もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードでひたすらノスタルジーに浸っています。

’05旅回想 その19 エジプト1

エジプト1>シナイ、カイロ、ナイル上流 Oct.-Nov. 2005

ウェイバ入国→ダハブ→カイロ→アスワン→ルクソール→カイロ

 

 

  

● 

ダハブはバックパッカーの沈没地として有名な所。僕は初め興味無く直接カイロまで行ってしまいたかったのだが、ヌウェイバ入港はまだ暗いうちで公共交通の姿は無く、タクシーに一緒に乗ることにした皆が行くと言うので立ち寄ってみることにした。一人だったらおそらく1,2日で出発しただろう。4人も一緒にいると主体性が無くなるのはいつものとおりだった。

f:id:pelmeni:20200716104733j:plainf:id:pelmeni:20200716105234j:plain

海を眺めているうちに、寄せては返す波の音に引き込まれるかの如くダイビングスクールに申し込んでしまった。というかここで何もせずにブラブラすることはできないとすぐに悟った訳。オープンウォーターとアドバンストコース。合わせて確か50USDくらいだった。同じ宿に泊まっていた旅行者は以前ベトナムの二チャンでダイビングのインストラクターをしていたそうで、彼が言うにはベトナムとエジプトが世界で最も安くダイビングをできるのではないかということだった。もう一人の宿泊者と二人でコースをとった。

毎日午前中に海に潜り、その間は旅のさなかでは珍しくも規則正しい生活だった。陽が落ちると海沿いの食堂に皆で食事に出かけた。別の宿に泊まっている日本人旅行者もいて、他の外国人旅行者も含めて賑やかになることもあった。ただ大抵は気が付けば、暗い照明の下生暖かい海風がゆるゆると流れるなかで波の音を聞きながらチルアウトする時間になっていた。当時のダハブは海に沿った1本道の両側に宿や商店、食事処など旅行者相手の施設が連なり、のんびりするにはちょうど良い大きさの小振りな町だった。町外れに1件だけ酒類を売っている店がぽつんとあり、背後に広がる砂漠ではベドウィンから特産物を買うこともできた。この小さな町に皆が長逗留する理由はすぐにわかった。

当時聞いた話によれば、ダハブはイスラエルシナイ半島占領中に開発したリゾート地シャルム・エル・シェイクが大きくなりすぎたために新たに作られたという。町外れにプライベートビーチ共々塀に囲まれた高級宿泊施設はあったが、それ以外高級さは感じられず長閑だった。そのせいか滞在者はバックパッカーを含むバジェットトラベラー、もしくはロシア人だった。この後に知るのだがエジプトの観光地には何処にもロシア人がいた。比べれば判ることだが彼らは西欧の旅行者とは明らかに雰囲気が違ってなんか野暮ったい。それは何処でも物価の安い所に群がる人たちだから…、ということだけでもないらしい。かつてエジプトが社会主義政権で交流のあった頃のよしみで其後も観光ビザは容易に取得できた。気軽に西側諸国等へ行けなかったソビエト連邦時代からの馴染深い国外の観光地ということらしい。

まだラマダンの期間中だったが、外国人旅行者相手の場所なので町中はほぼ通常営業だった。結局長居した理由はそれが第一だったのかもしれない。初めは慣れない風習にも興味深々で接していたが、この頃は正直なところ飽きていた。1週間のダイビングのコースが終了すると一日何もすることが無くなり、まるで廃人みたいだなんて自嘲するような生活になってしまった。

 

 ●

当時のカイロを思い出そうとしたものの、実は2012年再訪時の印象が強く、05年訪問時の記憶が古い分霞んでしまうのは仕方の無いことだ。12年前後は情勢が不安定で治安も悪かったため、通常なら街中に溢れんばかりの外国人旅行者の姿はどこにも無く、そのせいかウザくてしょうがなかった呼び込みや勧誘の存在は皆無だった。多くの住民が通りを行き交う普通の都会だった。-----でもそれは本来のカイロの姿ではないな。途切れることなく訪れる外国人旅行者とは持ちつ持たれつの関係、というかウザいほど依存していた彼等こそが僕のカイロの街の印象の幾許かを占めていたはずだったから。

