もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。

旅先で片岡義男

旅先で片岡義男




最近片岡義男の短編小説とエッセイを読んでいる。ネットにさえ繋がれば、今は何処でもアマゾンからkindle版の書籍を購入できる。


とある宿に置いてあった文庫本が発端だった。

そういえば最近は彼の本などまったくご無沙汰している。というのも赤い背表紙の角川文庫版を熱心に買い求めていた時期がこの僕にもあったからだ。大学生の頃である。主に隣の駅の商店街にある木造平屋建の小さな書店で購入した記憶がある。かつては、たいていの私鉄駅前商店街にそのような書店が一軒ぐらいあったものだ。特に理由は無かったのだろうが偶々その店で一冊購入し、その後も一駅分わざわざ歩いて結局10冊くらい入手した。

彼の小説に影響されて自動二輪の免許をとり単車の購入資金を貯め始めることは、当時の大学生にとってはそれほど珍しいことではなかった。実はその資金は海外旅行に使ってしまい(笑、そして現在の自分が有る)、中古だが単車を入手したのは、社会人になりとある企業に勤めてからのことだ。初めてもらったボーナスでローンを組んだ。HONDAのGB250だった。新社会人の2年ほどを過ごした地方都市で乗りまわし、その後東京に戻ってくる時に手放した。

おそらく短編小説かエッセイのどちらかだと思われるが、とても印象的な場面が忘れられずにいまだに記憶の片隅に残っている。現在旅先なので当然詳細はわからないのだが、次のようなシチュエーションだったと思う。
真夜中のひと気の無い交差点で単車に乗った主人公が赤信号を待っている。体の下から伝わってくるくるエンジンのアイドリングの響きが、まるで生きている動物の鼓動のように感じられ、自分がまたがっているオートバイにいとおしさを感じてたまらなくなる。

僕は、まず、教習場に走った。
彼の小説やエッセイに影響を受けて単車に乗り始めた当時の若者は少なくはないはずだ。


造形や機能にたいするこだわりの書き方を彼は持ってはいるのだが、オートバイを官能的に描くわけでも精緻に書き表すわけでもない。
オートバイという物自体の描写にではなく、オートバイに対する主人公の姿勢や心意気が、常に魅力的に表現されていたのだと思う。さりげなく淡々と描かれることが多かったが、その奥にある個人的な関係の持ち方に惹かれた。少なくとも僕の場合はそうだった。


当時の僕は彼の短編小説、特に男女の会話を中心に彼らの生活の一部分をさりげなく切り取ってみせる様な話が好きだった。
少し古めのアメリカのポピュラー文化に係わる単語が時々見受けられるのも好きだった。あまり難しくない表現で、人と人とが心を通わす雰囲気を常に静かに描いていた印象がある。
当時はバブル末期、同じようなお洒落でライトな感覚の小説が幅を利かせていたが、彼の小説で描かれる登場人物は何か気品のようなものを持っているように当時の僕は感じていた。静かで落ち着きがあり、なおかつ人として自立した精神の強さのようなものを感じとることができた。(まあ同じ土俵に載せて比べるなっていう話かも…)


それからかなりの年月がたった。
僕はもうオートバイに乗っていないし、何回かの引越の際に書籍は大分整理した。特に文庫本は気軽に買った分気軽に処分してしまったので、彼の本は多分ほとんど残っていないだろう。
こうして知らない異国の空の下で再会して読み始めるなんて、不思議なものだ。

帰国後に読んでみようとアマゾンをのぞいたら、何と角川文庫版はほとんど絶版になっているのではないか! これは本人の意思なのだろうか?
まあ古本では簡単に手に入るだろう。近年は話題になっていないし、当時あれだけ売れたのだから。でも、それはそれで寂しいものだ。昔を思い出すと、なおさらのことだ。