もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

旅のさなかに聴いていた音楽2

何と今頃に大昔に載せた投稿の続編です。

前回は直近の旅行中に聞いた音楽についてでしたが、今回は昔を振り返ってのものばかりなので、自分で言うのも何ですがヒジョ~に懐かしいです。具体的な映像だけでなくその場の空気や雰囲気のようなものまで、色々忘れていたものごとが蘇ってくるのが不思議です。no music, no life!

 

 

●リヨン(フランス) Ace of Base - The Sign

 

学生の頃春休みにヨーロッパを1か月旅した。それが最初の海外旅。今思えばそんな寒い時期によく行ったものだが、夏休みの航空券なんて高くて買えなかったのだから仕方がない。行くだけで十分満足だった純真無垢なあの頃(笑)が懐かしい。宿泊は安宿メインで時々ユースホステル&夜行列車のよくある学生旅。当時は首都クラスの街以外ではホステルといえばYHAしかなく、YHAリヨンは街の中心から離れていたが大規模で多くの旅行者で賑わっていた。ヨーロッパのユースは日本と違い家族室や自炊用のキッチン、娯楽室はもとより酒の飲めるバーまであったりもする。館内の雑然とした雰囲気も当時の僕にとっては目新しいもので、驚きもあったが新鮮に感じた。そのバーのカウンターでコーラをチビチビ飲みながら日記をつけていた時に大音量で掛かっていたこの曲を今でも憶えてるのは、知らない曲が流れる中偶然知っているものだったからだろう。

リヨンは食通の街といわれるが、学生の身分にとってはあまり意味のない形容だった。街中にそれほど観光するところはなかった気がするが、丘の上にあるこじんまりとした旧市街の静けさと二本の川がゆったりと流れる市街地の眺めは、何となく憶えている。季節はまだ冬。街路樹の葉は殆ど落ち細い枝越しに素っぴんの街並が目に入る。色彩をあまり持たない冬のヨーロッパが好きなのは、三つ子の魂百まで、というか最初の旅で強く印象付けられたからという理由も幾分あると思う。

 

 

 ●クレルモンフェラン(フランス) Georges Brassens - Je me suis fait tout petit

 

以前は旅行の度に小さなラジオを携帯していた。これは高性能な奴で、インターネット以前の時代はSWの Radio Japan なんかも時々聞いていた。安宿の狭い部屋で手持ち無沙汰にしている時なんかラジオがあると気が紛れる。知らない言葉や音楽をBGM代わりに小さな音でかけながら一人でベッドの上で寝転んでいると、それだけでも何だか嬉しくなり小さな笑いがこみあげて来ることもあった。

フランスでは放送法により、ラジオで流すポピュラー音楽のうちフランス語による音楽の割合が40%以上と決められている。一旅行者としては流行りの英語の曲が掛かるよりは、知らなくても現地語の曲を耳にする方がはるかに旅情をそそるというものだ。それにしてもフランス(人)の自文化に対する特別なる意識の高さには、羨ましさが半分鼻持ちならぬいけ好かなさが半分といったところだ。本当は嫌じゃないけど簡単に認めたくもないね(笑)。

クレルモンフェランはとある映画の舞台となった街で、近くの山地から切り出した黒い石造りの町並みや教会が印象的だった。適当に探して入った宿の受付の無愛想な婆が、宿泊代の支払の前と後では現金な程に態度が変わったのはおかしかった。ヨーロッパなんてそんなところさ。いろいろあって日本の常識と世界のそれはイコールではないと二十歳そこそこで知り得たことはその後の人生において有益だったと思う。多分。 

何を聞いていたかなんて憶えていないが、何事にも一筋縄ではいかないフランスらしいこの曲を選んでおきます。

 

 

●渋谷(日本) 宇多田ヒカル - Automatic

 

’98年暮れのこと。タワーレコード渋谷店のレコメンドコーナーに変わった名前の若い女性のCDがあった。聞いてみるとそこらの若い歌手とは一味違った味のあるボーカルだけどまだ十代?と驚いた記憶がある。彼女こそが宇多田ヒカル。僕が99年新年早々に旅に出てから程なくして注目され始めたようで、藤圭子の娘という事が知られ話題は更に沸騰(したらしい)、半年後に帰国したら超ブレイクしていたのには驚いた。そのあたりの経緯をリアルタイムで知らないのが残念だった。え、あん時の女の子が?って感じで、また世紀末にすごい奴があらわれたと思ったものだ。当時の人気もすごかったが、現在のマイペースな雰囲気もいいですね。デビュー以来ほとんど変わらないこの声が好きです。

 

 

バンコク(タイ) Beck - Lord only Knows

 