それでも当時の事を思い出してみる。タハリール広場やタラアトハルブ通りあたりを歩いていると、観光客目当ての色々な客引きが声を掛けてきた。こちらもだいたい暇なので断ることなくついてゆき、画廊でラッセンもどきの色鮮やかな絵画を前に適当なことを喋ったりして暇をつぶした。あるいは工芸品の店だったりローズオイル等の土産物の店でも適当に時間を過ごした。でももちろん何も買った記憶はない。彼らはインド人の様に商売熱心な訳でもなく、多少強引だが雑であきらめも早いように感じた。どこまで真面目に商売に気が入っていたか怪しいもので、正直いえば油を売るといった表現が適切だと思った。ただその気持ちの緩さは嫌ではなかった。子供からいい歳した若者まで躾がなってないと思わせることも時々あったが、腹が立っても憎み切れずに小さく笑ってしまうような、どこか許したくなる小さな気持ちがあったことは否定しない。それはひとえに僕自身も劣らずいい加減な人間だからに違いない。

大相撲の大砂嵐関を思い出す度に、カイロの街中で騒いでいた若者たちの姿と重なってみえた。おそらく(エジプト人としては普通な)自らに甘い性格故に、規律が重視される日本の社会の中に居場所をみつけることは最後までできなかったのではないか。

  

 ● 

カイロに到着してすぐにラマダンが明けた。目抜き通りは上機嫌の人々で溢れ、夜遅くまで人通りが途切れることはなかった。一緒に喜ぼうと誘ってくれる人も調子に乗ってちょっかいを出してくる奴も皆様々。それが彼等の平常運転なのだろう。

下町の一角にとある古ぼけたビルがある。下階から順にスルタン、ベニス、サファリという3つの安宿があり、日本人旅行者ばかりが集まっていた。それは、わかる人にしかわからない砂漠のオアシス、あるいは砂地の蟻地獄… みたいなところ。僕は最上階の宿に滞在してみたが、ここも世界各地にあった多くの日本人宿の多分に違わず、そこだけ「日本」がふわっと現れたパラレルワールドでありながら劣悪な衛生環境で、定期的に殺虫剤が撒かれていたほどだ。必要な情報だけ入手して雰囲気がわかったらすぐに出ようと思っていたが、長居をしている人を中心に内向きな共同体生活っぽいことをしているようにみえたのが興味深く、予定より滞在を少し延ばした。気に入った人は沈没し、合わない人はすぐに去るような場所だった。後年とある街の「準」日本人宿が英文旅行ガイドブックに掲載された際の紹介文に ”commune like” とあったので、当時の僕の感想もあながち間違いではなかろう。まあ確かに色々な出自の人が集まっていたが、昔の様に特別な感銘を受けることもなかった。もうそのような環境に感化される旅歴ではなかったということだろう。とはいっても、気が抜けてしまう環境であることは確かで、大したことせずに数日位はあっという間に経ってしまう。

近いところではイスタンブールでヨーロッパとアジアを旅する人が行き交うように、カイロも中東やアフリカをそれぞれ旅する人が集まる所だった。街の規模も大きく一級の見所も揃い、多くの旅行者が集まるのにふさわしい場所だ。ここではかつて出会った旅行者と再会することも多いようだ。僕なんかこの2年前にエストニアのタリンの宿で数日一緒だった日本人旅行者に話しかけられ驚いた。彼とはダハブの海沿いのレストランで確か一緒にトランプをしたこともあったはずなのに全く気付いていなかった。

 -----2003年の6月頃にエストニアにいませんでしたか?
 -----えーと、確かにエストニアには行ったけど…、そう、その頃。ということは、
   あの時の、リュウ君???

彼は宿で僕の青いバックパックを見て当時を思い出したらしい。

 -----世界は狭い。

 

f:id:pelmeni:20200823012215j:plainしかし汚ねえ部屋だな、おい!

f:id:pelmeni:20200823014422j:plain近所の路上野菜果物市場

f:id:pelmeni:20200823014817j:plain堂々たる大河ナイル

 

 

  ● 

カイロには再び戻ってくるので、あまり長居はせずにナイル川を遡ることにした。まずは列車でアスワンまで行く。夜行列車で12時間、それも寝台ではなく座席車。でも予想外に近代的な車輌だったので助かった。長距離列車はたいてい遅れるものだがほぼ定時に着いた。特にここはエジプトなのだから全く期待はしていなかったが、すごいぞエジプト国鉄

アスワンに滞在する旅行者は2種類。アスワンハイダムやアブシンベル等への観光客と、観光を終えスーダン国境への唯一の交通である週一便の船を待つ大陸縦断旅行者。ゆったりと流れるナイルの眺めが美しいが、緑はほぼ川沿いにしかなく、町自体は乾燥して込み入った普通の町。観光客が多いせいかボッてくる店が多く、数少ない正直な店を探し出すのも一苦労だった。

f:id:pelmeni:20200823020522j:plain町の対岸に渡る。フェルーカという帆船がゆっくりと漂うナイルの光景はのんびりとしていて気持ちのよいものだった。

 

f:id:pelmeni:20201201031440j:plain
ホテル・オールドカタラクト アガサ・クリスティーナイル殺人事件を執筆したホテル 格式高く気軽に歩き回れないのでロビーだけ

 

f:id:pelmeni:20201202193411j:plain

ヌビア博物館 イスラムの国によくある人形を使用したリアルな民俗の展示はここでも!

