー文学博物館

f:id:pelmeni:20190724111618j:plain政府庁舎 趣味の悪さは非常に社会主義リアリズム建築的

f:id:pelmeni:20190724030234j:plain新しいコンクリート舗装には貝殻が混じっていた ということは海砂を使っている? その証拠に所々茶色く錆が浮いている ちょっと信じられない


f:id:pelmeni:20190724021442j:plainいやー暑かった ニャンコもグッタリ

 

 

あまりの暑さに冷房付きの部屋のあるホテルに移ったものの、我慢できずにシェキという山の近くの町へ逃げるように移動しました。

シェキはロシアに征服されるまでは独立した領主(ハーン)に治められ、絹の産地だったので経済的にも繁栄していました。この町にはハーンの宮殿や隊商宿が残っています。

 

ハン・サラユ 

シェキのハーンの宮殿と城塞 細部まで装飾が施され非常に美しい建築物

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f:id:pelmeni:20190726101738j:plain夏はスイカの季節です

 



 

その後カフという小さな町でバスを乗り継ぎ、グルジア(当時)のテラヴィへ直行しました。

一つ心配だったのは、ちょうど1か月前から日本人がグルジア入国に際し3か月滞在ならビザ不要になったことを、担当の役人が知っているかということでした。当時は旧ソ連の国はどこでも国境役人が腐っている前提で対処しなければなりませんでした。案の定窓口の人間はこのことを知りませんでしたが、上司に確認後特に問題無く入国できたので一安心。

この国がビザフリーとなったのは個人旅行者にとっては大きなことでした。アゼルバイジャンアルメニアは仲が悪いので国境は開いていません。アルメニアとトルコも仲が悪いので国境が開いていません。グルジア出入国が自由になり移動ルートの決定も楽になったのでした。安宿のベッドの上で地図を眺めながら今後の道順について頭を悩ます時間は、それはそれで楽しいものです。

 

f:id:pelmeni:20190726102258j:plainかなりボロいけれど可愛らしいアフトーブス(乗合バス)

f:id:pelmeni:20190726103002j:plainバスターミナル内のチャイハナ、カフ  親父だけの昼下がり