もう少しだけ旅させて

旅日記、のようなもの(2012-16) 基本一人旅 旅に出てから日本語を使わないので、忘れないように。ほとんど本人の備忘録になりつつあります。情報は旅行時のものです。最近はすっかり懐古モードです。

'05旅 その17 ラマダンから逃れイスラエルへ

アラブ6>ヨルダン、イスラエル Oct. 2005

→アンマン←→サルト、ジェラシュ→国境→エルサレム→テルアビブ←→アッコ→エルサレム

  

 

昨年の9月にサウジアラビアが個人旅行者に対する観光ビザの発行を開始するというニュースを耳にした時の印象は正直なところ、俄には信じられないというのが半分、ついにその日が来たかというのが半分だった。というのも、何もない小国や情勢が不安定で旅に適さない国を除けば、ある程度名の知れた国で個人旅行の許されていない最後の砦がサウジアラビアだったからだ。世界全ヵ国制覇を目指す旅行者でもサウジだけはツアーで訪れなければならなかった(この旅行中グルジアで会った人も確かそう言っていた)。一応公式にはそのようになっていた。と、わざわざ書いたのは抜け道は存在したから。違法手段を使わない文字通りの抜け道、トランジットビザの利用だった。滞在時間が限定されるので観光どころではなく一気に駆け抜けることになるのだが、それも一興と思える人間ならOKだろう。日本人はヨルダンにビザなしで入国できるので、サナアでトランジットビザをとりイエメン→サウジ→ヨルダンと抜けることは可能で、ジエッダあたりで一泊位はできたはず。帰りの航空券は捨てることのなるのだが、僕は可能ならそのつもりでいた。

でも結局はしなかった。ラマダンがもう間近だったからだ。ラマダンの一週間前からサウジは外国人入国禁止となるので、日程ギリギリで組んだとしても、イエメン2週間の滞在を半分に減らしてサウジに入国しなければならないことになるのだ。少し考えてイエメンの方を選んだ。サナアに滞在して2,3日目だったがこの国の魅力に心を奪われ始めた頃だった。滞在を半分に減らす気にはなれなかった。

予めラマダンの開始日を調べて行動すればよかったのだけれど、そんな難しいこと苦手なんですよねえ。長旅中に予定をたてて行動することがどれだけ大変なことかは、経験した人でなければ解らないでしょう(笑)。できるのは最初の頃だけです。というか、予定に捉われず自由に動くことにこそ長旅をする意味があるわけで、まあ、こればかりはしょうがない。ただ、この流されるままに生きる楽しさを知ってしまうと、駄目人間に堕ちていく可能性は大だ(実感です…)。

 

それから既に15年経った。サウジアラビアは頑なに拒んでいた個人旅行者を受け入れ始め、最後の楽園などと呼ばれたイエメンは簡単に旅することのできない国となってしまった。当時の選択の際に現状を予測していたわけではないが、歴史とは得てして不思議なものである。

 

※トランジットビザ~通過査証 交通の乗換や移動で一時的に滞在する場合のビザ。大抵は短時間(数十時間~数日)。出国先の入国保証(ビザ等)が無ければ得られない。

 

 

ラマダンが迫っていた。イスラム太陰暦なので西暦での開始日は毎年異なる(早くなる)。イスラム聖職者の長老が新月の確認をもって正式な発表となるが、それは微妙なところでこの時も予定日よりは一日遅れての開始が発表された。

ラマダンとはイスラム歴の第9月の名前で、この月に断食が行われます。「ラマダン=断食」ではないのです。詳しい内容はWiki等を見てください。

ヨルダンには長く滞在したので他国を経由して来た旅行者から話を聞いた。トルコはかなり緩く断食していない人もいたり、バスの運転手の中には普段と変わらず運転中も煙草を吸っていた人もいた。シリアやレバノンもヨルダンに比べれば雰囲気は穏やかだったという。意外だったがこの近辺ではヨルダンが一番保守的で厳しく戒律を守っているということだった。

そのヨルダン、アンマンのダウンタウンの雰囲気というと、多くの店がシャッターを下ろし、必要最低限の店のみ開けている感じだった。街角によくあるジュース屋なんて、開けていたがその場で飲むことは許されず透明のビニール袋に入れて持ち帰り家で飲めということだった。パン屋も早朝のみ。この期間は帰宅時間が早くなり午後3時頃から道路が渋滞し始める。クラクションもうるさかった。そして日没を待って夜遅くまで飲み食いを始めるのだろう。夜間の人出はそれなりに多かった。

初めは物珍しかったが面倒になり、新市街にある外資系ホテルまで足を運んでみた。ここへ来れば空調の効いた快適なカフェでヘラルドトリビューン片手にコーヒーを飲みながら寛ぐことができる別世界だった。たまにはいいよねえと思いながらも、泊まっていた宿の下階にある地元の男性で賑わう喫茶店のカルダモン入珈琲が懐かしく思い返された。新市街の方が開いている商店などは多かった気がする。

ラマダンはこのあと1か月間、カイロ滞在の途中まで続く。

 