 

f:id:pelmeni:20201214174815j:plain
f:id:pelmeni:20201202192754j:plainアブシンベル 「巨大」

f:id:pelmeni:20201202194216j:plainイシス神殿

上記どちらも保存のために移築されたもの 分割解体して運んだ後に合体させるとか、その発想がちょっと信じられない

 

その後ルクソールへ。カイロに次ぐここもエジプト最大の見所。町はナイル河東岸だが遺跡は両方にまたがって存在する。陽が沈む西側には死者の眠る王家の谷、東側にはカルナック神殿ルクソール神殿、博物館など。西岸の遺跡へはナイルを船で渡るがその先には交通がないのでたいてい宿でツアーに申し込む。自力で回りたい少数は自転車を借りて行くが、想像以上の苦役になるようだった。僕はといえば、更に少数派、レンタルのオートバイでちゃちゃっと回ろうと考えた。宿の従業員に尋ねると1日20ドルで可能というので喜ぶ。ただナイルを渡る船は自転車までしか載せないので、9km上流にある橋を往復しなければならなかった。メットもブーツも無しの解放感は日本ではまず得られないものだ。スピードを出すと周囲の風景があっという間に去ってしまうのがもったいなく思えて、必要以上にゆっくりと転がす。おかげで普通の集落の中に入りこみ子供たちに追いかけられたりしながら、遺跡巡り以外も含めて一日を楽しみ無事帰還。

 

f:id:pelmeni:20201214175748j:plainf:id:pelmeni:20201214181057j:plainf:id:pelmeni:20201214182114j:plainf:id:pelmeni:20201214181757j:plainf:id:pelmeni:20201214182433j:plainf:id:pelmeni:20201214183402j:plain

 

 今写真見ても、もはやどこがどこだか憶えていないのだった。

 

f:id:pelmeni:20201214183046j:plain
f:id:pelmeni:20201214175014j:plain

中国製125㏄シングル 以前に乗っていた単車もシングルだったので、単気筒の規則的なエンジン音が懐かしかった

 

東岸は自転車でまわった。カルナック神殿で知り合った日本人女性と夕食後に彼女が泊まっている宿に遊びに行ったところ、そこにいた日本人旅行者達は、僕が今まで所々で出会ってきたすべて知っている顔だった。ついでにエルサレムで一緒に酒を飲んだ韓国人たちまで居たのには笑ってしまった。何でみんな揃っているんだよ、え?。それは多分この宿が「地球の歩き方」に載っている宿だったからだろう。

僕は到着時に鉄道駅で声をかけてきた客引きについていって宿を決めた。街中にあって出来たばかりできれいで安かったうえ、その客引き、というか若い従業員も明らかに仕事始めたばっかりですといったフレッシュな感じで、スレた印象を受けなかった(それがいつまで続くかはしらないけど…)ので、所謂当たりの宿だったのだろう。そういった従業員とは仲良くなっておくべきである。細かく気にすれば困りごとは結構生じるもの。頼んでも碌に仕事をしてくれない輩は想像以上に多い(笑)。

当時ルクソール鉄道と街が結託していて、外国人旅行者には、直近の期日の鉄道切符を駅で販売してくれなかった。1日でも多く滞在させるためか1ポンドでも多く金を使わせるためかは知らない。日本ではまず考えられないことだが、この様なセコい話は海外では時々お目にかかる。僕もこの時窓口で週末まで空席は無いなんて言われたので、宿に戻りその従業員に買ってきてもらうことにした。彼ハッサンとは立話したりちょっとした頼み事をしていたので一言で話は通じた。希望日の切符は入手でき上乗せも安いものだったので、ま、それはそれでよかった。つまらないことに腹を立て気を煩わす時間は非常にもったいない。時間は限られている。旅も長く続けると必然的に割り切った即断というものをパッとできるようになる。ただ帰国後もそのままの気分でいるとドライな奴だと冷めた目で見られることにもなる。

 

f:id:pelmeni:20201215025819j:plainf:id:pelmeni:20201215030154j:plainf:id:pelmeni:20201215030401j:plainf:id:pelmeni:20201215030928j:plain

 

しかしすべてがデカくて大味だった…、それがエジプト。全く以ってヒューマンスケールから逸脱していて、それが古代というあまりに遠い時間の隔たりを実感させてくれた。