’99年の旅の始まりはバンコクから。有名なカオサンロード一帯も当時は本当に外国人旅行者のためだけの町といった感があった。通りに面した宿の一階はバーや食堂になっていて、大音量でかかるハリウッド映画を観ながら酔っぱらった白人たちが「ワオーッ」とか「イェーイッ」、「ファーーッ◎!」と何時も盛り上がっていた。そんな騒ぎを横目で何だかなあと思いながら僕は少し離れた川沿いの通りにある宿に泊まっていた。とはいってもあらゆるものが安価に調達でき便利な場所には変わりはないので、準備のためにいろいろなものを買いそろえたり食事や暇つぶしに足を運んだ。小物は露店のハシゴにて買い集める。絞り染めのような柄の通称カオサンパンツを室内着用に選び、冗談のつもりで記念の(偽)国際学生証、立ち食いでパッタイをかけ込み、最後の日に Beck の Odelay というアルバムのミュージックテープを買った。当時の日記によると1本55バーツ(約176円)。ベックは好きだったがCDを買うほどでもなく、この際なので選んでみた。音楽は良かったが、テープの音質は酷い!の一言。明らかに素人のダビングだろうと判って買っていたし値段からすれば文句は言えないのだが…。ちなみにそのアルバムCDを近所のBOOKOFFにて100円で購入したのは20年後、つまり去年の事です。久々に聞いたけど良いものは良い。

 

 

ウズベキスタン Адреналин - Ковыляй потихонечку

 

アドレナリンはロシアのロックバンド。これは99年に旅したウズベキスタンで流行っていた曲、所々で耳にするので名前を知りたくなった。その前のインドで何度か会った日本人旅行者にブハラで再会し、城塞近くの公園にあるチャイハナで情報交換をしていたところ、流れていたラジオでちょうど掛かったので店員に尋ねてみた。初め言葉が通じなかったが、確かムージカと言ったところでわかってもらえた。以前どこかで書いたが、その甘く切なくて何となく安っぽいメロディの多いロシアンポップスに気を取られ始めたのは、この時が最初だったと思う。

その後タシケントに戻り街中にあるアライ・バザールでミュージックテープを探して購入した。アライ・バザールへ行ったのは情報では此処の両替レートが市内で一番良かったから。当時、闇レート(市中)は公定レート(銀行)の3倍で、USドルでなく現地通貨ソムで支払いを続ける限り旅行者にとっては激安の国だった。イランから中央アジアにかけて、あの辺りは皆そんな感じだった。

ところで以前所有していた多くのカセットテープはもう聞かなくなったので2本を残して既に処分してしまった。そのうちの一本はこれ、もう一本は大学の入学式後にもらった校歌や応援歌等が入ったもの。どちらも思い入れがあるから……、というわけではなく、たまたまのことだ。その証拠にもう長い間聴いていない。あれは何処に仕舞ってあるのかな。

 

 

●アマゾン河(ブラジル) Companhia Do Calypso - Impossivel Te Amar 

 

カリプソってトリニダードトバゴ発祥のラテン音楽と知っていたが、このバンドを見たときには驚いた。アマゾン河をベレンからマナウスまでフェリーで遡上していた時のことだが、甲板のバーで流れていたのがこのバンドや Banda Calypso という当時ブラジルの北部地域で人気の音楽だった。カリプソという名がついているが一般に知られているものとは大分雰囲気が違っていて、その辺りの所以はわからない。毎日同じDVDばかり繰り返しかけていたので頭から離れなくなり、サンパウロに戻った後に街中の露店でバンドの安いVCDを買ってみた。今でも思い出したかのように見ることはあるが、倖田來未なんて目じゃないね、こりゃ。見る度聴く度に「アマゾネス」という言葉が頭にちらつく。正にその名にふさわしい。

 

 

サンパウロ(ブラジル) Nana Caymmi - Segue o Teu Destino

 

南米旅が終わりサンパウロの空港から飛行機で日本に帰ることになった。コインが結構余っていたので処理すべく空港内の土産物店に置いてあった音楽CDを買った。それはフェルナンド・ペソアというポルトガルの詩人の詩に曲をつけた楽曲のコンピレーションアルバム。ペソアは以前ポルトガルあたりの文学を調べた時に知っていた(というかこの人くらいしか知らない)ので手に取ってみた。いくつかの変名でそれぞれ違った作風の詩を書き分けたという少し変わった人で、同じポルトガル語圏のブラジルでも良く知られている。

搭乗機を待っている間に聴き始めたのだが、何曲か聴き進めていくうちに、何だかもう帰る気がしなくなって駄目だった。後ろ髪を引かれるなんてものじゃなく、胸をかきむしられる様な感情に抗しきれなくなりそうだった。搭乗口前の待合スペースという、もう後がない特別な歪んだ空間がいけなかったのかもしれない。しかしブラジル人は能天気な人が多いのにどうしてあんなに多くの哀愁あふれる曲を作ることができるのだろう。ボサノバでもジャズや他のポピュラーにしてもブラジル人にしか作り得ない別格の才能表現としか言い様がない。

  

 

 

多分、その3に続くでしょう