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アンマンから日帰りでサルト、ジェラシュの遺跡へ。サルトはかつて商業で栄えた町で、オスマン朝時代の大きな商家が残っているが全面修復中で見ることができなかった。近くの山から切り出した黄色っぽい石の住宅が丘の斜面に積み重なっていた。ジェラシュはあまり知られていないが広くて保存状態の良い都市遺跡。アゴラや屋外劇場、コリドール、神殿などが残っている。ラマダンが始まった日に訪れたせいか観光客はとても少なかった。暇そうな物売りがジュースを持って来たので断ったら「おまえもラマダンをするのか?」と訝しまれたので笑って済ませた。

 

サナアからアンマンに戻った後はイスラエルへ向かった。ここの国境(キングフセインブリッジ)は面倒で長時間にわたる入国審査で有名だったので覚悟をしていたが、何故か拍子抜けするほどすぐに終わった。普通なら多数のビザや出入国印で埋まったパスポートを片手に根掘り葉掘り尋ねられても不思議ではないのだろうが、形式的なことしか聞かれなかった。不思議に思ったが入国後その日と翌日がユダヤの新年の祝日だったことを知った。多分通常の休日のように業務は半ドンでイミグレの姉さんは仕事したくなかったのだろう。こういうツキはとても嬉しい。旅の間は些細な事でも良い方向に思考回路を動かす習慣がいつの間にかついている。

入国後はまずはテルアビブへ。安息日シャバットの土曜日は何と市バス等公共交通までストップすることには驚いた。街中は静まり退屈だったのでビーチに寝転んで昼寝をした。ここには人が集まっていた。

f:id:pelmeni:20200628211638j:plain眩しい太陽の下、薄目で見慣れた光景を眺めながら、自分が本来所属している世界はこちらなんだということを思い出した。久しぶりに戻ってきたという感じだった。でも束の間の何とか、またすぐ出て行かなければならない。

テルアビブは普通の都会。街路樹が多くベンチも至る所にあり休憩に困ることはない。ロシアから移住してきたユダヤ人も多いようで、町中でロシア文字を目にすることもままあった。コミュニティがあるのかそうした商店や食堂が集まっている一角では、ロシアンポップスが流れていた。彼の地を訪れた人であれば耳に残っているかもしれない、あの、リズム感の無い甘く切なくそして妙に安っぽいメロディ。何だか懐かしく思ったのは、実は嫌いではないから(笑)。

テルアビブのような新しい街にも世界遺産があった。それは「テルアビブの白い都市」。第一次大戦後移民が急増し住宅不足に陥ったテルアビブに、当時ヨーロッパの最新鋭だったバウハウス様式で一気に建てまくった結果だ。本家バウハウスも閉校に追い込まれた時期で欧州でも建築家が仕事にあぶれていた。せっかくだからインフォメーションでガイドを買って巡ってみた。幾何学に基づく意匠は同様なのだがよくみれば暑い気候に合わせて開放的なつくりとなっている。南欧の住宅に似た雰囲気だ。ヨーロッパで創出された様式に対して新たな土地の気候的要件に合わせて取り込まれた変化は確かに興味深いものだが、世界遺産の認定が安売されている現在ならいざしらず、旅行当時は、それほどのものなのかというのが正直な印象だった。これより先に認定されるべきものが世界中に多々存在していたはずである。

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写真写りは良い 流線形は個人的に好みです

 

一通り歩き廻った後広場で休んでいると若いカップルから話しかけられた。彼女の方が日本に滞在したことがあるということで片言の日本語だった。尋ねると熊本など九州に1年半滞在しアクセサリーを売っていたとのこと。よく駅前で黒い布を拡げてシルバーの小物を売っているあれで、日本だけではなく他の国でも見かけるのはユダヤのネットワークが元締めである故と聞いていた。仕事内容はともかく難しい事無しで外国に滞在できるシステムがあるというのは少しだけ羨ましい。英米人やオージー達が世界中で英語教師という職に気軽にありつくことができるのと同様なことか。ちょっと違うか。

 

この旅初めて鉄道を利用してアッコ(アクレ)まで足を延ばす。車両もシステムも西欧並の快適さだった。音も無く流れて行く車窓の風景が妙に感じられるほどだった。硬いシートで尻や背中が痛くなったり急ブレーキで体ごとつんのめったり窓の隙間から砂が入ってくること等とは無縁の世界だ。

レバノンで訪れたスールやシドンと同じような形態の町。場所も近い。海に向かって幾らでも空間があるのに防御的に閉じて住まうのも同じ。

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海が見えると走り出したくなるのは何故だろう

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手を伸ばせば人々の生活に触れ合うことができる。でも彼等の日常には割り込まずにさっと横を抜けて行くこともある。結局旅人は一介の通過者でしかあり得ないのだから、それでいい、と思うこともある。

 

 

エルサレム。説明など必要ないほど有名で常に話題の尽きない都市。

新市街を一通り歩いたが普通の都市だった。ただしここでは皆横断歩道で車の通行が無い赤信号を律義に守っていた。そんな糞真面目な国は日本以外ドイツしか知らなかったがこの国も仲間入りか。街中に軍人が多いのは有名で、軍服に身を包みライフルを肩から下げた男女が普通に歩きバスに乗っている。若い人が多いのは高校卒業後に兵役に就くから。

旧市街のムスリム地区は典型的な中東の街。通路は狭く入組みスークが続く。キリスト教地区やアルメニア人地区は清潔でヨーロッパの町のよう。この時期でも当然ながら飲食に問題は無かった。まともなエスプレッソが美味しかった。

 

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早起きして朝一番で岩のドームへ 異教徒は中に入ることはできないので外から見るだけ

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